最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●ビート・たけしの「アウトレイジ」

2010-05-19 09:23:24 | 日記
●ビート・たけし氏の『アウトレイジ』

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劇場へは、毎週のように足を運んでいる。
「ボケ防止のため」と、心に決めて、
そうしている。

で、この数週間、毎回、『アウトレイジ』の
予告編が流される。
私はそれを見るたびに、顔をそむける。

……無表情のまま、突発的にキレて、相手を
蹴り飛ばすビート・たけし。
それにつづく暴力、また暴力。
「悪」という文字も、繰り返し使われる。

で、こんなセリフも……。
「おまえ1人くらい生きていなければ、
結果はわからんだろ」(記憶)と。

まさに汚い言葉。
罵声。
怒鳴り声。

ビート・たけし氏は、フランスでは受けが
よいらしい。
フランス政府からも、「日本を代表する文化人」(?)
として表彰されている。

しかしみなさん、もう一度、ここで冷静に
考えてみよう。
「ああした映画が、日本の文化なのか?」と。
あるいは「ああした人物が、日本を代表する
文化人なのか?」と。

フランス人の目を通して、この日本を眺めて
みるのもよい。

TBS・iは、つぎのように伝える。

++++++++++++以下、TBS-iニュースより++++++++++++++

フランスのカンヌ映画祭で、北野武監督の「アウトレイジ」が公式上映されました。最高賞パルム・ドールを競う北野監督、「進化した自分をみせられた」と自信を見せています。

 カンヌ映画祭は6日目、栄えある赤じゅうたんに、はにかみながらタキシード姿の北野武監督が登場しました。コンペ部門への参加こそ「菊次郎の夏」以来、11年ぶりですが、監督としてカンヌ出品は5回目と、既に「常連」。観衆の盛んな拍手で迎えられました。

 今回の新作「アウトレイジ」は、暴力団の内部抗争の末路を描いた異色作。久々に暴力シーンが目立ちますが、北野監督は「進化した自分を見せられた」と自負しています。
 
 「見事に客をKOしたっていう感じで。本当は半分以上席を立つかと思ったが、しびれて立てなかったんじゃないか。料理の鉄人と言われた人が、カツ丼を作ってみろと言われたような感じがして、じゃあ、作ってやろうじゃないかと作ったのが今度の映画。いい味してるだろう? でもクセありますって・・・」(北野武監督)

 既に賛否両論、大きな話題となっていますが、ヴェネチアに続き、賞獲りが成るかは23日の授賞式で判明します。帰ってきた大物として歓迎された北野監督。また強烈な印象をカンヌに残したことは間違いありません。(18日07:24)

++++++++++++以上、TBS-iニュースより++++++++++++++

●日本を代表する文化人?

 みなが寄ってたかって、ビート・たけしをもちあげる。
フランス人にしても、そうだろう。
何しろ、日本でもっとも知名度の高い、タレントである。
東京あたりで、ビート・たけしを批判したら、それだけでマスコミの世界から、叩き出されてしまう。

 しかし『アウトレイジ』の試写会で、「途中で席を立つ人が多かった」(ヤフー)という部分に、私は賛辞を送りたい。
2年前に、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●近代性と人間の幸福(Modernization of the Society and its pursuit of Happiness)
Modernization of the society does not promise us to be happy, or rather more often
modernization of the society brings us to get lost. For one of the examples of the
modernization, Tokyo is always understood as a corrupted city in the Hollywood movies, where all kinds of desires have been wound whirlpool, desires such as drugs, sex, and
money. Is this the future that we wish to pursuit? The answer should be No.

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社会の近代性が、人間を幸福にしたかというと、
それは、疑わしい。

逆に言うと、それ以前の人間は、みな、
不幸だったのかということになる。

一方、私たちは半世紀前の人間からしても、
夢のような生活をしている。が、それでいて、
より幸福になったという実感は、あまりない。

逆に言うと、この先、半世紀後の人たちが、
より幸福になるという保証は、どこにもない。
へたをすれば、今より、不幸になるかもしれない。
むしろ、その可能性のほうが、高い。

……となると、社会の近代性とは何かということに
なる。
もっとつきつめて言えば、現在の私たちは、
いったい、何を求めて生きているのかという
ことになる。さらに言えば、何のために生きて
いるのかということになる。

ここに社会の近代性がもつ、構造的な欠陥というべきか、
きわめて深刻な問題が、隠されている。

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●近代的な都市国家

 日本が外国に与えている印象は、あまりよくない。ハリウッド映画に出てくる日本を見
れば、それがわかる。少し前、「KILL BILL」という映画があった。最近でも、「バ
ベル」という映画があった。これらの映画に共通する点は、日本、とくに東京は、いつも
退廃した都市として描かれているということ。

 内心では、「?」と思うのだが、外国の人たちもまた、日本に、そういう日本像を求めて
いる。外国で賞を取るような日本映画は、退廃的なものばかり。どこか薄汚く、どこか貧
しい。ビートT氏が監督する映画を、例にあげるまでもない。

 で、そういう映画を通してこの日本をながめると、この私ですら、この日本に住むこと
に、嫌悪感を覚える。

 東京では、まさに人間の、ありとあらゆる欲望が渦巻いている。モノ、金、セックス、
電子製品、食べ物、何でもござれ。映画、「バベル」の中では、麻薬を楽しむ若者たちのほ
か、パンティを脱いだ女子高校生が、男子高校生たちに、それをのぞかせるというシーン
まであった。

 そういうシーンが、何ら違和感なく、……というか、東京というのは、そういう都市で
あると、当然のように描かれている。それを見る私たちも、「そうではないのだがなア」と
思いつつも、画面からあふれ出てくる迫力の前では、無力でしかない。そこにあるのは、
確かに東京である。どこかのスタジオやセットではない。で、やがてこの私ですら、「東京
って、そういう都市だったんだ」と、自分で自分を納得させてしまう。

 が、そういう東京、つまり東京がもつ近代性は、私たちが求めてきたものかどうかとい
うと、答は、NO! 私たちは、東京を現在の東京にするために、生きてきたのではない。
子どもたちを、今の子どもたちにするために、生きてきたのではない。

 どこか、おかしい。狂っている。

 10年前には、援助交際が問題になった。しかし今では、それを問題にする人すら、少
ない。ごく当たり前の、日常的な光景にすら、なってしまった。それがわからなければ、
夕方のコンビニをのぞいてみることだ。

 どこかあやしげな雰囲気で、女子高校生や女子中学生たちが、携帯電話で話をしている。
そのすぐ外には、車を止めた男たちが、ニヤニヤと笑いながら、同じように携帯電話で話
をしている。そうやってたがいに連絡を取りあいながら、女の子たちは、やがて車の中へ
と消えていく……。

 しかしそれを「進歩」と呼ぶ人は、いない。「退廃」と呼ぶ。私たちが求める「幸福」と
は、似ても似つかぬものである。

 ……といっても、だからといって、この私が聖人というわけではない。つい昨日も、K
市のK高校校長が、交際していた女性(20歳)を脅迫したとかで、逮捕されるという事
件が起きた。報道によれば、その女性は、その校長の教え子だったという。その教え子が
高校生のときから、つきあい始めたらしい。

 そういう事件が明るみになると、みな、「ここぞ」とばかり、校長を責めたてる。しかし
こういう世界で、だれが、そういう校長を、石をもって打てるのか。S県の教育委員会の
幹部たちがズラリと並んで、いっせいに頭をさげていたが、だからといって、そういう幹
部たちが、聖人かというと、それはない。そういうことは、ぜったいに、ありえない。

 この私だって、相手とチャンスがあれば、若い女性とそういう関係をもちたいと、いつ
も心の中で願っている。願っているというよりは、いつも空想している。脳みその奥にあ
る、視床下部から発せられる信号には、ものすごいものがある。辺縁系や大脳の前頭前野
くらいで、コントロールできるような代物では、ない。

 肉体が健康であればなおさらで、私の年齢で、若い女性に興味がないという人がいたら、
糖尿病かうつ病か、そんなような病気を疑ってみたほうがよい(失礼!)。

 ……話がそれたが、だからといって、そうした欲望の追求を、野放しにしておいてよい
ということではない。欲望の追求は、原始の世界への退行を意味する。つまり私たちが求
める近代性とは何かと問われれば、まさにこの一点に集約される。

 つまり、近代性とは、欲望の追求であってはいけないということ。その視点を見失うと、
冒頭に書いたように、私たちは、何を求めて生きているのかということになってしまう。
さらに言えば、何のために生きているのかということになってしまう。

 ここに書いた携帯電話にしても、それが援助交際の手段として使われたとたん、欲望を
追求するための道具になってしまう。DVDにしても、インターネットにしても、そうだ。
便利な機器であるならなおさら、心のどこかで一線を引く。引いて、欲望の追求から遠ざ
ける。

 そのちょっとした心理的操作が、日々に積み重なり、月となり、年となって、やがて私
やあなたを、より豊かな世界へと導く。それで私たちが、より幸福になるというわけでは
ない。しかし、より幸福な世界に近づくことだけは、できる。もちろん、そうでなければ、
そうでない。

 悪人になるのは簡単なことだ。ほんの少しだけ気を緩(ゆる)めれば、それでなれる。

 で、この年齢になってはじめて気がついたことがある。つまりこの時期になって、「絶望
感」を味わうことくらい、恐ろしいことはないということ。一時の欲望に身を任せたとた
ん、私たちは遠い、遠い、回り道をすることになる。時間を無駄にすることになる。

 それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 ともかくも、社会の近代性イコール、幸福の追求ではないということ。それだけは確か
である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●無力感

 たまたま(?)、私とビート・たけしとは、同年齢である。
それだけに、どういうわけか、あの人の精神構造というか、基盤のようなものが、よくわかる。
私たちは、そういう時代を生きてきた。

 が、私は私だし、あの人は、あの人。
マスコミを背負っている分だけ、私には、勝ち目はない。
(ない)分だけ、いつも無力感に襲われる。
たとえて言うなら、懸命に野原に花の苗を植えていたところ、うしろから大きなブルドーザーがやってきて、それを踏みつぶされたような気分。
怒りの声など、そのままブルドーザーの騒音にかき消されてしまう。

 が、その責任は、私たちにないわけではない。
批判力をもたない日本人。
大勢にのまれてしまう日本人。
そういう無責任さが、一方で、ああいう人物をのさばらせてしまう。
でないというのなら、予告編だけでもよいから、一度、『アウトレイジ』なる映画を観てみることだ。
「観たい」と思う前に、ヘドが出る。

 何が「料理の鉄人」だ!
自らを、「料理の鉄人」と称し、「カツ丼を作ってみた」?
観客をこれほどバカにした言葉もない。
ないが、今の日本人には、それすらもわからない。
わからないまま、またもちあげる。
「フランスでもちあげられた。すごい人だ」と。

 これからはフランス語でも、BLOGを書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ビートたけし ビート・たけし アウトレイジ)

+++++++++++++以下、フランス語++++++++++++++++

1 コメント

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2010-06-10 22:06:41
私は現在37歳。
「たけしの居ない日本」を知っている最後の世代です。幼児期の記憶にたけしはありません。
義務教育年齢に彼はTVに登場しました。
(実際はもっと早いようですがブレイクって意味で)。既存の権威を破壊しまくる様を貴殿はブルドーザーに喩えましたが、まさにそんな感じです。色々ご批判はあるでしょう。集団暴行(講談社殴り込み)、交通事故を始め、隠し子、若いアイドルとのスキャンダルとまぁマトモな人間でないことは事実です。ではなぜに彼はここまで賞賛されるのでしょうか?
とりあえずキッズリターンと言う作品をご覧下さい。大丈夫。たけしは画面には登場しません。評価はそれからでしょう。

ちなみに援助交際にも不愉快な思いをされるようですが、日本の歴史を考えるとたいした事ではありません。純潔思想なるものは明治期に入ってきた輸入品であり、こっちのほうが
日本の伝統に根ざせば「歪んだ思想」です。
初潮から二年も経てば(15歳前後)成熟し
生物として妊娠に適した身体となります。
脳からは「交尾しろ!受胎しろ!出産しろ!」と矢継ぎ早の命令が降りまくっています。
ただ「近代」なるものが生物としての適性を
歪めているだけなのです。
「思想」「技術」「科学」なるものがどれだけ
幅を利かせようが中高生が妊娠に最も適している年齢である生命体としての事実は曲げることなど出来ないのでして。
いやざ私もガンガン妊娠してバンバン出産して欲しいものだとは思いますけどね。
でも社会がそうさせない以上、その歪んだ行き先が「受胎能力を金銭に換える」と言う選択を
件の女子が行うことは批判できませんよ。
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