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Happyday of LUCKY

日々の気付きと感謝を忘れないように綴るページ

面倒くさい工夫こそ

2014年04月06日 | Photography
午前中、雨が降ったり止んだりの天気だったので、録画してある番組を見てすごす。
昨夜の「SWITCHインタビュー 達人達」の達人は、わたしの好きな漫画家浦沢直樹とミュージシャン佐野元春だ。
お互いのアトリエや思い出の場所にいって、ものづくり・作品づくりの秘密を解き明かすのがこの番組の主旨であるが、登場する達人たちの凄まじいエネルギーにいつも圧倒される。
浦沢氏は作品の構想を練るときに、同じことを1日中考えつづけると脳が「もうやめてくれ」と叫んでやがて機能が停止する(気絶する)という。そんなになるまで脳をつかったことがないのでわからないけど、達人はホントにすごいな。



達人たちがそこまでやってるのに、達人でもないわたしがぼんやりしているわけにはいかない。
午後から晴れてきたのでカメラをもってバイクにまたがる。
番組のなかで佐野氏がいってた「シンプルなところにもどる」「ちょっと面倒くさい工夫」に触発され、きょうはペンタ67にTマックス400を詰めて写す。



いつものように大和川の左岸を流していると、美しい桜並木が目にとまる。菜の花もきれい。
でもペンタのファインダーを覗いたとたん、目のまえの景色は一変し、去年の作品「REBORN」のようになる。
べつにレンズに変わったフィルターを付けているわけでもなんでもないが、あたまの中のイメージがこんなふうに見せるのだね。ある意味、達人?

もっとも上のカットはペンタと同じフレームで撮ったニコン1の画像で、RAW現像でモノクロにしたものだ。
この10ミリレンズ(35ミリ換算で27ミリ)は本当によく写る。
こんなに写るのに、わざわざくそ重い中判カメラで撮る必要があるのかと思うのだけど、この「ちょっと面倒くさい工夫」こそ、作品づくりには大切なことなんだ。
暖かくなったら、また暗室を再開しよう。

再生の芽吹き

2014年02月24日 | Photography
明日香村といえば、石舞台古墳とか高松塚古墳で有名な飛鳥時代の史跡の宝庫であるが、史跡などのない場所にもステキなところはたくさんある。
そのひとつ、甘樫丘(あまがしのおか)公園へいく。公園といっても森のなかに遊歩道があって、所どころにベンチがある程度の小さな山だ。展望台からの見はらしがすばらしい。
きょうはここで友人のRさんの写真を撮る。



この写真は去年の「RBORN」につづく、「崩壊と再生」をテーマにした作品である。
植物や建物などが朽ちていくさまをモノクロで表現した前作に対し、今回は生命の芽吹きや循環するいのちの神秘、つまり「再生」に力点をおいた作品にしたいと考えている。
そのためにはどうしても再生を象徴するようなものが必要で、それに合うような被写体としてRさんをえらんだ。
まだ完全にイメージが固まっているわけではないが、いろいろ撮っているうちに方向性が定まってくると思う。

くわしいプロフィールはひかえるが、奈良の自然のなかで生まれ育った彼女は、やはり予想したとおり、自然の風景との一体感・親和性が高く、なんの指示もなくただ立っているだけで絵になる。
まるで今ここから生まれ出たような存在感を感じてしまう。
ポートレイトでもなく、風景写真でもない。この微妙な距離感がいいなとわたしは思うのだがどうでしょうね。



ところでRさんはルミックスLX5というコンデジを使っているのだが、いよいよ一眼レフタイプのカメラに挑戦しようと考えているらしい。
ニコンびいきのわたしとしては、D5300やD5200あたりをオススメしたいのだが、彼女の撮っている写真から考えると、キヤノンのデジカメの方がいいかもしれない。
すなわち、明るい・やや彩度高め・なめらか(やや軟調)な絵づくりが、彼女の作風に合うような気がするのだ。

ちなみにニコンの絵づくりは見た目に忠実・力強い(やや硬調)・適度な彩度という感じで、キヤノンより記録性の強い作風に向いていると思う。
報道カメラマンがニコンを、広告カメラマンがキヤノンをよく使っているのが、その証拠かもしれない。
とはいえ、カメラの設定やPCの後処理で自由に変えられるのがデジタルなので、ニコンでもキヤノンのような絵にできるし、その逆も可能だ。あくまでも傾向としての話。

さて、上の写真はどんなカメラで撮ったのでしょうか?

今度の茶話会はとてつもなく速い

2014年01月25日 | Photography


去年おわったはずの「SIGNの写真茶話会」が約8ヶ月ぶりに再開した。その名も「写真茶話会RR」。(RRはダブルアールとよむ)
「RR」ってなんだろう。
それは鉄道(railroad)でも尊師(right reverend)でも後輪駆動(rear engine rear drive)でも、はたまた逆噴射ロケット(retro rockets)でもない。
バイク乗りならだれでもわかるロードレーサー(Rord going Racer)の略語で、要するに「とてつもなく速いぞ」ってことを形容し強調するために車名のうしろに付ける称号のようなものである。
新しい写真茶話会はとてつもなく速いのだ。

なにが速いったって、4年もかかってやっとブック1冊をつくりあげた以前の写真茶話会と比べたら、たった10ヶ月でグループ展をやろうという企画なのだ。
初回に参加費を徴収し、それをギャラリーのレンタル料などに当てるというアイデアもスピード感があっていいと思う。
お金を払ったかぎりは是が非でも作品を仕上げなければならないからね。



写真茶話会を再開するにあたり、その趣旨説明をSIGN氏がのべる。
じつは、わたしは去年の時点ですでに聞いていたので、なんの疑問も違和感もない。すなわち、これまで自分の内面に焦点を当てて作品制作をしてきたけれど、一旦そこから離れて(またはそれだけに固執せず)、作品を見る人に喜びや快楽をあたえるような表現を研究してみよう、という提案である。
それを彼のことばでいうと「励まし」というテーマになる。

考えてみたら、写真にかぎらず音楽でも演劇でも映画でも小説でも、なにかを表現するという行為は、つねにそれを鑑賞する相手があってはじめて成り立つものだ。観てくれる人や聴いてくれる人がいなければ、それがいくら素晴らしい作品であっても成立しない。
なので、作品制作において鑑賞者の受け止め方、つまり第三者の視線を意識するということは、しごく全うな提案だし、あたりまえのことでもある。
要は自分の感情から完全に離れて純粋に美しいものや楽しいものを撮るのか、あるいはやはり自分の気持ちも残しつつ見る人を楽しませるものをつくるのか。そのあたりのさじ加減というかバランスが、人それぞれちがってくるように思う。

たとえば広告写真は見る人を楽しませ、さらに購買意欲や物欲を刺激するが、それを撮っているカメラマン自身はその商品を本心からほしいわけではない。ただ仕事だから撮っているのである。
自分の感情を完全に排除して、見る人の感情だけを考えて撮った写真だといえる。
わたしの場合、仕事の写真はもちろんお客さま本位であるが、お客さまは物ではなく人間なので、ある程度の感情移入はある。たとえば幼稚園児のかわいい姿を撮ってあげようと思うのは、わたしの素直な感情だ。いくら仕事でも無感動では撮れないのである。
さらに自分の写真となると、リアルな感情がないと作品にはならないと思うので、見る人を楽しませる写真だといっても、自分の感情の部分はなくならないと思う。



はてさて、4月からはじまる写真茶話会RRにはどんな顔ぶれがどんな作品をもって集まってくるのか、いまからワクワクしている。
わたしはこれまで撮らなかったものを被写体にして、見る人に「癒し」をあたえる作品をつくろうと考えている。
おたのしみに。

極寒から極楽へ

2014年01月12日 | Photography
ようやく自由になる時間ができたので、きょうは久しぶりに暗室作業をする。4ヶ月ぶりか。
わが家の風呂場は極寒なので保温器を3台置いて、その上にそれぞれ処理液バットを置く。
まずは現像済みフィルムのベタ焼きから。



昨年の写真展「REBORN」以降、あたらしい作品をつくるためにペンタックス67で撮っているが、6×7というフォーマットは120フィルムの場合、10枚撮りになる。この10枚という枚数は、六切りの印画紙では非常にベタ焼きが取りにくい。
現像所にフィルム現像を頼むと、2枚ずつにカットされて返ってくるので、これはもう最悪である。なので、わたしはカットせずに長巻きのまま返却してもらって、自分で「1+3+3+3」という枚数でカットする。

1枚だけにするコマは必ずしも1枚目とはかぎらない。長巻き状態でチェックして、できるだけダメなコマを1枚にしてカットする。
そうしておいて、ベタ焼きのときは3枚連なったフィルムを3本ならべて(つまり9枚分)焼き付けている。あとの1枚は9分割した小さな印画紙の上に置いて、べつのベタ焼きをつくったりもするが、ダメなコマのときはもう焼かない。
6×7を使っている人たちはいったいどのようにしているのだろうか。だれか教えてほしい。



さて、ベタ焼きができあがり、久しぶりのプリント作業。
はじめに去年の10月に行ったバイクツーリングのときの写真を焼く。3ヶ月ほどまえに撮った写真なのに、モノクロプリントにするとなぜか懐かしい感じになる。
きょうの印画紙はチェコスロバキアの「フォマ」というメーカーのもので、紙の色がややグレーがかっているためか、ハイライトの抜けがわるく、全体のコントラストが低い。
よくいえば白黒写真らしい、やわらかい調子なのだが、それが懐かしい感じに見える原因かもしれない。
この日の龍神スカイラインはくもり空で、かえり道には霧雨も降ってきたので、そのときの雰囲気をうまく表現していると思う。

午後から「REBORN」につづく新作のプリントを焼く。
新作といっても、これが作品になるかどうかはまだわからない。このままお蔵入りしてしまうこともあるからね。とりあえず六切りプリントで5枚しあげた。
夕方、暗室作業を終え、道具を片付けて、ついでに浴槽も洗ってお湯を張る。極寒暗室のあとのひと風呂は、えもいわれぬ心地よさである。まさに極楽、極楽。

撮ることの意味を考えた一年

2013年12月29日 | Photography


今年は銀塩写真に回帰した年であった。
モノクロフィルムで撮影し、アナログ暗室を復活させ、自宅(風呂場)で全紙プリントまで焼いた。
そのプリントを並べて写真展をしたことで、いままでぼんやりしていたイメージがはっきりとし、形に表すことができた。
同時につぎに撮るべきイメージも見えてきている。

また写真制作と並行して、自分が写真を撮ることの意味や写真でなにを表現しようとしているのかを文章化する作業をすすめた。
その結果、自分自身でも気がつかないまま「なんとなく」撮っていたものが、じつは自分の幼いころの記憶の「あること」に感応してシャッターを押していたことがわかった。
すなわち、写真表現のテーマが自分史を掘り下げるなかから見えてきたのだ。
そのテーマがまた撮影にフィードバックされ、視覚がより先鋭化したように思う。これはあたらしい制作態度の発見であった。
ただ、そのテーマと写真とがまだ完全に一体化していない気がするので、この掘り下げないしはまとめの作業は今後もつづくだろう。



ところで、先日撮った2歳になる娘さんの写真であるが、選んでもらうためのサンプル写真(L判58枚)とそれを入れるかわいいミニアルバム、そして後日、三面の台紙アルバムに仕上げて写真を納品したら、代金の入った封筒のなかにこんなメモが入っていた。
「今回は本当にありがとうございました。たくさんの写真とミニアルバムもいただくことができ、家族みんなで写真を見て楽しませていただきました(後略)」
たったこれだけのことだが、ああ、撮ってあげてよかったな、と感じた。
自分が撮った写真で喜んでもらえるというのは、カメラマン冥利に尽きると思う。

仕事の写真はもちろんだが、自分の作品としての写真を見た人が幸せな気持ちになってくれたら、なおうれしいだろう。
来年はそんな写真が撮れたらいいなと思う。