無責任だからやさしくなれる
「厳しい大人」がいなくなったいまの世の中では、しかし「やさしい大人」には事欠かない。 それは「直接の監督責任・指導責任を負わなくて済むからこそのやさしさ」であると心得なければならない。いうなれば無責任に由来するやさしさだ。 人間は相手になんら責任を取らなくてもよいときであれば、いくらでもやさしい言葉を並べるし、大した裏付けもなく楽観的観測を述べたりする。それで相手が変な方向にのぼせ上がってしまおうが、現状に満足して停滞してしまおうが、極言すれば「知ったことではない」からだ。 SNSでも「イヤなことから逃げたらいい」「つらいことは拒否すればいい」「めんどくさい他人は切ればいい」といったやさしい言説を発信する人ほど多くの支持や共感を集めているのを目にする。「しんどいけれど大切なこと」をSNSで言っても支持されないし、むしろ嫌われたり、「お前になにが分かる」と憎まれて石を投げられることさえよくある。そう考えれば、「無責任なやさしさ」を発信する方がよほどコスパはいい。 いまの世の中では「厳しい大人」は希少財だ。なぜなら、責任を負うからこその厳しさであるからだ(念のため言っておくが、ただ横暴に振る舞いたいだけの人を「厳しい大人」とは言わないし、区別も容易に可能だ)。 本当に残念なことだが、いまの若い人が「厳しい大人」に出会える確率は、ものすごい勢いで低下していると言わざるを得ない。出会えたとしたら本当にラッキーだ。それが人生を変える出会いになる可能性は大いにあるからだ。苦労も多いし、自分の自由な時間も減ってしまうかもしれないが、絶対にその人を手放すべきではない。
うーん🧐考えさせられる。