良い子の歴史博物館

訪れたことのある博物館、歴史上の人物、交通機関についての感想、小論など。

サダム・フセイン

2006年12月22日 | 人物
イラク情勢、事実上の内戦みたいになったようですね。
大きく、クルド人区域、シーア派区域、スンニ派区域に別れ、さらに各区域で2、3の勢力が争っている感じです。
暫定政府を構成している諸勢力内でも闘争があり、互いに虐殺、拉致をやり合っているみたいです。
こうなると一つの国家として成り立つのが困難ですね。

米軍は増派を余儀なくされ、戦費がかさむことでしょう。

こういう事態になってみると、意外とサダム・フセインという人は偉大かもしれません。
凶悪な支配者だったが、イラク国家を統一維持するだけの力量があったからです。

バラバラな勢力から成る国を保たせるには、秘密警察の恐怖による無茶苦茶な暴力的支配が有効だったりするのですね。

そういえば、中国も天安門事件で多数を虐殺したおかげで、秩序が安定し、経済発展しているし。

無政府状態と恐怖政治、どちらが幸福なのだろう?
たぶん恐怖政治の方なんだろうな。
他を選べない国の人って可哀想だけれど。

アドルフ・ヒトラー

2006年03月02日 | 人物
20世紀を代表する人物を一人だけ挙げなさい。
と、言われたら、私はヒトラーと答える。
様々な意味で現代史の特徴を捉えた独裁者だから。
第二次世界大戦は、この人物を中心に世界が動いた。
まさに世界の中心にヒトラーがいた。

ヒトラーはオーストリア人で、オーストリア・ハンガリー帝国の兵役を拒否し、
ドイツに移住したことがある。
ヒトラー自身の言葉によれば、老大国のオーストリアより、
ドイツの発展ぶりに未来を感じたためらしい。

第一次世界大戦でドイツ軍に志願する。
軍隊生活で多くのことを学んだと後に語っている。
人生で一番の教育だったと。

敗戦後、ドイツ労働者党に入党する。
入党後は、めきめきと頭角を現す。

よくヒトラーのプロパガンダ能力の高さが指摘される。
もちろん、それもあるだろう。

ノルトが思うに、ヒトラーの最大の才能は「組織力」にあったと思う。
党組織を一気に戦闘的集団へと変革していった。
政権を掌握した後も、彼の「組織力」がフルに活用されているように思う。

小政党であった時代から、ナチの凶悪な性格が出ていた。
だが、敗戦国ドイツは、経済の破綻、600万人の失業者、
屈辱的な条約によるみじめさ、などで、極端な思想がまかり通るようになっていた。

ナチと同様に、共産党も勢力を伸ばしている。
結局、共産党の躍進を恐れるドイツ保守層の支持を受け、
ナチが政権を獲得する。

ヒトラー政権発足時は、ヒトラーを支持しない、あるいは懐疑的な人々が
たくさんいた。

驚くべきことに、ヒトラー政権は、破綻した経済の建て直しに成功する。
緊縮財政をやめ、大幅な財政支出で、完全雇用を実現したのだった。
景気が回復し、各家庭に一台フォルクスワーゲンを所持できるほどに、
豊かな生活を楽しめるようになっていった。

よくヒトラーは軍需産業に力を入れたために、経済を回復できたという、
解説を読むことがある。
これは事実の半分でしかない。
実際にはドイツ経済は、民需品も大量に生産するようになっていった。

ヒトラーの成功は経済だけではない。

外交面でもめざましい成功を収める。
屈辱外交から、強気の外交へと転換したのだ。
ドイツ人にとって、屈辱的なヴェルサイユ条約をついに破棄する。
再軍備にも着手する。

ヒトラーは選挙演説で平和を約束した。
実際、一発の銃弾を撃つこともなく、
失われた領土の回復、オーストリア併合と、次々と国際的地位を高めていった。
しばらくの間、他の欧州諸国はヒトラーの行動を黙認するしかなかった。

こうなると、ドイツの一般民衆がヒトラーを熱狂的に支持してしまうわけだ。

いったい誰が、600万人の失業者を救ったのか?
いったい誰が、我々に比較的豊かな生活を楽しめるようにしてくれたのか?
いったい誰が、ドイツに誇りを取り戻してくれたのか?
それは我らが指導者(ヒューラー)ヒトラーではないか!
ヒトラーを支持しない人は、偏屈な変わり者だけだ。

悪魔の力を侮ってはならない。
ヒトラーが信じられないほどの有能さを発揮したことは事実である。

なるほど、ヴェルサイユ体制が既に崩壊寸前だったことや、
ワイマール共和制も弱体化して機能しなくなっていたこと、
優れた経済官僚の策定する財政計画があったことなど、
ヒトラー個人の資質以外に
第三帝国の成功の様々な原因を求めることもできるだろう。

しかし、ノルトの思うに、ヒトラーの才能こそが最も重要な成功の原因だった、
と思う。
ヒトラーでなければ、ドイツがすぐに立ち直ることはなかったのではないか?

だが、ヒトラーは破滅を好む悪魔だった。

敗戦色が強まると、戦争での勝利よりも、
より多くの破壊を目的にしたとしか思えないような、命令を下している。

ヒトラーが語ったという言葉の中に
「支配せよ、さもなくば破壊せよ」
がある。
本心だったのだろう。
完全にドイツそのものですら、破滅させようとしたのだ。
もしドイツが勝利できなければ、ドイツなど滅んだ方が良い!
と考えていた。

ヒトラーの才能には限界があった。
彼は自分よりも弱いもの(ワイマール共和制、ヴェルサイユ体制)には強い。
しかし、自分より強いもの(連合国軍)には対処する術を持たず、弱い。

破壊と暴力、マスメディアの利用、表向きは平和主義、・・・。
一つ一つが現代史の特徴を体現した人物、それがヒトラーである。

第五王国派

2005年11月25日 | 人物
英国の清教徒革命は単なる階級闘争とは異質な革命である。
極めて宗教色が強い。
国王派vs議会派の内戦だが、議会派の中でも、長老派、独立派、平等派あるいは水平派などがあり、
それぞれは政治的党派というより、宗派に近い。
教科書には、ほとんど載らないが「第五王国派」と呼ばれるグループがあった。
一時は議会の半分を占める勢力を誇り、クロムウェル政権発足の支持基盤の一つとなる。

「第五王国」とは聖書のダニエル書の予言に基づく名称だ。
ダニエル書には世界を牛耳る帝国の興亡の予言が書かれている。
君臨する帝国を象徴する4つの獣が次々と登場し、続いて第五番目の王国が神の王国となると「第五王国派」は解釈した。

ライオンで象徴される第一王国は、ダニエルが存命中に君臨した新バビロニア(ネブカドネザル王朝のカルデア)である。
ネブカドネザルによって、エルサレムは滅亡し、生き残ったユダヤ人は皆、
バビロンへ連れて行かれた。
そのバビロンの都市は壮大な城壁で囲まれ、古代7不思議の一つ空中庭園があった。
新バビロニアは古代オリエントで覇者となった。

第二王国は熊で象徴されるメディア人とペルシャ人の連合王国である。
アケメネス朝ペルシアのキュロス大王のとき、新バビロニアを征服している。
当初、ペルシャはメディア王国を宗主国とする小国だった。
だが、メディア王アステュアゲスは凶悪な王で、メディア人からも嫌われていた。
ついにメディア軍の一部が反乱を起こす。
反乱軍はペルシア王キュロスに協力を頼み、キュロスも一緒にメディア王追放戦争に参加した。
こうして新たなメディア王国が誕生するが、ペルシア王国と同君連合を形成する。
やがてペルシア人の方が目立っていくので、通常、アケメネス朝ペルシアと表記し、
メディアの名前は、ほとんど無視されているが、
ダニエルの時代には、メディア人が主力だったので、
第二王国は「メディア人とペルシア人の王国」とダニエル書で記述される。

第三王国は豹のような獣で、大きな角を持ち、ペルシアを速いスピードで征服する。
大きな角はマケドニアのアレクサンドロス大王を意味する。
若い野望を抱くアレクサンドロスは、あれよあれよの間にペルシア帝国旧領を全て征服し、
巨大帝国が誕生した。
だが、わずか32歳で病死してしまう。
大きな角が折れ、角が4つになった。
「第三王国」は4つのヘレニズム国家に分裂しながらも、存続する。
「第三王国」は国家としては複数存続する形になるわけだ。
ギリシャ語が広い地域で公用語となる。
最後のヘレニズム国家であるプトレマイオス朝エジプトをローマが征服した。

そう、明らかにローマが「第四王国」となるわけだ。
ダニエル書では十本の角を持つ恐ろしい獣として象徴している。
ローマも東西に分裂し、西ローマの方が早く消滅する。
十本の角はローマ帝国から派生するヨーロッパ列強国を表すと考えるのが妥当だろう。

「第五王国派」の人々は「第四王国」にローマカトリック法王を含めた。
そして、カトリック教会はキリスト教を自称しているが、
実際は悪魔に仕える反キリスト勢力だと断じたのだった。
まもなく、こうした「第四王国」は、全て神の王国によって滅ぼされなければならない。

こともあろうに、彼らは神によって“第五王国”に選ばれたのは英国であると信じたのだった。
この信条は貧富の拡大により疲弊した農民たちに大きな夢を与えた。
英国社会は神の王国として変革し、社会構造を改革しなければならない。
「聖者の王国」となるべきなのだ。
そして第五王国たる新英国が第四王国勢力を滅ぼし、地上に世界平和を築くことになる。

「第五王国」の具体的なイメージは不明だが、民衆の多くにかなり影響を及ぼしたらしい。

クロムウェルが政権を手中にできたのも第五王国派の支持が大きかった。
だが、実際の政治では夢想的な「第五王国」イメージにそぐわない。
議会派内部は対立し混乱する一方、財政は逼迫し、しかも反革命派の反撃にも対応しなければならない。

クロムウェルは第五王国派と手を切る。
そして第五王国派を弾圧、取り締まることとなった。
「第五王国派」内部でも穏健派から過激派までいろいろで、統一されてはいなかった。
まもなく幹部の多くが処刑され、歴史の舞台から「第五王国派」は消滅する。

なるほど、「第五王国派」は途方もないことを信じ込んでいた。
小さな島国でしかない英国が神の王国になるだなんて!
だいたい、こんなちっぽけな島国が世界支配できるまでになるわけないじゃないか!!

ところが、歴史は不思議だ。
「第五王国派」の期待とは異なるだろうが、
大英帝国は本当に日の沈まない史上最強の大帝国になってしまうのだから。
米国を含めたアングロサクソンこそが、ダニエル書の第五王国に違いない。
但し、神の王国というより、悪魔の帝国に近い気がするが・・。

おかげで、日本の子供たちまでも、英語を学ばねばならぬ。
第六王国はまだ来ないのか。
英語学習の苦しみから、我らを解放してくれ~~~~

藤村新一 その2 石器の古さ

2005年11月01日 | 人物
昨日に引き続き石器での疑問について書く。

石器の形状から、年代を推定することがある。
簡単につくれるものは古い年代のものと断定し、技術を要するものを後の時代とする。

ちょっと待ってくれ。
仮にノルトが野山でサバイバル生活を強いられ、しかも黒曜石を見つけたとする。
不器用なノルトが作るものは、どの原人より低レベルなものに違いない。

いつの時代でも、技術を持たない人間の方が多いのではないか?
稚拙な作りの石器を古い年代と断定できるのか?

ちなみに藤村が埋めたものは、実際は縄文時代の遺物らしい。
このぐらいの時代の土器石器なら、かなりの量があちこちで見つかる。
だが、いわゆる縄文以前の遺物は、まずは最初は眉唾でないか、疑ってみるのが正しい態度ではなかろうか。
数は圧倒的に少ないし、どうにでも解釈可能なものだし。

化石も同様で、異なる地域で出土したものを、「猿」に近いものを古いものとし、
年代を定めて、標本を並べて展示されるが、実際は専門家たちの間で深刻な論争が
行われていたりしており、しかしそんなことを知らない一般の人は展示が本当だと思い込んでしまう。
詐欺だよな・・?これって。

だいたい、世界中同時に石器時代だったりするのか?
たまたま石器しか作れない人々が住んでいただけで、ずっと後代のものかもしれないじゃないか。

極めて少ない資料を元に、「科学的」データを拾い集めているが、実際は想像を膨らませたに過ぎない仮説で、しかも大抵は反論する説もあるものを、いちいち教科書に載せる必要があるのだろうか?
仮説と反論を併記するなら、ともかく。
もっと学ぶべき、より確実で重要な歴史が数多くあるのだから、「先史時代」は教科書から省くべきと思う。

藤村新一

2005年10月31日 | 人物
以前から感じているのだが、歴史教科書に原人なんか書かなくていいんじゃないかと思う。
出土するものは極めて限定されており、ほんのわずかのかけらでしかないことが多く、どうにでも解釈できるものが多い。
「◎◎原人」の想像図が教科書に掲載されることがあるが、はっきり言って創作に過ぎない。
しかも学者たちの間で論争となっているものが多く、とても真面目に学ぶ価値があるとは思えない。
石器時代」という概念自体が、19世紀の学者の提唱で始まったものだが、何の根拠も無いまま一人歩きして育っているのではないか?

小学生の頃、図書館で見た本の中に、白人、黒人、黄色人種のそれぞれが、どの「猿人」-「原人」の系統から生まれてきたかを示す樹木図を見たことがある。
小学生だったが、この図の欺瞞性に気がついた。
それぞれの人種が違う「猿」の系統から出たなら、もっと人種間に違いがあるんじゃないか!?と。

旧石器遺跡捏造事件の中心人物である藤村新一とその取り巻きグループも、自分たちの「発見」したものについての創作に必死だった。
悪いことに「権威」ある学者たちが、彼らの支持者となった。

極めて幸いなことに、毎日新聞社のスクープのおかげで、彼らのでたらめさが明るみになった。
世間の考古学への信頼が落ちたのも当然だが、ノルトは、以前から一部の考古学に不信を感じている。
あまりにも、根拠薄弱な想像で語られる学説が多いからだ。

自分たちの学説に合致する、ほんのわずかな出土品を大きく取り上げ、
「極めて貴重な発見」とかいうコメントが付く。
だが、その他の膨大な数の出土品を無視していたりする。
各種の年代測定法だが、大抵、幾つものパラメータを仮定して、
それが正しいという前提で計算される。
実際のところ、絶対確実なものはない。
結局は、このぐらいの古さにすれば、辻褄が合うから、ということで、
年代発表となっているのではないか?

藤村新一の事件は、ある程度、こうした考古学のいい加減さを知らしめるものとなったという点で、役立ったと思う。

小泉純一郎

2005年08月17日 | 人物
小泉さんが総理大臣に就任したとき、
ノルトはこんな「変人」で大丈夫なのだろうか?といぶかった。
マスコミ向けのパフォーマンスに長けているが、
政治的能力に期待していなかった。

但し、森前首相降ろしに走った「加藤氏の乱」に加わらず、
森前首相への支持を変えることがなかったことには、ノルトも一目置いていた。
あれほど国民からの支持を失っていた森内閣を、
世論がどうであろうと守ろうとした変わらぬ態度には感心したのを覚えている。
小泉さんって、決断を変えることを極端に嫌うのか?
宰相が朝令暮改をしない人物であることは、安定した政権の必須条件だと思う。

それまで、日本はコロコロと大臣の顔が変わる。
諸外国に比べても、あまりにも頻繁に変わりすぎる。
一方、小泉内閣は「一内閣一閣僚」を唱え、
めったなことでは大臣を更迭することがなかった。
特に竹中平蔵内閣府特命担当大臣を手放そうとしなかったことに注目できる。
経済政策というのは長期にわたるもので、
コロコロと政策を変えることは慎むべきだと思う。
一度始動した経済政策は一定期間続行しないと意味が無い。

よく「丸投げ」だという批判を耳にする。
これは的外れな批判だ。
宰相たるものの務めは、自分で全てを決するのではなく、
有能な人材に委ねて、その人材が働く環境を保障することにあると思う。
時には反対派からの攻撃があっても、一度委ねた人材を変えることなく、
擁護するのが立派な宰相というものであろう。

恐らく政治の実務では、小泉の能力はたいしたことは無い。
実務なら小泉以上の能力のある政治家はたくさんいる。
ただの大臣だったら、ろくな仕事もできないような気がする。
ところが総理大臣となったら、これほど適任だとは予想していなかった。

外交面では米国との関係を重視し続けた。
極めて現実的な対応だ。情緒に流されない。
しかも一度決めたら、テコでも動かない。
フラフラとしない分、かえって外国からの信頼を勝ち得ているのではないか?

日本国内では北朝鮮への批判がすさまじいが、それに流されること無く、
「日朝平壌宣言」を履行する姿勢を崩そうとしない。
そのあまりの頑固な態度はノルトでもイライラしてくるが、
一国の政府が移ろいやすい世論に迎合せずに、
決まったことを守る姿勢は評価できると思う。

総裁任期があと一年というところで、衆議院解散に踏み切った。
当然、極めて鋭い計算が伺える。
もし解散しなかったら、求心力を失った小泉内閣は弱体化するしかない。
どうせ、あと一年である。
ここで大きな賭けに出るのは悪くない。

小泉首相は、単にパフォーマンスに長けたマスコミ受けのいい政治家ではなく、
極めて現実的なポリシーを有しているようだ。

ヴィレム1世(オラニエ公ウィレム)

2005年06月16日 | 人物
宗教の違いが原因で、とてつもない残虐行為が行われることがあります。
神聖ローマ帝国のカール5世と、その息子のスペイン王フェリペ2世は、
悪名高き異端審問を推進したことで知られます。
1521年に発布したオランダ人への勅令の中でカール5世は
「(ルター)の弟子と改宗者はすべて死刑に処され,
 彼らの財産はすべて没収されるべきである」
としました。
やがて、家庭における宗教的崇拝のための集まりや聖書朗読、
宗教上の論争点を討論することなどすべて禁止され、
男は打ち首にし、女は生き埋めにせよ、という命令が出されます。
カールの40年にわたる支配の間に、
5万から10万のオランダ人が異端審問で殺されました。

過酷な支配は反発を呼び、各地で暴動が起きます。
そこでフェリペ2世は、宗教裁判所長としてアルバ公をオランダに派遣しました。
アルバ公は、2万4千人6千頭の馬を率いて到着します。
異端審問、略奪、虐殺が行われました。
アルバの6年の支配期間中に1万8千人以上が処刑されました。
ところが、ますます頑強な抵抗に遭います。
彼の3万の軍隊は、ハールレム市を攻略するのに7か月かかり、
1万2千人の兵士を失いました。
(余談だがニューヨークのハーレムはオランダのハールレム出身の
 入植者にちなんで呼ばれている)

このようなカール5世やフェリペ2世、アルバ公とは違って、
宗教的寛容さを示した人物がいます。
それが『オランダ独立の父』ヴィレム1世(オラニエ公ウィレム)です。

1959年のことです。
オランダの若き公爵オラニエ公ウィレムはフランスの王アンリ2世と共に
パリ郊外へ狩猟旅行に出かけました。
たまたま二人だけになったとき、アンリはウィレムに、
スペイン王フェリペがオランダとフランスのプロテスタント信者を
全て皆殺しにする計画を立てていることを打ち明けました。
オランダでは同国に駐屯しているスペイン軍がその遂行に当たるというのです。
王アンリは若いウィレムも自分と同じ熱心なカトリック教徒だと思い込んでいたので、
計略を細部に至るまですべて打ち明けたのでした。

確かにウィレムはカトリックを奉じていました。
しかしプロテスタントの友人も多数いたウィレムは、
その謀略を聞いて愕然とします。
それでもウィレムは驚きを隠します。
表面上、カトリックの支持者としての態度を貫きました。
ここからウィレムは『沈黙公』と呼ばれることになります。

オランダへ帰る前に、
ウィレムはその恐ろしい計画を実行に移す際の自分の役割に関して
明確な指令を受けました。
しかし彼は、帰国後直ちに、スペイン軍の撤退を願うよう国民感情をあおります。
事実、その虐殺計画を阻止するためにあらゆる手段を講じました。
「人間より神に従う方が大切だと思っていた」と後に語ります。
このことがきっかけで,ウィレムは「祖国の父」となる道を歩み始めたのです。

1566年、フランドル州で反カトリック暴動が発生し、
瞬く間にネーデルランド北部にも拡大します。
そこでフェリペ2世は、あのアルバ公を派遣したわけです。
アルバはネーデルランド貴族20人余りを処刑したりします。
ウィレムも領地を没収されながらも、アルバに戦いを挑みます。

ウィレム自身は戦争が上手ではありませんでした。
敗北しフランスに逃れたりします。

陸上では負け続けでしたが、『乞食団』と呼ばれる海賊たちがウィレムに協力します。
彼らは海上に冒険を求めた貧民や失業者、
それに宗教的迫害から逃れた市民や貴族が加わっていました。
“乞食”とはスペイン政府側が彼らを罵った蔑称だと思われますが、
海賊たちは自ら“乞食”を栄誉の呼称として用います。
そして乞食の椀とメダルがシンボルとなります。

ウィレム軍は徐々に勢力を回復し、ホラント、ゼーラント両州総督となり、
反スペイン勢力の中心となりました。
そのうちウィレムはプロテスタントに改宗し、「宗教改革の兵士」となったのです。
スペイン軍に包囲されたアルクマールやライデンなども次々に解放します。

ウィレムの首に莫大な賞金をかけられました。
そのためウィレム暗殺が幾度か試みられます。
ついに1584年、ウィレムは凶弾に倒れ,51歳でその生涯を閉じました。

ウィレムの始めたオランダ独立戦争は、ウィレムの非業の死の後も続き、
80年もの長い戦いの末、ついにオランダは完全独立を果たしたのです。

『沈黙公』ウィレムの名は、宗教的寛容さと思慮深さの点で後世に残ります。

モーリス・デュプレシ

2005年03月15日 | 人物
歴史の中で、あるいは今も、「おっかない独裁者」というのがよく登場するものです。
ヒトラーとか、スターリンとか、金正日とか、・・・。
この種の独裁者は国家レベルだけではありません。
実は地方政治においても登場することがあります。

その代表として、カナダ・ケベック州のモーリス・デュプレシ州首相を紹介します。

まずカナダの政治制度を説明しますと、連邦に英国から派遣される総督がおり、
各州に副総督がいて、英国女王の代理となります。
総督、副総督は名目的存在で、実際の政治は連邦では連邦議会(2院制)が指名する首相、
州では州議会(1院制)が指名する首相が行います。
州政府は州首相を中心とした内閣によって構成されます。
地方政府も議員内閣制というのが特徴です。

デュプレシは1936年から1960年までの長期にわたって、
(途中中断があるものの)ケベック州の首相として君臨した独裁者でした。
その権力を支えたのはローマ・カトリック教会でした。

ケベック州に住む人たちはフランス系移民が大半を占めます。
公用語もフランス語です。
カナダの他州がアングロ・サクソン系の英語を話すのとは異色の存在と言えます。

さらにケベックが異色なのは、まるで中世ヨーロッパ社会みたいなのが残っていたことです。
教会が人々の生活を支配していました。
村人は日曜毎に礼拝を行い、司祭から教えられることは絶対の真理でした。
教会以外の情報源をほとんど持たなかったのです。

フランス本国では、すっかり近代化が進み、教会の権力が低下していたのに、
移民先のケベックでは20世紀に入っても、同じ状態だったわけです。

最初、ケベックはフランスの植民地でした。
絶対王政時代のフランス社会がそのままケベックに移植されたようなものでした。
カトリック教会が政治経済教育文化の全てにおいて中心となります。
後に英国が勢力を伸ばし、ケベックを支配下に置きます。
その後、フランスでは革命が起きて、社会が大きく変化しました。
アメリカ大陸でも独立革命が発生し、英国はカナダにも影響が及ぶことを恐れます。
英国はケベックの変化を望みませんでした。
そこで、英国を支持する条件で、
ケベックの支配権をそのままカトリック教会に委ねることにしたわけです。
ケベックはフランス革命、アメリカ独立革命,そして産業革命などの影響を受けなかったのです。
18世紀農耕社会の遺物が残されました。

実に300年、カトリック教会がケベックに君臨していました。
官庁、教育機関、企業、報道機関、家庭をも支配します。
あらゆる自由主義あるいは教権反対の思想を排斥するのが教会の方針でした。

デュプレシは熱心なカトリック教徒でした。
カトリックの支配権を何よりも大事にします。
カトリック教会は全面的に、デュプレシ政権を支持します。
説教壇から、デュプレシの政党に投票するように人々に呼びかけられました。
司祭が教えることは、全て正しいと信じられています。
デュプレシを褒め称えるお説教を、素朴な人々は受け入れました。

デュプレシは自由を嫌悪しました。
司教たちは,フランスで果たせなかったキリスト教国家建設をケベックでやろうとします。
両者は中世的な捕らわれから解放するものとなる教育や進歩を抑圧することに躍起でした。
ケベックの住民を圧制的な教会‐国家支配に服させることを理想としたのです。
政治と宗教の融合によって、デュプレシの長期独裁が可能となりました。

社会の発展が遅れたおかげで、ケベックには世界遺産の街並みが残るという利点があります。
できれば、そのまま博物館に保存したくなるような封建的社会です。

しかし、否応無く20世紀の文化が、ケベックにも入り込みます。
最大の変化はテレビだったと思います。
テレビで、ケベック以外の世界の様子を映像で見ることができます。
ケベックの人々は自分たちが遅れていることを知ります。
若い世代が、次第に不満を募らせることになります。
変化を求めるようになったのです。

独裁者デュプレシの死が、きっかけとなって、
変化を求める内部圧力が爆発しました。

「静かな革命」の始まりです。
州政権の交代と共に、教育と宗教の分離、技術教育の導入など一連の改革が実行されます。
マスコミはカトリック教会に不利な情報も報道できるようになります。
カトリックの影響が著しく低下していきました。

現在のケベックはすっかり近代化された社会となっているそうです。
観光地として、日本人に人気がある場所ともなっています。
(行ってみたいよう・・・)

それにしても、一人の支配者の死が大きな変化を及ぼすことが、あるんですねぇ。

フレデリック・フォーサイス

2005年03月12日 | 人物
フレデリック・フォーサイスの小説『ジャッカルの日』を読んだのは20年ぐらい前だと思う。
読み応えのある内容だった。

フォーサイスはジャーナリストとしての経験から、
歴史の表舞台に登場しない「裏の世界」についての情報に通じていた。
『ジャッカルの日』も、どこまでが本当で、どこからがフィクションなのか、よくわからない。
欧米諸国の各諜報機関の内情とか、テロ組織や犯罪組織の動向とか、
国際政治の闇の部分などを実にリアルに描く。

この小説はフランスのド・ゴール大統領暗殺未遂事件を背景にしている。

第二次世界大戦後のフランスの政治は混乱し、植民地政策を巡って国論が割れていた。

第一次インドシナ戦争では、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗北し、インドシナ半島から撤退する。
その他の植民地も手放していった。

だが、アルジェリアは、なかなか手放そうとしなかった。

アルジェリアでは、民族解放戦線(FLN)が中心となって、激しい独立闘争が続く。
アルジェリア戦争である。

FLNは爆弾テロ攻撃などを強化し、商店や学校などが襲われた。
プラスティック爆弾があらゆる場所に仕掛けられた。
数多くの民間人が犠牲となる。
これにに対し、フランスは徹底的な掃討作戦で、これを鎮圧しようとした。
これまた、残虐非道なもので、テロ組織を支援した疑いのある村の村民虐殺が行われる。
フランス側の犠牲者は約10万人、アルジェリア側は100万人以上の死者を出したと思われる。
想像を絶する血生臭い戦いであった。

フランスの過酷な弾圧に対し、国際世論はアルジェリアに同情的だった。
フランス国内の世論も大半は、犠牲の大きさを嫌い、アルジェリア独立を認める方向へ進む。
もはや植民地を維持することは、割に合わない時代になったのだ。

しかし、数多くの犠牲を出した軍部や極右勢力、アルジェリア在住フランス人たちが、
強硬に反対した。
そして、アルジェリア独立反対派による反乱が起きて、第4次共和制が崩壊する。
反乱勢力は、第二次世界大戦のレジスタンスの英雄であるド・ゴールを政府首班に担ぎ出す。
こうして、ド・ゴール政権が誕生する。

ド・ゴールは着々と政権基盤を固め、大統領権限を強化した第5次共和制で大統領となる。
これで、フランスはアルジェリアを手放すことはなくなるはずだ!

ところが、ド・ゴールは極めて現実的な人物だった。
さっさとアルジェリアの自治を認め、テロ組織FLNとの交渉を進める。
アルジェリアはフランスの重荷でしかないことを、ド・ゴールは熟知していたのだ。

極右勢力にとって、ド・ゴールは裏切り者だった。
何が何でもド・ゴールを倒さねばならない。
幾度と無く反乱や大統領への暗殺未遂が続いた。

ここまでは史実である。
ジャッカルの日の解説なども参考になるだろう。
こうした背景に暗殺のプロフェッショナル“ジャッカル”が登場する。
ここからが、小説の世界、少なくとも表の歴史に載らない話となる。

極右勢力が組織した秘密軍事組織は、ド・ゴールを消すために、
政治暗殺のプロを雇うことにする。

この殺し屋は、単なるマフィアの手先程度とは違う。
法外な報酬を要求するが、仕事は完璧に果たす。
恐るべき殺しのプロフェッショナルだ。

殺し屋“ジャッカル”に接触を試みると、
それを“ジャッカル”は、察知する。
極右組織の情報や暗殺目的、暗殺対象を徹底的に調査する。
極右組織に余り金がないことも承知だ。
“ジャッカル”は金を作る方法として、銀行強盗を勧める。
一斉に各地で銀行強盗が頻発するようになった。
“ジャッカル”への報酬を払う金を作るためだ。

“ジャッカル”はド・ゴール個人の情報も徹底的に調査する。
ド・ゴール本人が暗殺者に狙われていることを知っていても、
絶対に欠かすことのできない式典があることを“ジャッカル”は把握する。
暗殺のプロはまるで心理学者のように、ターゲットを知り抜くのだ。

暗殺計画の存在は、やがてフランス諜報機関の知ることとなった。
この諜報機関というのも、平気で人を拷問にかける。

フランス政府は対策を思案した挙句、一人の優秀な刑事に全権を委ねた。
刑事は“ジャッカル”との対決のために、政府の全ての資源を活用できる。

小説はこの刑事と“ジャッカル”の対決というストーリーになってくる。

フランス政府に計画が露見したことを“ジャッカル”は知る。
極右組織は女性メンバーを政府高官の愛人として送り込んでいたために
“ジャッカル”に政府内部情報は筒抜けだったのだ。

この女性メンバーの気持ちが面白い。
解放勢力に弟を虐殺された恨みに生きる女だ。
なんか極右組織を応援したくなる。

“ジャッカル”は暗殺計画を中止しない。
追っ手をかわしながら、パリに入る。

波乱万丈、お色気を混ぜながら、“ジャッカル”と刑事の対決が進む。
両者は闘争しながらも、相手のプロとしての実力を尊敬しあう。

最後に銃弾がド・ゴールの脇をかすめるが、
刑事が“ジャッカル”を倒す。
“ジャッカル”の死を刑事だけが惜しむ。

こんな殺し屋が実在したのかどうかは知らない。

フォーサイスは、『ジャッカルの日』をベストセラーにした後、
アフリカの傭兵を描いた『戦争の犬たち』でも有名になった。
ところが、後にフォーサイス自身が傭兵を使って、
アフリカの国の政府転覆計画を推進していたことが明らかになった。
この政府転覆は失敗に終わるが、この経験が『戦争の犬たち』に生かされる。

全く、どこまでが事実で、どこからがフィクションか、わからないものを書く作家だ。
それも現代史の闇の部分を扱う点で、興味深い。

ジュール・ヴェルヌ

2005年03月07日 | 人物
一般にSF作家の始まりはフランスのジュール・ヴェルヌと英国のH・G・ウェルズだとされている。

このうちヴェルヌの作品は、私が小学生時代に夢中になって読んだものだった。
当時、日本語で翻訳され、出版されたものは全部読んだと思う。
大型書店に出かけて、入手の難しいものまで探した記憶がある。

ざっと作品を挙げてみると、
『月世界旅行』
『八十日間世界一周』
『十五少年漂流記』
『気球に乗って五週間』
『海底二万里』
『八十日間世界一周』
『皇帝の密使』
『黒いダイヤモンド』
『悪魔の発明』
『砂漠の秘密都市』
『地底旅行』
等・・・・。
他にも、たくさん読んだと思うが、タイトルが思い出せない。
どんな内容だったのかも、すっかり忘れてしまった。

恐らく世界中の男の子を夢中にさせていたのではないか?
フランス文学で、最も翻訳されているのがヴェルヌ作品だと聞いた。
読者数も圧倒的に多いと思う。

ヴェルヌは19世紀半ばから、19世紀末まで、次々と少年向け小説を生み出した。
「既知および未知の世界への驚異の旅」シリーズとして、刊行し、全てベストセラーになった。

19世紀後半の西洋諸国は世界中に進出して、次々と植民地化していた。
帝国主義時代に入ったのである。
少年たちは各地への冒険、征服物語を聞いて、胸を躍らせていたのだ。

科学の発達も進んでいた。
科学の力は、さらに未知の世界へと少年たちに夢を与えようとしていたのだ。

ヴェルヌの作品の背景には、このような時代の空気に満ちている。

ヴェルヌは19世紀の科学知識を元に、宇宙旅行、潜水艦、ヘリコプター、空調設備、
誘導ミサイル、映画、大量破壊兵器などの出現を予言している。

しかも世界中のヴェルヌの作品を読んだ多くの男の子たちが、
大人になって、科学者になった。
例えば、宇宙ロケットの開発の影にヴェルヌ作品の影響があるのは間違いない。

以前、NHK番組で『悪魔の発明』で登場する特殊爆弾の仕組みの
“連鎖反応”の説明を読んだ物理学者が、そこからヒントを得て、
核分裂エネルギーの応用に役立てた話があった。

ヴェルヌは現代史を動かしたのだ。

ところが、高校時代の世界史教科書に、ヴェルヌについての記述がない!
何でだ?

その代わり、19世紀の文学として、
古典主義のゲーテやシラー、
ロマン主義のバイロンやユーゴー、ハイネ・・・
写実主義、自然主義のバルザックやスタンダール、ドストエフスキー、モーパッサン、・・・
などが載っていた。
世界史試験に出るので、作者名と作品名を覚えなくてはならない。
だが、私は世界史教科書に載っている文学作品をどれも読んだことがなかった。

読んだことがあるのは、ヴェルヌのSFとか、
モーリス・ルブランの『怪盗ルパン』とか、
デュマの『三銃士』、『モンテ・クリスト伯』などだ。

だが、SFや推理小説、歴史小説は“大衆娯楽”として、価値が低いらしい。
卑しくも“文学”と名乗るには、○○○主義の系統に属する、
“高等”な作品でなければならないらしい。

ちょっと待て!!
歴史家は文学者ではないぞ!
価値の高い文学は、どうでも良いのではないか?
文化史で取り上げるべきは、
 ・多くの人々に影響を与えた
 ・現代でも影響がある
ものではないのか?

なるほど、ヴェルヌの作品は「人間を描く」点では、お世辞にも、傑作とは言いかねる。
特に作品中に登場する女性は、とても現実的ではないし、心理描写も深くない。
“文学的”に価値が低いことに、私だって同意する。

しかし“歴史的”には、どんなフランス文学よりも“価値”があると信じる。

ソロモン

2005年02月27日 | 人物
ソロモンは古代イスラエルが最も繁栄した時期の王である。
エルサレムに壮麗な神殿を建設した。

神殿建設には、荷物運搬人だけで7万人、石を切る者が8万人という具合に、
膨大な強制労働を徴用し、7年半かかったものだった。
その他にも、13年かけて壮大な王宮を建設している。

防備のための都市も幾つか建設し、
倉庫の都市、兵車の都市、騎手のための都市なども建設した。
これらの都市の幾つかは、発掘され、
ソロモン時代の壁や城門の一部などと考えられるものが発見されているそうだ。

ソロモンの富はめちゃくちゃ多く、金の年間総収入が現在の価値で200億円を下らない。
人々は黄金に満ちていたため、銀は取るに足らないもののように見なされていたほどだった。

富の元となったのは、交易によるもので、あらゆる場所の貿易商人が、やって来た。
四千の畜舎や、1万8千頭の馬あるいは騎手を持っていたという。

ソロモンも、フェニキア人と提携して、貿易船団を組織して、海外交易を積極的に推進した。
数多くの珍しい品々がエルサレムにもたらされたという。

しかし、ソロモンの治世の後半は、圧政的だっため、
各地に反乱分子が登場し、不穏なものとなった。
イスラエルの繁栄は長続きしなかったのだ。
ソロモンの次の王レハベアムのときに王国は分裂し、
2度とソロモン時代のような繁栄は戻らなかった。

ここから以下は、私の仮説ないし、推測を多く含む。

こうしたソロモンの繁栄と衰退の影に、
大国エジプトとの関係の変化があるのでは?と思う。

ソロモン治世当初、エジプトとの関係は極めて良好だった。
エジプトのファラオの娘と政略結婚を行っているほどだ。
エジプトから馬や兵車を大量に買い付けている。
この頃はエジプトにとっても、ソロモンとの交易に利益を見出していたのだろう。

だが、反ソロモン勢力が登場する頃、エジプトの態度は大きく変化しているのではなかろうか?

才能あふれる若者であったヤラベアムが、ソロモンに反旗を上げると、
ソロモンはヤラベアムを殺そうとする。
そのヤラベアムは亡命先にエジプトを選んだのだ。
エジプトでヤラベアムを中心とした反乱勢力が誕生する。
当然、エジプトのソロモンに対する敵対的意思が背景にあったはずだ。
ソロモンの死後、ヤラベアムがエジプトから帰国し、
イスラエル10部族代表として、ソロモンの後継者レハベアムと交渉し、
分離独立を果たす。
ヤラベアム王国(北のイスラエル王国)が金の子牛崇拝を国家宗教にしたのも、
エジプトの影響によるものと考えたい。

エドム人ハダドは、子供の頃、
ソロモンの父ダビデ王の軍司令官ヨアブの軍に一族を皆殺しにされている。
殺された父親の部下数人と共に少年ハダドはエジプトへ逃げた。
ハダドはエジプトで成長する。
エジプトのファラオは自分の妻の妹をハダドと結婚させているほどハダドを可愛がった。
そんなハダドはダビデに代わってソロモンがイスラエル王になったことを知ると、
復讐のために、故郷の地に戻り、“エドム解放軍”を組織し始める。
ファラオはハダドにわざわざ苦労しに行くことはない、
エジプトで欲しいものは何でも与えると言って引き止めた。
ハダドの決意は変わらなかったという。
ハダドの反ソロモン抵抗運動に、やはりエジプトの援助があったと思われる。
エジプトの外交政策の転換が反映していると思う。

ソロモンの死後、その子レハベアムがイスラエル王となる。
するとヤラベアムが帰国し、北部10部族代表となり、やがて王国は分裂する。
レハベアムのユダ王国と、ヤラベアムのイスラエル王国である。

ユダ王国とエジプトとの関係は、さらに悪化し、
エジプトのファラオ・シシャクが大軍を率いて、エルサレムを攻略、略奪する。
レハベアムはエジプトの属国となることを余儀なくされた。

エジプトの外交政策の変化をまとめてみると、
ソロモン初期 :
 極めて良好。政略結婚。
 ソロモン王国が交易で繁栄を極める。

ソロモン後期 :
 しだいに悪化。
 ソロモンの繁栄を良く思わなくなったか?
 エジプトは反ソロモン勢力に加担し始める。
 ソロモン王国の没落が始まる。

レハベアム  :
 ヤラベアムを送り込み、イスラエルを分裂させる。
 さらに直接軍事行動に出て、属国化。
と、なるのではないか?

趙匡胤

2005年02月24日 | 人物
趙匡胤王朝の創業者。
名君中の名君として、ファンが多い、非常に人気のある皇帝だ。

王朝の「近衛長官」だったが、幼帝に不安を持った軍部によって皇帝にされてしまった。
しかも大酒を食らって、酔い潰れているうちに、
気付いたら皇帝になっていたという間抜けな逸話がある。

即位後、周王室の一族を丁寧に扱う。
宋王朝を通じて周王室の一族は手厚く保護されていた。
前王朝を徹底殲滅するのが慣例となっていた中国史の中で異色の出来事だ。

天下統一のために、各地の国々を次々と滅ぼすが、
降伏した国の君主一族を貴族にして、手荒なことをしない。
これまた、中国史はおろか、世界でも珍しいケースだ。

代から地方勢力の跋扈の原因となっていた、
節度使の力を減らし、無力化するが、
強引な手を使わず、辛抱強い話し合いと、名誉を相手に与える仕方で問題を解決する。

軍人出身でありながら、文官中心の政治体制を確立し、
皇帝権力を強化しているが、本人の鷹揚な性格上、
圧政的になることはなかった。

宋王朝は文弱で軍事を軽視し、
北方の遊牧国家に対し、軍事力ではなく、金で解決する傾向があるので
弱々しいイメージがあるかもしれない。

実際には、極めて精強な中央軍を組織していた。
趙匡胤時代では、少ない兵数で中国全土の秩序を維持することができたのだった。

自分の欠点や失敗を隠そうとしない点も異色の皇帝と言える。

あるとき部下の諫言に腹を立てて、その部下を杖で叩きのめしたことがあった。
後で、悪いことをしたと、こっそり謝りにいく。
そんな人間的な弱点を隠さないで記録に残させる。

政策面は弟の趙匡義が取り仕切っていた。
兄の皇帝即位を実際に画策したのは弟だったのだろう。
頭の切れる弟と、鷹揚な兄のコンビで宋王朝が始まったわけだ。

宋の首都である開封は、
市民文化が花開き、夜も賑やかな不夜城であった。
唐王朝の長安が、夜になると外出禁止になったのとは大違いだ。
自由な雰囲気が町を覆っていた。
長安は官営都市だったが、開封は民営都市だったと言えるかもしれない。

殺伐とした血生臭い五代十国時代の空気を改め、
文民優位の経済繁栄、民間文化振興の宋代が始まったのは、
趙匡胤の性格によるところが多いとされる。

ケン・トンプソン

2005年02月23日 | 人物
サーバー用のOSとして、UNIX系のOSが使われることが多い。
パソコンOSもUNIXの機能を真似していたり、影響を受けていたりする。
そんなUNIXを開発したのがケン・トンプソンだ。

トンプソンはATTのベル研究所に勤務していた。
ベル研究所では新しいOSの研究開発が進んでいた。
Multicsと呼ばれる、極めて先進的なOSが完成する。
だが、あまりの多機能だったため、パフォーマンスが悪く、当時は使い物にならなかった。

ベル研究所がMultics開発から脱落した頃、
トンプソンはIBMのコンピュータ上で動くSpace Travelというゲームにはまっていた。
しかし、このゲームを行うためのコンピュータ使用料が馬鹿にならなかった。
トンプソンは課金を心配せずにゲームを存分に楽しみたいと考えた。

ちょうどベル研究所で、DEC社のコンピュータが、使われずに放置されていた。
トンプソンはこのマシンで、ゲームができないかと考える。
ゲームソフトを動かすための、OSを作り始めた。

Multicsが持つ多機能のうち、ゲームソフト稼動に必要な機能だけを取り出し、
UNIXを生み出す。

これがかえって、実用的なOSとなってしまったのだ。

考えてみて欲しい。
あなたが今日、行わなくてはならないことをリストアップしたら10あったとする。
そのうち優先度の高い2つだけを実行しよう。
他の8つは実行しなくても、あなたは8割、成功するだろう。
世の中、完璧を求めてはならない。
優先度の高いものだけを実現するだけで、ほぼ満足できる結果が生まれるわけだ。
しかも努力に対する成功度の効率は非常に高い。

さらにトンプソンはUNIXのソースコードを大学の学生たちに自由に改変することを許可した。
学生たちは、次々とUNIXに新機能や改良を加えた。
オープンな雰囲気のもと、UNIXは発展する。

UNIXの有用性に気付いたATTは、一時オープン化を止め、ソースの非公開に踏み切る。
だが、一度、オープン文化を味わったUNIXは、次々、亜流を生み出していった。

UNIXが大企業や公共機関が使用するメインフレームに搭載されてはいても、
UNIXの公式マニュアルの重要な1章はゲームについてである。
これが、UNIXの文化なのだ。

フォン・ノイマン

2005年02月23日 | 人物
ノイマンはプログラム内蔵方式のコンピュータを開発した人。
正確にはプログラム内蔵方式の論文を出した人である。

ハンガリー生まれで、ハンガリーでは英雄扱いだ。

現在のコンピュータのほとんどは、ノイマン型だ。
飛躍的に発達したコンピュータだが、
基本的な仕組みはノイマンたちが開発したものと変わっていない。
非ノイマン型も幾つか提案されて研究が進んでいるが、普及してはいない。

ノイマンは数学者として名をはせ、純粋数学でも多くの功績を残した。
1930年にアメリカに渡り、プリンストン大学教授となる。
経済学にも興味を持ち、最近流行のゲーム理論にも関わっている。
後にアメリカ市民となり、第二次世界大戦以降は原爆開発に従事した。

数学の天才ぶりを示す逸話が残っている。
ある同僚の数学者が一晩徹夜して、ある数学の難問を解いた。
喜んだ同僚は、うれしさの余り、ノイマンのところを訪れる。
ノイマンは、どんな問題なのか聞くと、数分間考え込んだ。
その後、すらすらと解いて見せた。
徹夜明けの同僚の顔は、見る見るうちに青ざめていったという。

世界最初のデジタルコンピュータはペンシルバニア大学のENIACである。
1万7千本の真空管、重さ30トンもある巨大な装置だった。
だが、プログラムは配線を変えることで行うもので、非効率だった。
ENIAC開発チームは後継機EDVACの開発に着手する。
EDVAC開発にノイマンが参加し、プログラム内蔵方式の理論を
一流数学者であるノイマンの名前で発表する。

EDVACの開発が遅れたため、世界最初のプログラム内蔵方式のコンピュータは、
ケンブリッジ大学のEDSACとなってしまう。

それでも、現在に至るまで、ノイマンの名前で、コンピュータの仕組みを呼ぶ。

一般に数学者というと、部屋にこもって頭を使うだけの、
ひ弱なイメージがあるかもしれない。

実際の有名な数学者は、大抵、強健でタフな体力の持ち主だ。
体力がないと、数学の研究はできないらしい。

ノイマンは大の宴会好きであった。
ほとんど毎日、人を自宅に呼んで、朝まで飲んで騒いでいた。

服装に無頓着で、残されている写真で着ていたものはみんな同じ服だったという伝説がある。

運転も乱暴だった。
しょっちゅう衝突事故を起こしている。
天才は運転中も考え事をするので、事故が多いのだと思ってはならない。
攻撃的な性格で、運転が乱暴というのが正解だろう。
ノイマン先生の車が近づくと、学生たちは一斉に逃げ出したという伝説もある。

原爆開発には積極的で、ソ連への先制核攻撃を主張した。
どうせ使うなら、早い方がいいという明快な論理からだった。

著名な数学者でコンピュータ理論を打ち立てたノイマンは、
活動的で、パワフルで、過激な性格の持ち主でもあったわけだ。

武烈王(金春秋)

2005年02月20日 | 人物
新羅の第29代の王。
朝鮮半島で、高句麗百済、新羅の3国に分かれて争っていた中から、
一躍、新羅が他の二国を滅ぼして統一朝鮮を作り上げたのが、この王である。

この人の行動力は凄い。
即位前の王子だった頃、自ら、唐、高句麗、日本に赴いている。

時に新羅は高句麗と百済の南北からの挟み撃ちに遭い、滅亡寸前だった。

642年、百済が新羅を侵略し、次々と新羅の四十余城を攻略した。
金春秋の娘婿も百済軍によって斬殺されている。
百済への報復を決意した金春秋は、高句麗に行って援助を請う。
しかし高句麗王は金春秋を監禁してしまう。
金春秋はやっとのことで密かに故国に窮状を訴えた。
新羅は1万の軍勢を出し、金春秋の解放を高句麗に要求する。
こうして、釈放されたのだった。

647年、新羅は金春秋を孝徳天皇の統治下の日本へ派遣する。
日本書紀によれば、金春秋は容姿端麗で、巧みな話術の持ち主だったらしい。
彼は日本の実情を把握し、豪族連合に過ぎない大和朝廷の弱点を知った。

さらに、唐の太宗に援軍を要請するため、648年に長安を訪問している。
唐の記録でも、金春秋が美男子で、笑顔を絶やさない好人物であったことが記されている。
高句麗、日本、唐を自ら訪問した王族というのは、日本では考えられない。

唐から海路での帰国の途上、金春秋一行を高句麗軍が拿捕する。
従者の一人が機転を利かせて、金春秋を逃がし、自分が王子の服装を身に付けた。
高句麗軍兵士たちは、王子と間違えて、従者を殺害した。
危機一髪で逃れた金春秋は従者の遺族を厚く報いたという。

654年に、52歳の金春秋が即位し、武烈王となる。
655年、百済・高句麗が新羅北部を攻略。
武烈王は唐の高宗に援軍をたのむ。
高宗は軍を派遣し、高句麗を攻撃した。

唐は657年に遊牧国家である西突厥を滅ぼしたので、
対高句麗・百済戦に全力を傾けることができるようになった。

唐・新羅連合軍 vs 高句麗・百済軍の戦いは、
唐・新羅の大勝利で終わる。
660年に百済が滅亡した。
661年に残念ながら武烈王は死ぬ。
が、新羅の優勢は止まらなかった。

今度は、日本が百済復興軍に参加するが、
663年の白村江の戦で唐・新羅連合軍に敗れる。
日本軍は兵力こそ圧倒していたが、
指揮不統一の弱点を抱えたまま、完全に壊滅した。

668年に唐・新羅軍が高句麗を滅ぼす。
670年に新羅と唐の間で、武力紛争が発生する。
676年に唐軍が朝鮮半島から撤退し、新羅による朝鮮半島統一が完成した。

武烈王の巧みな外交術で、高句麗、日本、唐を操り、
その結果、一番の弱国であった新羅が最終勝利者となったわけだ。