最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

1/2希望とは

2010-12-31 09:47:59 | 日記





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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 1月 21日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●はやし浩司 2010-12-10

●消えたキジバト

 二羽のキジバトの雛がいた。
数日前、一羽が行方不明になった。
昨日、もう一羽も行方不明になった。
まだじゅうぶん、飛べないはず。

 昨日もワイフが、しばらくあちこちをさがした。
私もさがした。
が、どこにもいなかった。

 『ドラえもん』の中に出てくる、タンポポの種の話を思い出した。

●子どもの巣立ち

 子どもは巣立ったあと、無数の父親に出会い、無数の母親に出会う。子どもはたしかに
あなたから生まれ、あなたによって育てられるが、決してあなたのモノではない。あなた
が育てるのは、あくまでも一人の人間。そしてその人間は、やがてあなたから巣立ち、そ
の子ども自身の人生を始める。



 親としては、うれしくも、どこかもの悲しい瞬間でもある。自分の手で子どもの心をす
くっているはずなのに、その心が、指の間からポタポタともれていく。その切なさ。その
はがゆさ。しかし親としてできることはもうない。ただ黙って、その背中を見送るだけ。



 子どもは、子どもの世界で、それから先、無数の父親に出会い、無数の母親に出会って
いく。私ひとりが、子どもの父親ではない。母親でもない。そう思うのは、それは同時に、
私たちが子離れの、最後の仕あげをするときでもある。「お前の人生は、お前のもの。たっ
た一度しかない人生だから、思う存分、この世界を羽ばたいてみなさい」と。



 が、振りかえると、そこには秋の乾いた風。ヒューヒューと乾いたホコリを巻きあげて、
枯れた木々の間で舞っている。心のどこかで、「こんなはずではなかった」と思う。あるい
は「どうしてこういうことになってしまったのか」とも思う。しかし子どもは、もうそこ
にはいない。



 願わくば、幸せに。願わくば、無事に。願わくば、健康に。



 親孝行? ……そんなくだらないことは考えるな。家の心配? ……そんなくだらない
ことも考えるな。私たちは私たちで、最後の最後まで、幸福に生きるから、お前はお前た
ちで、自分の人生を思いっきり生きなさい。この世界中の人が、お前の父親だ。お前の母
親だ。遠慮することはない。



 精一杯、親としてそう強がってはみるものの、さみしいものはさみしい。しかしそのさ
みしさをぐっとこらえて、また言ってみる。「元気でな。体を大切にするんだよ」と。あの
藤子・F・不二雄の「ドラえもん」の中にも、こんなシーンがある。「タンポポ、空をゆく」
(第一八巻・一七六ページ)というのが、それ。



 タンポポがガラスバチの中で咲く。それをのび太が捨てようとすると、ドラえもんが、「や
っと育った花の命を、……愛する心を失ってはいけない」と、さとす。物語はここから始
まるが、つぎにドラえもんは、のび太に、花の心がわかるグラス(メガネ)を与える。の
び太は、そのグラスを使って、花の心を知る。



 タンポポの心を知ったのび太は、タンポポを日当たりのよい庭に植えかえる。が、しば
らくすると、嵐がやってくる。のび太はタンポポをすくうため、嵐の中で、そのタンポポ
に植木バチをかぶせる。こうした努力があって、タンポポはやがてきれいな花を咲かせる。
のび太が「きれいに咲いたね」と声をかけると、タンポポは、「のび太さんのおかげよ」と、
礼を言う。「こんないい場所へ植えかえていただいて、嵐から守ってもらって。のび太さん
は、ほんとうにやさしくて、たのもしい男の子だわ」と。



 そのタンポポの種が、空を飛び始めるとき、のび太は、こう言う。「いよいよだね」と。
小さなコマだが、のび太が手をうしろに組み、誇らしげに空を見ているシーンが、すばら
しい(一八六ページ)。そのあと、のび太はこうつづける。

 「子どもたちが、ひとりだちして、広い世界へ飛び出していって……、きれいな花を咲
かすんだね」と。 

 一人(一本)だけ、母親のタンポポから離れていくのをいやがる種がいる。「いやだあ、
いつまでもママといるんだあ」と。それを見てのび太が、またこうつぶやく。「いくじなし
が、一人残っている……」と。



 タンポポの母親「勇気を出さなきゃ、だめ! みんなにできることが、どうしてできな
いの」

 子どもの種「やだあ、やだあ」

 のび太「一生懸命、言い聞かせているらしい。タンポポのお母さんも、たいへんだなあ」

 タンポポの母親「そうよ、ママも風にのって、飛んできたのよ」

 子どもの種「どこから? ママのママって、どこに生えていたの?」

 タンポポの母親「遠い、遠い、山奥の駅のそば……。ある晴れた日、おおぜいの兄弟た
ちと、一緒に飛びたったの」

 子どもの種「こわくなかった?」



 タンポポの母親「ううん、ちっとも。はじめて見る広い世界が、楽しみだったわ。疲れ
ると。列車の屋根におりて、ゴトゴト揺られながら、昼寝をしたの。夜になると、ちょっ
ぴりさびしくなって、泣いたけど、お月さまがなぐさめてくれたっけ。高くのぼって、海
を見たこともあるわ。青くて、とってもきれいだったわよ。やがてこの町について……。
のび太さんの、お部屋に飛び込んだの」

 子どもの種「ママ、旅をして、よかったと思う?」

 タンポポの母親「もちろんよ。おかげできれいな花を咲かせ、ぼうやたちも生まれたん
ですもの」



 子どもの種「眠くなっちゃった」

 タンポポの母親「じゃあね。歌を歌ってあげますからね。ねんねしなさい」



 子どもの種が旅立つ日。のび太はその種を、タケコプターで追いかける。



 のび太「おおい、だいじょうぶか」

 子どもの種「うん。思ったほど、こわくない」

 のび太「どこへ行くつもり?」

 子どもの種「わかんないけど……。だけどきっと、どこかできれいな花を咲かせるよ。
ママに心配しないでと伝えて」

 のび太「がんばれよ」



 この物語は、全体として、美しい響きに包まれている。何度読み返しても、読後感がさ
わやかである。それだけではない。巣立っていく子どもを見送る親の切なさが、ジーンと
胸に伝わってくる。子どもの種はこう言う。「ママに心配しないでと伝えて」と。タンポポ
の親子にしてみれば、それは永遠の別れを意味する。それを知ってか知らずか、のび太は
こう言ってタンポポの種を見送る。「がんばれよ」と。私はこの一言に、藤子・F氏の親と
しての姿勢のすべてが集約されているように感ずる。



 あなたの子育てもいつか、子どもの巣立ちという形で終わる。しかしその巣立ちは決し
て美しいものばかりではない。たがいにののしりあいながら、別れる親子も多い。しかし
それでも巣立ちは巣立ち。子どもたちは、その先で、無数の父親や母親たちを求めながら、
あなたから巣立っていく。あなたはそういう親たちの一人に過ぎない。あなたがせいぜい
できることといえば、そういう親たちに、あなたの子どもを託すことでしかない。またそ
うすることで、あなたは子どもの巣立ちを、一人の人間として見送ることができる。



 さあて、あなたはいったい、どんな形で、子どもの巣立ちを見送ることになるだろうか。
それを心のどこかで考えるのも、子育てのひとつかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
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●キジバト

 断言するが、うちのハナ(ポインター種、猟犬)は、けっして雛を襲わない。
枝から雛が落ちてくると、ワンワンとほえて私たちに知らせるが、襲うことはない。
(子犬のときは。雛と戯れて、雛を殺してしまったことはあるが……。)
ハナは、人相はよくないが、心のやさしい犬である。
今では、キジバトのほうでもそれをよく知っていて、数メートル先でも平気で、エサを
食べている。

 しかし、どこへ行ってしまったのか?

 で、残るは、猫ということになる。
このあたりでも、猫を放し飼いにしている家は多い。
無責任極まりない飼い方ということになる。
猫だって、犬と同じように家の中で飼うべき。
外では、ひもをつけて飼うべき。
欧米の人たちは、みな、そうしている。

 ハナの目を盗んでは、私の家の庭にやってくる。
猫に見つかったら、雛は逃げようがない。
どこかの猫に殺されたのかもしれない。
巣立ちとは言うが、あまりにも過酷な巣立ち。

 窓の外の空にになった巣には、今朝も冬の白い光がさしこんでいる。
静かな朝だ。
色を変え始めた栗の葉が、小刻みに揺れている。


みなさん、おはようございます。
 

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

2010年3月11日木曜日
*What is Wisdom for Man

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この原稿が、グーグルの「知恵」サイトに
正式に紹介されるようになりました。
それを記念して、ここに再掲載します。

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●知恵

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布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、
「六波羅密(ハラミツ)」という。
このうちの「布施、持戒、忍辱、精進、善定」については、
たびたび書いてきた。
が、「知恵」については、あまりにも当たり前のことと
思い、書いたことがない。

++++++++++++++++++++++

●知恵の重要性

 教育の世界では、「無知は罪」と考えてよい。
親の無知が、子どもの心をゆがめるというケースは少なくない。
相手がいないばあいなら、無知であることも許される。
しかし相手がいて、その相手に影響を及ぼすなら、「無知は罪」となる。
しかもその相手というのが、無抵抗な子どもというのなら、なおさらである。
そういう意味では、総じて言えば、愚鈍は恥ずべきことであって、けっして誇るべきこと
ではない。

 で、六波羅密においては、「知恵」を6番目の徳目としてあげた。
もちろんこれは私の勝手な解釈によるもので、仏教学者の人たちなら、顔を真っ赤にして
怒るかもしれない。
六波羅密は、大乗仏教(北伝仏教)の修行法の根幹をなすものである。
「はやし(=私)ごときに、何がわかるか!」と。

●善と悪

 そこで私の善悪論の根幹をなす考え方について。
私はいつもこう書いている。

「悪いことをしないからといって、善人というわけではない」
「よいことをするから、善人というわけでもない」
「人は、悪と積極的に戦ってこそ、善人である」※と。

 「悪と戦う」というのは、(外部の悪)はもちろんのこと、(自分自身の内部に潜む悪)
もいう。
このことも、子どもの世界を観察してみると、よくわかる。

 何もしないで、静かにおとなしくしている子どもを、よい子どもとは言わない。
あいさつをきちんとし、先生の言うことをハイハイと、従順に従う子どもを、よい子ども
とは言わない。
身近でだれかが悪いことをしたとき、それを制したり、戒める子どもを、よい子どもとい
う。

 実際、よいこともしなければ、悪いこともしないという人は、少なくない。
万事、ことなかれ主義。
小さな世界で、丸く、こじんまりと生きる。
しかしそういう人を、善人とは言わない。
「つまらない人」という。
ハイデッガー風に言えば、「ただの人(das Mann)」。

 で、私たちは、積極的に悪と戦っていく。
そのとき最大の武器となるのが、「知恵」ということになる。
知恵なくして、人は、悪と戦うことはできない。
「悪」のもつ愚鈍性を見抜いたとき、善は悪に打ち勝ったことになる。
これには、(外部の悪)、(内部の悪)もない。

●知恵を磨く

 愚鈍の反対側にあるものが、「知恵」ということになる。
そう考えると、知恵が何であるかが、わかる。
言い替えると、「考える力」、その結果として得られるのが、「知恵」ということになる。

 誤解してはいけないのは、知識イコール、知恵ではないということ。
いくら知識があっても、それを反芻し、消化しなければ、知恵にはならない。
その「反芻し、消化する力」が、「考える力」ということになる。

 このことは反対に、老人の世界を観察してみると、よくわかる。
認知症か何かになって、考える力そのものを喪失したような老人である。
口にすることと言えば、過去の愚痴ばかり。
そういう老人には、ここでいう「悪と戦う力」は、もうない。
もちろん善人ではない。
善人とは、言いがたい。

 が、だからといって、善人になるのは、難しいことではない。
自分で考えて、おかしいと思うことについては、「おかしい」と声をあげるだけでよい。
たったそれだけのことだが、その人をして、善人にする。

+++++++++++++++++

(注※)3年前に書いた原稿を添付します。
日付は、2007年9月26日(水)と
なっていますが、この原稿自体、
さらにその6、7年前の2000年ごろ
書いたものです。

+++++++++++++++++

●善と悪

●神の右手と左手
 
 昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。
善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないと
いうことらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いて
いるのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反
キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるもの
すべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。
それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの
努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをす
るのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということに
なる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、
たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「~~しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさ
い」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。
人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして
自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりに
はだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういう
とき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそ
が道徳ということになる。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのよう
に自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思
い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そうい
ったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。

駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差
点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもな
いことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考
えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。
ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、
結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。

それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにし
ても、決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使
うなら、もっと前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニー
チェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、
それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くな
ったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるの
か。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、そ
の謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。こ
こに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子
どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の
子(小3)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで
私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「い
いです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が
食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのも
のだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がか
たいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買っ
てあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判
断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれない
が、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思な
らわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかった
はずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自
ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』とい
う言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人
にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪い
ことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじ
めて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、2つに分かれることがわかる。

1つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理とい
うことになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう1つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間にな
る方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どち
らを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問
題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていく
と、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく
行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも
収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、
その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える
力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 善と悪 善人と悪人 考える力 知恵 智慧 知性 知識)


2/2

2010-12-31 09:47:25 | 日記

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

はやし浩司 2010-12-11

●映画『ロビン・フッド』★★★★+

+++++++++++++++++++++++++

昨夜、仕事が終わってから、映画『ロビンフッド』を
観てきた。
主演は、ラッセル・クロウ。
久々に、痛快な映画を観た。
胸がスカッとした。
「娯楽映画は、こうでなくちゃあ!」という映画だった。
ストレス解消には、最高!
星は4つの、★★★★+。

「カンヌ国際映画祭オープニング上映作品」というだけに、
期待も大きかった。
で、その通りの映画だった。
観終わった後の爽快感がすばらしかった。
映画館を出た後、ワイフと2人で、「よかった」「よかったね」と。

が、観客は、私たち(ワイフと私)を含めて、4人だけ。
金曜日の夜というのに……。

ワイフはこう言った。
「あんなすばらしい映画なのに、4人だけ?」と。

不景気なのか。
寒いからなのか。

何かのことでムシャクシャしている人は、『ロビンフッド』を
観たらよい。
先にも書いたように、ストレス解消には、最高!

つぎはいよいよ、『トロン』。
30年近く前に、前作を観た。
当時としては、衝撃的な作品だった。
その続作。
楽しみ!

帰る途中に、回転寿司屋で、遅い夕食。
私が4皿。
ワイフが4皿。
寿司がこんなに気軽に食べられるようになるとは、
想像もしていなかった。

++++++++++++++++++++++++


●読者の方より

 昨日、京都に住んでいる23歳の女性から、メールをもらった。
うれしかった。
それには私の書いた原稿を読んで、「救われました」とあった。
「文」を通して、心が通い合う。

浜松に住む私と、京都に住むその女性。
63歳の私と、23歳の女性。
その原稿を書いたのは、ずっと前。
過去の私と、現在のその女性。
こんなすばらしいことはない。
そのすばらしさを、実感した。

 Gさん、ありがとう!


●「文藝春秋」

 私が学生のころは、「文藝春秋」と言えば、「権威」そのものだった。
「文藝春秋を読んでいる」と言うだけで、ステータスだった。
雑誌といっても、捨てる人はいなかった。
たいていみな、本箱にずらりと並べていた。
今でもその地位は不動。

先週も、「日本の論点2011」(文藝春秋版)を買った。
「日本の論点」というような良書となると、今は、少ない。
が、影響力となると、相対的に、低くなった。
若い人たちで、文藝春秋を読んでいる人は、ほとんどいない。

 が、昨日、こんな経験をした。
「英語教育は不要、論語教育を」という記事を読んだときのこと。
「こんな暴論を載せるようでは、文藝春秋もおしまいだな」と。
つまり私のような人間でも、文藝春秋を批判できるようになった。
アラというか、ボロがわかるようになった。

 40年前はどうだったか、知らない。
しかし今は、マスコミの世界で知名度をあげた人だけが、名前を連ねている。
つまり有名人にぶらさがったような記事ばかりを、並べている。
内容よりも、そのときの知名度?
こうなると、雑誌としての命は、短い。
手っ取り早く、話題性だけを追求している。
編集者が、(本気)を喪失している。

 数年前までは、「現代」「諸君」そして「文藝春秋」、そのうちのどれかを、毎月
買っていた。
が、ここ数年、ほとんど買っていない。
それには理由がある。

 あるとき文藝春秋を読んでいたとき、こう感じた。
「文藝春秋は、私たち庶民を相手に雑誌を売りながら、その実、私たち庶民をゴミの
ように思っている」と。
つまり私やあなたのような無名人は、もとからお呼びではない、と。
わかりやすく言えば、過去の亡霊にとりつかれたまま、庶民性を見失ってしまった。
「文藝春秋の名前が目に入らぬか! 控え折ろう!」と。

 が、これでは庶民にそっぽを向かれて当然。
だから私はこう思った。
「私など、もとから相手にされていない。だったら、私も文藝春秋など相手にするか」と。
しかし庶民だって黙っていない。

 昨日も、BLOGへのアクセス数(5誌合計)だけで、6000件を超えた。
ホームページへのアクセス数は、毎日、平均して、5000件はある。
ほかに電子マガジン。
毎月12回、発行している。
この読者が、計3500人。
YOUTUBEへのアクセス数が、毎日600件以上。
みながみな、好意的な読者とはかぎらない。
しかしアクセス数だけをみるかぎり、毎月30万件をはるかに超えている。
月によっては、50万件を超えることもある。
かたや文藝春秋は、毎月の発行部数は60万部前後。
あと一歩で、文藝春秋の発行部数を超えることができる。
 
 一寸の無名人にも、五分の魂。
どうか忘れないでほしい。

●出版社

 インターネットの普及とともに、どこの出版社も青息吐息。
本そのものが、売れなくなった。
そこで出版社は、「話題性」という言葉をよく使う。
つまり「売れる本」。

 私もある英語月刊雑誌の創刊企画を手伝ったことがある。
『ハローワールド』(学研)という雑誌である。
そのあと編集企画の仕事もした。
当時、その雑誌は一時、月間27万部の売り上げを記録した。
だから編集者の気持ちも、よくわかる。
が、雑誌社というところは、不思議な世界で、「人を育てない」。
わかりやすく言えば、雑誌社でいくら仕事をしても、そのあとの仕事につながって
いかない。
社内のしくみそのものが、そうなっていない。

 一方、有名になるのだったら、テレビに顔を出すのがいちばん。
有名になれば、仕事は、外から舞い込んでくる。
その「外」のひとつが、雑誌社。
雑誌社ほど、有名人に弱い。
だからその有名人たちは、いつもこう言う。
「中央で有名になって、地方で稼げ」と。

 「話題性」の中には、当然、著名性が含まれる。
肩書き、地位、キャリアもそれに含まれる。
雑誌社はそれらをうまく利用して、売り上げを伸ばす。
「本」といっても、雑誌社の世界では、「商品」。
「この人が話題になっている。この人を使ってみよう」
「あの人は、肩書きをもっている。その肩書きを利用させてもらおう」と。

 が、ここにきて強敵が現れてきた。
「インターネット」と呼ばれる強敵である。
言うなれば、「商品でない文章」が、自由に、しかもタダで手に入るようになった。
少し前までは、「安かろう、悪かろう」の文章がほとんどだった。
実際、つぎのように書いていた出版社もあった。

「本というのは、編集者や校正者などの手を経て、ていねいに作られる。
つまりインターネットに氾濫する文章とは、格ががちがう」と。

 しかし今では、それも逆転した。
インターネットでも、良質な文章を読むことができるようになった。
情報にしても、自分のほしいのを、ねらい打ちできる。

 広告費の増減をみるまでもなく、勝敗はすでに決まっている。
結論から言えば、雑誌の時代は、終わった。
……ということなら、だれにでも書ける。

 そこでどうだろう、こう考えては?
これは新聞社についても言えることだが、記事にはQRコードをつける。
「もっと詳しく知りたい人は、ここからアクセスしてください」と。
つまり雑誌をインターネットと連動させる。

 たとえば「英語教育廃止論に対して、はやし浩司という人が、反論記事を書いている。
それを読みたい人は、ここからアクセスしてください」と。
つまりインターネットを「敵」と位置づけるのではなく、インターネットを雑誌の
中に取り込んでいく。
裾野を広げる。
そうすれば、庶民性もぐんと広がる。
発行部数も伸びる。
知恵を働かせば、方法はいくらでもあるはず。

 文藝春秋に話を戻すが、団塊の世代の一員として、文藝春秋には、もっとがんばって
もらいたい。
今でも私は、「文藝春秋」という名前を聞いただけで、ズシリと重いものを感ずる。

++++++++++++++++

今日も始まった。
がんばろう。
おはようございます!

12月11日。
2011年まで、残り20日。
この20日を、完全燃焼させるぞ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 文藝春秋 雑誌vsインターネット)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●「日本の論点・2011」(文芸春秋)を読みながら……

●危機の経済

+++++++++++++++++

「日本の論点・2011」を開く。
真っ先に読んだのが、「危機の経済」
(P82~)。
経済関連記事が、P~135までつづく。

+++++++++++++++++

●不公平感

 村上尚己氏は、こう述べている。
「(このデフレ下で、もっとも恩恵を受けているのは)、多額の現金を蓄財する
ことに成功した高齢者と、公務員である」(P91)と。
こういう人たちを、「デフレ既得権益者」と呼ぶのだそうだ。
同感!
私の知人などは、もう15年以上も前から、こう言っていた。
当時H市の市役所で、課長職にあった。
「林さん(=私)、こうなってみると、公務員になっていて、本当によかった
と思いますよ」と。

 給料はさがらない。
生活は安定している。
その一方で物価だけは、どんどんと下がる。
もちろん失業の心配は、まったくない。

 村上氏は、「若年世代の不公平感は極度に強まっているが……」と書いている。
が、実際には「爆発寸前」、もしくは、すでに爆発している。
たとえばこのところ若年世代の高齢者叩きが、ますますはげしくなってきている。
高齢者に対する意識そのものが、大きく変化している。
若者たちが意見を交換するBLOGを読んでみれば、それがよくわかる。
虐待どころか、「ジジババ不要論」まで飛び出してきている。

 公務員について言えば、今のところは、まだ平穏。
しかし彼らを見つめる世間の目は、冷ややか。
先に書いた知人にしても、満額の退職金の上に、現在は月額30万円を超える年金を
手にしている。
「うらやましい」と思う前に、私などは、怒りのほうを先に覚えてしまう。

●数百年に一度の……世界同時不況

 「日本の論点」の中で、もっともショックを受けた記事が、これ。
「数百年に一度の構造変化が生み出す世界同時不況。……円高はその序奏だ」と。
榊原英資氏がそう書いている。

 で、日本の景気だが、榊原氏は結論として、こう書いている。

「……しかし先行きは暗い。欧米の経済の構造的不況は、時間差をもっていずれ日本に
およんでくるだろう。2010年末から2011年にかけて、大きく景気が後退する
可能性が高い」(P87)と。

 今でさえ、体感景気は最悪。
それが2011年にかけて、さらに悪くなるという。

 では榊原氏が説くような、「大量に国債を発行し、強力な景気対策を打つべきだろう」
という方法が有効かというと、これにも問題がある。
いくらお金をバラまいても、投資先がなければ、マネーは投機に回るだけ。
タンスの中に眠るだけ。
別のところで、岩本康志氏は、こう書いている。

「……大規模な財政出動をすれば、デフレは終わり、インフレに転ずる。
しかしそれだけの規模の有効な使い道がなければ、財政支出のもたらす害のほうが大きい
かもしれない。
また先進国最悪の政府債務残高をもつ状況では、国債の信認を失いかねない危険な行為
である」(P97)と。

 つまり世界経済も、日本経済も、今、真っ暗な袋小路に入ってしまった。

●では、どうするか?

 経済学者は、国家としての戦略、戦術を考える。
しかし私たち庶民には、関係ない!
我が身は我が身で、守るしかない。
つまりここは、自己防衛に徹するのみ。

 ただひたすら、まじめに働き、ただひたすら、静かに過ごす。
(=仕事を失わない。)
少しでも小銭が貯まったら、ただひたすらタンス預金。
(=仮にハイパーインフレがやってきても、無いよりはマシ。)
その小銭がある程度貯まったら、金(地金)、土地などの金融資産に替える。
(=ハイパーインフレは時間の問題。ハイパーインフレになれば、
タクシーの初乗りが、100万円になるという(藤巻健史氏・P109))。
嵐が吹きすさぶ夜は、雨戸を閉めて、それが通り過ぎるのをじっと待つ。
(=嵐もいつかは去る。)

 もちろんみながみな、同じことをしたら、日本経済は萎縮するのみ。
が、私たちがそれを心配しても、どうしようもない。
「内需拡大」という声に踊らされたら、その翌年には餓死するかも。
そんなことでは困る。

 ……ということで、「日本の論点」を読んでいたら、何とも暗~イ気分になって
しまった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 日本の論点 経済問題 文藝春秋 日本の論点 2011)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●12月9日(木曜日)

+++++++++++++++

小寒い朝。
ウォーキングマシンで一汗。
そのまま、つまりパジャマ姿で書斎へ。

メールを読む。
孫たちへのプレゼントが届いたよう。
よかった!

ところで栗の木の上に、二羽のキジバトの雛がいたが、
今朝見たら、一羽しかいない?
よくさがしてみたが、やはり一羽。
どうしたのだろう。

食事のときワイフもそれを心配していた。
「巣立ったのかしら?」と。

+++++++++++++++

●手元にない

 昨夜も床に入ってから、「日本の論点」を読んだ。
そのためその本は、書斎にはない。
「どうしよう?」。
何度も悩む。
寝室へ取りにいくべきか、否か。
取りに行くのも、めんどう。

 しかし今、いちばんおもしろい本は、「日本の論点2011」(文藝春秋)。
日本の現状が、地図でその場所を見るように、よくわかる。
それに私の知らないことが、山のように書いてある。
何というか、未開の原野を前にしたような気分になる。
それが楽しい。

 そんなわけで、手元がさみしくてならない。
やはり取ってこよう。

●JAL問題(整理解雇すべきは、天下り官僚たち)

 JALもANAも、結局は「日本」という「温室」の中で、細々と経営をつづける
しかない。
日本の空だけを飛びつづけるしかない。
それが唯一、生き残る道。
「日本の論点2011」を読んで、そう感じた。

 今や世界は、LCC(低コスト航空会社)時代。
EUでは、バス料金並、電車料金並……というか、バスや電車と同じように利用されて
いる。
しかも料金は、ばあいによっては、300円、700円(日本円)になることもあると
いう(フランスの地方空港から、パリ・オルリー空港までの料金)。

……利用者はネットを見ながら、徐々に料金がさがっていくのを見る。
満席直前になると、ばあいによっては、300円、700円になる。
その直前に航空券の申し込みをする。
あとはそれをプリントアウトし、急いで空港へ。
席は早い者勝ち。
バス、あるいは電車(自由席)に乗るような感覚で、飛行機に乗る。

 で、そのうちこんな珍現象が見られるようになるかもしれない。
たとえば羽田から沖縄へ行くとき、羽田から一度マニラまで飛ぶ。
マニラから沖縄へ戻る。
それでも料金は、JALやANAの2分の1、と。

 日本を取り巻く環境は、すでにその段階へ来ている。
が、JALは、(ANAも)、あまりにも腰が重い。
国の施策に振り回され、身動きさえままならない。
つまり小回りができない。

 「日本の論点」によると、残された時間は、あと2年。
2年たつと、支援機構の後ろ盾を失う。
「その先は新たなスポンサーが必要であり、その手段が再上場。
その絶対条件が、黒字体質への転換である」(P374)と。

 それについて中条潮氏は、こう書いている。

「(JALの)再建は、国の規制からの解放による経営の独立性の確保と、自己責任
の徹底が必須であるにもかかわらず、政府は日本航空の広告の過大さを指摘したり、
LCC子会社を設立するよう圧力をかけたりしてきた。

 これでは日本航空自身がいくら努力をしても、結局は国の施策に押しつぶされて
再倒産してしまい、機構の資金は無駄になる」(P370)と。

 今日、12月9日を期限に、JALは、強制的な整理解雇に踏み切るという。
しかし整理解雇すべきは、天下りしてやってきた元官僚たちである。
JALを、がんじがらめにしているこうした元官僚たちから、まずJALという鳥を
解き放つ。
それなくして、JALの再建はありえない。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

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●モンスターママvs溺愛ママ

2010-12-30 16:01:40 | 日記
●溺愛ママの子育てブルース

++++++++++++++++++

ある日、ある母親(47歳)は、娘(22歳)
から、三下半(みくだりはん)を突きつけられた。
娘が大学を卒業した直後のことだった。

江戸時代、簡略に離婚事由と再婚許可文書を、
3行半で書いた。
そのことから、そういう。
ふつうは、夫から妻に出す離縁状をいう。

が、実際に、三下半だった。
携帯電話のメールで、娘は母親にこう伝えた。

「今後生涯にわたって、絶縁します。
一切、連絡はしないでほしい。
私を捜すこともしないでほしい。
         ○○圭子」

++++++++++++++++++

●ヤボな話

 これはヤボな話かもしれない。
しかしこういうケースのばあい、母親は、娘を訴えることができるか。
それまでの養育費と学費、それに慰謝料を請求することができるか。
法律的には可能かもしれない。
しかし実際には、子育てに対する構え方によってもちがうが、裁判沙汰にする親は
いない。
泣き寝入りするのが、ふつう。
実際、その母親はそれがきっかけで、うつ病を発症し、気が変になってしまった。

●溺愛の果て

 親が子どもを溺愛して、よいことは何もない。
親はよかれと思い、子どもを溺愛するが、子どものほうこそ、ありがた迷惑。
親が思うほど、子どもは感謝していない。
そればかりか、それを過干渉ととる。
ある男子高校生は、母親にこう言って叫んだ。

「いつオレが、お前に産んでくれと頼んだ!」と。
母親の存在感が大きすぎた。
その男子高校生は、それに反発した。

●溺愛ママ

 溺愛ママについては、たびたび書いてきた。
全体としてみると、もっぱら、子どもの立場で書いてきた。
しかしここでは親の立場で考えてみたい。
というのも、「溺愛ママ(パパでもよいが)」というと、自業自得と考える人が多い。
子育ての失敗が原因で、結果として、親自身がひどく傷つく。
だから自業自得、と。

 しかしそうとばかりは言えない。
溺愛ママと呼ばれる人は、それなりに愛情も深い。
子育てに没頭する分だけ、子どもに時間とヒマ、それにお金をかける。
子どものためならと、どんな苦労も厭わない。
ただ子どもを溺愛する母親(父親でもよい)には、情緒的な欠陥があることが多い。
未熟性といってもよい。
それが母親をして、子どもを溺愛に走らせる。
が、それは母親自身の責任ではない。
その母親を育てた、両親の責任である。
溺愛ママだけに、自業自得と、責任をおおいかぶせるのは、あまりにも酷。
かわいそう。

++++++++++++++

溺愛ママについて書いた原稿を
さがしてみます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●溺愛

親が子どもに感ずる愛には、3種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。
本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえ
ば母親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本
能的な愛で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類は
とっくの昔に滅亡していたことになる。

つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをい
う。一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべ
ればよい。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する
親も、同じように考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに
押しつけているだけ。

三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と
意識したとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで
決まる。英語では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子ども
のできが悪くても、また子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。
その度量の広さこそが、まさに真の愛ということになる。

それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいて
いは親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭
不和、騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子
どもを溺愛するようになる。

 溺愛児は親の愛だけはたっぷりと受けているため、過保護児に似た症状を示す。

(1)幼児性の持続(年齢に比して幼い感じがする)、
(2)人格形成の遅れ(「この子はこういう子だ」というつかみどころがはっきりしない)、
(3)服従的になりやすい(依存心が強いわりに、わがままで自分勝手)、
(4)退行的な生活態度(約束や目標が守れず、生活習慣がだらしなくなる)など。全体にちょうどひざに抱かれておとなしくしているペットのような感じがするので、私は「ペット児」(失礼!)と呼んでいる。柔和で、やさしい表情をしているが、生活力やたくましさに欠ける。

 溺愛ママは、それを親の深い愛と誤解しやすい。中には溺愛していることを誇る人もい
る。が、溺愛は愛ではない。このテストで高得点だった人は、まずそのことをはっきりと
自分で確認すること。そしてつぎに、その上で、子どもに生きがいを求めない。子育てを
生きがいにしない。子どもに手間、ヒマ、時間をかけないの3原則を守り、子育てから離
れる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ブルース

 自分の中に溺愛性を感じたら、子どものためというよりは、自分自身のために、子育てから離れたほうがよい。
その時期はできるだけ早いほうがよい。
溺愛にのめりこめばのむほど、あとあと傷口が深くなる。

 親が子どもを溺愛して、子どもが親の望み通りになるケースは、100に1つもない。
ご注意!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 溺愛 でき愛 溺愛ママ でき愛ママ でき愛ママブルース)

●モンスターママvsヘリコプターママ

●ヘリコプター・ママ(Helicopter Mothers in South Korea)

++++++++++++++++++

韓国には、「ヘリコプター・ママ」と呼ばれる
母親たちがいるそうだ。

「ヘリコプターのように子どもの周囲を駆けずり回り、
あれこれ世話をする母親」(朝鮮N報)という意味だ
そうだ。

++++++++++++++++++

朝鮮N報、8月10日付け(2008)に、こんな興味深い記事が載っていた。
少し日本語を読みやすくして、紹介する。

+++++++++++++以下、朝鮮N報より+++++++++++++

ある名門大学の経営学科に通うキム某君(19)は、夏休みを利用してソウル・鐘路にある有名な公認会計士試験予備校に通っている。母親が「次の学期の“会計原理”の授業で良い成績を取らなければならないから、夏休みに予備校へ通っておく必要がある」という話を周囲の人たちから聞き、どの予備校が良いか調べた上で、登録までした。

キム君の母親は、息子が次の学期に履修する科目をすべて決めていた。「公認会計士試験に向け、徹底的に準備するためには、会計分野の専門教育科目が重要だから、この科目は英語ではなく国語の授業として臨めばよい。○○教授の講義は上手いというから、必ず取らなければならない」といった形だ。

 大学1年のチェ某君(19)は、ある金融機関でインターンとして働いている。まず大学の就職情報センターや学科のホームページで情報を集めた後、「ここ(金融機関)で働いた経歴は、就職の際に一番プラスになるだろうから、ここへ行きなさい」という母親のアドバイスを聞き、その通りにしている。チェ君の母親は、息子に代わって自動車教習所の登録もしている。

 キム君やチェ君の母親のような人が最近増え、「ヘリコプター・ママ」と呼ばれている。ヘリコプターのように子どもの周囲を駆けずり回り、あれこれ世話をする母親という意味だ。自分の子どものことを何でもしてあげることで、子どもを「マザコン」に仕立て上げているともいえる。

 ソウル大宗教学科のユ・ヨハン教授は「成績を出した後、教授に直接会って“うちのこの成績が良くないと、専攻を決める際に人気のない学科に行かされるかもしれないから、成績を上げてくれ”と懇願する母親もいた」と話す。

 釜山に住む主婦のユン某さん(49)は、大学1年の息子が「ほかの人よりも早く司法試験の準備をしたい」と言ったため、その願いを叶えるために東奔西走した。息子の軍隊への入隊や大学の休学の時期をすべて調整し、さらに自らソウルへ行って、司法試験の合格者を多く出しているという冠岳区新林洞一帯の予備校を探し歩いた。

 京畿道に住む主婦キム某さん(54)は、31歳になる会社員の息子の「金融アドバイザー」だ。銀行や不動産鑑定士に依頼して綿密な分析をし、利回りが良いファンドや株式投資、積立口座などを選んで、息子に代わって加入するとともに、毎月の収益実績をチェックして資金の運用までしている。息子の月給の管理も母親の役目だ。息子が女性と会えば、条件や趣向などを把握し、引き続き会ってもよいかどうかを息子に言い聞かせてもいる。

 問題はこうした「ヘリコプター・ママ」の下で過保護に育てられた子どもたちが、困難な状況に直面したとき、自らの力で問題を解決していく経験が絶対的に不足しているということだ。その子どもたちもまた、「マザコン」になってしまうのではないかという不安を感じているという。

 高麗大社会学科の玄宅洙(ヒョン・テクス)教授は「就職難が続き、“ニート”が増える中、子どもが大学を卒業した後の進路を決めることも、親(特に母親)の役目になっている。母親の“行き過ぎた親心”が、成人した子どもの親への依存度を高め、“一人では何もできない”大人に仕立て上げている」と苦言を呈した。

+++++++++++++以上、朝鮮N報より+++++++++++++

日本でいう「モンスター・ママ」に似ている。
少し前は、「教育ママ」と読んだ。
要するに、過干渉、過関心、過保護、それに溺愛を複合した母親ということになる。
本来なら、社会や自分自身に向けるべき生きがいまで、すべて子どもに向けてしまう。
その結果、朝鮮N報にもあるように、子どもは、マザコン化する。
50代、60代になっても、母親のうしろを、いそいそとついて歩いたりする。

が、もちろん、本人自身に、その自覚はない。

自分では、「親孝行の、すばらしい息子」と思っている。
あるいは「自分の親は、自分がそうするに足る、すばらしい親」と思いこんでいる。

問題は、なぜ、こういう母親が生まれるかということ。
それには、社会の不備があげられる。

女性は結婚し、家庭に入ると、その時点から、子どもを産み、子どもを育てる(道具)としか見られなくなってしまう。
いくら才能やキャリアがあっても、家庭の中では、それを生かすこともできない。
またその途中で、自分を磨くこともできない。
勉強といっても、せいぜい資格試験のため。
その先がない。

約30%の女性は、それでよいと考えている(某、調査)。
しかし大半の女性は、不完全燃焼症候群の中で、悶々とした日々を過ごす。
それから生まれるストレスは相当なもので、「家庭は、女性にとっては監獄である」と説いたイギリスの評論家さえいた。

つまりそうしたエネルギーを、すべて子どもに向けてしまう。

モンスター・ママにせよ、ヘリコプター・ママにせよ、ゆがんだ男女差別観が生んだ、犠牲者にすぎない。

韓国も日本も、この点では、よく似ている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist はやし浩司 ヘリコプターママ ヘリコプター・ママ モンスター・ママ モンスターママ)

Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●中国杭州に現れたUFO!

2010-12-30 09:01:08 | 日記
●雑感(はやし浩司 2010-12-30)

●宗教観 

 12月24日は、クリスマス。
つまりキリスト教。
大晦日は除夜の鐘を聞きながら、
初詣。
つまり仏教。
近隣の神社に参拝する人も多い。
つまり神教。

 年末から年始にかけて、日本人の
宗教観は、めまぐるしく変化する。
私もそうだし、たぶん、あなたも
そうだろう。

 言い換えると、信仰というよりは、
儀式。
お祭り。
もともと「教え」に従ったものではない。
ないからどこか、いいかげん。
言うなれば、多神教的無神論。
それが日本人の宗教観。
総じて言えば、そういうことになる。

●宗教

 アメリカという国は、おもしろい国だ。
どこのどんなところへ行っても、キリスト教が深く
しみこんでいる。
札にも、「God」という文字が刷り込んである。
そのくせ、「君たちの国は、キリスト教国だ」と言うと、
彼らはそれに猛烈に反発する。
「アメリカはキリスト教国ではない!」と。

 で、その一方で、「日本は仏教国」と言う。
そう言われた私のほうも、困る。
「そうかなあ」と思ってみたり、「そうでも
ないのだがなあ」と思ってみたりする。

 ただし日本の仏教ほど、いいかげんな宗教もない。
釈迦は1人のはずなのに、四分五裂。
仏教と言いながら、中身はヒンズー教。
チベット密教。
それが中国の土着宗教と結びついて、日本へやってきた。

 「大乗仏教」というのはそれをいう。
ヒマラヤ山脈の北側を迂回して中国へ入った仏教をいう。
「北伝仏教」ともいう。
その一方で、南伝仏教を、「小乗仏教」と呼び、さげすむ。
しかし南伝仏教のほうが、はるかに色濃く、釈迦仏教を
今に残している。
僧が身にまとう衣を見ても、それがわかる。
どうして日本の仏像がみな、古代ギリシャの衣を
身にまとっているのか。
インドで男性だったカノン(観音)が、どうして日本では
女性なのか。
いろいろ言いたいことはあるが、ここまで。
ここに書いたことは、常識。

 が、何よりも大切なことは、どんな宗教であるにせよ、
それによって心の安穏を得ること。
それがあれば、宗教。
なければ、ただの気休め。

●宗教vs人間

 古代の世界にも、数多くの国があった。
それぞれが何かの宗教をもっていた。
が、それらの宗教は、文明の崩壊とともに、闇に消えた。
それを信仰する人間がいなくなったから、闇に消えた。
つまり人間が宗教を作った。

 このことは、浜松近郊の寺を見ればわかる。
車で1時間も郊外へ行くと、無住の寺が目立つ。
廃寺になった寺も少なくない。
若い人たちが町へ出た。
そのため、檀家がいなくなってしまった。
そのため住職も町に出てきてしまった。
必要に応じて、村にもどり、そこで仏の供養をしている。

●不景気

 昨日も、行きつけの弁当屋の親父が言った。
「不景気だねエ~」と。

私「政府は、10兆円近いお金をバラまいているわけだし……」
弁「それがどこかへ消えてしまっているというわけ」
私「どこへですか?」
弁「タンス預金でしょうかねエ~」と。

 街の中の飲食店が最悪。
シャッターをつぎつぎと下ろしている。
こういう現実を、政府はどれほど知っているのか。

弁「ふつうなら、暴動が起きてもおかしくない状況だよ、これは」
私「そうですね。若者たちがおとなしすぎますね。介護保険ひとつとりあげても、
反対運動ひとつ起きない」
弁「どうして暴動が起きないのですかねエ~」
私「親がめんどうみているからじゃ、ないですかねエ~」
弁「しかしいつまでも親にお金があるわけでもないだろうし」
私「そうですねエ~」と。

 つぎに出てくるのは、ため息ばかり。

●UFO

 今度、中国で出たUFOは、すごい!
細長いUFOで、窓らしきものも並んでいた。
下部からは白い光線。
大きさは、写真で見た感じでは、100メートル前後(?)。
もちろん飛行機ではない。

今年の夏ごろ、話題になった。
そのため近くの空港が一時的に閉鎖になったという。

 昨日、その写真を書店で見た。
ある雑誌に載っていた。
目玉はその写真だけだったので、雑誌は買わなかった。
だから詳しくは、ここには書けない。
あとで家に帰って、ネットで調べてみる。
が、それにしても、すごい。
あれをUFOと言わずして、何という。

 つまりUFOは、オカルト現象ではなく、科学的事実。
その雑誌にも書いてあったように、いまや存在を議論しているばあいではない。
「存在する」という前提で、議論を始めるべき。

●神の存在

 神が神の正体を現したら、地球もいよいよあぶないということ。
同じように、UFOがUFOの正体を現したら、地球もいよいよあぶないということ。
現れることによる、混乱どころではない。
それ以上に、ことは深刻。
地球はもう、取り返しのつかないところまで来ている。
そういう状態と考える。

 たとえば地球温暖化。
現在、地球温暖化(火星化)は、不測の事態が別の不測の事態を呼び込みながら、
急速に進んでいる。
10年前に、温暖化によって海洋の海流の流れが変わるなどと、いったいどこのだれが
予想しただろうか。
この先、さらに不測の事態が、別の不測の事態を招く。
地球温暖化は、人間の想像力をはるかに超えたところで、進む。

 たとえば今。
驚くなかれ、外では稲妻が走り、雷鳴がとどろいている。
雨が窓を叩きつけるように降っている。
雹(ひょう)も、降った。
人生、60年を生きてきたが、12月28日に、このような天気を見たのははじめて。
これを異変と言わずして、何という。

 つまりその異変が限界を超えた。
神にせよ、宇宙人にせよ、今さら姿を隠しておかねばならない理由がない。
言い換えると、神にせよ、宇宙人にせよ、堂々と姿を現したら、おしまい。
「終末」は近い。

 ……とまあ、悲観的な見方はさておき、今度、中国で出たUFOは、すごい。
あとでゆっくりと調べてみよう。

●韓国

 日本の政局が混乱している。
そのスキ(?)をついて、韓国が竹島の実効支配を、さらに推し進めている。
今度は巡洋艦を常駐させるという。

 本来なら日本は、国交断絶を覚悟で、それに抗議すべき。
しかし肝心の日本の政治は、ガタガタ。
混乱につづく混乱。
それをよいことに、韓国は、やりたい放題。
ついでに北朝鮮を口実に、軍事訓練。
「北朝鮮からの防衛」を口実にしているが、それはウソ。
韓国人の大多数は、「北朝鮮より日本のほうが脅威」と考えている。

 日本人の私は、日本のどこが脅威なのだろうと考える。
意識というのは、そういうもの。
ほんの少し立場がちがうと、180度、意識がちがうということは、よくある。

●熟年離婚

 最近は、あまり話題にならない。
ならないが、熟年離婚が、減っているというわけではない。
相変わらず、多い。
ある日、突然、たいていは妻がこう宣言する。
「離婚します」と。

 「豆腐を買いに行ってきます」と言ったきり、そのまま家出する妻もいるという。
沖縄で聞いた話である。

 もちろん話し合いなどは、いっさいなし。
一方的というか、妻のほうは、「話し合っても無駄」という状態になる。
が、夫側の受ける衝撃には、相当なものがある。
自己否定などという甘いものではない。
絶望のどん底へと叩き落される。
足が宙へ浮いたような状態になる。
何がなんだか、訳が分からなくなる。
狼狽するだけ。
オロオロするだけ。

●がまん

 知人の中にも、最近、熟年離婚をした人がいる。
結婚したてのころは、熱々の、相思相愛。
奥さんのあのデレーッとしたものの言い方が、今でも私の耳に残っている。
で、やがて妊娠、そして出産。
そのあたりまでは、うまくいっていた。
というか、熟年離婚の芽は、すでにそのころできたらしい。
心の奥深いところで、かつ静かに、音もなく……。

 総じてみると、がまん強いと評される女性ほど、こわい。
その(がまん)が、妻の心をゆがめる。
抑圧されたうっ憤が、時間をかけて蓄積される。
それがある日突然、爆発する。
ドカーン、と。

 これも総じてみると、離婚される側の夫は、全体的に権威主義的。
家父長意識が強く、仕事一筋。
(現在の私のよう!)
前ばかり見ているから、うしろが見えない。
妻の心を見失う。

●妻は死んだ

 が、熟年離婚から立ち直る人も、いないわけではない。
ある知人は、(もともと転勤族ということもあったが)、それをきっかけに海外移住。
現在は、クイーンズランド(オーストラリア)に住んでいる。
そこで知り合ったインドネシア人の女性と同棲。
仲よく暮らしている。
現在、年齢は、67歳。
インドネシア人の女性は、40歳。

 その知人はこう言った。
「熟年離婚されたからといって、失敗組と考えてはいけませんよ。
離婚されたのではなく、ひょっとしたら私のほう離婚を望んでいた。
妻がそれを具体化しただけです」と。
で、私が、「前の奥さんを恋しく思うことはありませんか」と聞くと、
笑いながら、こう言った。

 「それはありません。心のつながりが切れれば、他人。離婚は他人の死と同じ
です」と。
ただ「最後にいっしょに住んでいた、S県のK町にだけは帰りたくありません」
と付け加えた。

●死

 大切なことは、どういう状況であれ、そこを原点として、前に向かって生きて
いくこと。
人との世には、出会いもあれば、別れもある。
その繰り返し。
夫婦の離婚もあるが、親子の離縁も、これまた多い。
兄弟姉妹の離縁となると、さらに多い。

 もちろん仲がよいのが、理想。
周囲の人たちと、暖かい愛情で結ばれている。
が、それでも狂うときは狂う。
狂って、やがて別れに向かう。
仮に仲がよくても、最後の最後には、「死」がやってくる。
これだけは、何人にも、どうしようもない。

●夫側からの熟年離婚

 12月30日というのに、暗い話になってしまった。
何とか明るい話でしめくくりたいと思うが、話はつづく。
反対に夫のほうから離婚届を妻に叩きつけたという話も聞いた。
(夫が妻に、だぞ!)

 もともとの原因は、親子喧嘩。
その男性(父親)には2人の息子がいた。
そのうちの1人と、ある夜、取っ組み合いの大喧嘩になった。
そのときのこと。
息子がげんこつを振り上げ、その男性(父親)に殴りかかろうとした。
が、その男性は、微動だにせず、息子に向かって、こう叫んだ。
「殴りたければ殴れ!」と。

 瞬間、その男性は、妻のほうを見た。
いつもそうなのだが、そういう状況になっても、妻はじっとそれを傍観しているだけ。
が、その夜はちがった。
男性が妻の顔を見ると、うっすらと笑みすら浮かべていたという。
それを見て、その男性は妻との離婚を決意した。
その男性はこう言った。
「息子の怒鳴り声は、どうということはありませんでした。
しかし妻の笑みを見たときには、心底、ゾッとしました」と。
 
●ただの「いとなみ」

 こういう話をつづけて聞いていると、夫婦とは何か。
親子とは何か。
さらに人生とは何か。
そこまで考えてしまう。

 ひとつのヒントととして、キジバトの世界がある。

 あのキジバトは、産卵、孵化のときだけ、つがいを組む。
たいてい2個の卵を産み、2羽の雛を育てる。
が、やがて1羽の体の小さいほうの雛が、大きいほうの雛に巣から落とされる。
キジバトは、こうして1羽だけの雛を大きくする。

 が、雛が成鳥になるやいなや、親は自分の子どもと別れる。
それ以後は、たとえ自分の子どもでも、自分の縄張りには寄せ付けない。
ときどき親鳥が、自分の子どもを追い払う姿を見かける。

 人間とキジバト。
いっしょに考えることはできない。
しかし結婚、出産、育児の原点は、そんなものかもしれない。
大きな意味があるようで、そうはない。
深い意味を求めても、無駄。
人間がまだ原始的な動物であったときからつづいている、ただの「いとなみ」。
それに過ぎない。

 ……というのは、言い過ぎ。
わかっている。
人間の子育てには、プラス、ドラマがある。
このドラマにこそ、価値がある。
人間とキジバトを同列に置くことはできない。

●12月30日

 夜も少し明けてきた。
窓の外が、ほんのりと明るくなってきた。
12月30日。
あと2日で、新年。

 今年1年、我が家でもいろいろあった。
ゴタゴタつづきというか、ドタバタつづきというか。
大切なことは、切り捨てるものは、切り捨てる。
あきらめるものは、あきらめる。
失敗とか、敗北とか、そんなふうに考えてはいけない。
割り切って考える。
どの道、人生は短い。

 実のところ、この私にしても、いつ離婚届を突きつけられてもおかしくない状態。
自分でもそれがヨ~ク、わかっている。
覚悟はしている。
が、問題は、そのあと。
まだその道筋が見えてこない。
年齢も年齢。
健康にも、このところ自信がなくなってきた。
となると、私もやはり、狼狽(ろうばい)組か。
オロオロするのみ。

 昨夜も私はワイフにこう聞いた。
「離婚してあげようか?」と。
が、ワイフは何も答えなかった。
(やっぱり、私の家も、あぶないねエ~。)

●希望

 さて、今日の目標。
とくになし。
2011年1月号のマガジンを出さなければならない。
しかし何となくめんどう(ごめん!)。
昨夜も長男にこう言われた。
(……言われてしまった。)

「だれが、あんなもの読んでるの?」と。
「自分のことを書くのは構わないが、ぼくたちのことは書かないでよ」とも。

私「でもね、毎月、最低でも30万件のアクセスがあるよ」
長「アクセスというだけだろ」
私「そうだな」
長「ちょっと見て、ポイという人でも、1件だよ」
私「そうだな」
長「それにぼくのYOUTUBEにしてもそうだけど、批判的な人も多いはず」
私「そうだな」と。

 反論の余地なし。
事実、その通り。
まったく、その通り。
しばらく電子マガジンは休刊にしようか。
そんなことを繰り返し、考える。
そう言えば、「静岡アットS」というサービスも、この2月末をもって、
突然、閉鎖されるという。
昨日、メールが入った。
静岡新聞社が支えているポータルサイトだから、だいじょうぶかなと思っていた。
つまりこの世界、それだけ動きがはげしい。

 ……が、いくら小さくても、電子マガジンは私の「希望」。
「生きがい」。
BLOGにも原稿を書いているが、そのBLOGからよい原稿を集め、推敲し、
それをマガジンとして発表している。
今の私から電子マガジンを取り去ったら、あとに何が残る?
……実際には、何も残らない。

 私のマガジンを毎回読み、同じように毎回批評を届けてくれていたNG先生が、
この12月1日に、亡くなった。
私にはよき理解者だった。
それだけにショックも大きかった。
終日、放心状態になってしまった。

で、そのあと、アメリカに住む二男に原稿を送るようになった。
その二男が、今度はあれこれ批評を書いて送ってくれる。
これがたいへん参考になる。

 先日も「良妻vs悪妻」という原稿を送った。
それについて、「アメリカで良妻とか悪妻とか、そんなことを決めつけて書くと、
差別主義と言われ、大問題になるよ」と。

 ナルホド!

 国がちがうと、意識もちがう。
基本的なものの考え方もちがう。
私がそのあとすべきことは、「なぜ、そうなのか」を考えること。
どうして良妻vs悪妻というテーマでものを書いたら、差別主義になるのか。
たしかにアメリカでは、「差別」(ディスクリミネーション)にうるさい。
それはわかるが、どうして?

 それを考えていくと、その先に「アメリカ」が見えてくる。

 世の中には、私の知らないことが、まだ山のようにあるようだ。

●年賀状

 昨日、1日で年賀状を書き、近くのポストに投函してきた。
時間にすれば、2時間ほどでできた。
で、そのときのこと。
こんなことを考えた。

 現在「筆M」というソフトを使っている。
2~3年おきに、UPGRADE版を購入。
が、この筆M、UPGRADEするたびに、複雑になる。
使い勝手が悪くなる。
昨日もそうだった。
こまかい設定ができるのはよいが、それが不必要なまでに、こまかい。
こうしたソフトは毎日使うようなものではない。
使うとしても、年に1度だけ。
その間に、操作方法を忘れてしまう。
ああでもない、こうでもないと操作しているうちに、30~40分も時間が
過ぎてしまった。

 どうしてもっと、簡単にしないのか?
わかりやすいソフトにしないのか?
一般の人は、ここまで高度なソフトは求めていない。

 で、その年賀状。
書くのは便利になった。
が、その分だけ、ありがたみが消えた。
書くほうも、もらうほうも、気楽になった。
「これでいいのかなあ」と思いつつ、ポストに投函。

●PSP(ソニー製)体験記

 この10日あまり、PSP将棋にハマっている。
おもしろい。
たとえばリーグ戦では、Dグループから始まり、最終的にはS1グループへと
勝ち進んでいく。
現在は、Cグループあたりをウロウロしている。

 で、PSP体験記。

 PSP(ソニー製)で遊ぶようになって、いくつか感じたことがある。
そのひとつ。
画面が小さいだけに、疲労感も大きいということ。
つづけて将棋を指していると、イライラ感がつのる。
自分でもそれがよくわかるほど、つのる。
ゲームは2試合までと決めているが、それでも気分が重くなる。
高じると、そのまま頭痛に。

勝ったときは、それなりに気分がよい。
しかし負けたときには、ドンと気分が悪くなる。

 総合的に判断すると、やはり子どもには、よくないということ。
幼児には、とくに避けたほうがよい。
将棋ゲームですら、こうなのだから、怪獣ものは、なおさら(?)。
将棋にしても、大きな将棋板の上で、人間相手に楽しむのがよい。
またそれが正道。

 ……というような理由で、アメリカの孫たちに送るのは、やめた。
嫁さんに叱られそう。

●さて、朝

 さて、朝になった。
考えることは、まず運動。
散歩に出ようか。
それともウォーキングマシンですませようか。
が、今朝は、かなりの睡眠不足。
昨夜は長男と、午前1時ごろまで、話しこんだ。
今ごろになって、眠くなってきた。
どうしよう?
もう一眠りしようか?

 やはり、一眠りしよう。
そして目が覚めたら、中国に現れたUFOについて、詳しく調べてみよう。
たしかに、あれはすごい!
乞うご期待!、というところ。

 みなさん、おはようございます。
2010年12月30日、朝記。

Hiroshi Hayashi+++++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

****************************
【中国・杭州・蕭山(しょうざん)国際空港に現れたUFO
****************************

●インチキか本物か、それを確かめるのは、あなた!


http://www.youtube.com/watch?v=WzQc-UCHXtA&feature=related


2010年7月9日、中国杭州の、蕭山に、UFOが出現した。
多くの目撃者もおり、またさまざまな角度から写真も撮影されている。
このUFO騒動が、インチキでないことは、当日、近くの空港が閉鎖
されたことでもわかる。


エルエル(NEWS)サイトは、つぎのように伝える。


『浙江省杭州市にある蕭山(しょうざん)国際空港が一時閉鎖され、18便の飛行機に影響が出たそうです。
この写真は午後8時40分頃に撮影されたそうです。空港が閉鎖されたのは8時41分~9時45分まで』(エルエル)と。


詳しくは、
http://10e.org/mt2/archives/201007/092319.php


このUFOの特徴は、上部に客室らしき構造をもち、下部が光線に包まれて
いるということ。
また上部の客室らしき部分には、2つずつ、窓が並んでいるのがわかる。
さらに写真によっては、下部から下方向、あるいは尾部方向に、光線を発して
いるのがわかる。
鮮明な写真も数多く撮影されている。


計18便の飛行機に影響が出たということだから、相当数の目撃者がいたはず。
最近にない、UFO目撃例ということになる。

そのUFOが、どういうものであるかは、みなさん自身で見て、確認してほしい。
HTML版も、ここに添付しておく。

<object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/QvGUaIPgqJw?fs=1&amp;amp;hl=ja_JP"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/QvGUaIPgqJw?fs=1&amp;amp;hl=ja_JP" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object>

インチキか本物か、それはあなた自身で確かめてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 中国 杭州 UFO 2010-07-09)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

1/3マガジン12-29 子育てQ&A 最高の教育

2010-12-29 10:58:11 | 日記
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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄  HAPPY NEW YEAR!
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   29日号
 ================================  
メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page028.html

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●『ファミリス』(子育てQ&A)静岡県教育委員会発行雑誌(全教育機関配布)

 静岡県教育委員会の発行している雑誌に、『ファミリス』という雑誌がある。
各県で、それぞれの雑誌を発行しているが、その中でもこの雑誌は、群を抜いて
充実している。
編集者の意気込みというか、本気度が、1ページごとにぎっしりと詰まっている。

 大手の出版社は、つぎつぎとこの分野からの撤退をしている。
「教育の総合雑誌は売れない」が、定説になって久しい。
それだけに『ファミリス』の存在は、光る。

 その『ファミリス』と私のつきあいは、もう10年以上になる。
ときどき原稿を書かせてもらっている。
今は、巻末の『子育てQ&A』。
雑誌の世界のことはよく知らないが、HPでは、Q&Aコーナーへのアクセスが
いちばん多い。

 そのQ&Aの原稿を、おととい書きあげた。
2011年1月号用の原稿である。
短い原稿だが、私にとっては、真剣勝負。
まさに真剣勝負。

 静岡県では学校配布となっている。
職員室もしくはそういった場所に、置いてある。
ぜひ、一度、手にとって読んでみてほしい。

++++++++++++++++++++++++++

 以下、今までに書いた原稿を、掲載します。
私の真剣みを感じていただければ、うれしいです。
『ファミリス』の購読申し込みは、各学校の
担任の先生に。

++++++++++++++++++++++++++

●1月号事例

相談(1)小学2年生の母から

 子どもがまだ幼児のころに離婚したのですが、離婚したことを子どもに話すタイミング
はいつがいいのか悩んでいます。
「離婚は、あなたが原因ではないよ」ということを伝えたくて、それとなく話すこともあ
るのですが、具体的なことを話すのは、子どもがはっきり聞いてくるまで待つのがいいか、
早い時期に話しておく方がいいのか、どちらがいいのでしょう。


A:今どき「離婚」など、珍しくも何ともありません。くだらない罪悪感など、捨てなさ
い。バカげています。子どもにいちいち理由など、話す必要もありません。いわんや子ど
もに、「原因はあなたではないよ」とは! あなたはあなたで、前向きに、明るくさわやか
に生きていけばよいのです。
 ただし聞かれたときは、ありのままを正直に話します。事実だけを話し、それですませ
ます。父親の悪口、愚痴、自分の正当化は、タブー。あとの判断は、子どもに任せます。
 それよりも大切なことは、父性欠如による、子どもの心のゆがみを、どう防止するか、
です。『母親は子どもを産み育てるが、狩りの仕方を教えるのは父親』(イギリスの教育格
言)です。(1)母子関係の是正と、(2)行動の限界設定を、だれにどのような形で負担
してもらうか、です。子どもの近くに、「父親」と見立てられるような男性を置くのがよい
でしょう。先生やおじ、近所の男性など。子どもはそういう男性を通して、「父親像」を身
につけていきます。けっして、ベタベタの母子関係に溺れてしまってはいけません。
 繰り返しになりますが、あなたが罪悪感をもてばもつほど、子どもの心に暗い影を落と
すことになります。あなたは何も悪いことをしていません。今のあなたにとって大切なこ
とは、『我らが目的は成功することではない。失敗にめげず、前に進むこと』(スティーブ
ンソン・「宝島」の著者)です。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

相談(2)小学3年生の父から

 うちの長男は、体重が増えることをすごく気にします。身長はあるのですが、体の線が
細いので、運動もやっているから、もっと食べるようにと言うと、「太るから……」と言っ
たりします。
 また参観会や運動会などでは、たいてい女の子グループに男の子1人だったり、男の子
グループから外れて、女の子グループの方に座っています。太ることを気にするのは、女
の子と仲がいいから? それとも……? 心配です。


A:かなり回りくどい質問ですね。要するに、末尾の「それとも……?」が心配なわけで
すね。そういうあなたにアドバイスできることは、ただひとつ。『許して、忘れる』です。
英語では、「For・give & For・get」と言います。
 この英語をよく見てください。「与えるため&得るため」とも読めます。つまり「子ども
に愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」という意味です。つまりど
うであれ、またどういう方向に進もうとも、子どもは子ども。あなたの子ども。許して忘
れる。その度量の深さこそが、愛の深さということになります。
 あとは自然の流れに任せます。水にせよ、雲にせよ、流れていくところに流れていきま
す。親のあなたでも、できることには限界があるということです。もちろんだからといっ
て、あなたの子どもが、「それとも……?」に向かっているということではありません。こ
の時期、ホルモン分泌においては、男女、ほとんど差異がありません。私も小学3年生の
とき、人形を抱いて寝ていました。思春期になると、また大きく変化してきます。今しば
らく、様子を見られたらどうでしょうか。
 で、「それとも……?」という状態になったら、この言葉を思い出してください。『許し
て、忘れる』です。人は子どもをもつことで親になりますが、「真の親」になるのはたいへ
んなことです。その道は険しく、苦しい。あなたはその第一歩を踏み出したというわけで
す。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●12月号事例

相談(1)小学3年生の父から

 長男は小学3年生で9歳、二男は保育園の年中で5歳です。
このごろ、寄ると触るとけんかになり、「お兄ちゃんがたたいた!」「○○先にけるからじ
ゃーん!」となります。だいたいは長男の方をいさめて、「弟をたたいちゃだめ」としかる
のですが、これでいいのでしょうか? 上手な対応のしかたを教えてください。


A:『けんかする兄弟ほど、仲がいい』といいます。兄弟げんかも、ある一定のワクの中、
たとえば親の前で、祭りのようにするのであれば、親はよき聞き役に徹します。判断をく
だしたり、罰を与えたりしてはいけません。ただひたすら、聞き役に徹します。
 つまるところ子育ては、「自分探し」です。わかりやすく言えば、あなたは、あなた自身
が受けた子育てを繰り返しているだけです。「私は私の親とはちがう」と思っているかもし
れませんが、中身は同じです。これを心理学の世界では、「世代連鎖」と言います。
 常にあなた自身は、子どものころどうであったかを問いかけてみてください。あなたも
子どものころ、つらい思いや悲しい思いをしたことがあったはず。そういうときあなたは、
あなたの親にどうあってほしかったでしょうか。どう接してほしかったでしょうか。それ
をさぐっていけば、あなたの子どもへの接し方が、自然と定まっていきます。
 いつか私は『兄弟げんかは親の前』という格言を考えました。言い換えると親の前でし
ているようなら、心配しなくてよいということです。無視して、したいようにさせておき
なさい。
 ただし一言。「お兄ちゃんだから・・・」という『ダカラ論』には、注意。問答無用式に相
手を押さえつけるときに、よく使われます。上下意識が強く、権威主義的なものの考え方
をする人ほど、この言葉をよく口にします。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

相談(2)中学2年生の父から

 勉強もせず部活も熱心にやっているわけではない二男が、「料理人になりたいから、高校
へは行かない」と言い出しました。
 それ以来、夕食の手伝いや自分で料理をしてみたりしていますが、いつまで続くやら・・・。
「バカ言っていないで高校へ行け!」と頭ごなしに反対した方がいいか、「やってみな」と
後押しした方がいいか、どっちでしょうか?


A:親の思うようにならないのが、子育て。私の二男も中学2年生のとき、勉強を放棄。
以来パソコンと遊んでばかりいました。三男は横浜国大をセンター試験2位の成績で入学
はしたものの、3年になるとき中退。 
 私も三井物産という会社をやめ、幼稚園の講師になると言ったとき、母は電話口の向こ
うで泣き崩れてしまいました。「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と。
 以来、私は、外の世界では自分の職業を隠し、内の世界では、自分のキャリアを隠しま
した。が、もしあのとき、母だけでも私を支えてくれていたら、その後の私の人生は大き
く変わっただろうと思います。
 今のあなたにとって大切なことは、子どもを信ずること。子どもがどんな選択をしても、
子どもを支えること。「パパは、お前を信じている。お前の行くべき道を進め。どんなこと
があっても、応援する」と。
 中学2年生と言えば、自我の同一性を確立する重要な時期です。今、あなたが頭ごなし
に反対すれば、あなたの息子の自我はバラバラになってしまうでしょう。それはたいへん
危険なことです。注意してください。
 なお私の二男は現在、インディアナ州立大学に籍を置き、CERN(スイス量子加速研
究所)のスパコン技術官をしています。三男はJALで副機長(B777)をしています。
 子どもを信ずることは、たいへん苦しいことです。その苦しさは、私も経験しました。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●11月号相談事例

相談(1)小学2年生の母から

 三女が生まれたばかりで手がかかり、上の子にかける時間が減ったためか、長女と二女
のけんかが増えているような気がします。そんなときは、つい長女をしかってしまいます。
 長女は物わかりもよく、親としても頼りにしている面があり、長女ばかりしかってしま
うことが申し訳ない気がします。やはり気持ちを切り替えて、しからないほうがいいので
しょうか?


A:長女はいい子ぶっているだけ。本当は下の妹たちが憎くてならないのですが、それを
表に出すと、自分の立場がなくなってしまう。だから仮面(ペルソナ)をかぶる。こうい
うのを心理学の世界では、「反動形成」といいます。たいへんよくあるケースです。「物わ
かりもよく…」などと思っていると、ますます長女を追い込んでしまうことになりかねま
せん。一度、イプセンの『人形の家』を読んでみたらよいでしょう。
 結論から先に言えば、長女と二女は、慢性的な愛情飢餓状態にあると考えてください。
あなたという親から見れば、3人を平等に育てているつもりかもしれませんが、長女にし
てみれば、3分の1に減らされてしまった。そういう状態です。
 で、こういうケースのばあい、『ダカラ論』を振り回してはいけません。「あなたは長女
だから…」と。あなた自身も親意識(=上下意識)が強く、子どもを上下に分けて考える
傾向があります。つまり長女をしかりやすいというのは、あくまでもその結果と考えてく
ださい。
 これは一般論ですが、兄弟姉妹がたがいに名前で呼び合う兄弟姉妹は仲がよく、「お兄ち
ゃん」「お姉ちゃん」と上下意識をもって呼び合う兄弟姉妹は、仲が悪くなる傾向がありま
す。そういうことも考えながら、まずあなたの心の中に潜む上下意識を消すこと。しかる・
しからないは、そのあとの問題です。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

相談(2)中学3年生の父から

 いよいよ長男が受験の年ということで、夫婦共々肩に力が入ってしまうのか、さ細なこ
とも受験に結びつけてしまい、あれこれと口を出してしまいます。
 自分が中3のときにどうだったか考えれば、そっと見守るのがいちばんだとはわかって
いるのですが……。受験期の親はどうあるべきか? アドバイスをください。


A:ある父親は事業に失敗。そこで高校生になった娘に、「大学進学はあきらめてくれ」と。
が、この言葉に娘は猛反発。「ちゃんと親としての責任を取れ!」と。
そこで私が割って入ると、その娘はこう言いました。「私は子どものときから勉強しろ、
勉強しろと、そんなことばかり言われてきた。それを今になって、あきらめてくれと、
どうしてそんなことが言えるの!」と。
 内閣府(平成21年)の調査によれば、「将来、どんなことをしてでも親のめんどうをみ
る」と考えている日本の青年は、たったの28%(イギリス66%、アメリカ64%)。
 そこで本題。子育てが終わると同時にやってくるのが、老後。今のあなたは「下」ばか
り見ているから、自分の老後がわからない。長男の受験の心配より、自分の老後の心配を
しなさい。へたに「勉強しろ!」「塾へ行け」などと言おうものなら、あとあと責任を取ら
されますよ。しかも一度大学生として都会へ出すと、まず地元には戻ってこない。中には
「親のために大学へ行ってやる」と豪語する高校生すらいます。感謝の「カ」の字もない。
あとは(独居老人)→(孤独死)。今のままでは、あなたもそうなります。そこで教訓。
長男が、「大学(高校)へ行かせてください」と3度頭をさげるまで、学費など出さない
こと。口も出さないこと。…というのは無理かもしれませんが、そうしたき然とした姿
勢が、かえって親子の絆を太くします。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司