Happyday of LUCKY

日々の気付きと感謝を忘れないように綴るページ

神は存在するか

2017年02月21日 | Life
人間の孤独を癒すものが宗教だとすれば、信じる神さまはキリストでも仏陀でもアッラーであってもいいと思う。神さまとつながっていさえすれば孤独ではないのだから。
無宗教のわたしは毎朝義母の遺影に水とごはんをお供えして「きょうも一日見守ってください」と拝んでいる。そうすることで神的なものが自分をよい方向へ導いてくれるような気持ちになるし、じっさいうまくいっている。困ったときの神頼みではなく、毎日頼んでこそなのである。



聖書すらまともに読んだことのないわたしがキリスト教について語れることはなにもないのだけど、遠藤周作の小説は多少読んでいるので、それを下敷きに軽い話はできると思う。
いま上映中の「沈黙-サイレンス-」の原作はご承知のとおり遠藤周作の「沈黙」であるが、この小説をすでにわたしは2〜3回読んでいる。何度読んでも最後の日記の部分がうまく読めないが、話の内容は江戸時代はじめのキリスト教徒弾圧下の長崎を描いている。

きょう映画を観たが、さすがはマーティン・スコッセシ監督、原作を忠実に再現している。つまり映像的にはかなり残酷なシーンもあるということ。隠れキリシタンが十字架に組んだ木にくくりつけられ、水磔(すいたく)に処せられる場面はむごすぎて正視できないほどだ。
そうした公開処刑は隠れた信者を棄教させるための脅しなのであるが、同時にポルトガルからやってきた宣教師ロドリゴを「転ばせる」ための見せしめでもある。
自分が転びさえすれば、目のまえで苦しんでいる信者たちは救われる。自分の信念のために彼らを見殺しにするか、それとも棄教して助けるか。究極の選択を長崎奉行・井上筑後守はロドリゴに迫る。



その鬼奉行を演じるのはイッセー尾形であるが、彼の演技がすばらしい。ロドリゴが師と仰ぐフェレイラを棄教に追いこんだ「井上さま」が、鬼の形相ではなく好々爺然としているので、はじめロドリゴはこの人が井上奉行だとは気がつかなかった。彼が「早く井上さまに会わせてくれ」と懇願して失笑をかう場面があるが、この善悪の範疇を超えた井上奉行の存在こそ、この作品の要だと感じた。

さらにもう一人、存在感を放っていたのは窪塚洋介演じるキチジローだ。キチジローは自分の心のよわさから踏み絵を踏み、潜伏するロドリゴたちの居場所まで密告してしまう。だが彼は捉えられたロドリゴの前にひざまずき、その罪を告白してゆるしを乞う。何度も棄教しては告悔する彼の姿が描かれているが、こんなに醜悪な生きざまであっても、さいごまで信仰は棄てていなかったことが、逆にキチジローのつよさなのかと思った。

この「沈黙」という作品はキリスト教がモチーフになっているが、信仰を説いているのではなく、人間ならだれもが持っている「よわさ」「迷い」「正直さ」といった素朴な感情をゆさぶってくるので、だれが観てもいいと思う。いや、この不安に満ちた時代だからこそ、観るべき作品なのかもしれない。

技術革新がもたらした表現

2017年02月18日 | Photography
いつの時代も技術革新によってあたらしい表現が生まれてくる。
15世紀にヨーロッパのガラス職人が、ガラスにスズと水銀の合金を塗って「鏡」をつくりだした。この技術によってレンブラントをはじめとするルネッサンス期の画家たちは自画像を描きはじめる。よく映る鏡がまだなかった時代には、自分をモチーフとするような絵画もなかったのである。

時代はすすみ19世紀のはじめ、絵画よりもっと正確・精密に描写できる「写真」という技術が発明されると、肖像画を描いてもらっていたブルジョワたちはこぞって写真スタジオへなだれ込み肖像写真を撮った。この時代、写真はその人物の同定ないしは社会的権威を強調するための道具であった。
さらに写真がかんたんに撮れるようになった現代においては、(依然として人物同定という役割はあるにせよ)もっと人物の内面つまりアイデンティティを表現する道具として写真はつかわれだす。とりわけ「セルフポートレイト」という表現はひとつのジャンルとして正当な位置を得ている。これも技術革新がもたらしたあたらしい表現だといえる。
もっとも自撮り棒の先にスマホを付けてヘン顔を撮る行為が、その延長なのかどうかはわたしにはわからない。



さて今年も気がつけば2月半ばをすぎていて、同級生のAさんからの誘いがなければ、完全に忘れていたであろう日本写真映像専門学校の卒業制作展へきょうはいく。
玄関を入るといきなり学校長賞をとったYさんの作品がドーンとあらわれる。作品はセルフポートレイト2点で、自分の二面性をあらわしているという。聞いてもいないのに作品のコンセプトを語りだしたのは校長先生だ。相当この作品が気に入ってるのだろう。たしかに撮影の技術は高いものがある。それをうまく合成して一枚の絵に仕上げる技術もかなりのものだ。だけど、なんだかリアリティがないというか、どうも薄っぺらいのである。



2時間くらいかけて全員の作品をじっくりと見たけど、わたしの心に響いた写真は3点くらいしかなかった。どの写真も妙な加工が目につく。フォトショップの加工技術を見せられているようで、写真そのものの世界観が見えてこない。加工していないストレートな写真もあるにはあるが、そういう作品は逆に写真が下手なので絵になっていない。あーあ
デジタル写真の技術によって写真表現はあらゆるメディアを横断するような幅を獲得した。だけど本来、表現というものは表現する人間そのものの叫びなのであるから、自己と向き合って掘り下げないものは深くはならないだろう。自戒を込めて記しておく。一応OBですから。

(上の写真は1階の男子トイレ。この作品は今年の卒作展のものではありません)

高騰する高級コンパクト機

2017年02月10日 | Camera
かつてフィルム全盛の時代に、高級コンパクト機というカテゴリーのカメラがあった。その筆頭といえばローライ35になるだろうか。国産カメラでいえばリコーのGRシリーズやミノルタTC-1、ニコン35(28)Ti、あるいはフジのクラッセSとか。
とにかくどのカメラもレンズ性能が非常に高く、下手な一眼レフ機(のズームレンズ)よりも本当によく写った。中でもわたしがいまだに手放さずに使っているのはコンタックスT2というカメラで、モノクロフィルムを現像してそのスリーブを見た瞬間に、中間調のグレートーンの美しさに思わずため息が出るような、すごい写り方をする。



コンタックスT2のレンズは泣く子も黙るカール・ツァイスのゾナー38ミリF2.8T*であるが、このレンズのヘリコイド部には2.8から16までの絞り環がついていて、それぞれの絞り値に応じてAEが働くようになっている。ただしF2.8の位置だとプログラムAEになる。わたしはいつもこの位置で使っている。あとは場面に応じて左肩にある露出補正のダイヤル(これがちょっと使いづらい)を使う。

このカメラの最大の特徴は右肩にあるダイヤルで、こいつは一つ目のクリックでAFモードになるのだが、そこからさらに回すとMFになる。ファインダーをのぞきながら緑のランプが点灯するところまで回せば、フォーカスをロックできるというコンパクト機ではありえない機能が付いている。もちろん無限遠に固定することも可能だから、風景写真にも使いやすいし、たとえばF8に絞ってピントを5メートルに合わせておけばパンフォーカス撮影が可能。使い方しだいで最強のスナップシューターになるポテンシャルを秘めているカメラだ。



だが、おそらく壊れたらもう修理がきかないだろうと思い、いまのうちに程度のいい中古品をもう一台買っておこうとヤフオクをのぞいたら、どういうわけか4〜5万円で取り引きされている(ちょっと前まで2万円を切ってたのに)。その後継機になるT3なんか、10万円以上もするではないか!
コンタックスだけかと思ったら、上にあげたようなコンパクト機もけっこうな高値になっているのでおどろいた。
これはいったいどういう現象であろうか。いまだにフィルムで撮っている人たちのなかで、いま高級コンパクト機が再燃しているのか?