Happyday of LUCKY

日々の気付きと感謝を忘れないように綴るページ

ハーネミューレにとどめを刺す

2010年08月31日 | Photography


ネパールから帰国して選択と現像の毎日であったが、きのうでほぼその作業もおわり、いよいよプリント作業に入る。
去年まではアナログ暗室で手焼きしていたので膨大な時間がかかったけど、今回はデジタルだから速いと思う。
でも、きのうまでの現像時間が手焼き作業に相当すると考えれば、かなりの時間が必要なのは同じである。

これまでインクジェットプリンターでモノクロプリントを出力するとき、月光シリーズの赤ラベルと緑ラベルをよく使っていた。
とくに赤ラベルの面質がアナログ印画紙にはない風合いで気に入っている。
「画材用紙」と書いてあるように、この紙にプリントするとちょっと絵画っぽいテクスチャーになるのがいい。
ただこの紙は蛍光増白剤を使っているらしいので、長期保存には不安がある。



そこで劣化が少ないとされる中性紙のピクトラン局紙とハーネミューレのファインアート・バライタ紙を使ってみることにした。
局紙は赤ラベルよりもさらに面質のちりめん模様が細かく、絵画というより版画のような上質感がある。
紙の色がややクリーム色っぽいので、純黒調でプリントしても温黒調のような感じに仕上がる。
ここは好みというか、作品の内容によって使い分ける必要があると思う。

一方、ファインアート・バライタ紙はオリエンタルのニューシーガルGの面質によく似ていて、まるでアナログプリントのような感じに仕上がる。
額装してガラス越しに眺めると、おそらく判別つかないだろう。
どちらも素晴らしいプリントができるので、一度使うともうやめられない。
ただどちらも泣きそうなくらい高価なのが悩みの種。
とかく作品制作にはお金がかかるものだ。

死者の魂は天国へ行く

2010年08月29日 | Life


ガンジス川の支流にあたるバグマティ川の右岸には、パシュパティナートというネパールで一番大きなヒンドゥー教の寺院がある。
寺院のすぐまえには火葬場があって、ここでは遺体を火葬したらその遺灰を川に流すことになっている。
そうすることによって死者の魂は肉体から離れ、天国へ行くと信じられている。

いくつも火葬場があるのは、上流からカーストの高い順に場所が決まっているからだ。
死にぎわまでカーストに縛られるヒンドゥー教なんて、わたしには理解できない。
だが日本の寺が戒名によって巧妙に身分を表記してきたことを考えると、どちらも似たり寄ったりか。
ともかく、バグマティ川にかかる橋の上から火葬の様子をしばし観察する。



目の前で人間が燃えているのにあまり現実感がない。
あれは本当に人間なのか。
遺体の焼け具合いを見る人がちょうどうまく収まるように、冷静に構図をつくっている自分はなにものか。
あまりこういう写真を撮っても作品にならない気がする。
藤原新也氏や野町和嘉氏はガンジス川の火葬の様子を撮っているが、彼らはどんな気持ちでシャッターを切っていたのだろうか。



バグマティ川の対岸を歩いていると、手こぎ自転車に乗ったサドゥーと呼ばれる修行僧がやってきた。
彼は旅行者たちに「写真を撮ってもいいぞ」というポーズをとって愛想を振りまいている。
妻がカメラ目線の写真を撮っている間にわたしも1枚パチリ。
そのあとお約束のお布施(チップ?)を渡すと、彼は「これじゃ足りん。100ルピー出せ」という。
さらになにかの説明書か許可証のような文章を出してきて、「ほれ、ワシはこんなに偉いんじゃ」みたいな態度をとった。
調子に乗るなよ、オッサン。
妻は即座にデジカメのモニタを見せて、その場でオッサンの写真を削除した。
ザマミロ。

ネワール族青年の悲哀

2010年08月28日 | Life


旅をすると世界にはさまざまな人間がいて、その生活や習慣や考え方がじつに多種多様であることを知ることができる。
同時に、いかに自分がなにも知らないかを思い知らされることになる。
その意味で、わたしにとっての旅の目的は視覚のグローバル化、ないしは思考の相対化である。
「先進国」と呼ばれる日本に住むわたしが「新興国」のネパールを見るとき、そのカッコ付きの呼び方になんの意味もないことを感じることこそ、大切なのだと思う。



わたしたちのトレッキングガイドを務めたDさんから興味深い話をいろいろ聞いた。
現在ネパールには36の民族がいて、そのすべてにカースト(身分)が決まっている。
さらにネワール族のなかでもたくさんのカーストに分かれていて、たとえば先生の家族はみな先生だし、農業を営む人たちはその子供も同じだ。
絵描きは絵描き、靴屋は靴屋にしかなれないという。
なんと封建的なのだろう、江戸時代の身分制度と同じではないか。
もともと彼は英語を教える先生だったのだが、ワンマン校長に嫌気がさして辞めたらしい。
いま語学の才能を発揮してガイドの仕事をしているわけだから、そのカーストによる「縛り」も多少は緩んできてるのかもしれない。



だが結婚の話となるとまだまだ縛りは厳しい。
とくに長男である彼は同じネワール族(できれば同じカースト)の女性と結婚しなければならないそうだ。
また父親が死んだときには長男が火を点けなければならない(母親は次男)から、アメリカに住む彼女とは結婚できないという。
そんなバカなと思うのは、宗教心をもたず自分の生き死にについて真剣に考えたことのないわたしの感じ方であって、ヒンドゥー教に支えられた彼の人生観ではそれがあたりまえなのかもしれない。
でも彼は青年らしい笑顔でこういう。
「僕たちのつぎの世代が大人になる30年後くらいには、もうカーストなんて関係なくなってるよ」

赤いマークの威力

2010年08月27日 | Camera


ダンプス村をあとにし下山する。
ポカラにもどりフェワ湖の近くに宿をとる。
ここから先はツアーを離脱し、わたしたちだけの自由行動。
ガイド付きは安全で便利だが、やはり旅の醍醐味はこの開放感だ。

手はじめに自転車をレンタルして湖のまわりを散策する。
少し行くと船着き場があって、そこから湖の中央にある離島へ小さなボートが往復している。
その島にはバラヒ寺院というシヴァ神を祀ったお寺があって、わたしたちのような旅行者も入ることができる。
お供え物を買い、見よう見まねで参拝すると、額に赤い米粒を付けられた。



ところで、この旅でわたしの視覚をサポートしているカメラはライカM8とリコーCX3だ。
いつも出発の直前まで迷うのに、今回はまったくそのようなことはなかった。
この旅のために買ったのだからあたりまえか。
毎日使っているとだんだんと手になじんできて、第3の目が右手にあるような感覚になる。
そうなるとこっちのもんだ。

首から提げて歩いていると、向こうからじっとこちらを見て近づいてくる女性がいる。
彼女はニコニコしながら「いいカメラね」といった。
えっ、あんな遠くからわかったのか。
シルバーボディに赤い丸マークって、わかる人にはわかるオタクのシンボル、いやプロ用カメラの象徴なのだ。



湖のよく見えるレストランで昼食をとっていると、今度はジャバラ式の6×6カメラとマニュアルの35ミリカメラを持った青年がやってきた。
どちらもコシナ製ではない正真正銘のフォクトレンダー製のカメラで、80年くらいまえのものだ。
若いのにずいぶん渋いカメラを持っている。
そして「僕の父もライカを持っています」とわたしのカメラを指さした。
M8を触らせてやると、彼はうれしそうにシャッターを1枚切った。
つづいてわたしが彼を撮る。
カメラ好きには国境も世代もないのであった。

シェルパ族の生業と矜恃

2010年08月26日 | Life


ダンプス村2日目はさらに200メートルほど登ったオーストラリアキャンプへ向かう。
きょうも天気はもう一つだが、ガイドのDさんについて歩く。
トレッキングというより軽い散策といった感じ。

途中で水牛に出会う。
じっとこちらをにらんだまま動かないので、草むらへ迂回する。
だがこの季節、草むらには無数のヒルが潜んでいた。
はたしてわたしの靴には数匹、そして妻の足には2匹のヒルが吸いついていた。



オーストラリアキャンプでしばし休憩し、ふたたびダンプス村にもどる。
月の家には大阪から来たという母娘の二人連れ客がガイドとともに来ていた。
夕食は6人でいただく。
向こうのガイドさんはシェルパ族の人で、若いころはアンナプルナを登る人たちのサポートをしていたという。
1人の登山者に10人のサポーターが付いて、食料やテントやいろんな道具を運ぶというからたいへんである。

もし途中に深いクレバスが出てきたら、その裂け目に縄ばしごをかけるのはサポーターの役目。
なんとそのクレバスを降りていって、向こう側の壁面をまた登ってはしごを掛けるのだ。
たいへん危険な作業で、じっさいクレバスの底には仲間が何人も眠っているという。
世界最高齢でエベレスト登頂をはたした三浦雄一郎氏の記録も「われわれのサポートがあってこそ」と、ガイドはシェルパ族の矜恃をみせた。
マスコミでは知らされない興味深い話だが、ならば登山家の矜恃とはなんなのか。