【防衛機制】
●心を守る
++++++++++++++++++++++
人は、大きく分けて、「他責型」と「自責型」がある。
これについては、何度も書いてきた。
たとえばお茶を自分の不注意でこぼしたとする。
そのときすかさず「こんなところにお茶を置いた
人が悪い!」と切り返すタイプの人を、「他責型」
つまり他責型人間という。
反対に、他人がこぼしても、「そこへお茶を置いた
私が悪い」と、自分を責めるタイプの人を、「自責型」
つまり自責型人間という。
見た目の様子で判断してはいけない。
明るく、かっ達な人が、自責型人間であったり、反対に、
静かでおとなしい人が、他責型人間であったりする。
この問題は、あなた自身はどうかという視点で
考えてみると、わかりやすい。
私自身は、いつもこうして攻撃的にものを書いて
いる。
たいていの人は、他席型人間と思うかも知れない。
が、実は、典型的な自責型人間。
何か問題が起きるたびに、内へ内へと、それを
ためこんでしまう。
日本の経済がおかしくなっても、自分の責任の
ように感じてしまう。
だからワイフはときどき、こう言う。
「あなたは、ひとりで、日本を背負っているみたい」と。
そういうおバカなところが、私には、ある。
が、これでは心はボロボロになってしまう。
……というのは、一例だが、心は、自分を守ろうとして、
さまざまな反応を示す。
フロイトは、こうした一連の反応を、「防衛機制」と
呼んだ。
ひとつずつ、例をあげて考えてみよう。
+++++++++++++++++++++
●抑圧
何か不愉快なことがあると、人は、心の中に別室をつくり、そこへその不愉快な部分を押し込もうとする。
それを「抑圧」という。
「心の別室」という言葉は、私が考えた。
が、一度、心の別室へ入ると、そこだけがほかの心から隔離されてしまい、(1)時間、(2)上書き、(3)修正の3つが、働かなくなる。
「時間が働かない」というのは、10年前、20年前のことが、心の別室の中では、つい先日のできごとのように固定化され、そこに残ることをいう。
本来の人格とは別の、「別人格」が、そこにできるとわかりやすい。
私たち夫婦なども、よく夫婦喧嘩をするが、そのとき30年前、40年前のことを持ち出すことがある。
「あのときお前は!」「あのときあなたは!」と。
とっくの昔に忘れてよいはずなのに、それがそのまま口から出てくる。
ある老夫婦(ともに80歳を過ぎている)のばあいも、それこそ50年以上も前のことを持ち出して喧嘩しているという。
(私たち夫婦は、そうはなりたくないと思っているが……。)
子どもの世界でもよく見られる。
親子で喧嘩したようなとき、とっくの昔に忘れてしまってよいようなことを持ち出して、たがいに言い合ったりする。
「お父さんは、あのとき……!」「お前だって、あのときは……!」と。
「上書きが働かない」というのは、たとえばその後に、楽しい思い出がいくつか重なったとしても、心の別室に入った記憶は、そのまま。
たとえばふつうの記憶のばあい、仮にいやなことがあったとしても、そのあと別の楽しい思い出ができれば、それ以前のいやな記憶は消え、楽しい思い出がその上にのる。
仲直りも、それでできる。
これを「上書き」という。
また心の別室に入った記憶は、そのため、修正がきかない。
平常なとき、心の別室に入った記憶を修正しようとしても、心の別室の記憶は、そのまま。
話し合いを通して、「わかった」と当人は納得しても、またときとばあいに応じて、それがそのまま心の別室から飛び出してくる。
私のばあいも、「今度、喧嘩しても、もう過去の古い話はやめよう」と思うことはある。
が、喧嘩が始まってしまうと、元の木阿弥。
いつもと同じように言い合ってしまう。
「あのときお前は!」「あのときあなたは!」と。
子育てにおいては、子どもの心に、心の別室を作らないようにする。
はげしい恐怖、怒り、不満、嫉妬、闘争などは、子どもの心にとっては、タブーと心得る。
つまり幼少期であるならなおさら、「抑圧」に警戒する。
親がきつく叱ったりすると、子どもによっては、一見、しおらしくおとなしくなるが、それはあくまでも「表面」。
もっと言えば、「仮面」。
子どもは心に別室を作り、そこに不愉快なものを閉じ込めようとする。
たった一度でも、それが衝撃的なものであったりすると、心の別室ができることがある。
ある女の子(2歳児)は、母親に強く叱られたのがきっかけで、それ以後、1人2役のひとり言をするようになってしまった。
母親は「不気味です。どうしたらいいでしょう」と相談してきた。
さらにひどくなると、多重人格性をもつこともある。
これは心の別室とは関係ないが、心というのは、ときとしてそれほどまでにデリケートということ。
●悲惨な事件
私の住む隣町で、たいへん悲惨な事件が起きた。
30歳になる男性(無職、NEET)が、家族5、6人をつぎつぎと殺害するという事件である。
きっかけは、家族のだれかが、インターネットを止めたことだった。
それに激怒して、その男性は、家族をつぎつぎと殺害してしまった(2010年5月)。
父親は、何かの職人をしていたが、給料は全額、その男性(息子)に渡していたという。
その中から、逆に、息子のほうから親たちが生活費をもらっていた(?)という。
こういう事件を聞くと、おおかたの人は、「どうして?」と思う。
「世話になっている側が、世話をしている側を殺すなんて!」と。
新聞で報道された範囲内でのことしかわからないが、その理由のひとつに、先に書いた「抑圧」があると考えてよい。
その男性は、幼少期に、何らかの形で、心の中に心の別室を作ってしまった。
そこで別人格を作ってしまった。
それが最後に、こういう形で爆発してしまった、と。
ワイフは、こう言った。
「……だって、父親が死ねば、困るのは自分でしょ?」と。
そこが「抑圧」の、こわいところ。
当の男性は、平常なときには、それを理解する能力はある。
冷静に話し合えば、それなりの道理も通ずる。
(すでに断絶してしまって、会話が途絶えているケースも多いが……。)
しかし何かの拍子に、別室から出てきた「別人格」は、そうは思っていない。
「オレを産んだのは、お前だ。その責任を取れ!」となる。
あるいは「こんなオレにしたのは、お前だ! 責任を取れ!」となる。
意識の方向が、逆。
「親の世話になっている」と考える前に、「自分は親の犠牲者」と考える。
だからそのときになると、見境なく、親を殺してしまう。
●投影
自分の心の中に、何か受け入れがたいことがあったとする。
よくある例は、(私たち夫婦がそうかもしれないが)、本当は自分が相手を嫌っているのに、相手が自分を嫌っていると決めつけ、相手を責める。
(ハハハ!)
それを「投影」という。
つまり自分の心を相手の中に投影して、自分を正当化する。
もう少し具体的に話すと、こうなる。
(ここから先は、私たち夫婦のことではない。)
たとえば定年を迎えると、そこにドカッと待っているのは、老後。
それまでの生活のリズムが、人によっては、根底から狂うことがある。
ある妻は、こう言った。
「夫が、本当に粗大ごみに見えるようになった」と。
が、自分のほうから、夫を嫌っているとは言えない。
そこでそのかわり、「夫は私を嫌っている」と、自分でそう思い込んでしまう。
「夫が私を嫌っているから、私は夫から遠ざかる」と。
さらに進むと、「あなたは私を嫌っている」「私はそのたびに、つらい思いをする」「だからあなたのために、離婚してあげる」となる。
もう少しわかりやすい例に、こんなのがある。
これだけ騒がれても、受験生や受験生の親を相手にした悪徳商法は、後を絶たない。
書店で買えば、数万円ですむような教材を、「FAX指導付」「電話指導付」とかいうサービスをつけて、80万円近い値段で、受験生に売りつける。
そんな業者が、この浜松市内にも、支店を構えている。
(余計なことだが、FAX指導にせよ、電話指導にせよ、その程度の指導で、子どもの学力があがるということは、常識から考えても、ありえない。
もしそうなら、学校という教育機関は、不要ということになる。)
そういうセールスマンに罪悪感がないかといえば、ないことはない。
しかし彼らは、こう言って、自分の職業(?)を正当化する。
「この世は不公平だ。人生の入り口で、ほんの少し努力すれば、一生、楽な人生が送れる。そういう不公平があるから、オレたちは苦労する。80万円なんて、安いもの」と。
つまり受験生や受験生の親たちを、「悪者」に仕立て、自分の立場を正当化する。
「だから自分たちのしていることは、まちがっていない」と。
●合理化
よく私たちは、自分の心をだます。
だましながら生きている。
何か失敗をしたり、損をしたようなときなど。
「どうせ、失敗するに決まっていた」とか、「大損でなくてよかった」とか思い直して、自分を納得させる。
こうした心理操作を、「合理化」という。
今までに書いてきた、「抑圧」にせよ、「投影」にせよ、用語としては理解しにくい。
しかしこの「合理化」は、理解しやすい。
日本語でも、そのまま使う。
あえて言うなら、「正当化」というニュアンスも、それに含まれる。
「自己正当化」でもよい。
それには「弁解」「言い訳」「言い逃れ」「あと付け理由」「とりつくろい」「つじつま合わせ」などが含まれる。
ものごとを、自分の都合のよいように合理化しながら、自分の心をだます。
先にあげた悪徳教材会社の社員の心理も、合理化で説明できなくはない。
「相手は悪人だ。だからそういう悪人をだましても、自分は悪くない」と。
この中で、「相手が悪人に見える」部分が、投影であり、「だから私は悪くない」と考える部分が、合理化ということになる。
さらにこんな話を、私が商社マンだったころ、聞いたことがある。
中国には、『相手にだまされる前に、相手をだませ』という格言があるという。
そのため中国人は、「だまされるほうが、悪いと考える」と。
これなども、「合理化」ということになる。
戦争について言えば、「殺される前に、殺せ」となる。
「自分を殺しにかかってくる人間は、どうせ悪人。だから殺してもいい」と。
子どもの世界にも、似たような話がある。
受験競争の世界では、「相手を蹴落としてでも、合格せよ」とか、「相手が合格すれば、自分が不合格になるだけ」と考える。
だから相手の成績がさがれば、(あるいは全体の成績がさがれば)、相対的に、自分にとっては有利。
そういう形で、自分の行動や考え方を、合理化していく。
しかしここで悲劇が始まる。
こうした合理化が一時的なもので終わればよし。
目的の学校に入学したとき、それで終わればよし。
が、たいていは、一生、そのままつづく。
思考回路というのはそういうもので、一度できると、そのまま残る。
何かのことでまずいことがあると、常に、責任を相手に転嫁しながら、自分を合理化していく。
だから合理化も、ほどほどに!
●反動形成
好きなのに、「嫌い」と言う。
嫌いなのに、「好き」と言う。
子どもの世界でよく見られる現象だが、それが進んだ状態が、「反動形成」。
上の子(兄あるいは姉)に、よく見られる。
本当は下の子(弟あるいは妹)が、憎くてたまらないのだが、親の前では、「いい兄」「いい姉」を演じてみせる。
「演ずる」というよりは、本能的な部分で、そういう様子をしてみせる。
「弟は好き?」と聞くと、「大好き」と答えたりする。
が、実際には、親の目を盗んでは、巧妙かつ執拗、かつ陰湿に、下の子(弟あるいは妹)をいじめたりする。
殺す寸前のところまで、する。
「弟(妹)が嫌い」などと言うと、自分の立場がなくなる。
こうした現象は、おとなの世界でも見られる。
牧師などの聖職者が、ことさら「性」の話を、忌み嫌ってみせるのも、その一例。
この「反動形成」は、今まで書いてきた、「抑圧」「投影」「合理化」と、大きな共通点がある。
つまりどれも、自分の「心」を偽ること。
が、それがどんなばあいであれ、けっして望ましいことではない。
●すなおな心
「すなおな子ども」というときには、(おとなでもよいが)、2つの意味がある。
ひとつは、心のゆがみ、たとえばいじける、ひがむ、つっぱる、ねたむなどのゆがみがないこと。
もうひとつは、心の状態(情意)と、顔の様子(表情)が一致していること。
思ったことを言い、それを表情でそのまま表現する。
簡単なことのようだが、できない人には、できない。
幼児でも、表情が乏しい子どもは、20%はいる。
(表情が乏しいから、すなおでないということにはならないが……。)
抑圧、投影、合理化、それに反動軽形成にしても、それらはすべて心を偽ることにつながる。
短期であれ、(長期であればなおさらだが)、心に与える悪影響には、計り知れないものがある。
仮にそうせざるをえない状況であるにしても、そういう自分をどこかで客観的に評価しながら、そうする。
あるいはそうであることを知る。
まずいのは、そういう自分であることに気がつかないまま、それを「性格」として定着化してしまうこと。
同じ失敗を繰り返すこと。
反動形成にしても、先に書いたように、「聖職者」と呼ばれる人ほど、そのワナにハマりやすい。
「先生」「先生」と呼ばれているうちに、自分を見失ってしまう。
そのうち本当の自分が、わからなくなってしまう。
これがこわい。
●心を守る
++++++++++++++++++++++
人は、大きく分けて、「他責型」と「自責型」がある。
これについては、何度も書いてきた。
たとえばお茶を自分の不注意でこぼしたとする。
そのときすかさず「こんなところにお茶を置いた
人が悪い!」と切り返すタイプの人を、「他責型」
つまり他責型人間という。
反対に、他人がこぼしても、「そこへお茶を置いた
私が悪い」と、自分を責めるタイプの人を、「自責型」
つまり自責型人間という。
見た目の様子で判断してはいけない。
明るく、かっ達な人が、自責型人間であったり、反対に、
静かでおとなしい人が、他責型人間であったりする。
この問題は、あなた自身はどうかという視点で
考えてみると、わかりやすい。
私自身は、いつもこうして攻撃的にものを書いて
いる。
たいていの人は、他席型人間と思うかも知れない。
が、実は、典型的な自責型人間。
何か問題が起きるたびに、内へ内へと、それを
ためこんでしまう。
日本の経済がおかしくなっても、自分の責任の
ように感じてしまう。
だからワイフはときどき、こう言う。
「あなたは、ひとりで、日本を背負っているみたい」と。
そういうおバカなところが、私には、ある。
が、これでは心はボロボロになってしまう。
……というのは、一例だが、心は、自分を守ろうとして、
さまざまな反応を示す。
フロイトは、こうした一連の反応を、「防衛機制」と
呼んだ。
ひとつずつ、例をあげて考えてみよう。
+++++++++++++++++++++
●抑圧
何か不愉快なことがあると、人は、心の中に別室をつくり、そこへその不愉快な部分を押し込もうとする。
それを「抑圧」という。
「心の別室」という言葉は、私が考えた。
が、一度、心の別室へ入ると、そこだけがほかの心から隔離されてしまい、(1)時間、(2)上書き、(3)修正の3つが、働かなくなる。
「時間が働かない」というのは、10年前、20年前のことが、心の別室の中では、つい先日のできごとのように固定化され、そこに残ることをいう。
本来の人格とは別の、「別人格」が、そこにできるとわかりやすい。
私たち夫婦なども、よく夫婦喧嘩をするが、そのとき30年前、40年前のことを持ち出すことがある。
「あのときお前は!」「あのときあなたは!」と。
とっくの昔に忘れてよいはずなのに、それがそのまま口から出てくる。
ある老夫婦(ともに80歳を過ぎている)のばあいも、それこそ50年以上も前のことを持ち出して喧嘩しているという。
(私たち夫婦は、そうはなりたくないと思っているが……。)
子どもの世界でもよく見られる。
親子で喧嘩したようなとき、とっくの昔に忘れてしまってよいようなことを持ち出して、たがいに言い合ったりする。
「お父さんは、あのとき……!」「お前だって、あのときは……!」と。
「上書きが働かない」というのは、たとえばその後に、楽しい思い出がいくつか重なったとしても、心の別室に入った記憶は、そのまま。
たとえばふつうの記憶のばあい、仮にいやなことがあったとしても、そのあと別の楽しい思い出ができれば、それ以前のいやな記憶は消え、楽しい思い出がその上にのる。
仲直りも、それでできる。
これを「上書き」という。
また心の別室に入った記憶は、そのため、修正がきかない。
平常なとき、心の別室に入った記憶を修正しようとしても、心の別室の記憶は、そのまま。
話し合いを通して、「わかった」と当人は納得しても、またときとばあいに応じて、それがそのまま心の別室から飛び出してくる。
私のばあいも、「今度、喧嘩しても、もう過去の古い話はやめよう」と思うことはある。
が、喧嘩が始まってしまうと、元の木阿弥。
いつもと同じように言い合ってしまう。
「あのときお前は!」「あのときあなたは!」と。
子育てにおいては、子どもの心に、心の別室を作らないようにする。
はげしい恐怖、怒り、不満、嫉妬、闘争などは、子どもの心にとっては、タブーと心得る。
つまり幼少期であるならなおさら、「抑圧」に警戒する。
親がきつく叱ったりすると、子どもによっては、一見、しおらしくおとなしくなるが、それはあくまでも「表面」。
もっと言えば、「仮面」。
子どもは心に別室を作り、そこに不愉快なものを閉じ込めようとする。
たった一度でも、それが衝撃的なものであったりすると、心の別室ができることがある。
ある女の子(2歳児)は、母親に強く叱られたのがきっかけで、それ以後、1人2役のひとり言をするようになってしまった。
母親は「不気味です。どうしたらいいでしょう」と相談してきた。
さらにひどくなると、多重人格性をもつこともある。
これは心の別室とは関係ないが、心というのは、ときとしてそれほどまでにデリケートということ。
●悲惨な事件
私の住む隣町で、たいへん悲惨な事件が起きた。
30歳になる男性(無職、NEET)が、家族5、6人をつぎつぎと殺害するという事件である。
きっかけは、家族のだれかが、インターネットを止めたことだった。
それに激怒して、その男性は、家族をつぎつぎと殺害してしまった(2010年5月)。
父親は、何かの職人をしていたが、給料は全額、その男性(息子)に渡していたという。
その中から、逆に、息子のほうから親たちが生活費をもらっていた(?)という。
こういう事件を聞くと、おおかたの人は、「どうして?」と思う。
「世話になっている側が、世話をしている側を殺すなんて!」と。
新聞で報道された範囲内でのことしかわからないが、その理由のひとつに、先に書いた「抑圧」があると考えてよい。
その男性は、幼少期に、何らかの形で、心の中に心の別室を作ってしまった。
そこで別人格を作ってしまった。
それが最後に、こういう形で爆発してしまった、と。
ワイフは、こう言った。
「……だって、父親が死ねば、困るのは自分でしょ?」と。
そこが「抑圧」の、こわいところ。
当の男性は、平常なときには、それを理解する能力はある。
冷静に話し合えば、それなりの道理も通ずる。
(すでに断絶してしまって、会話が途絶えているケースも多いが……。)
しかし何かの拍子に、別室から出てきた「別人格」は、そうは思っていない。
「オレを産んだのは、お前だ。その責任を取れ!」となる。
あるいは「こんなオレにしたのは、お前だ! 責任を取れ!」となる。
意識の方向が、逆。
「親の世話になっている」と考える前に、「自分は親の犠牲者」と考える。
だからそのときになると、見境なく、親を殺してしまう。
●投影
自分の心の中に、何か受け入れがたいことがあったとする。
よくある例は、(私たち夫婦がそうかもしれないが)、本当は自分が相手を嫌っているのに、相手が自分を嫌っていると決めつけ、相手を責める。
(ハハハ!)
それを「投影」という。
つまり自分の心を相手の中に投影して、自分を正当化する。
もう少し具体的に話すと、こうなる。
(ここから先は、私たち夫婦のことではない。)
たとえば定年を迎えると、そこにドカッと待っているのは、老後。
それまでの生活のリズムが、人によっては、根底から狂うことがある。
ある妻は、こう言った。
「夫が、本当に粗大ごみに見えるようになった」と。
が、自分のほうから、夫を嫌っているとは言えない。
そこでそのかわり、「夫は私を嫌っている」と、自分でそう思い込んでしまう。
「夫が私を嫌っているから、私は夫から遠ざかる」と。
さらに進むと、「あなたは私を嫌っている」「私はそのたびに、つらい思いをする」「だからあなたのために、離婚してあげる」となる。
もう少しわかりやすい例に、こんなのがある。
これだけ騒がれても、受験生や受験生の親を相手にした悪徳商法は、後を絶たない。
書店で買えば、数万円ですむような教材を、「FAX指導付」「電話指導付」とかいうサービスをつけて、80万円近い値段で、受験生に売りつける。
そんな業者が、この浜松市内にも、支店を構えている。
(余計なことだが、FAX指導にせよ、電話指導にせよ、その程度の指導で、子どもの学力があがるということは、常識から考えても、ありえない。
もしそうなら、学校という教育機関は、不要ということになる。)
そういうセールスマンに罪悪感がないかといえば、ないことはない。
しかし彼らは、こう言って、自分の職業(?)を正当化する。
「この世は不公平だ。人生の入り口で、ほんの少し努力すれば、一生、楽な人生が送れる。そういう不公平があるから、オレたちは苦労する。80万円なんて、安いもの」と。
つまり受験生や受験生の親たちを、「悪者」に仕立て、自分の立場を正当化する。
「だから自分たちのしていることは、まちがっていない」と。
●合理化
よく私たちは、自分の心をだます。
だましながら生きている。
何か失敗をしたり、損をしたようなときなど。
「どうせ、失敗するに決まっていた」とか、「大損でなくてよかった」とか思い直して、自分を納得させる。
こうした心理操作を、「合理化」という。
今までに書いてきた、「抑圧」にせよ、「投影」にせよ、用語としては理解しにくい。
しかしこの「合理化」は、理解しやすい。
日本語でも、そのまま使う。
あえて言うなら、「正当化」というニュアンスも、それに含まれる。
「自己正当化」でもよい。
それには「弁解」「言い訳」「言い逃れ」「あと付け理由」「とりつくろい」「つじつま合わせ」などが含まれる。
ものごとを、自分の都合のよいように合理化しながら、自分の心をだます。
先にあげた悪徳教材会社の社員の心理も、合理化で説明できなくはない。
「相手は悪人だ。だからそういう悪人をだましても、自分は悪くない」と。
この中で、「相手が悪人に見える」部分が、投影であり、「だから私は悪くない」と考える部分が、合理化ということになる。
さらにこんな話を、私が商社マンだったころ、聞いたことがある。
中国には、『相手にだまされる前に、相手をだませ』という格言があるという。
そのため中国人は、「だまされるほうが、悪いと考える」と。
これなども、「合理化」ということになる。
戦争について言えば、「殺される前に、殺せ」となる。
「自分を殺しにかかってくる人間は、どうせ悪人。だから殺してもいい」と。
子どもの世界にも、似たような話がある。
受験競争の世界では、「相手を蹴落としてでも、合格せよ」とか、「相手が合格すれば、自分が不合格になるだけ」と考える。
だから相手の成績がさがれば、(あるいは全体の成績がさがれば)、相対的に、自分にとっては有利。
そういう形で、自分の行動や考え方を、合理化していく。
しかしここで悲劇が始まる。
こうした合理化が一時的なもので終わればよし。
目的の学校に入学したとき、それで終わればよし。
が、たいていは、一生、そのままつづく。
思考回路というのはそういうもので、一度できると、そのまま残る。
何かのことでまずいことがあると、常に、責任を相手に転嫁しながら、自分を合理化していく。
だから合理化も、ほどほどに!
●反動形成
好きなのに、「嫌い」と言う。
嫌いなのに、「好き」と言う。
子どもの世界でよく見られる現象だが、それが進んだ状態が、「反動形成」。
上の子(兄あるいは姉)に、よく見られる。
本当は下の子(弟あるいは妹)が、憎くてたまらないのだが、親の前では、「いい兄」「いい姉」を演じてみせる。
「演ずる」というよりは、本能的な部分で、そういう様子をしてみせる。
「弟は好き?」と聞くと、「大好き」と答えたりする。
が、実際には、親の目を盗んでは、巧妙かつ執拗、かつ陰湿に、下の子(弟あるいは妹)をいじめたりする。
殺す寸前のところまで、する。
「弟(妹)が嫌い」などと言うと、自分の立場がなくなる。
こうした現象は、おとなの世界でも見られる。
牧師などの聖職者が、ことさら「性」の話を、忌み嫌ってみせるのも、その一例。
この「反動形成」は、今まで書いてきた、「抑圧」「投影」「合理化」と、大きな共通点がある。
つまりどれも、自分の「心」を偽ること。
が、それがどんなばあいであれ、けっして望ましいことではない。
●すなおな心
「すなおな子ども」というときには、(おとなでもよいが)、2つの意味がある。
ひとつは、心のゆがみ、たとえばいじける、ひがむ、つっぱる、ねたむなどのゆがみがないこと。
もうひとつは、心の状態(情意)と、顔の様子(表情)が一致していること。
思ったことを言い、それを表情でそのまま表現する。
簡単なことのようだが、できない人には、できない。
幼児でも、表情が乏しい子どもは、20%はいる。
(表情が乏しいから、すなおでないということにはならないが……。)
抑圧、投影、合理化、それに反動軽形成にしても、それらはすべて心を偽ることにつながる。
短期であれ、(長期であればなおさらだが)、心に与える悪影響には、計り知れないものがある。
仮にそうせざるをえない状況であるにしても、そういう自分をどこかで客観的に評価しながら、そうする。
あるいはそうであることを知る。
まずいのは、そういう自分であることに気がつかないまま、それを「性格」として定着化してしまうこと。
同じ失敗を繰り返すこと。
反動形成にしても、先に書いたように、「聖職者」と呼ばれる人ほど、そのワナにハマりやすい。
「先生」「先生」と呼ばれているうちに、自分を見失ってしまう。
そのうち本当の自分が、わからなくなってしまう。
これがこわい。