最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●家族自我群

2010-05-19 09:34:58 | 日記
●家族自我群

+++++++++++++++++++

家族として、ひとつのまとまった自我の
集団を、「家族自我群」という。
ボーエンという学者が使った言葉だが、
日本人のばあい、それがどういうものかは、
改めて説明するまでもない。
「家」意識、家父長意識、上下意識をともなった
親子関係、夫婦関係などなど。
さらにこの日本には、「家族」を超えた、「親族
意識」というものがある。

こうした自我の集団は、その(個人)を、
がんじがらめに、縛りつける。
縛りつけて、その「幻惑」に苦しむ。
そのため日本人は、(日本の若者たちは)、自分の
確立に悩む。
そのまま「家」の奴隷となる人も少なくない。

言うまでもなく「家族」と「個」は、常に
対立関係にある。
家族自我群が強ければ強いほど、「個」の確立、
これを「個人化」というが、その「個」の確立が
むずかしくなる。
が、それだけではない。

+++++++++++++++++++++

●「家族」vs「個」

 私たちがもっている(意識)ほど、あてにならないものはない。
最近、改めてそれを知ったのは、あるパキスタン人と話していたときのこと。
彼は現在、浜松市内で、インド料理店を経営している。
その男性が、こう言った。

「パキスタン人は、貯金しない」と。

 イスラムの世界には、「イスラム金融」と呼ばれる、特殊な金融制度がある。
他人にお金(マネー)を貸し、利息を取ることは、イスラム教により、きびしく禁止されている。
そのためイスラムの世界では、説明するのに何時間もかかるほど、複雑な方法を使って、日常の商取引をする。
(興味のある人は、「はやし浩司 イスラム金融」で検索してみるとよい。)

で、そのパキスタンでは、「仕事は必要なときに、必要な分だけしながら、その日を過ごす」そうだ。
それが彼らの生活の基本になっている。

私が「日本では考えられないね」と言うと、「日本とは正反対!」と説明してくれた。
たとえばパキスタンでは、組織(会社)の肩書きや地位など、ほとんど意味をもたないという。

 「日本では、70歳になっても、現役時代の肩書きを引きずって生きている人は多いよ」と話すと、そのパキスタン人は、首をかしげてニヤリと笑った。
「パキスタンでは考えられない」という意味で、ニヤリと笑った。
つまり「意識」というのは、そういうもの。
国や民族、宗教がちがうと、意識そのものが、正反対になることもある。
もちろん哲学や価値観も、影響を受ける。

 わかりやすい例として、「家族意識」がある。

●日本人の家族自我群

 私は「家族」を否定しているのではない。
共同体としての家族は、「個」を生み、育(はぐく)む場として、必要である。
しかし同時に、家族という共同体は、「個」の生育を、さまたげる場所となることもある。
21世紀になった今でも、江戸時代の「家制度」そのものに縛られ、身動きがとれず、苦しんでいる人は多い。

 そうでない人からみれば信じられないことかもしれないが、事実は事実。
「家あっての個」と考える。
「家」が「個」を縛り、干渉し、支配し、その進むべき道まで決めてしまう。
そのため「個」が犠牲になる。
「家」に縛られ、そこで一生を終える。

 そこで大切なことは、そのときどきにおいて、「家」と「個」をうまく調和させながら、生きていくといくこと。
「個」が「家」の犠牲になることは、実際、バカげている。
しかし「個」は、「家」の温もりなくして、生きていくことはできない。
もちろん「家」イコール、「家族」ではない。
ボーエンが言った「家族」というのは、「親子関係」をいう。
「兄弟・姉妹関係」も、それに含まれるかもしれない。

●私の経験から

 私は家族自我群が濃密な「家」で、生まれ育った。
しかし「濃密だった」ということを知ったのは、私が40代になったころのこと。
それまでは、それが私にとっての常識であり、私の知る社会の常識だった。
それ以外の「家」を、あまり知らなかった。
知ってはいたが、むしろそちらのほうを、異質と考えていた。

 今でもそうだが、私の生まれ育った「家」では、親類縁者ともに、上下意識が強く、「家」を中心に、みなものを考えている。
母の実家では、いまだに、「本家」「新家」という言葉が、日常的に使われている。
その意識のない人たちからみれば、バカげた風習だが、その意識のある人たちからみれば、私たちのそうした意識は理解できない。
できないばかりか、自分たちの意識を、そのまま私たちに押しつけてくる。

 それは先にも書いたように、一方では「温もりのある社会」を形成する。
「家」という一体性に融和することは、それ自体、心地よい。
人間が本来的にもつ孤独感が、そのまま癒される。
が、同時に、「家」は、それから抜け出る者を許さない。

●呪縛感

 が、その一方で、「家」には、ものすごい呪縛感がある。
先にも書いたが、「家あっての個」と考える。
だから「個」が「家」の犠牲になっても、その社会の中に住む人たちは、それを当然と考える。
「本家」と「新家」の関係でいうなら、本家あっての新家ということになる。
家族の関係でいうなら、親あっての子ということになる。

 だから私たちの時代(戦後生まれの団塊の世代)には、「外」に出た者は、実家への仕送りを、当然と考えていた。
親も、当然と考えていた。
今の時代では考えられないことだが、私の母にしても、そのつど私の家にやってきては、そのつど10万円単位(当時)のお金を、もって帰っていった。

 だから私は今、むしろ逆に、今の時代のほうに、違和感を覚えることが多い。
私の息子たちにしても、(当然のことだが)、「親を助ける」という意識は、まったくない。
いわんや「家」を助けるという意識は、さらにない。
どちらが正しくて、どちらがまちがっているとか、そういうことを書いているのではない。
意識のちがいというのは、そういうもの。

●個人化

 その人が「個人」としての「個」を確立することを、「個人化」という。
「私は私」という生き様をいう。
この個人化の確立に失敗すると、その人の生き様は、世俗を意識したものへと変化する。
わかりやすく言えば、「世間体」の中に身を置いた生き様になる。
日本人の中には、このタイプの人が、たいへん多い。
「多い」というより、少なくとも私の知る欧米人の中には、そういう人はいない。

 となると、話を進める前に、ひとつの疑問が生じてくる。
ボーエンは、「家族」のどの部分を見て、「家族自我群」という言葉を考えたのかという疑問である。
日本的な「家」では、なかったはず。
日本的な「家族」でも、なかったはず。

 もともとボーエンは、精神科医であり、精神分裂病患者の家族研究をしていた。
その過程の中で、家族療法を体系化し、家族と個人の関係に行き着いた。
その多くが、家族との融和の中で、「個」の確立に失敗していることを発見したのかもしれない。
そして「個」を、家族のもつ自我群から切り離し、「個別化」と「自立性」の確立を、その治療目的とした。

 つまり私たちが日本で考える「家族」イコール、ボーエンの説く、「家族自我群」の「家族」ではない。
さらに厳密に言えば、ボーエンが頭に描いた「家族」というのは、「濃密な親子関係」だったかもしれない。
異常なまでの過干渉と過関心が日常化している、そんな親子関係である。

●幻惑

 「家」に押し殺される人は多い。
「家族」でもよい。
たとえば子どもでも、不安先行型の母親に養育されると、ハキのない子どもになる。
「うちの子は、何をしても心配」という思いが、子どもの心を萎縮させる。
(反対に、自分の子どもに自信をもっている親の子どもは、明るく、生き様が前向き。)

 子どもの側で考えてみよう。
もしあなたが親に、「あなたはダメな子」といつも言われつづけていたとする。
するとあなたは何をしても、不安になる。
自分がやりたいこと、できることについても、自信をなくしてしまう。
「私はダメな人間」と。

 そういう思いが、あなたを負の方向へと引っ張っていく。
それが「幻惑」である。
つまり「家」もしくは、「家族」のもつ重圧感が大きければ大きいほど、そしてそれから受ける呪縛感が大きければ大きいほど、あなたは幻惑に苦しむことになる。

 ボーエンは、そのあたりに精神疾患の原点を見たのかもしれない。

●保護vs依存

 どうであるにせよ、「家族」と「個」は、常に対立関係にある。
(だからといって、敵対関係というわけではない。誤解のないように!)

 そこでさらにこの問題を掘り下げていくと、そこに(保護)と(依存)の関係が見えてくる。
「家族は個を保護し、個は家族に依存する」と。
が、ここで誤解していけないことは、子(下の立場の者)が、親(上の立場の者)に依存するだけが、保護と依存の関係ではないということ。
親(上の立場の者)が、子(下の立場の者)に依存するケースも、同じくらいの割合で多い。
その保護と依存関係が変形して、親は子を束縛し、子は、親に束縛される。
というのも、私は、つぎのような親を、教育の場で、よく見かける。

 親はこう言う。
「うちの子は、甘えん坊で(=依存性が強くて)困ります」と。
が、よくよく調べてみると、親自身が、依存性が強い場合が、多い。
自分が依存性が強いから、つい子どもの依存性に甘くなる。
つまり「甘えん坊で困ります」と言いながら、子どもを甘えさせている。
またそういう関係を、「良好な親子関係」と誤解している。

 つまりこの問題は、世代から世代へと連鎖しやすく、家族、あるいは親類縁者が全体として、「家族自我群」を形成するということ。
それくらい「根」が深く、また解決には、時間を要する。
(あるいは1世代や2世代程度では、解決しないかもしれない。)

●怨憎会苦(おんぞうえく)

 「家族」がもつ呪縛感には相当なものがある。
またそれから生まれる苦しみは、仏教でいう四苦のひとつ、「怨憎会苦」に似たものがある。
(私自身は、「幻惑」と「怨憎会苦」の区別ができない。)
へたをすれば、「個」は、幻惑そのものに、押し殺されてしまう。
またそういう例は、多い。
私のまわりにも、そうした人がいる。
あなたのまわりにも、そうした人がいる。

 では、どうするか?

●「私」の復活

 たとえばこんな問題が、私の近辺で起きつつある。

 もうすぐ実兄と実母の3周忌がやってくる。
が、今ではこのあたりでも、(宗派にもよるが)、初盆さえしない家庭がふえている。
浜名湖に面して、昔からの漁村がある。
私のワイフの母親の実家だが、そこでも、7世帯のうち、初盆をしたのは、3~4世帯のみと聞いている。

 で、自分なりに、「周忌」について調べてみた。
が、結果は、釈迦仏教とは縁もゆかりもない、日本独特の奇習ということがわかった。
「地蔵十王経」という、だれが読んでもそれとわかる、日本製のニセ経が原点になっている。
だからといって、死者への弔いが無意味と書いているのではない。
それはそれ。
しかし、自分の理性をねじまげてまで、死者を弔うのは、かえって死者を冒涜することになるのでは……?
(私の知人の中には、生前中は、さんざん親を苦しめておきながら、今になって墓参りだけは一生懸命している人もいる?)

 が、一方で、先日郷里へ帰ったら、親類たちが、こう言い合っているのを聞いた。

「あのAさんは、親の33回忌をしたんですってねえ。偉いもんですな」とか、反対に、「あの息子は、親の3回忌にすら、顔を出さなかったんですよ。人間のクズですね」とか。

 そういう話を横で聞いていると、その瞬間、私が「私」でなくなってしまう。
幻惑と言うほど、おおげさなものではないかもしれないが、しかしそうした「家族自我群」が集合されると、たいへんな力(パワー)をもつ。
いわんやそういう社会の中で毎日生きていたら、(私だったら)、気がヘンになってしまう(?)。

 で、私を復活するためには、どうすればよいか。
方法は2つある。

(1)私なりの生き様を貫く。
(2)妥協して、笑ってすます。

 多くの人は(2)の方法を選ぶだろう。
いらぬ波風を立てるくらいなら、「丸く」生きた方が得。
しかしそれでは、この日本は、何も変わっていかない。
私も変わらない。
もうすぐ3周忌をするかしないか、その結論を出すが、この年齢になると、「妥協」という言葉に、大きな抵抗感を覚える。
妥協して生きるのは、もうたくさん。
うんざり!

●終わりに…… 

 このエッセーの中で、私は、「家」「家族」、それに「個」「個人」「私」を、区別することなく、家族自我群について書いた。
日本でいう「家制度」と「家族」とは、もちろんちがう。
「個」と「私」も、もちろんちがう。
だから専門の心理学者が読んだら、「はやし浩司は、心理学の基礎も知らない」と笑うだろう。

 実際、私も、このエッセーを書きながら、「家制度」と「家族」を頭の中で、あまり区別しなかった。
書いているうちに、その両者が頭の中で、混ざってしまった。
その第一の理由は、私が日本人だからではないか。
日本には日本の独特の文化や風習が残っている。
だから私にしても、「家」イコール、「家族」ということになる。
(あるいはその反対でもよい。)

 ついでに一言。

 では、なぜ私が20数歳のときから欠かさず、収入の半分を実家に仕送りしていたか。
それには理由がある。

 私は子どものころから親たち(とくに母親や叔父たち)から、こんな話を聞かされて育った。

「あそこのAさんの息子さんは、立派なもんじゃ。今度、親のために、離れを建ててやったそうだ」
「あそこのBさんの嫁は、ひどいもんじゃ。親に渡す小遣いを、今月は、半分にしたそうだ」などなど。

 こうして私は自分の中に「家族像」をつくりあげ、それが、そのあとの家族自我群へとなっていった。
「幻惑」に苦しんだことは、言うまでもない。

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●ビート・たけしの「アウトレイジ」

2010-05-19 09:23:24 | 日記
●ビート・たけし氏の『アウトレイジ』

++++++++++++++++

劇場へは、毎週のように足を運んでいる。
「ボケ防止のため」と、心に決めて、
そうしている。

で、この数週間、毎回、『アウトレイジ』の
予告編が流される。
私はそれを見るたびに、顔をそむける。

……無表情のまま、突発的にキレて、相手を
蹴り飛ばすビート・たけし。
それにつづく暴力、また暴力。
「悪」という文字も、繰り返し使われる。

で、こんなセリフも……。
「おまえ1人くらい生きていなければ、
結果はわからんだろ」(記憶)と。

まさに汚い言葉。
罵声。
怒鳴り声。

ビート・たけし氏は、フランスでは受けが
よいらしい。
フランス政府からも、「日本を代表する文化人」(?)
として表彰されている。

しかしみなさん、もう一度、ここで冷静に
考えてみよう。
「ああした映画が、日本の文化なのか?」と。
あるいは「ああした人物が、日本を代表する
文化人なのか?」と。

フランス人の目を通して、この日本を眺めて
みるのもよい。

TBS・iは、つぎのように伝える。

++++++++++++以下、TBS-iニュースより++++++++++++++

フランスのカンヌ映画祭で、北野武監督の「アウトレイジ」が公式上映されました。最高賞パルム・ドールを競う北野監督、「進化した自分をみせられた」と自信を見せています。

 カンヌ映画祭は6日目、栄えある赤じゅうたんに、はにかみながらタキシード姿の北野武監督が登場しました。コンペ部門への参加こそ「菊次郎の夏」以来、11年ぶりですが、監督としてカンヌ出品は5回目と、既に「常連」。観衆の盛んな拍手で迎えられました。

 今回の新作「アウトレイジ」は、暴力団の内部抗争の末路を描いた異色作。久々に暴力シーンが目立ちますが、北野監督は「進化した自分を見せられた」と自負しています。
 
 「見事に客をKOしたっていう感じで。本当は半分以上席を立つかと思ったが、しびれて立てなかったんじゃないか。料理の鉄人と言われた人が、カツ丼を作ってみろと言われたような感じがして、じゃあ、作ってやろうじゃないかと作ったのが今度の映画。いい味してるだろう? でもクセありますって・・・」(北野武監督)

 既に賛否両論、大きな話題となっていますが、ヴェネチアに続き、賞獲りが成るかは23日の授賞式で判明します。帰ってきた大物として歓迎された北野監督。また強烈な印象をカンヌに残したことは間違いありません。(18日07:24)

++++++++++++以上、TBS-iニュースより++++++++++++++

●日本を代表する文化人?

 みなが寄ってたかって、ビート・たけしをもちあげる。
フランス人にしても、そうだろう。
何しろ、日本でもっとも知名度の高い、タレントである。
東京あたりで、ビート・たけしを批判したら、それだけでマスコミの世界から、叩き出されてしまう。

 しかし『アウトレイジ』の試写会で、「途中で席を立つ人が多かった」(ヤフー)という部分に、私は賛辞を送りたい。
2年前に、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●近代性と人間の幸福(Modernization of the Society and its pursuit of Happiness)
Modernization of the society does not promise us to be happy, or rather more often
modernization of the society brings us to get lost. For one of the examples of the
modernization, Tokyo is always understood as a corrupted city in the Hollywood movies, where all kinds of desires have been wound whirlpool, desires such as drugs, sex, and
money. Is this the future that we wish to pursuit? The answer should be No.

++++++++++++++++++++

社会の近代性が、人間を幸福にしたかというと、
それは、疑わしい。

逆に言うと、それ以前の人間は、みな、
不幸だったのかということになる。

一方、私たちは半世紀前の人間からしても、
夢のような生活をしている。が、それでいて、
より幸福になったという実感は、あまりない。

逆に言うと、この先、半世紀後の人たちが、
より幸福になるという保証は、どこにもない。
へたをすれば、今より、不幸になるかもしれない。
むしろ、その可能性のほうが、高い。

……となると、社会の近代性とは何かということに
なる。
もっとつきつめて言えば、現在の私たちは、
いったい、何を求めて生きているのかという
ことになる。さらに言えば、何のために生きて
いるのかということになる。

ここに社会の近代性がもつ、構造的な欠陥というべきか、
きわめて深刻な問題が、隠されている。

++++++++++++++++++++

●近代的な都市国家

 日本が外国に与えている印象は、あまりよくない。ハリウッド映画に出てくる日本を見
れば、それがわかる。少し前、「KILL BILL」という映画があった。最近でも、「バ
ベル」という映画があった。これらの映画に共通する点は、日本、とくに東京は、いつも
退廃した都市として描かれているということ。

 内心では、「?」と思うのだが、外国の人たちもまた、日本に、そういう日本像を求めて
いる。外国で賞を取るような日本映画は、退廃的なものばかり。どこか薄汚く、どこか貧
しい。ビートT氏が監督する映画を、例にあげるまでもない。

 で、そういう映画を通してこの日本をながめると、この私ですら、この日本に住むこと
に、嫌悪感を覚える。

 東京では、まさに人間の、ありとあらゆる欲望が渦巻いている。モノ、金、セックス、
電子製品、食べ物、何でもござれ。映画、「バベル」の中では、麻薬を楽しむ若者たちのほ
か、パンティを脱いだ女子高校生が、男子高校生たちに、それをのぞかせるというシーン
まであった。

 そういうシーンが、何ら違和感なく、……というか、東京というのは、そういう都市で
あると、当然のように描かれている。それを見る私たちも、「そうではないのだがなア」と
思いつつも、画面からあふれ出てくる迫力の前では、無力でしかない。そこにあるのは、
確かに東京である。どこかのスタジオやセットではない。で、やがてこの私ですら、「東京
って、そういう都市だったんだ」と、自分で自分を納得させてしまう。

 が、そういう東京、つまり東京がもつ近代性は、私たちが求めてきたものかどうかとい
うと、答は、NO! 私たちは、東京を現在の東京にするために、生きてきたのではない。
子どもたちを、今の子どもたちにするために、生きてきたのではない。

 どこか、おかしい。狂っている。

 10年前には、援助交際が問題になった。しかし今では、それを問題にする人すら、少
ない。ごく当たり前の、日常的な光景にすら、なってしまった。それがわからなければ、
夕方のコンビニをのぞいてみることだ。

 どこかあやしげな雰囲気で、女子高校生や女子中学生たちが、携帯電話で話をしている。
そのすぐ外には、車を止めた男たちが、ニヤニヤと笑いながら、同じように携帯電話で話
をしている。そうやってたがいに連絡を取りあいながら、女の子たちは、やがて車の中へ
と消えていく……。

 しかしそれを「進歩」と呼ぶ人は、いない。「退廃」と呼ぶ。私たちが求める「幸福」と
は、似ても似つかぬものである。

 ……といっても、だからといって、この私が聖人というわけではない。つい昨日も、K
市のK高校校長が、交際していた女性(20歳)を脅迫したとかで、逮捕されるという事
件が起きた。報道によれば、その女性は、その校長の教え子だったという。その教え子が
高校生のときから、つきあい始めたらしい。

 そういう事件が明るみになると、みな、「ここぞ」とばかり、校長を責めたてる。しかし
こういう世界で、だれが、そういう校長を、石をもって打てるのか。S県の教育委員会の
幹部たちがズラリと並んで、いっせいに頭をさげていたが、だからといって、そういう幹
部たちが、聖人かというと、それはない。そういうことは、ぜったいに、ありえない。

 この私だって、相手とチャンスがあれば、若い女性とそういう関係をもちたいと、いつ
も心の中で願っている。願っているというよりは、いつも空想している。脳みその奥にあ
る、視床下部から発せられる信号には、ものすごいものがある。辺縁系や大脳の前頭前野
くらいで、コントロールできるような代物では、ない。

 肉体が健康であればなおさらで、私の年齢で、若い女性に興味がないという人がいたら、
糖尿病かうつ病か、そんなような病気を疑ってみたほうがよい(失礼!)。

 ……話がそれたが、だからといって、そうした欲望の追求を、野放しにしておいてよい
ということではない。欲望の追求は、原始の世界への退行を意味する。つまり私たちが求
める近代性とは何かと問われれば、まさにこの一点に集約される。

 つまり、近代性とは、欲望の追求であってはいけないということ。その視点を見失うと、
冒頭に書いたように、私たちは、何を求めて生きているのかということになってしまう。
さらに言えば、何のために生きているのかということになってしまう。

 ここに書いた携帯電話にしても、それが援助交際の手段として使われたとたん、欲望を
追求するための道具になってしまう。DVDにしても、インターネットにしても、そうだ。
便利な機器であるならなおさら、心のどこかで一線を引く。引いて、欲望の追求から遠ざ
ける。

 そのちょっとした心理的操作が、日々に積み重なり、月となり、年となって、やがて私
やあなたを、より豊かな世界へと導く。それで私たちが、より幸福になるというわけでは
ない。しかし、より幸福な世界に近づくことだけは、できる。もちろん、そうでなければ、
そうでない。

 悪人になるのは簡単なことだ。ほんの少しだけ気を緩(ゆる)めれば、それでなれる。

 で、この年齢になってはじめて気がついたことがある。つまりこの時期になって、「絶望
感」を味わうことくらい、恐ろしいことはないということ。一時の欲望に身を任せたとた
ん、私たちは遠い、遠い、回り道をすることになる。時間を無駄にすることになる。

 それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 ともかくも、社会の近代性イコール、幸福の追求ではないということ。それだけは確か
である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●無力感

 たまたま(?)、私とビート・たけしとは、同年齢である。
それだけに、どういうわけか、あの人の精神構造というか、基盤のようなものが、よくわかる。
私たちは、そういう時代を生きてきた。

 が、私は私だし、あの人は、あの人。
マスコミを背負っている分だけ、私には、勝ち目はない。
(ない)分だけ、いつも無力感に襲われる。
たとえて言うなら、懸命に野原に花の苗を植えていたところ、うしろから大きなブルドーザーがやってきて、それを踏みつぶされたような気分。
怒りの声など、そのままブルドーザーの騒音にかき消されてしまう。

 が、その責任は、私たちにないわけではない。
批判力をもたない日本人。
大勢にのまれてしまう日本人。
そういう無責任さが、一方で、ああいう人物をのさばらせてしまう。
でないというのなら、予告編だけでもよいから、一度、『アウトレイジ』なる映画を観てみることだ。
「観たい」と思う前に、ヘドが出る。

 何が「料理の鉄人」だ!
自らを、「料理の鉄人」と称し、「カツ丼を作ってみた」?
観客をこれほどバカにした言葉もない。
ないが、今の日本人には、それすらもわからない。
わからないまま、またもちあげる。
「フランスでもちあげられた。すごい人だ」と。

 これからはフランス語でも、BLOGを書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ビートたけし ビート・たけし アウトレイジ)

+++++++++++++以下、フランス語++++++++++++++++

●70様で現役

2010-05-19 07:25:45 | 日記
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【井上ひさし氏と、死生論】

●明日から仕事!

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長い春休みも、終わった。
楽しかった。
で、今日は、5キロ近く、ランニングした。
ほかに30~40分ほどの散歩。
明日からの仕事に、備えた。

体調、OK!
脳みそ、OK!
新年度も、この調子で乗り切るぞ!

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●井上ひさし氏

+++++++++++++++++

井上ひさし氏という作家が、死んだ。
面識はないが、何度か、近くに感じたことはある。
「この喫茶店に、よく来ますよ」と、
そんな話を、ある雑誌社の編集部の人がしてくれたのを
覚えている。
喫茶店というのは、G出版社(大手出版社、大田区)
の本社前にある、喫茶店をいう。

「いつも座る席が決まっていましてね。
ほら、あそこですよ」と。

当時は毎週のようにG社に足を運んでいた。
以来、その喫茶店へ入るたびに、井上ひさし氏を
探した。
が、一度も、見たことはない。
ないが、井上ひさし氏がいつも座るという
席に、ときどきすわってみたことはある。
それで「近くに感じた」。

私は井上ひさし氏の書く文章が好きだった。
あるときは、10冊くらい、本をまとめて買い
したことがある。
ワイフが何かの手術で、3~4日、入院した
ときのことだった。
「井上ひさしの本が読みたい」と言ったので、
そうした。

++++++++++++++++++

●死

 「死」は人生、最大のテーマ。
賢人たちの言葉を拾ってみる。

I live now on borrowed time, waiting in the anteroom for the summons that will
inevitably come. And then ーI go on to the next thing, whatever it is. One doesn't
luckily have to bother about that.
ーAgatha Christie, "An Autobiography" (アガサ・クリスティ、自叙伝)

私は、かならずやってくる召還を、待合室で待ちながら、今は、借りた時間の上で生きて
いる。
どうであれ、私はつぎの世界へ行く。
人は、幸運なことに、それについて心を煩わす必要はない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

I shall tell you a great secret my friend. Do not wait for the last judgement, it
takes place every day.
ーAlbert Camus

友よ、最大の秘密を話してやろう。
最後の審判を待ってはいけない。
それは毎日、なされている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

To the wellーorganised mind, death is but the next great adventure.
ー Albus Dumbledore

たいへんよく組織された心には、死は、ただのつぎの大きな冒険にすぎない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

A Lizard continues it's life into the wilderness like a human into heaven. Our fate
is entirely dependent on our life
ーAndrew Cornish

とかげは、人間が天国で生きるように、野生の中でまた生きる。
我々の運命は、我々の生命次第ということ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Even in the desolate wilderness, stars can still shine.
ー Aoi Jiyuu Shiroi Nozomi

どんな荒野にいても、星は輝き続ける。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

This existence of ours is as transient as autumn clouds.To watch the birth and death
of beings is like looking at the movements of a dance. A lifetime is a flash of lightning
in the sky. Rushing by,like a torrent down a steep mountain.
ー Buddha (c.563-c.483 B.C.)(釈迦)

我々の存在は、秋の雲のように、移りやすいもの。
人の生死を見るのは、踊りの動きを見るようなもの。
人生は、稲妻の閃光のようなもの。
険しい山から流れ落ちる、急流のようなもの。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

100 per cent of us die, and the percentage cannot be increased.
ー C.S. Lewis, "The Weight of Glory"

100%、我々は死ぬ。
そしてそのパーセンテイジは、それ以上増えることはない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●希望

 この中で、私はつぎの言葉に、希望をいだく。

To the wellーorganised mind, death is but the next great adventure.
ー Albus Dumbledore

たいへんよく組織された心には、死は、つぎの大きな冒険にすぎない。

 わかりやすく言えば、しっかりと、スキがないほどまでに、心を準備すれば、死がやっ
てきても、冒険に出かけるように、自分を取り乱すこともなく、死を迎えることができる
ということ。

 ただほとんどの人は、「死はやってくるもの」と思っている。
しかしこれは誤解。
自分自身が内部から崩壊すること。
それが死。
「やってくるもの」ではない。
つまりDNAには、あらかじめ自己崩壊が、プログラムされている。
思春期になって、ひげが生え、初潮を迎えるように、死もまた、プログラムされている。

 が、死を恐れる必要はない。
「死」があるから、今、私やあなたは、ここに存在する。
もし死がなければ、この地球は、生き物だらけになってしまう。
平安時代以後の人間だけを積分しても、たいへんな数になる。
毎年100万人ずつ生まれたとしても、1000年で、20億人!
毎年1000万人ずつ生まれたとしても、1000年で、200億人!

 先人たちが死んでくれたおかげで、そこに「空き」ができ、私たちは、その「空き」の
中で生まれることができた。
言い替えると、私たちが死ななければ、つぎの世代の人たちは、生まれてくることができ
ない。
つまり私たちは死ぬことで、席を、つぎの世代の人たちに譲る。
私たちはこうして、常に新しい生命と、入れ替わる。

●wellーorganised mind

 で、「死」について。
どう考えたらよいのか。
が、それにはいくつか、ポイントがある。

 その第一は、「生命を自分だけのものと考えてはいけない」ということ。
私たちの生命は、私たち個人のものではない。
そうでないと思うなら、一度、自分の手先をじっくりとながめて見たらよい。
あなたは、指一本、自分で作ったわけではない。
爪ひとつ、自分で作ったわけではない。
「生命」という大きな流れを、あなたは受け継いだにすぎない。
その「生命」を、自分のものと思うこと自体、バカげている。

 その第二は、自分の「生命」を、つぎの「生命」に伝えていくこと。
自分のところだけに、とどめてはいけない。
「自分の命は、わたしのもの」と、そう考えてはいけない。
私的所有物か何かのように考えてはいけない。
あなたは、自分の中の(あなた)を、つぎの世代に伝えていく。
方法はいろいろあるだろう。
教育も、そのひとつ。
が、大切なことは、つぎの世代の人たちが、より有意義に、より真・善・美に
近づけるように、その踏み台となること。

 その第三は、今あなたが受け継いだ「生命」を完全燃焼させること。
中途半端はいけない。
完全燃焼。
それは「今」を生きる人間の義務と考えてよい。
つまりこの世の中には、生きたくても生きられない人は、いくらでもいる。
そういう人たちの分まで、生きる。
その一語に尽きる。

これは私の勝手な解釈だが、それが「wellーorganised mind」、つまり、それが
「じゅうぶん組織化された心」ということになる。
言い替えると、それこそが死を克服するための、ゆいいつの方法ということになる。

 ところで、ここでひとつ気になったことがある。

 老齢期をさして、「死の待合室」という。
よくそういう言葉が出てくる。
私も何度か使ったことがある。
その「死の待合室」というのは、アガサ・クリスティの「in the anteroom for the summons
(召喚状を待つ控え室)」という言葉から、出てきたのでは?
「anteroom」というのは、「待合室」を意味する。
少なくとも日本人の発想ではない。
余計なことだが……。

 なお「wellーorganised mind」という言葉を使った、アルバス・ダンブルドアという
人が、どんな人か、私は知らない。
「ハリーポッター」の中に、出てくる老人に、同姓同名の人がいる。
その人のことか?

 さようなら、井上ひさし。
ご冥福をお祈り申し上げます。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 死 死について 賢者の言葉 死の待合室 アガサ・クリスティ 井上
ひさし)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●偏頭痛(映画『シャッター・アイランド』)

++++++++++++++++

朝方、偏頭痛で目が覚めた。
理由は、すぐわかった。
昨夜、映画『シャッター・アイランド』を見てきた。
深夜劇場だった。

激しい光の点滅。
めまぐるしい動き。
それに「超字幕」という字幕。
「超字幕」というのは、ふだんの字幕より、
字数が多いということか?
(ところで字幕の翻訳は、めちゃめちゃ。
字幕英語というのがあるのはわかるが、それにしても……?)

それがよくなかった。
おかげで今朝は、偏頭痛。
評価は、星2つの、★★。
実に思わせぶりの、不親切な映画。
『シックス・センス』『ミラーズ』『ビジター』『マトリックス』
などとは、比較にならない。
意外性を期待していたが、がっかり。

「謎解き」とか、「あなたにはこの謎が解けるか」とか、
映画案内に書いてあった。
しかし謎でないものを、おおげさに謎らしくしただけ。
謎でくるんだだけ。
簡単に言えば、「テディ・ダニエルズ(保安官、ブラッド・ピット)は、
ただのxxの1人」だった。
それですむ話。
(「映画のはじめに、結末を他人に話さないでくれ」と、
おかしな注意書きもあったので、「xx」にした。)

久しぶりに偏頭痛薬をのんで、ふたたび眠りなおす。
それにしても、不親切な映画だった。
観客をもてあそんだだけ。
つまり、もてあそばされただけ。
だから星は2つ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●不忘念(ふもうねん)

++++++++++++++++++

『一念岩をも通す』。
そうした強い意志(=念)を、「不忘念(ふもうねん)」という。
この言葉を頭のどこかに置きながら、自分の過去を
振り返ってみる。

たいしたことはできなかったが、それでも、
私はそのつど、何かをしてきた。
そのひとつが、ある宗教団体を相手に、5冊の本を
書いたこと。
命がけだった。
が、結果として、東洋第一と言われるほど豪華な
正本堂を、私は解体に追い込むことができた。

もうひとつは、山荘。
6年かけて土地作りをし、そこに山荘を建てた。
一度はトラックごと、崖下に落ちて死にかけたこともある。
そういう過去を振り返ってみると、その裏に、私なりの
「不忘念」があったことがわかる。

まず(したい)という思いをもつ。
そのほとんどは、そのまま消えてなくなってしまう。
そこでさらに強く(したい)と思う。
するとその先に道が見えてくる。
が、道が見えたからといって、願いがかなうという
わけではない。
やはりそのほとんどは、そのまま消えてなくなってしまう。
しかしこれだけは言える。

「~~をしたい」という思いがなければ、
何ごとも始まらないということ。
たとえ無駄に終わることがわかっていても、まず、「したい」と
思う。
まず、動く。
機関車にたとえるなら、石炭をくべて、車輪を回す。
人生はそこから始まる。

++++++++++++++++++

●70歳まで現役

 私は決めた。
「70歳まで現役」と。
そのための準備作りも始めた。
とりあえずは、(1)体力作りと、(2)ボケ防止。
健康第一だが、それは当然。

 で、60歳になる少し前、私は、仕事を縮小することばかりを考えていた。
「あと、2~3年働ければ、それでいい」と。
それにどこかの男が、「老齢期を迎えたら、生活をコンパクトにしなさい」と言った。
私は一時、その言葉を、真に受けた。
土地を切り売りしたり、人づきあいを制限したりしようとした。
が、どうしてコンパクトにしなければならないのか。
また、何のために?

 私はまちがっていた。
おかしな寄り道をしてしまった。
そこで一念発起。
「70歳まで現役」と。
心に誓った。
とたん、(やるべきこと)が、ズラズラと並んだ。
その第一が、(1)体力作りと、(2)ボケ防止。

●体力作り

 先月、恩師のTK先生に会った。
その前会ったときは、杖をついて歩いていた。
が、今回は、杖なし。
右足の人工関節の調子も悪くなさそうだった。
万歩計を見せながら、「毎日1万歩、歩いています」と。
横にいた、お嬢さん(立教大学教授)は、こう言った。
「どうしてこうまでがんばるのでしょうね」と。

 それを聞いて、私は心底うれしくなった。
TK先生はいつも、「健康は不可逆的に悪くなる」と。
が、その反対のことが起きた。
健康だって、がんばれば、取り戻せる。
TK先生は、それ教えてくれた。

 で、このところ自転車で、20~30キロ、走破することがある。
暇さえあれば、歩行器の上で歩く。
汗をかく。
70歳まで現役をつづけるためには、それなりの準備が必要。
「かろうじて今日はだいじょうぶ」という程度では、70歳まではがんばれない。
70歳までがんばるためには、50歳の体力を作り上げなければならない。
それではじめて、60歳から70歳までの10年間を、現役を通すことができる。

●ボケ防止

 こわいのは、「ボケ」。
それに「気力の弱化」。
……というわけでもないが、今は、携帯端末に興味をもっている。
現在はE-mobileの携帯端末を使っている。
すでに3年目になる。
が、どうも使い勝手がよくない。

 そこで今度発売になった、DOCOMOの「XPeria」。
それに目をつけた。
超小型のパソコンのようなもの。
昨日もドコモショップへ行って、あれこれと相談してみた。
デザインというか、その洗練された機能に驚いた。
「すごい!」の一言。

 「電話機能だけあればいい」という、怠けた声も聞こえないわけではないが、
それではいけない。
「いけない」と思って、自分の体にムチを打つ。
今度高校生の前で、サッサと、XPeriaを披露してやろう。
高校生たち、びっくりするだろう。
が、それが楽しみ。

 ヒヒヒヒ……。

 つまりボケ防止のためには、どんどんと新しい分野に切り込んでいく。
またそれにまさる方法はない。

●不忘念

 さて、不忘念。
体力と気力は、密接に連動している。
東洋医学でも、そう教える。
というより、体力イコール、気力と教える。
区別していない。

 そんなわけで体力が弱くなると、気力も弱くなる。
気力が弱くなると、何をするにも、おっくうになる。
だからこそ不忘念。
あえて不忘念。
いくつか「念」を立ててみる。

(1)どんなことがあっても、電子マガジンの発行をやめない。

 現在、週に3回、電子マガジンを発行している。
1回で、原稿20枚以上(40字x36行)と決めている。
それを守る。

(2)自転車通勤をふやす。

 現在、週に3~4単位(1単位=40分)にまで少なくなっている。
それをこの4月から、再び、5~6単位にもどす。

 ただし、「結果」は求めない。
やるべきことはやる。
しかしあとは、「なるようになれ!」。

また30~40代のころは、有名になりたいと思ったこともある。
が、今は、もうない。
ないというより、望んでも意味はない。
どうでもよい。

 「結果」として収入があれば、それでハイブリッド車を買う。
老後用の、終の棲家(ついのすみか)を建てる。
終の棲家は、私が死んだあとのワイフのため。

 「不忘念」というほどおおげさなものではないかもしれないが、
そのつもりでがんばる。

 2010年4月10日。
書斎まで朝食のにおいが、あがってきた。
もうすぐワイフが、「できたわよ」と声をかけてくれるはず。
みなさん、今日もがんばりましょう!
「不忘念」で、がんばりましょう!



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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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●シャドウ論

2010-05-19 07:19:45 | 日記
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●なし崩し的既成事実化

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「独島(日本名、竹島)と、K国の核兵器と
かけて、何と、説く?」。

答……「なし崩し的、既成事実化」。
共に、ものごとをなし崩し的に、既成事実化しよう
としている。

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●矛盾する論理

 韓国の人たちは、「オレたちは、K国とはちがう」と思っているかもしれない。
とくに、K国の核開発問題については、そうであろう。
K国は事実上、核兵器を所有し、核保有国であることを、既成事実化しようとしている。
韓国政府も、「それは認めない」とがんばっている。

が、同じように韓国は、K国と同じことをしている。
竹島(独島)への実効的支配を強化し(中央N報)、竹島は韓国領土であることを、
既成事実化しようとしている。
同じ民族。
発想が、よく似ている。
……というより、K国は、韓国のあとを、懸命に追いかけている。

今日(4月10日)の韓国・中央N報は、つぎのように伝えている。

 「…… 鄭総理は日本の独島(ドクト、日本名・竹島)領有権の主張に関し、『日本がこの
問題を持続的に取り上げるのは、韓日間の未来の発展に決して役立たない。すでに韓国の
国民が居住しているが、独島に対する実効的支配をさらに強化していく必要がある』と強
調した」と。

 つまり事実上、支配しているから、竹島は、韓国の領土だ、と。
しかしこんな論理がまかりとおるなら、K国の核兵器開発問題は、どうなる?
K国も同じ論理をふりかざして、「自分たちの国を核保有国として認めろ」と騒いでいる。

●シャドウ論

 韓国とK国を並べてながめていると、ユングのシャドウ論が、頭の中を横切った。
韓国のもつシャドウを、K国が受け継いでいる。
そんな感じがした。
そんな感じがしたので、韓国とK国、それにシャドウ論をからめて考えてみたい。
うまくまとめられるかどうか自信はないが、一度、書いてみる。

 シャドウ論……「シャドウ(影)」として、心の裏に閉じこめられた人間性は、その近く
にいる人に伝染しやすい。その一例として、佐木隆三の『復讐するは我にあり』がある。

 昨年(09年3月)に書いた原稿を、もう一度、ここでとりあげてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

++++++++++++++++++++

ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

++++++++++++++++++++

●みな、かぶっている

 たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

 今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

 映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

 以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

 もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

 が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

 しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

 が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●シャドウ

 このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

 このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

 ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

 私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

 で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++

【シャドウ論】

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。
するとやがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分
で、自分は善人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも
私は善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体
に演技ぽい。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。
それがシャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、
まあ、それに近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身
近にいる人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の
醜いところをそっくりそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、お
だやかで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜
い欲望が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好
きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、
そのシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができ
た。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単
位の話ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねた
まれると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみ
ならず、自分の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っ
ていました。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚
く、その人をののしっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなか
ったかと思います。母には、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一
面を、そっくりそのまま受け継いでしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシ
ャドウのもつ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらな
いこと。といっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての
仮面。店員としての仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰っ
て家族を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、
それだけではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受
けつがれてしまう。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 
幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ユング 仮面 ペルソナ 
シャドウ論)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、
夫としての仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴
られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよ
い。ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、
ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事
件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないこ
とがわかる。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンシ
ョンに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育に
も熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言った
とする。「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰
よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思
って、そう言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウが
つきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断
している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところ
がある。「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですって
ねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、その
まま学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場
町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断す
る基準が、出身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きつい
でしまう。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れよ
うとしている」と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる
基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』で
ある。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みご
とな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握ら
せる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不
倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげ
る原動力になった。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけ
ならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言え
る。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのま
まの自分を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、
まし。もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子
どもにとっては、好ましいということになる。

(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャド
ウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●韓国とK国

 K国は韓国に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、韓国は、何もしてこないだろう」と。
一方、韓国は日本に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、日本は、何もしてこないだろう」と。

 そしてK国は、韓国に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをして
いる。
韓国は、日本に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをしている。
ともにその根底にあるのは、被害妄想と「甘えの構造」。

 たしかに韓国はK国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。
南北統一についても、今、統一したら、それこそたいへんなことになる。
南北統一を望んでいないのは、当の韓国ということになる。

 一方日本は韓国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。
竹島の実効的支配を進めれば進めるほど、世界に向かって、「竹島は韓国の領土ではない」
と、宣言しているようなもの。
どうしてあんな島に、ヘリポートを作り、一般人を住まわせるのか?
その(無理)が、不自然!
不自然だから、無理をする!
世界の人は、だれしも、そう思う。
本当に自分の領土なら、もっと堂々としていればよい。
姑息なことをするから、かえって疑われる。

●で、シャドウ論

 K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ。
わかるか?
表では正論をぶっているが、仮面の下では、姑息なことを繰り返している。
自動車にしても、「前から見れば、TOYOTA車、うしろから見れば、NISSAN車」。
そんな車を、平気で作っていた。
ほんの10年前の話である。

 日本中の、それこそ津々浦々にまで産業スパイをはびこらせ、日本から奪えるものは、
何でも奪っていった。
その結果が今である。
ウソだと思うなら、韓国の現在の産業構造を見ればよい。
20~40年前の日本の産業構造そのもの。
自動車、鉄鋼、電子産業などなど。
反対に韓国が独自に発展させた産業は、ひとつもない!
 
 それをK国は、横から見ている。
そして韓国が生来的にもっていた(姑息さ)を、K国がそっくりそのまま引き継いでいる。
先に「K国は、韓国のあとを追いかけている」と書いたのは、そういう意味。

 ……と書くのは、書き過ぎ。
かなり過激。
私もそれをよくわかっている。
しかしこれだけは言える。

 韓国の人よ、K国の人よ、なし崩し的に、ものごとを既成事実化するのは、やめよう。
「竹島」にしても、韓国の人よ、日本人がおとなしいからといって、それをよいことに、
言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをやるのは、やめよう。
いいか、韓国の人よ、K国が崩壊したら、竹島どころではなくなるぞ。
へたをすれば、38度線以北は、中国の領土となる。
「渤海国」になる。
わかっているのか。
そのとき日本に泣きついてきても、遅いぞ。

 ここは冷静に!
この極東アジアで、だれが友人で、だれが友人でないか、少しは頭を冷やして考えろ。
謙虚になれ。

 「自分たちの領土でない」ということを、心の奥で自覚しているからこそ、日本政府の
発言に、そのつどビクつく。
大騒ぎする。
それがいやなら、もっと正々堂々と、国際裁判所という「場」で、たがいに証拠をあげて
闘おうではないか。
どうしてそれがまずいのか?
何かまずいことでもあるのか?

 以上、「竹島(独島)」問題を、シャドウ論をからめて、考えてみた。
どこか「木に竹を接ぐ」ようなエッセーになってしまったが、許してほしい。
竹島問題の記事を読んだとき、ふと「シャドウ論」が頭の中を横切った。
「K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ」と。
それでこんなエッセーになってしまった。

 「?」と思われる人がいるなら、このエッセイを、「朝鮮問題」と、「シャドウ論」の2
つに、頭の中で分けて読んでほしい。
勝手な願いで、ごめん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 竹島問題 独島問題 シャドウ論 はやし浩司 ユング シャドウ論 
実効的支配 なし崩し的支配)


●BW教室

2010-05-19 07:13:46 | 日記
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【声を出そう!】(新年長児クラス)4月12日(2010年)

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【小2・かけ算の基礎】BW教室byはやし浩司

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以下、

【URL】

●「声を出そう!」(年長児)

http://www.youtube.com/watch?v=fjADTUwoA8A

http://www.youtube.com/watch?v=To00SRd0XIs

http://www.youtube.com/watch?v=L175iuUGYEo

http://www.youtube.com/watch?v=0qnYabH-eX8

http://www.youtube.com/watch?v=ySC_IWtJWaU

http://www.youtube.com/watch?v=1dkZd2O54X0

●「かけ算の基礎」(小2児)

http://www.youtube.com/watch?v=58eG2Q_iZv4

http://www.youtube.com/watch?v=YiE4rHd-gdw

http://www.youtube.com/watch?v=YJgMTRt0RsA