『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
6 戦国の乱世
6 車裂の極刑
孝公の十二年(前三五〇)、公孫鞅はあたらしい秦の国都を咸陽(かんよう)に建設した。
それまでの都であった雍(よう)は西にかたよりすぎて、強国となった秦には、ふさわしくなくなったからである。
城陽には、りっぱな城壁や楼門、そして宮殿や庭園が造営せられた。
また、小さな村や集落をあつめて「県」とし、中央から県令を派遣して治めさせた。
これは地方の権力を中央に集める(中央集権)ための措置であった。
田地の境界を取りはらって耕作を自由にし、かつ税制を整備した。
さらに従来は幾通りもあった度量衡を統一した。風俗も中華風にあらためた。
これまで秦の国には戎狄(じゅてき=西方や北方の異民族)の風習があり、父子の別がなく、妻子とも同室に住していた。
これを改めて、男女の区別を厳格につけたのであった。
それから四年たった。さきに太子の傳(もりやく)であった公子虔(けん)が、また法に違反した。
そこで劓(はなきり)の刑に処した。
公子虔は鼻をうしなったことを恥じ、門をとじて外にでることがなくなった。
さらに四年たった。もはや秦の富強は天下にとどろいた。中原の諸侯は秦の威勢をおそれるにいたっていた。
その翌年、すなわち孝公の二十一年(前三四一)、斉は魏の兵を馬陵においておおいに破った。
これに乗じて魏を討つことを、鞅は進言した。
孝公の二十二年(前三四〇)、孝公は鞅を司令官として、魏を討たせた。
魏は公子卭(こう)を司令官として、秦軍をむかえ討った。公子卭は、鞅にとって旧友であった。
そこで鞅は書簡をおくり、たがいに攻めあうのは、まことに忍びがたいから、休戦して楽しく飲もうと申しいれた。
公子卭はもっともと思い、会盟して酒を飲んだ。
しかるに鞅は、伏兵をもって魏の軍の不意を襲い、卭を捕虜としてしまった。
勢いを得た秦の軍は、ことごとく敵を破って凱旋した。
かくて魏は、しばしば斉と秦とに破られ、国の財力も兵力もとぼしくなった。
さしもの恵王もおそれをなし、黄河以西の地を秦に献じて和睦した。
そして秦との国境に近い都の安邑を放棄し、大梁(たいりょう=いまの開封)に遷都した。
そのとき恵王は「うらむらくは公叔座の言をもちいざりしを」と述懐した、という。
鞅を殺しておかなかったことが、恵王の失敗であった。
内外の功によって、公孫鞅は商の地にて十五邑を賜わった。号して商君といった。
君(くん)というのは、諸侯の臣下で、土地を領有する者の称である。これより後、公孫鞅は商鞅とよばれた。
商鞅は高位に上り、名声も高かったが、ひとの恨みを買うことも大きかった。
そこで、ある人(張良という賢者)が鞅に忠告していった。
「人心をうる者は興り、人心をうしなう者は崩る(詩経)と申します。
君のなされたかずかずのことは、人心をえる所以ではありません。
君は外出にあたって数十両の車をしたがえ、そこには武装の兵をのせ、また大力で一枚あばらの屈強な者を陪乗させたうえ、矛(ほこ)や戟(げき)を持った者が車によりそうて走っています。
まことに、徳をたのむ者は栄え、力をたのむ者は滅ぶ(書経)と申しますが、君の命は朝露のようにあやうい。
それでも天寿を全うしたいと望まれるならば、どうして商の十五邑をかえし、田園に隠居しようとなされないのですか。
君が今後も、なお富をむさぽり、変法をほこりとし、人民のうらみを積もうとなされるならば、やがて君の悲運は、足をあげて待つほどのもの間に到来するでありましょう」。
しかし商鞅は、この忠告にしたがわなかった。
孝公が死去したのは、それから五ヵ月後のことである。
太子が立った(前三三八)。恵文王である。
公子虔の一党が、商君は謀叛をたくらんでいる、と告げた。
これを恵文王はただちに取りあげ、役人を差しむけて商鞅を捕えようとした。鞅は逃げた。
国境の函谷関の付近までゆき、宿屋にとまろうとした。宿屋の主人は、その客が商鞅であることを知らなかった。
「商君の法律によりますと、旅行証のない人をとめれば、罪になりますので」。
そういわれて商鞅は、ため息をついた、「ああ、新法の弊は、ついにこの身に及んだか」。
商鞅は魏の国へはいった。
しかし魏の国人も、かつて鞅が公子卭(こう)をあざむき、魏軍を破ったことをうらんでいて、受けいれようとはしなかった。
さらに他国へおもむこうとしたが、魏人は秦の報復をおそれて、商鞅を国境まで連れもどした。
やむをえず商鞅は、領地の商邑におもむき、一族や郎党とともに手勢をひきいて、北のかた鄭(てい)に出撃した。
秦の国では兵を発して商鞅を攻め、鄭の地で彼を殺した。
恵文王はみせしめのために、商鞅の屍を車裂に処した。
そして「商鞅のごとき謀叛人となるなかれ」と布告した。
車裂とは、左右の手足を二台の車に結びつけ、その車を左右に走らせて四肢を引きさく極刑である。
6 戦国の乱世
6 車裂の極刑
孝公の十二年(前三五〇)、公孫鞅はあたらしい秦の国都を咸陽(かんよう)に建設した。
それまでの都であった雍(よう)は西にかたよりすぎて、強国となった秦には、ふさわしくなくなったからである。
城陽には、りっぱな城壁や楼門、そして宮殿や庭園が造営せられた。
また、小さな村や集落をあつめて「県」とし、中央から県令を派遣して治めさせた。
これは地方の権力を中央に集める(中央集権)ための措置であった。
田地の境界を取りはらって耕作を自由にし、かつ税制を整備した。
さらに従来は幾通りもあった度量衡を統一した。風俗も中華風にあらためた。
これまで秦の国には戎狄(じゅてき=西方や北方の異民族)の風習があり、父子の別がなく、妻子とも同室に住していた。
これを改めて、男女の区別を厳格につけたのであった。
それから四年たった。さきに太子の傳(もりやく)であった公子虔(けん)が、また法に違反した。
そこで劓(はなきり)の刑に処した。
公子虔は鼻をうしなったことを恥じ、門をとじて外にでることがなくなった。
さらに四年たった。もはや秦の富強は天下にとどろいた。中原の諸侯は秦の威勢をおそれるにいたっていた。
その翌年、すなわち孝公の二十一年(前三四一)、斉は魏の兵を馬陵においておおいに破った。
これに乗じて魏を討つことを、鞅は進言した。
孝公の二十二年(前三四〇)、孝公は鞅を司令官として、魏を討たせた。
魏は公子卭(こう)を司令官として、秦軍をむかえ討った。公子卭は、鞅にとって旧友であった。
そこで鞅は書簡をおくり、たがいに攻めあうのは、まことに忍びがたいから、休戦して楽しく飲もうと申しいれた。
公子卭はもっともと思い、会盟して酒を飲んだ。
しかるに鞅は、伏兵をもって魏の軍の不意を襲い、卭を捕虜としてしまった。
勢いを得た秦の軍は、ことごとく敵を破って凱旋した。
かくて魏は、しばしば斉と秦とに破られ、国の財力も兵力もとぼしくなった。
さしもの恵王もおそれをなし、黄河以西の地を秦に献じて和睦した。
そして秦との国境に近い都の安邑を放棄し、大梁(たいりょう=いまの開封)に遷都した。
そのとき恵王は「うらむらくは公叔座の言をもちいざりしを」と述懐した、という。
鞅を殺しておかなかったことが、恵王の失敗であった。
内外の功によって、公孫鞅は商の地にて十五邑を賜わった。号して商君といった。
君(くん)というのは、諸侯の臣下で、土地を領有する者の称である。これより後、公孫鞅は商鞅とよばれた。
商鞅は高位に上り、名声も高かったが、ひとの恨みを買うことも大きかった。
そこで、ある人(張良という賢者)が鞅に忠告していった。
「人心をうる者は興り、人心をうしなう者は崩る(詩経)と申します。
君のなされたかずかずのことは、人心をえる所以ではありません。
君は外出にあたって数十両の車をしたがえ、そこには武装の兵をのせ、また大力で一枚あばらの屈強な者を陪乗させたうえ、矛(ほこ)や戟(げき)を持った者が車によりそうて走っています。
まことに、徳をたのむ者は栄え、力をたのむ者は滅ぶ(書経)と申しますが、君の命は朝露のようにあやうい。
それでも天寿を全うしたいと望まれるならば、どうして商の十五邑をかえし、田園に隠居しようとなされないのですか。
君が今後も、なお富をむさぽり、変法をほこりとし、人民のうらみを積もうとなされるならば、やがて君の悲運は、足をあげて待つほどのもの間に到来するでありましょう」。
しかし商鞅は、この忠告にしたがわなかった。
孝公が死去したのは、それから五ヵ月後のことである。
太子が立った(前三三八)。恵文王である。
公子虔の一党が、商君は謀叛をたくらんでいる、と告げた。
これを恵文王はただちに取りあげ、役人を差しむけて商鞅を捕えようとした。鞅は逃げた。
国境の函谷関の付近までゆき、宿屋にとまろうとした。宿屋の主人は、その客が商鞅であることを知らなかった。
「商君の法律によりますと、旅行証のない人をとめれば、罪になりますので」。
そういわれて商鞅は、ため息をついた、「ああ、新法の弊は、ついにこの身に及んだか」。
商鞅は魏の国へはいった。
しかし魏の国人も、かつて鞅が公子卭(こう)をあざむき、魏軍を破ったことをうらんでいて、受けいれようとはしなかった。
さらに他国へおもむこうとしたが、魏人は秦の報復をおそれて、商鞅を国境まで連れもどした。
やむをえず商鞅は、領地の商邑におもむき、一族や郎党とともに手勢をひきいて、北のかた鄭(てい)に出撃した。
秦の国では兵を発して商鞅を攻め、鄭の地で彼を殺した。
恵文王はみせしめのために、商鞅の屍を車裂に処した。
そして「商鞅のごとき謀叛人となるなかれ」と布告した。
車裂とは、左右の手足を二台の車に結びつけ、その車を左右に走らせて四肢を引きさく極刑である。