良い子の歴史博物館

訪れたことのある博物館、歴史上の人物、交通機関についての感想、小論など。

ソロモン

2005年02月27日 | 人物
ソロモンは古代イスラエルが最も繁栄した時期の王である。
エルサレムに壮麗な神殿を建設した。

神殿建設には、荷物運搬人だけで7万人、石を切る者が8万人という具合に、
膨大な強制労働を徴用し、7年半かかったものだった。
その他にも、13年かけて壮大な王宮を建設している。

防備のための都市も幾つか建設し、
倉庫の都市、兵車の都市、騎手のための都市なども建設した。
これらの都市の幾つかは、発掘され、
ソロモン時代の壁や城門の一部などと考えられるものが発見されているそうだ。

ソロモンの富はめちゃくちゃ多く、金の年間総収入が現在の価値で200億円を下らない。
人々は黄金に満ちていたため、銀は取るに足らないもののように見なされていたほどだった。

富の元となったのは、交易によるもので、あらゆる場所の貿易商人が、やって来た。
四千の畜舎や、1万8千頭の馬あるいは騎手を持っていたという。

ソロモンも、フェニキア人と提携して、貿易船団を組織して、海外交易を積極的に推進した。
数多くの珍しい品々がエルサレムにもたらされたという。

しかし、ソロモンの治世の後半は、圧政的だっため、
各地に反乱分子が登場し、不穏なものとなった。
イスラエルの繁栄は長続きしなかったのだ。
ソロモンの次の王レハベアムのときに王国は分裂し、
2度とソロモン時代のような繁栄は戻らなかった。

ここから以下は、私の仮説ないし、推測を多く含む。

こうしたソロモンの繁栄と衰退の影に、
大国エジプトとの関係の変化があるのでは?と思う。

ソロモン治世当初、エジプトとの関係は極めて良好だった。
エジプトのファラオの娘と政略結婚を行っているほどだ。
エジプトから馬や兵車を大量に買い付けている。
この頃はエジプトにとっても、ソロモンとの交易に利益を見出していたのだろう。

だが、反ソロモン勢力が登場する頃、エジプトの態度は大きく変化しているのではなかろうか?

才能あふれる若者であったヤラベアムが、ソロモンに反旗を上げると、
ソロモンはヤラベアムを殺そうとする。
そのヤラベアムは亡命先にエジプトを選んだのだ。
エジプトでヤラベアムを中心とした反乱勢力が誕生する。
当然、エジプトのソロモンに対する敵対的意思が背景にあったはずだ。
ソロモンの死後、ヤラベアムがエジプトから帰国し、
イスラエル10部族代表として、ソロモンの後継者レハベアムと交渉し、
分離独立を果たす。
ヤラベアム王国(北のイスラエル王国)が金の子牛崇拝を国家宗教にしたのも、
エジプトの影響によるものと考えたい。

エドム人ハダドは、子供の頃、
ソロモンの父ダビデ王の軍司令官ヨアブの軍に一族を皆殺しにされている。
殺された父親の部下数人と共に少年ハダドはエジプトへ逃げた。
ハダドはエジプトで成長する。
エジプトのファラオは自分の妻の妹をハダドと結婚させているほどハダドを可愛がった。
そんなハダドはダビデに代わってソロモンがイスラエル王になったことを知ると、
復讐のために、故郷の地に戻り、“エドム解放軍”を組織し始める。
ファラオはハダドにわざわざ苦労しに行くことはない、
エジプトで欲しいものは何でも与えると言って引き止めた。
ハダドの決意は変わらなかったという。
ハダドの反ソロモン抵抗運動に、やはりエジプトの援助があったと思われる。
エジプトの外交政策の転換が反映していると思う。

ソロモンの死後、その子レハベアムがイスラエル王となる。
するとヤラベアムが帰国し、北部10部族代表となり、やがて王国は分裂する。
レハベアムのユダ王国と、ヤラベアムのイスラエル王国である。

ユダ王国とエジプトとの関係は、さらに悪化し、
エジプトのファラオ・シシャクが大軍を率いて、エルサレムを攻略、略奪する。
レハベアムはエジプトの属国となることを余儀なくされた。

エジプトの外交政策の変化をまとめてみると、
ソロモン初期 :
 極めて良好。政略結婚。
 ソロモン王国が交易で繁栄を極める。

ソロモン後期 :
 しだいに悪化。
 ソロモンの繁栄を良く思わなくなったか?
 エジプトは反ソロモン勢力に加担し始める。
 ソロモン王国の没落が始まる。

レハベアム  :
 ヤラベアムを送り込み、イスラエルを分裂させる。
 さらに直接軍事行動に出て、属国化。
と、なるのではないか?

趙匡胤

2005年02月24日 | 人物
趙匡胤王朝の創業者。
名君中の名君として、ファンが多い、非常に人気のある皇帝だ。

王朝の「近衛長官」だったが、幼帝に不安を持った軍部によって皇帝にされてしまった。
しかも大酒を食らって、酔い潰れているうちに、
気付いたら皇帝になっていたという間抜けな逸話がある。

即位後、周王室の一族を丁寧に扱う。
宋王朝を通じて周王室の一族は手厚く保護されていた。
前王朝を徹底殲滅するのが慣例となっていた中国史の中で異色の出来事だ。

天下統一のために、各地の国々を次々と滅ぼすが、
降伏した国の君主一族を貴族にして、手荒なことをしない。
これまた、中国史はおろか、世界でも珍しいケースだ。

代から地方勢力の跋扈の原因となっていた、
節度使の力を減らし、無力化するが、
強引な手を使わず、辛抱強い話し合いと、名誉を相手に与える仕方で問題を解決する。

軍人出身でありながら、文官中心の政治体制を確立し、
皇帝権力を強化しているが、本人の鷹揚な性格上、
圧政的になることはなかった。

宋王朝は文弱で軍事を軽視し、
北方の遊牧国家に対し、軍事力ではなく、金で解決する傾向があるので
弱々しいイメージがあるかもしれない。

実際には、極めて精強な中央軍を組織していた。
趙匡胤時代では、少ない兵数で中国全土の秩序を維持することができたのだった。

自分の欠点や失敗を隠そうとしない点も異色の皇帝と言える。

あるとき部下の諫言に腹を立てて、その部下を杖で叩きのめしたことがあった。
後で、悪いことをしたと、こっそり謝りにいく。
そんな人間的な弱点を隠さないで記録に残させる。

政策面は弟の趙匡義が取り仕切っていた。
兄の皇帝即位を実際に画策したのは弟だったのだろう。
頭の切れる弟と、鷹揚な兄のコンビで宋王朝が始まったわけだ。

宋の首都である開封は、
市民文化が花開き、夜も賑やかな不夜城であった。
唐王朝の長安が、夜になると外出禁止になったのとは大違いだ。
自由な雰囲気が町を覆っていた。
長安は官営都市だったが、開封は民営都市だったと言えるかもしれない。

殺伐とした血生臭い五代十国時代の空気を改め、
文民優位の経済繁栄、民間文化振興の宋代が始まったのは、
趙匡胤の性格によるところが多いとされる。

ケン・トンプソン

2005年02月23日 | 人物
サーバー用のOSとして、UNIX系のOSが使われることが多い。
パソコンOSもUNIXの機能を真似していたり、影響を受けていたりする。
そんなUNIXを開発したのがケン・トンプソンだ。

トンプソンはATTのベル研究所に勤務していた。
ベル研究所では新しいOSの研究開発が進んでいた。
Multicsと呼ばれる、極めて先進的なOSが完成する。
だが、あまりの多機能だったため、パフォーマンスが悪く、当時は使い物にならなかった。

ベル研究所がMultics開発から脱落した頃、
トンプソンはIBMのコンピュータ上で動くSpace Travelというゲームにはまっていた。
しかし、このゲームを行うためのコンピュータ使用料が馬鹿にならなかった。
トンプソンは課金を心配せずにゲームを存分に楽しみたいと考えた。

ちょうどベル研究所で、DEC社のコンピュータが、使われずに放置されていた。
トンプソンはこのマシンで、ゲームができないかと考える。
ゲームソフトを動かすための、OSを作り始めた。

Multicsが持つ多機能のうち、ゲームソフト稼動に必要な機能だけを取り出し、
UNIXを生み出す。

これがかえって、実用的なOSとなってしまったのだ。

考えてみて欲しい。
あなたが今日、行わなくてはならないことをリストアップしたら10あったとする。
そのうち優先度の高い2つだけを実行しよう。
他の8つは実行しなくても、あなたは8割、成功するだろう。
世の中、完璧を求めてはならない。
優先度の高いものだけを実現するだけで、ほぼ満足できる結果が生まれるわけだ。
しかも努力に対する成功度の効率は非常に高い。

さらにトンプソンはUNIXのソースコードを大学の学生たちに自由に改変することを許可した。
学生たちは、次々とUNIXに新機能や改良を加えた。
オープンな雰囲気のもと、UNIXは発展する。

UNIXの有用性に気付いたATTは、一時オープン化を止め、ソースの非公開に踏み切る。
だが、一度、オープン文化を味わったUNIXは、次々、亜流を生み出していった。

UNIXが大企業や公共機関が使用するメインフレームに搭載されてはいても、
UNIXの公式マニュアルの重要な1章はゲームについてである。
これが、UNIXの文化なのだ。

フォン・ノイマン

2005年02月23日 | 人物
ノイマンはプログラム内蔵方式のコンピュータを開発した人。
正確にはプログラム内蔵方式の論文を出した人である。

ハンガリー生まれで、ハンガリーでは英雄扱いだ。

現在のコンピュータのほとんどは、ノイマン型だ。
飛躍的に発達したコンピュータだが、
基本的な仕組みはノイマンたちが開発したものと変わっていない。
非ノイマン型も幾つか提案されて研究が進んでいるが、普及してはいない。

ノイマンは数学者として名をはせ、純粋数学でも多くの功績を残した。
1930年にアメリカに渡り、プリンストン大学教授となる。
経済学にも興味を持ち、最近流行のゲーム理論にも関わっている。
後にアメリカ市民となり、第二次世界大戦以降は原爆開発に従事した。

数学の天才ぶりを示す逸話が残っている。
ある同僚の数学者が一晩徹夜して、ある数学の難問を解いた。
喜んだ同僚は、うれしさの余り、ノイマンのところを訪れる。
ノイマンは、どんな問題なのか聞くと、数分間考え込んだ。
その後、すらすらと解いて見せた。
徹夜明けの同僚の顔は、見る見るうちに青ざめていったという。

世界最初のデジタルコンピュータはペンシルバニア大学のENIACである。
1万7千本の真空管、重さ30トンもある巨大な装置だった。
だが、プログラムは配線を変えることで行うもので、非効率だった。
ENIAC開発チームは後継機EDVACの開発に着手する。
EDVAC開発にノイマンが参加し、プログラム内蔵方式の理論を
一流数学者であるノイマンの名前で発表する。

EDVACの開発が遅れたため、世界最初のプログラム内蔵方式のコンピュータは、
ケンブリッジ大学のEDSACとなってしまう。

それでも、現在に至るまで、ノイマンの名前で、コンピュータの仕組みを呼ぶ。

一般に数学者というと、部屋にこもって頭を使うだけの、
ひ弱なイメージがあるかもしれない。

実際の有名な数学者は、大抵、強健でタフな体力の持ち主だ。
体力がないと、数学の研究はできないらしい。

ノイマンは大の宴会好きであった。
ほとんど毎日、人を自宅に呼んで、朝まで飲んで騒いでいた。

服装に無頓着で、残されている写真で着ていたものはみんな同じ服だったという伝説がある。

運転も乱暴だった。
しょっちゅう衝突事故を起こしている。
天才は運転中も考え事をするので、事故が多いのだと思ってはならない。
攻撃的な性格で、運転が乱暴というのが正解だろう。
ノイマン先生の車が近づくと、学生たちは一斉に逃げ出したという伝説もある。

原爆開発には積極的で、ソ連への先制核攻撃を主張した。
どうせ使うなら、早い方がいいという明快な論理からだった。

著名な数学者でコンピュータ理論を打ち立てたノイマンは、
活動的で、パワフルで、過激な性格の持ち主でもあったわけだ。

武烈王(金春秋)

2005年02月20日 | 人物
新羅の第29代の王。
朝鮮半島で、高句麗百済、新羅の3国に分かれて争っていた中から、
一躍、新羅が他の二国を滅ぼして統一朝鮮を作り上げたのが、この王である。

この人の行動力は凄い。
即位前の王子だった頃、自ら、唐、高句麗、日本に赴いている。

時に新羅は高句麗と百済の南北からの挟み撃ちに遭い、滅亡寸前だった。

642年、百済が新羅を侵略し、次々と新羅の四十余城を攻略した。
金春秋の娘婿も百済軍によって斬殺されている。
百済への報復を決意した金春秋は、高句麗に行って援助を請う。
しかし高句麗王は金春秋を監禁してしまう。
金春秋はやっとのことで密かに故国に窮状を訴えた。
新羅は1万の軍勢を出し、金春秋の解放を高句麗に要求する。
こうして、釈放されたのだった。

647年、新羅は金春秋を孝徳天皇の統治下の日本へ派遣する。
日本書紀によれば、金春秋は容姿端麗で、巧みな話術の持ち主だったらしい。
彼は日本の実情を把握し、豪族連合に過ぎない大和朝廷の弱点を知った。

さらに、唐の太宗に援軍を要請するため、648年に長安を訪問している。
唐の記録でも、金春秋が美男子で、笑顔を絶やさない好人物であったことが記されている。
高句麗、日本、唐を自ら訪問した王族というのは、日本では考えられない。

唐から海路での帰国の途上、金春秋一行を高句麗軍が拿捕する。
従者の一人が機転を利かせて、金春秋を逃がし、自分が王子の服装を身に付けた。
高句麗軍兵士たちは、王子と間違えて、従者を殺害した。
危機一髪で逃れた金春秋は従者の遺族を厚く報いたという。

654年に、52歳の金春秋が即位し、武烈王となる。
655年、百済・高句麗が新羅北部を攻略。
武烈王は唐の高宗に援軍をたのむ。
高宗は軍を派遣し、高句麗を攻撃した。

唐は657年に遊牧国家である西突厥を滅ぼしたので、
対高句麗・百済戦に全力を傾けることができるようになった。

唐・新羅連合軍 vs 高句麗・百済軍の戦いは、
唐・新羅の大勝利で終わる。
660年に百済が滅亡した。
661年に残念ながら武烈王は死ぬ。
が、新羅の優勢は止まらなかった。

今度は、日本が百済復興軍に参加するが、
663年の白村江の戦で唐・新羅連合軍に敗れる。
日本軍は兵力こそ圧倒していたが、
指揮不統一の弱点を抱えたまま、完全に壊滅した。

668年に唐・新羅軍が高句麗を滅ぼす。
670年に新羅と唐の間で、武力紛争が発生する。
676年に唐軍が朝鮮半島から撤退し、新羅による朝鮮半島統一が完成した。

武烈王の巧みな外交術で、高句麗、日本、唐を操り、
その結果、一番の弱国であった新羅が最終勝利者となったわけだ。

地面効果飛行機

2005年02月19日 | 交通機関
飛行機が地表近くを飛行する場合に揚力が大きくなる現象を
「地面効果」あるいは「表面効果」という。

この現象を利用した乗り物を開発しようという動きは以前からあったらしい。
実際に旧ソ連などでは、実験機が作られ、カスピ海で運行試験が行われた。

こうした低空しか飛ばない飛行機をWIGとかラムウィングとか呼ぶ。
水面飛行機と呼ぶ人もいる。

飛行機なのだが、同じ原理で「船」や「列車」を考えている人もいる。
表面効果翼船の模型「ラム」表面効果翼船の原理などは船、
小濱研究室エアロトレインは列車に属する。

地面効果とは違うが、エアークッション利用の船で、
国土交通省が推進しているのがスーパーテクノライナーだ。
ホバークラフトみたいに船体の下に空気を送り込み、少し浮上して、
海水に接する部分を少なくして高速で推進する船が既に走っている。
「飛翔」の技術は未来型の船として宣伝された。

だが、どれも広く普及することはないだろう。
理由はどれも燃料を食いすぎるのである。

旧ソ連での実験は燃料消費量が多くて、実用にならなかった。
国土交通省が音頭を取った「飛翔」も燃料を食うので、
商業ベースでの運行は難しい。
高速性を生かした救急船とか、
空港のない離島との高速接続、
あるいは新しい乗り物好きの観光客向け
といった特殊な利用しか見込めない。

なぜ燃料を食うのか?

地面効果は上に働く揚力だ。
だから、少ないエネルギーで物体を上に持ち上げることができる。

しかし、前に進む推進力が無ければ、乗り物は成立しない。
水面飛行機なら時速2百キロ以上、船でも百キロ前後か、
エアロトレインは5百キロ程度を目指す。
当然、空気抵抗を受ける。
空気抵抗があるから、地面効果もよく働く。
しかし前に高速に進むには、空気抵抗は邪魔だ。

気圧の低い高空なら、前に高速に進んでも、空気抵抗によるエネルギー浪費は少ない。
従って、地面効果利用の乗り物は、高空を飛ぶ飛行機より燃費が悪いのだ。

私の予測では(外れても責任は持てないが)、
今後もこの種の新奇な技術がもてはやされることがあっても、
日の目を見ることはないだろう。

ジャンボ・ジェット

2005年02月18日 | 交通機関
ボーイング社ボーイング747、通称ジャンボ。象のジャンボにちなんだ名前だという。
民間航空機の歴史に輝く名機だろう。

1903年にライト兄弟が飛行機を飛ばしてから102年目になる。
その発達はめざましく、超大型旅客機ジャンボが1969年に登場した。

ところがそれから30年の間、形状の上で、大きな変化はない。
500人前後の乗客数、太めの胴体、時速9百数十キロメートルというスペックを保ったままだ。
コンコルドが登場したときは、いよいよ音速飛行機が主流になるかと思われたが、
結局、消滅する。

ジャンボまたは、外見上は良く似たエアバス機が主流のままだ。
『鳥と飛行機どこがちがうか―飛行の科学入門』によると、
ジャンボ機サイズで、時速900キロ強の速度というのが、
航空力学上、もっとも効率が良いらしい。

羽の面積、機体の大きさ、速度といったスペックを変えると、
一気に効率が下がる。

元々、空を飛ぶというのは多くのエネルギーを要する。
しかし昆虫から、鳥、ジャンボ機は皆、最適なスペックで設計されており、
比較的少ないエネルギーで空を飛ぶことができる。

実際、ジャンボ機の登場と共に、航空運賃が劇的に低下した。
飛行機の旅が大衆のものとなったのだ。

貨物ですら、飛行機で運ぶ時代になった。
さすがに石油や鉄鉱石は、船で運んだ方が効率的だが、
軽めの貨物なら、飛行機でも十分採算が取れる。

ジャンボやエアバスの中身はコンピュータ制御の発達などで、
30年の間に大きく変わっている。
燃費はジャンボ初代機に比べると半分になっているそうだ。
しかし外見は、そんなに変わることはない。

ボーイング社は当初、軍用大型貨物機として設計を始めた。
しかし受注競争に負けてしまう。
やむを得ず、旅客機として、売り出すことになった。
社内では慎重論も多かったらしい。
しかし、売り出してみると大ヒットとなる。
世界の空に革命が起きたのだった。

後にエアバスが競争相手として登場するが、
ジャンボが名機であることに変わりはない。

まもなく、一回り大きなエアバス380が登場するという。
夢の世界が実現するのだろうか?

今のところ、日本の航空会社でA380を採用する予定はない。
既に成田空港などはA380対応に準備しているようだ。

巨大飛行機が登場するのはいいが、
乗降時の混雑、混乱、空港での混雑と行列を何とかして欲しいなぁ。

【参考】
747の歴史(ボーイング社公式ページ 英文)

広島平和記念資料館

2005年02月17日 | 博物館
路面電車で原爆ドームで下車すると、
すぐ目の前に世界遺産がある。
外国人観光客も多い。
みんな熱心にドーム前の掲示板を読みふけっていた。
原爆の惨状を思い巡らす場所として、
厳粛な気分になる。
が、娘はぐっすりと寝ていた。

川に架かる橋を超えると、
佐々木貞子さんの像や折り鶴の捧げ物がある広場に出る。
毎年夏の式典が開かれる広場だ。
TVでは見たことのある風景である。
世界から原水爆が無くなる日まで消えない火が灯されている。

さらに広島平和記念資料館へ向かって歩く。
資料館の入場料はわずか50円だ。
ロッカールームが狭い。
もう少し広げた方がいいと思う。

外国人訪問客が多い。
世界中から広島について考えるために訪れるのだろう。

親は厳粛な気持ちでいるが、
目を覚ました娘は無邪気に資料館ロビーで走り回っていた。
転ぶたびに、受付の女性や、警備のおじさんが笑っている。
警備員が声を上げて笑うのは初めて見たぞ。
平和記念資料館のアイドルになったな。我が娘。(親馬鹿)

戦前の広島から、戦後の広島、被爆者の症状、言葉で言い表せない惨状などを、
遺物や写真、模型などで紹介している。

誰もが重苦しい気分になる。
戦争の愚かさを認識するには、良い場所だ。

核の数を国別に示した地球儀があった。
ミサイルが数に比例して、数多く突き出ている。
北朝鮮にはミサイルが出ていないのだが、どうしたのだ?
早く地球儀を作り直すべきだろう。

錦帯橋と岩国城

2005年02月16日 | 城・神社・仏閣
錦帯橋は太鼓橋が連なる面白い橋である。
錦帯橋の入り口の目の前の旅館に一泊した。
宿泊客は、私たち家族だけで、のんびりと過ごすことができた。

部屋の窓から錦帯橋が見える。
錦帯橋を見ながら食事というのは贅沢なものだ。

但し、昨年の台風の影響のためか、工事が続いていて、
工事車両がうるさい。
また、河原が駐車スペースになっていて、
観光バスなどが並んでいて、
必ずしも周りの景観は良くない。

橋を渡っていくと、広い噴水公園があり、
旧家が公開されていたり、
美術館や吉川資料館がある。

土産物屋では、多種多様なソフトクリームを売っている。
しかし寒いので、ちょっと食べる気がしない。
旅館の人の話によると、川の付近は寒いそうだ。
部屋の暖房がエアコン、ヒーター、ホットカーペットとそろっていた。
雪は降っていなかったが、比べると広島、宮島はずっと暖かかった。

山の方へ歩くと、ロープウェー駅がある。
岩国城へ行くロープウェーだ。

天守閣はコンクリート製の偽物だが、
見栄えが良い位置に作られている。
夜にライトアップされていた。

天守閣そばに、本物が建っていた土台がある。
あれ?
本物の方が敷地が大きいぞ?
本当はもっと大きくて立派だったんじゃないか?

ちなみに本物の天守閣は作られてから1国1城制に引っかかって、
数年後に破却されてしまったそうだ。

今の天守閣内は資料館になっている。
刀や武具などの史料、日本中のお城の写真などが展示されている。

一番上からの展望は美しい。
錦帯橋はもちろん、瀬戸内海の島々も見ることができる。

寒いところなので、
どちらかというと夏向きの観光地かもしれない。
娘は河原を元気に走り回っていたが、親は・・・。

でも雪景色が見たい気も・・・。

厳島神社

2005年02月15日 | 城・神社・仏閣
宮島へは宮島口からフェリーで10分、大人170円の運賃は安い。
埠頭から厳島神社まで、海岸側か、土産物屋の多い通りを歩いて10分ぐらいである。
鹿がたくさんいる。
餌をねだる鹿がうろうろしている。

5重の塔が見えるので、山を登ってみる。重要文化財の千畳閣があり、床下を歩いてみた。
山を降りて、海岸に出る。
海岸からの眺めはきれいだ。
引き潮のときは、大鳥居まで歩くことができる。
厳島神社には国宝の建築物が20ある。
建物といい、文物といい、国宝だらけで、
世界遺産指定でもある厳島神社は常に観光客がいっぱいである。

満ち潮のときに拝観料を払って、神社に入ろう。
海の上に浮かんでいる気分を味わうことができる。

宮島のホテルで泊まったので、満潮時と干潮時の双方の厳島神社を堪能できた。

宝物館に入ってみた。
平家納経を見たかったのだが、残念ながら、上野や奈良博物館に出張中で、複製しか置いていなかった。

土産物通りでは焼き牡蠣があちこちで売っている。
食べてみると、本当に美味い。
貝2個が400円で、決して安くないが、食べてみる価値がある。
1歳の娘にも食べさせてみたが、食べなかった。
大人の味なのかな?

アナゴ竹輪もおいしい。
こちらは2本270円で、娘も喜んで食べた。

昨年の台風被害で、一部、修復中のところがある。
宮島ロープウェーも改修中だった。
春以降の観光客のために必死で工事中というところか?

実は高校のときにも、修学旅行で行ったのだが、
大鳥居をうっすらと記憶しているだけで、
どんなところか、すっかり忘れていた。
観光バスで連れられるだけだと、全く印象に残らない。

こういうところだったのだねぇ。
家族でのんびりと旅をするのが一番だよなぁ。

グリーンムーバー

2005年02月14日 | 交通機関
連休中は広島方面に家族旅行をしていました。
広島で広島電鉄が誇る新型路面電車グリーンムーバーに、ほんの少し乗ってまいりました。
広島駅から、原爆ドームまでです。

JR広島駅を降りると、すぐにグリーンムーバーの威容を目にすることができました。
かっこいいですね。
さすがです。

初めて訪れる場所で迷うのは、料金の支払い方です。
場所によって、乗車時なのか降車時なのか、小銭ONLYなのか、要切符なのか?
きょろきょろしながら、みんなが乗車するのに合わせて、乗り込みました。
乗ってから、市内が150円で降車時支払ということがわかりました。

プラットフォームからは完全ノンステップです。
これはらくちんですね。
ドアが広いですが、椅子が少ないのが欠点かな。
乗客数が多いので、車内での移動が難しいことがあります。

交差点で曲がるとき、対向路線から別のグリーンムーバーと交差したのですが、
相手側が曲がりきるまで、ずいぶんと慎重にのろのろと、ガックンガックンと、
止まりながら、曲がっていきました。
内輪差が大きいためなのでしょうか?
軌道の設計に余裕が無いためなのでしょうか?

原爆ドームで降りるとき、運転手側のドアまで進んで、料金を払いました。
降りる人が多いので、間に合いましたが、
車内での移動は、子供をおんぶしているときは、なかなか難しいです。
料金支払の時間もかかっているようです。
料金支払い方法と、乗降時のスムーズ化が課題かな?
LRTと呼ぶためには。

電停は、道路より少し高くなっています。
ノンステップです。
降りると、道路中央なので、信号待ちが必要でした。
電停に人がいっぱいであふれそうなのですが、左右に車がびゅんびゅん走っています。
ちょっと怖い気がしました。

日本の路面電車はほとんどが、道路中央なのですが、
軌道位置を道路両端にできないものでしょうか?

電停で待ってると、電車が近づいたとの知らせが表示されます。
これは、最近のバス停にもある仕組みです。
しかし電停に行こうとしても、信号が青にならないと、道路中央に行けないですね。
反対車線なら諦めがつきますが、
そうでないと、間に合わないときに悔しいかも。

もっとも、頻繁に運行されているので、
待ち時間はほとんどないみたいですね。

どの電停も乗降客が多いです。
それだけ需要が多いのでしょう。

宮島口へは別のときにJRで行きました。
JRの車窓から並行して走るグリームーバーを見ることができます。
きれいですね。

宮島口付近の道路は大渋滞していました。
渋滞した車を横目に颯爽と走るグリ-ンムーバー、いい景色です。

“社会主義的”発想をするならば、所得再配分の考え方と同じ事を
交通機関にも当てはめられないでしょうか?

自動車からは税金等をたくさんかけて経済的ハンデを負わせ、
それを道路財源とするのではなく、
公共交通への投資や補助に当てると、いうものです。
公共交通を活性化するには、財源を公的補助としないと無理だと思うのですが、
どうなんでしょう?

クリチバ

2005年02月10日 | 交通機関
ブラジルのクリチバ市に興味深いバスが走っている。
クリチバのバスシステムに関しては、都市交通や街づくりの専門家たちの間では有名だ。

バス自体は連接バスで、日本でも幕張で走っているのと、大きく変わらない。
但し、3連接というのもあるらしい。

一番の特徴はチューブ型のバス停だろう。
運賃はチューブの入り口で支払う。
バスに乗り込むときに払うことは無いので、
乗客の運賃支払でバスが止まったままになることはない。
バスの全てのドアを開けて、一度に大勢の乗客を乗降させることが可能だ。
チューブの床はバスの床面と同じ高さにして、
乗降時はノンステップのバリアフリーとなる。
乗客は風雨を避けることもできる。
バス停というより、駅のプラットフォームの感覚だ。

道路もバス専用レーンを走る。
大量輸送向けのシステムである。
発想は昨日紹介したLRTと同じで、乗り物が電車ではなく、バスというわけだ。

当初、クリチバ市は市内交通機関として、幾つかの計画を持っていた。
建設コストが安く、大量輸送に対応でき、路線の自由度が高いものとして、
連接バスとチューブ型バス停、専用レーンの組み合わせによるバスシステムを採用したらしい。

LRTは省エネ性と無公害という利点があるが、
軌道を建設し、維持する費用、
電気設備を建設、維持する費用がかかる。

バスなら、チューブ駅の設置費用だけで、
道路は一般道路と同じ補修だけで済む。
ディーゼルエンジンなら燃料費は安いが、排気ガスの問題がある。
天然ガスエンジン+ハイブリッドなら、クリーン排気で、省エネとなろう。

なかなかのアイディアだと感心する。
どうして日本でも採用しないのだろう?

路面電車

2005年02月09日 | 交通機関
路面電車は昔の日本の各地で多く見られた。
ガタゴトと鉄輪がうるさく、チンチンと鐘を鳴らして走るので、チンチン電車などと呼ばれた。
スピードは40キロ以下で遅い。
道路中央に電気架線がぶらさがり、景観を損なう。
自動車の普及が進むと、道路渋滞の元凶とされ、邪魔者扱いされた。
こうして、しだいに多くの路面電車が廃止されていく。

ところが欧米各国で、路面電車が見直され始めた。
LRTのある風景のギャラリーを見ると、都市景観に溶け込んで実に美しい電車が走っている。
かつてのチンチン電車とは大違いだ。

多くの都市では自動車が増えるにつれて、自動車中心社会の弊害が目立つようになった。
自動車は都市領域を覆いつくし、
都市部の陸地面積の半分以上を、道路や駐車場で潰す。
どんなに道路を拡張しても減らない渋滞、
新たな道路を建設すれば、さらに多くの自動車を呼び込み、渋滞を増やす矛盾、
都市中心商業地の空洞化、
事故の多発、
大気汚染、
石油消費量の拡大、等々。

打開策として登場したのが、LRTだ。
従来型路面電車と違い、改善点がいくつかある。
・ハード面の技術の進歩により、高速性や静粛性、省エネを確保。
・軌道への自動車の乗り入れを横断以外は禁じる。
・優先信号の仕組みにより、表定速度をアップ。
・連結車両により、輸送力向上。
・運賃体系を簡素化するとともに、運賃の支払をセルフサービス化する。
 これにより運賃の支払時間をなくし、さらに表定速度をアップ。
 (日本の路線バスの遅さは乗降時の運賃支払時間が大きいよね)
・電車のデザインを美しいものにし、ノンステップで人に優しい。
・商業地中心部をトランジットモールにして、自動車を完全追放。
・電停や電線柱のデザインを美しいものにする。
・経営に関しては、運賃だけで賄うのは無理として、公的補助金を出すことで、低運賃を実現。
・建設費が地下鉄や高架軌道中心の新交通に比べて、格段に低い。
・既存鉄道との相互乗り入れが可能で、郊外では道路ではなく、普通の鉄道で高速。
等々。

日本の国土交通省内でも検討されており、
民間の市民グループによる熱心な推進運動もある。
しかし、日本では、実現が難しい。
難しい理由は、
・運賃補助を出すことへの市民の合意が難しい。
・今までの政治家や自治体が、都市交通として、
 地下鉄や新交通などの多くの土木建設を要するものにばかり、
 注目していた。
・軌道に関係する法律は昔の路面電車を想定したもので時代遅れ。
・運賃支払をセルフサービスするだけの公共道徳の高さを期待できない。
・国民の多くが自動車中心社会に満足しており、
 自動車の使用を制限することへの抵抗感が強い。
・首都圏など、極端に人口が多いと、LRTでは間に合わないし、
 その意味で民間私鉄が既にLRTみたいなものだ。
等々があるだろう。

自動車より鉄道大好きな私としては、
本格的なLRTを日本で見たいものだ。


始皇帝

2005年02月05日 | 人物
始皇帝
極めてメジャーな中国最初の皇帝。
始皇帝の生涯については、史記などに詳しく書かれているが、
伝説めいており、どこまで信じていいのか不明だ。
巨大な始皇帝陵とか、兵馬俑の発掘とか、
1万人収容可能な巨大建築である阿房宮、
数千キロにおよぶ万里の長城
始皇帝巡遊用の幅67メートルの道路を全国に張り巡らすとか、
ともかくスケールが大きい。

彼は政府を中央集権化し、漢字の書体を標準化し、
貨幣制度を改革して、多元世界を統一する。
政治的天才だったことは間違いない。

一方、死におびえ、不老不死の想念に取り付かれている人物でもあった。
何度にも及ぶ暗殺未遂事件で不安が高じ、
都の周辺に270もの皇居を作り、
それらを地下道でつないだ。
夜、不安を感じると、ひそかに移動して、別の場所に寝たという。

彼の死後、あっという間に、秦は滅びる。
始皇帝という個人に依存した体制だったのか?
だからこそ暗殺で狙われやすいのだろう。

上野の森美術館で産経新聞主催の大兵馬俑展があった。
1歳の娘もいっしょに連れて行った。
娘は、一つ一つの兵馬俑に指差して、「あー、あー」と声を上げる。
かなり興味を惹いたようだ。
乳幼児教育は博物館巡りで決まり!
(子供が可哀想だ! との周囲の声が多数)


アダム・スミス

2005年02月01日 | 人物
アダム・スミス
哲学者であり、国富論を書いて、事実上、経済学を誕生させた人。
この人の生涯については、よく知らないが、国富論の影響はとても大きい。
個人や企業が、それぞれの利益を求める行動が結局は全体の利益にかない、
最適な資源配分と最適な生産が行われるということに彼は気づいた。
国家間でも同じで、自由貿易が最もお互いの利益になると主張する。
一方、アダム・スミスは市場万能主義ではなく、市場の限界についても気づいていた。
あくまでも公正な取引が行われるという前提で市場は正しく機能する。

経済学というのは不思議な学問で、
経済の動きを数学的モデルを用いて、数学的証明で説明しようとする。
経済の法則(たとえば需要と供給のバランスで、生産量と価格が決まる)は、
まるで自然の法則と同じように動くというわけだ。
今の経済学の本を読むと、
完全に数学の厳密で疑いのない証明を読んでいるみたいだ。

この経済法則を無視して、人為的に資源配分や所得配分をすると、
必ず不経済かつ無駄が生じる。
社会主義の失敗や、日本の大量の米余りとか、その例はいくらでもある。

政府の介入をなくし、
自由に経済取引を行えるようにするのが一番という、
考えてみれば、当たり前かもしれないが、
よくよく考えると、不思議な結論に達する。

なぜ、誰も全体を計画し、運営しているわけでないのに、
自由放任が最も効率的な資源配分となるのか?
しかも、それぞれの企業、家計の担当者は
自分の利益以外は考えずに行動しているにもかかわらずにだ!

誰が何の職業に付くか?
どこで誰が何をどれだけ生産するか?
生産されたものを誰がどれだけ消費するか?
どのように決めるのが最も公平か?
誰も全体を調整してはいない。
だが、市場の働きは自然と最適化に進む。

市場の相場から離れた低リスク高利益の儲け話が犯罪以外に絶対にありえないのも、
需要と供給の市場法則があるからだ。

アダム・スミスが国富論でただ一言、
「神の見えざる手」と表現した作用が存在するわけだ。

この表現はすばらしい。