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Happyday of LUCKY

日々の気付きと感謝を忘れないように綴るページ

写真展はライブだ

2013年09月06日 | Photography
写真展は4日目。



仕事でいつもお世話になっているDさんが来られる。本当にありがたい。
はじめの数枚の写真を見て、枯れた草木や枝に強い生命感を感じるといわれた。
まさにそこを狙った写真なので、そういう反応はとてもうれしい。

夕方に来られたお客さまは、ご自分でもモノクロプリントを焼いておられる方で、開口一番「強いプリントですね」といわれた。
なにが強いのか、もう少し聞こうとしたら、「135ですか。全紙に伸ばすのは難しいでしょう?」と技術的な話に移ってしまった。(「135」というのは35ミリ判フィルムのこと)
さらに引伸し機の名まえやコントラストフィルターの号数など、制作のノウハウをどんどん聞いてくる。
技術論は嫌いではないので、包み隠さずお話しするが、作品そのものはどうなのか気になる。
しまいには「この夏、ネパールへ行って100人くらい人を撮ってきた」「有元伸也さんのような写真が撮りたい」などと、ご自分の話をしはじめた。

きのうもそうだったけど、けっこう自分の体験や考えを語る人がいらっしゃるものだ。
わたしの写真が引き金になって、そんな話が飛び出してくるのであれば、それはそれでいいのかなと思う。
写真展って、いろいろな人が来るから緊張もするけど、ライブ感があってたのしい。

写真に小タイトルは必要か

2013年09月05日 | Photography
写真展は3日目。



きょう来廊された方々のなかで、写真歴50年って感じの男性が、これは何を写したものか、と聞いてこられた。
「ダム湖に浮かぶブイの残骸です」と答えると、さらに「タイトルはなんですか」と聞く。
わたしの写真は1枚1枚にはタイトルを付けていない。それは写真全部で「REBORN」という作品だからだ。
1枚1枚にタイトルを付けるのは、たとえばグループ展などで一つのテーマに沿っていろいろな写真を展示するときに、その作家の個性や主張を出すために付けることが多い。
個展ではタイトルよりキャプションのような短い文章を付けているのをよく見かける。その場合はどちらかといえばドキュメンタリー寄りの作品が多い気がする。

わたしの作品はドキュメンタリーではなく、アート寄りの作品であるから、1枚1枚の説明よりも全体の流れやそれぞれの写真から感じるイメージを観てほしいし楽しんでほしいと思っている。
もし「ダム湖のブイ」なんてタイトルを付けてしまったら、単にブイを記録しただけの写真になってしまって、それ以上のイメージが広がらない気がする。
それに、文字ですべてを説明するより、「これはいったいなんだろう?」という謎を残しておいた方が、視覚言語としての読み取りが深まると思う。
写真はあくまでも視覚言語であり、視覚表現なのだから。

だが、その年輩の男性はタイトルが付いていないことに不満げだ。
わたしが黙っていると、やおら「ヌードと裸の違いがわかるか」と言い出した。
その男性曰く、「ヌードというのはエロスを感じさせるもので、裸というのは単に服を脱いだ状態」「裸を写すのではなく、ヌードを写さねばダメ」「ヌードの方がレベルが高い」というようなことを言った。
なるほど、よくわかる話だが、わたしが「ヌード撮影をよくされるのですか」と聞くと、自分は撮らないという。なにそれ?

つまりこの人は自分の写真に対する考え方や見方を述べたいだけなのかな。
せっかく観に来ていただいたけど、楽しんでもらえなかったようで、申し訳ありません。
もう少しネイチャー系かネーチャン系の写真展をご覧ください。

個展「REBORN」はじまる

2013年09月03日 | Photography
きょうから個展がはじまるというのに、朝起きたら頭が痛い。なんか体がふらふらして食欲もない。
まさか夏バテ?
無理やり朝食をとるが気分は変わらず。もう一度、横になる。1時間ほど寝てシャワーを浴びるとマシになった。

午前中に銀行へ行ったり、食糧の買い出しに行ったり。
夕食をつくってから出かけようと思い、急いでタマネギをみじん切りしていたら、左手の親指まで切る。オーマイガッ。
ごはんがなかなか炊きあがらないのにイライラする。



大阪駅を出たら大雨。阪急電車の駅までの100メートルほどで靴がぐしょぐしょになる。地下から行けばよかった。
1時半くらいにギャラリーに着くと、すでにお客さんが一人来廊されている。
ギャラリーのディレクターに紹介いただいたら、表現大学で教鞭をとられている先生だった。
「ブックに良い写真があるのに、展示されてないのが残念です」と、初対面なのに正直なご意見をいただく。
たとえばどの写真ですか、とブックを見ながら聞く。
どの写真も自分にとっては子どものように可愛いので、その中で「良い」と褒められるのはうれしいものだ。
会期中に焼き直して、展示を差し替えようか。

B先生が帰られたあと、ディレクターと販売価格の相談。
ブルームギャラリーではアナログ(銀塩)写真もデジタル写真も関係なく、その作家のキャリアや力量とプリントのエディションなどを総合的に判断して値付けをする。
当然ながら、わたしのような駆け出しの写真家はそんなに高い値段は付けられない。
ただし去年の値段より安くなることはないので、それを基準に詰めていく。考えたら、これは賃上げ要求の労使交渉みたいなものだ。
プリント代にマットの実費を入れ、ブックマットならいくら、額装する場合はいくらにするかを決める。
そのうちのギャラリーの取り分はいくらになるか、電卓をはじきながら正確に値段を決める。
マネージャーのいない作家(ほとんどがそうだろう)は自分の作品がいくらで売れるのかを、自分で管理しなければならない。
これは趣味ではなく仕事だからね。

そのあと関西ライカクラブのCさんが来られる。2月にクラブの写真展でお会いして以来7ヶ月ぶりだ。
彼の写真は玄人はだしで、本当に美しいプリントをご自身で焼かれる。
「ああ、やっぱり銀塩のプリントを見たら、ホッとするなあ」と実感のこもった感想に、わたしもホッとする。
最近はライカクラブのメンバーもデジカメを使いだして、手焼きにこだわっているのはCさんだけだという。
彼はブルームギャラリーの雰囲気をとても気に入った様子で、「いつか、ここで二人展をやろうや」といって帰られた。
一応、プリントのクォリティは及第点ということか。実現すればたのしいだろうな。



夕方、早めにギャラリーを出て、仕事の打ち合わせにいく。
こっちの仕事は糧を得るための仕事だ。
早く自分の写真だけで食べれたらいいのにと切に願う。が、そう簡単にはいかぬこともわかっている。
才能の少ない人間は、一歩ずつ進むしかない。

写真茶話会はこれからも続く

2013年08月24日 | Photography
4年くらい前にはじまり、今年の5月に最終回をむかえたSIGNの写真茶話会であるが、きょうはその卒業生たちが集まる。いわば「同窓会」である。
この会の目的は、茶話会のなかで完成させた作品を持ち寄って、みんなで見せ合うことだ。
じつは完成した作品はお互いにまだ見ていないので、わたしの呼びかけでこの会をもつことになった。
もちろん茶話会の主宰者のSIGN氏にも来てもらって、意見や感想をいただくことになっている。



まずはじめに、お互いの作品を回覧して見たあと、一人一人が自分の作品をプレゼンテーションする。
たった数人のまえでも、作品について語るというのは難しいことだ。みなさんの緊張感がこちらにも伝わってくる。
この間、わたしはTIPの文章作成ゼミでステートメントをしっかりまとめてきた。
そう思っていたのに、いざプレゼンする段になると、どうも浮わついた言葉ばかり出てきてうまく説明できない。
「崩壊と再生」というテーマで作品を語ろうとすればするほど、なんかウソくさく感じてしまうのだ。
本当に撮りたかったものは、じつはそうではないのか?

プレゼンのあと、SIGN氏にも「そのテーマはちがう」という意味のことをいわれ、ますます混乱する。
ええっ、もう再来週から個展がはじまるのに、今さらちがうといわれても修正できないよ。どうすりゃいいの?
一方、オブザーバーで参加してくれたX氏は、わたしの作品をおもしろがって見てくれた。
いろいろな見方や感じ方があるので、それはそれでいいのだけれど、はじめからずっとわたしの写真を見てきているSIGN氏の意見は重い。
彼の意見に応えうる作品にするには、まだまだ時間がかかるかもしれない。くやしいけど。



帰りの車のなかから見えた花火が、きのうは妙に切なく感じた。
日本の花火って、そういうものなのかしらん。

羅針盤を手にして

2013年08月22日 | Photography
昨夜の文章作成ゼミはいつもより30分早い6時半にはじまった。

最終回の今回は、これまでつくってきたWORKSのコレクション(作品)を持ち寄って、参加者のまえでプレゼンテーションすることになっている。
プレゼンといっても、その内容はもうすでにWORKSのなかで書いて、何度も推敲を重ねた文章があるので、それを読みながら作品を見せるだけだ。
ただ、このゼミは作品の内容を評価したり合評するのではなく、あくまでも作品に沿った文章ができているかを見てもらうのが目的だ。
プレゼンのあと、CVも読みながら最終の校正をしていく。
(WORKSやCVってなに? という方は、こちらの記事を先にお読みください)

6月末から2ヶ月にわたってこのゼミに参加してきたが、わたしにとって非常に有意義であった。
自分のなかで意識化できていないことが、写真に現れてしまっているということに、文章を練りあげていく過程で気づかされた。
かんたんにいえば、自分の撮った写真でありながら、なぜそれを撮ったのかが理解できていなかったということだ。
作品について言葉で語りきることで、作品のコンセプトがより明確になり、そこからつぎの方向性も見えてくる。

また、参加者のCVとWORKSを読みながら、いろんな視点(視座)はその人それぞれの生い立ちや生きざまの中から生まれてくるものだとはっきりわかった。
作品の表面的なおもしろさを見て、それをマネても、決して作品にはならない。マネできる程度のものは作品とはいえない。
作品にはそれが生まれてくる必然性があるということだ。
まあ、写真に限らず、なにかを表現するということは、そういうことなのですね。



それにしても、こんなに赤裸々に自分の生い立ちを語ったことは今までなかった。
妻にも話したことのないようなことまでCVに書いていくなかで、自分でも気づいてなかった(忘れていた)ことがたくさん掘り出された。
学生時代にわたしがギター片手にフォークソングを歌っていた意味や、大学の卒業制作で大きな裸婦像をつくりあげた意味。15年にわたる教員生活の意味。退職後、モンゴルの大草原で自分の心が解放されていったこと。本当に自分がやりたかったこと、やろうとしていること。
それらのことがすべて一本の線でつながり、いまに至っていることがはっきりと自覚できた。

さあ、完成したCVとWORKSを羅針盤にして、これから本当の航海がはじまる。しゅっぱーつ!