『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
6 戦国の乱世
3 予譲(よじょう)の復讐
知伯の家来に予譲(よじょう)という者があった。
はじめ范氏および中行氏につかえたが名声あがらず、去って知伯につかえたものである。
晋陽の敗戦の後、ひとり山中にのがれた。そこで知伯が殺されたこと、さらに趙襄子が知伯の頭蓋に漆(うるし)をぬって飲器(いんき=さかずき)したことまで聞いた。
「ああ、士はおのれを知る者のために死し、女はおのれをよろこぶ者のために容(かたち)づくる、という。
知伯は自分をよく知ってくれた。いまや私は、知伯のために讐(あだ)をむくいて死のう」。
心に誓った予譲は、山をくだると、変名して罪人の群れに投じ、宮中にはいって厠(かわや)の壁をぬる仕事にたずさわった。
こうして趙襄子を刺しころす機会をうかがったのである。
やがて襄子が厠にゆくと、なにか胸さわぎがする。
そこで壁ぬりの刑徒をとらえて訊問したところ、予譲であった。
懐中に匕首(あいくち)を持っていて、「知伯のために讐をむくいようとした」と自白した。
左右の者が殺そうとすると、襄子がとめた。
「彼は義人である。わしさえ用心して、避けておればよいのだ。
知伯がほろんで子孫もなく、しかも臣として讐をむくいようとするのは、これ天下の賢人である」。
そういって予譲を釈放した。
しばらくすると予譲は、からだに漆(うるし)をぬって癩(らい)病をよそおい、炭をのんで声をつぶし、人に知られぬように姿をやつして、市中に出て乞食(こじき)をした。
その妻にさえ、見わけがつかなかった。それでも友人に出会って、見やぶられた。
「お前、予譲じゃないか」。
「いかにも」と予譲が答えると、友人は泣いていった。
「きみほどの才のある人が、贈りものをささげて襄子の家来になったならば、襄子はかならずきみを近づけて寵愛(ちょうあい)するだろう。
そのうえで思うことをすれば、かえってやりやすいではないか。
どうして身をそこない、形をゆがめたりして、讐(あだ)をむくいようとするんだ」。
しかし予譲はいった。
「家来となりながら主君を殺そうとするのは、二心をいだいて仕えるというものだ。
いま、わたくしのしていることは、まことに辛い。
しかし、あえてこうしているのは、まさに天下後世において、二心をいだいて主君に仕えるということを、恥じ入らせようとするためなのだ」。
その後、しばらくして襄子が外出すると、予譲は通りみちの橋の下で待ちぶせた。
襄子が橋のところまでくると、馬が驚いて、はねた。
襄子は「これは、予譲がいるに違いない」と考え、供の者にしらべさせた。
はたして予譲がいた。そこで襄子は予譲を責めていった。
「そなたは、かつて范氏の中行氏につかえたのではなかったか。知伯はこの二氏をことごとくほろぼした。
しかるにそなたは、その讐をむくいようともしないで、かえって贈りものをささげて知伯の家来となった。
もはや知伯も死んでしまったのだ。
しかるにそなたは、どうして知伯のためにだけ、かくも執念ぶかく讐をむくいようとするのだ」。
「私は范氏と中行氏につかえました。しかし范氏も中行氏も、みな常人として私を遇しました。
だから私も、常人として報じたのです。
知伯に至っては、国士として私を遇しました。だから私も、国士として報じようとするのです」。
襄子は大きく嘆息し、涙を流していった。
「ああ先生、そなたが知伯のために尽くす節義はすでに全うされたのだ。
私がそなたをゆるしておくことも、もはや十分であろう。そなたも覚悟をされるがよい。私は今度はゆるすまいぞ」。
かくて兵に命じて、予譲を囲ませた。すると予譲がいった。
「私は聞いております、明君は人の美をおおいかくさず、忠臣は名に死するの義ありと。
さきに君は寛大にも私をゆるされました。天下に君の賢をたたえぬ者はありません。
今日のことは、もとより私も誅(ちゅう)に伏しましょう。
ただ願わくは、君の衣服を申しうけ、これを撃(う)って復讐の念をはらしたく、そうすれば死んでも、うらむところはありません。たってとは望みませんが、あえて心のうちを申しあげます」。
襄子はおおいにその義に感じ、供の者をして衣服を持たせ、予譲にあたえた。
予譲は剣をぬき、三たび躍りあがって、これを撃った。
そして「これで地下の知伯に報じられた」と叫ぶや、ついに剣に伏して自殺した。
この日、趙の国の志士たちは予譲の死を聞いて、いずれも涙を垂れて泣いた。
(絵は趙襄子と予譲)
6 戦国の乱世
3 予譲(よじょう)の復讐
知伯の家来に予譲(よじょう)という者があった。
はじめ范氏および中行氏につかえたが名声あがらず、去って知伯につかえたものである。
晋陽の敗戦の後、ひとり山中にのがれた。そこで知伯が殺されたこと、さらに趙襄子が知伯の頭蓋に漆(うるし)をぬって飲器(いんき=さかずき)したことまで聞いた。
「ああ、士はおのれを知る者のために死し、女はおのれをよろこぶ者のために容(かたち)づくる、という。
知伯は自分をよく知ってくれた。いまや私は、知伯のために讐(あだ)をむくいて死のう」。
心に誓った予譲は、山をくだると、変名して罪人の群れに投じ、宮中にはいって厠(かわや)の壁をぬる仕事にたずさわった。
こうして趙襄子を刺しころす機会をうかがったのである。
やがて襄子が厠にゆくと、なにか胸さわぎがする。
そこで壁ぬりの刑徒をとらえて訊問したところ、予譲であった。
懐中に匕首(あいくち)を持っていて、「知伯のために讐をむくいようとした」と自白した。
左右の者が殺そうとすると、襄子がとめた。
「彼は義人である。わしさえ用心して、避けておればよいのだ。
知伯がほろんで子孫もなく、しかも臣として讐をむくいようとするのは、これ天下の賢人である」。
そういって予譲を釈放した。
しばらくすると予譲は、からだに漆(うるし)をぬって癩(らい)病をよそおい、炭をのんで声をつぶし、人に知られぬように姿をやつして、市中に出て乞食(こじき)をした。
その妻にさえ、見わけがつかなかった。それでも友人に出会って、見やぶられた。
「お前、予譲じゃないか」。
「いかにも」と予譲が答えると、友人は泣いていった。
「きみほどの才のある人が、贈りものをささげて襄子の家来になったならば、襄子はかならずきみを近づけて寵愛(ちょうあい)するだろう。
そのうえで思うことをすれば、かえってやりやすいではないか。
どうして身をそこない、形をゆがめたりして、讐(あだ)をむくいようとするんだ」。
しかし予譲はいった。
「家来となりながら主君を殺そうとするのは、二心をいだいて仕えるというものだ。
いま、わたくしのしていることは、まことに辛い。
しかし、あえてこうしているのは、まさに天下後世において、二心をいだいて主君に仕えるということを、恥じ入らせようとするためなのだ」。
その後、しばらくして襄子が外出すると、予譲は通りみちの橋の下で待ちぶせた。
襄子が橋のところまでくると、馬が驚いて、はねた。
襄子は「これは、予譲がいるに違いない」と考え、供の者にしらべさせた。
はたして予譲がいた。そこで襄子は予譲を責めていった。
「そなたは、かつて范氏の中行氏につかえたのではなかったか。知伯はこの二氏をことごとくほろぼした。
しかるにそなたは、その讐をむくいようともしないで、かえって贈りものをささげて知伯の家来となった。
もはや知伯も死んでしまったのだ。
しかるにそなたは、どうして知伯のためにだけ、かくも執念ぶかく讐をむくいようとするのだ」。
「私は范氏と中行氏につかえました。しかし范氏も中行氏も、みな常人として私を遇しました。
だから私も、常人として報じたのです。
知伯に至っては、国士として私を遇しました。だから私も、国士として報じようとするのです」。
襄子は大きく嘆息し、涙を流していった。
「ああ先生、そなたが知伯のために尽くす節義はすでに全うされたのだ。
私がそなたをゆるしておくことも、もはや十分であろう。そなたも覚悟をされるがよい。私は今度はゆるすまいぞ」。
かくて兵に命じて、予譲を囲ませた。すると予譲がいった。
「私は聞いております、明君は人の美をおおいかくさず、忠臣は名に死するの義ありと。
さきに君は寛大にも私をゆるされました。天下に君の賢をたたえぬ者はありません。
今日のことは、もとより私も誅(ちゅう)に伏しましょう。
ただ願わくは、君の衣服を申しうけ、これを撃(う)って復讐の念をはらしたく、そうすれば死んでも、うらむところはありません。たってとは望みませんが、あえて心のうちを申しあげます」。
襄子はおおいにその義に感じ、供の者をして衣服を持たせ、予譲にあたえた。
予譲は剣をぬき、三たび躍りあがって、これを撃った。
そして「これで地下の知伯に報じられた」と叫ぶや、ついに剣に伏して自殺した。
この日、趙の国の志士たちは予譲の死を聞いて、いずれも涙を垂れて泣いた。
(絵は趙襄子と予譲)