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『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
7 権謀と術数
4 孫子の兵法
戦争は国家の重大事である。死活の決まるところ、存亡のわかれ道である。
事前に、よくよく熟慮してかからねばならない。
このように『孫子』は、その冒頭において説いた(計編)。
「孫子いわく、兵は国の大事、死生の地、存亡の道、察せざるべからず」。
またいわく、「兵とは詭道(きどう)なり」。つまり戦争とは、謀略の争いだ、というのである。
そうして開戦したとなれば、戦車千台、輜重(しちょう)車(輸送用の馬車)千台、武装兵十万を、千里の外に派遣して、その糧食を送らねばならぬ。
そこで内外の経費、賓客の接待費、膠(にかわ)や漆(うるし)の材料から、戦車や武器の供給など、一日に千金をついやして、はじめて十万の軍隊をうごかすことができるわけである。
「ゆえに、兵には拙速を聞くも、いまだ巧久(こうきゅう=うまくて長引く)を睹(み)ざるなり」。
ひと時代まえの戦争は、戦車による射戦が主体であった。
軍隊の大きさは、車の数(乗)であらわされた。
万乗といえば天子の、千乗といえば諸侯の軍隊であった。
そして春秋時代までは、歴史に残るほどの大戦争であっても、各国の動員量はせいぜい数百乗にすぎない。
戦闘の主力は馬車に乗った貴族であった。それに歩兵が十名ほど従っていたのである。
ようやく春秋時代の後半になって、しだいに歩兵が重要視されるにいたる。
歩兵による密集戦法を活用し、大いに効果をあげたのが、南方の呉や越であった。
呉は一万の歩兵部隊を動員したという。
河川や湖沼の多い呉越の地では、戦車をもちいることもほとんど不可能であった。
しかも呉越の強勢にしげきされて、歩兵による作戦は、たちまち中原の諸国に普及してゆく。
武器の変革もめざましかった。かつては銅製の矛(ほこ)や剣が主としてもちいられていたが、戦国時代には鉄器の発明と普及によって、鉄製の鋭利なものがもちいられる。
弓矢もまた、弩(ど=いしゆみ)と呼ばれる発射用具の発明によって、射程がいちじるしく長くなった。
威力も倍加した。車上の射戦は、弩の出現によって効力をうしなった。
こうして戦闘の初期、ひとつの合戦に動員される兵は十万に達する。
もはや貴族の従臣だけでは補充がつかない。
一般の農民が駆りだされ、大群の歩兵部隊が編成されたのであった。
戦車ならば、その活動の範囲は、地形によって限定されよう。
しかし歩兵の部隊ならば、山林でも沼沢でも、自在に、神出鬼没の活動をすることができる。
「兵は詐(さ)をもって(意表をつくことによって)立ち、利をもって動き、分合(分散と統合)をなすものなり。
故に、その疾(はや)きこと風のごとく、その徐(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとく、知り難(がた)きこと陰(いん=くらやみ)のごとく、動くこと雷(いかずち)の震うがごとし」。
「敵の近くして静かなる者は、その険を恃(たの)むなり。
遠くして戦(たたかい)を挑む者は、人の進むを欲するなり、その居る所のみなる者は、利するなり(こちらを誘い出そうとする)。
衆樹の動く者は、来(きた)るなり。衆草の障の多き者(積み上げて壁のようにしてある)は、疑(留まっていることを偽装する)なり。
鳥の起(た)つ者は、伏(伏兵)なり。
獣のおどろく者は、覆(ふく=奇襲)なり。塵の高くして鋭き者は、車の来るなり。
卑(ひく)くして広き者は、徒(歩兵)の来るなり」。
このような『孫子』の兵法は、中国のみならず、わが国の軍学においても、最高の典籍(てんせき)とされた。
しかも『孫子』は、実戦の用兵のみを説いたのではない。
実戦の体験より発して、それは高度の戦争論となり、さらには深遠な人生哲学ともなった。
孫武そのひとが軍師としての名声におぼれることなく、内省をかさねた結果でもあったろうか。
「彼を知り、己(おのれ)を知れば、百戦して殆(あや)うからず。
彼を知らずして己を知れば、ひとたびは勝ち、ひとたびは負く。
彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし」。
「百戦百勝は、善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」。
たしかに、戦争という手段にうったえることなく、国家の意思を実現することができるならば、それは最善の道であろう。
それは外交である。弁論によって有利な外交をすすめようとする者が、やはり同じ時代にあらわれていた。
7 権謀と術数
4 孫子の兵法
戦争は国家の重大事である。死活の決まるところ、存亡のわかれ道である。
事前に、よくよく熟慮してかからねばならない。
このように『孫子』は、その冒頭において説いた(計編)。
「孫子いわく、兵は国の大事、死生の地、存亡の道、察せざるべからず」。
またいわく、「兵とは詭道(きどう)なり」。つまり戦争とは、謀略の争いだ、というのである。
そうして開戦したとなれば、戦車千台、輜重(しちょう)車(輸送用の馬車)千台、武装兵十万を、千里の外に派遣して、その糧食を送らねばならぬ。
そこで内外の経費、賓客の接待費、膠(にかわ)や漆(うるし)の材料から、戦車や武器の供給など、一日に千金をついやして、はじめて十万の軍隊をうごかすことができるわけである。
「ゆえに、兵には拙速を聞くも、いまだ巧久(こうきゅう=うまくて長引く)を睹(み)ざるなり」。
ひと時代まえの戦争は、戦車による射戦が主体であった。
軍隊の大きさは、車の数(乗)であらわされた。
万乗といえば天子の、千乗といえば諸侯の軍隊であった。
そして春秋時代までは、歴史に残るほどの大戦争であっても、各国の動員量はせいぜい数百乗にすぎない。
戦闘の主力は馬車に乗った貴族であった。それに歩兵が十名ほど従っていたのである。
ようやく春秋時代の後半になって、しだいに歩兵が重要視されるにいたる。
歩兵による密集戦法を活用し、大いに効果をあげたのが、南方の呉や越であった。
呉は一万の歩兵部隊を動員したという。
河川や湖沼の多い呉越の地では、戦車をもちいることもほとんど不可能であった。
しかも呉越の強勢にしげきされて、歩兵による作戦は、たちまち中原の諸国に普及してゆく。
武器の変革もめざましかった。かつては銅製の矛(ほこ)や剣が主としてもちいられていたが、戦国時代には鉄器の発明と普及によって、鉄製の鋭利なものがもちいられる。
弓矢もまた、弩(ど=いしゆみ)と呼ばれる発射用具の発明によって、射程がいちじるしく長くなった。
威力も倍加した。車上の射戦は、弩の出現によって効力をうしなった。
こうして戦闘の初期、ひとつの合戦に動員される兵は十万に達する。
もはや貴族の従臣だけでは補充がつかない。
一般の農民が駆りだされ、大群の歩兵部隊が編成されたのであった。
戦車ならば、その活動の範囲は、地形によって限定されよう。
しかし歩兵の部隊ならば、山林でも沼沢でも、自在に、神出鬼没の活動をすることができる。
「兵は詐(さ)をもって(意表をつくことによって)立ち、利をもって動き、分合(分散と統合)をなすものなり。
故に、その疾(はや)きこと風のごとく、その徐(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとく、知り難(がた)きこと陰(いん=くらやみ)のごとく、動くこと雷(いかずち)の震うがごとし」。
「敵の近くして静かなる者は、その険を恃(たの)むなり。
遠くして戦(たたかい)を挑む者は、人の進むを欲するなり、その居る所のみなる者は、利するなり(こちらを誘い出そうとする)。
衆樹の動く者は、来(きた)るなり。衆草の障の多き者(積み上げて壁のようにしてある)は、疑(留まっていることを偽装する)なり。
鳥の起(た)つ者は、伏(伏兵)なり。
獣のおどろく者は、覆(ふく=奇襲)なり。塵の高くして鋭き者は、車の来るなり。
卑(ひく)くして広き者は、徒(歩兵)の来るなり」。
このような『孫子』の兵法は、中国のみならず、わが国の軍学においても、最高の典籍(てんせき)とされた。
しかも『孫子』は、実戦の用兵のみを説いたのではない。
実戦の体験より発して、それは高度の戦争論となり、さらには深遠な人生哲学ともなった。
孫武そのひとが軍師としての名声におぼれることなく、内省をかさねた結果でもあったろうか。
「彼を知り、己(おのれ)を知れば、百戦して殆(あや)うからず。
彼を知らずして己を知れば、ひとたびは勝ち、ひとたびは負く。
彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし」。
「百戦百勝は、善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」。
たしかに、戦争という手段にうったえることなく、国家の意思を実現することができるならば、それは最善の道であろう。
それは外交である。弁論によって有利な外交をすすめようとする者が、やはり同じ時代にあらわれていた。