最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●雑感

2010-06-30 09:54:30 | 日記
●6月29日(2010)

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昨日は、10キロを走った。
「走った」と言っても、断続的に駆け足を
したり、早足で歩いたりした。

ほかに夜、7キロを自転車で走った。
こちらは、本気で走った。

ほかにウォーキングマシンで、計40分。
プラス乗馬マシンで、計10分。

今朝も、起きるとすぐ、ウォーキングマシンの
上で、20分、歩いた。
が、気分は……、まだ眠い!

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●睡眠時間

 最近は、早寝、遅起きに心がけている。
10時間前後の睡眠時間をとるように、心がけている。
が、どういうわけか、かえってそのほうが、眠気が残る。
今も、ときどき大きなあくびを繰り返す。
よく眠ったはずなのに……。
これはどういう理由によるものなのか?

●減量(ダイエット)

 4、5日前に体重計に乗ったら、64キロ台。
ゾーッ!
で、おとといから、ダイエット。
運動を重ねて、食事の量を減らした。
で、今朝、計ってみると、61キロ台。
よかった!

 明日は、どこかの旅館で会食。
あわび料理が出るとか。
またまた食欲との闘い。
今日は、それに備えて、食事の量を減らす。

●夢

 ところで私は、夢をよく見る。
とくに起きがけの夢は、楽しい。
何かの映画を観ているよう。
で、目が覚めたあと、よく夢の内容を、ワイフに話してやる。

 で、私の夢のおもしろいところは、奇想天外なところ。
ふだんなら、思いもつかないような内容の夢を見る。
めったに、同じ夢を見ない。
脳みその広さに、我ながら、感心する。

 今朝の夢は、太陽に、地球規模の惑星が衝突するというもの。
みなが、それぞれ飛行機を作り、地球の裏側(夜側)に逃げるという夢。
衝突によって起こる太陽風から、身を守るためである。

 ちょうど夕刻時で、太陽から猛烈なフレアが立ち上るのが見えた。
地球に到達するまでに、10分前後。
私は木製のグライダーのような飛行機に乗って、太陽とは反対側に旋回して
いくところだった。
見ると、大小さまざまな形の飛行機が、並んで飛んでいた。

 恐ろしい夢ということになるが、先にも書いたように、私にとっては、
映画のようなもの。
映画といっても、私自身が、その映画の中に入っている。

 ……やがてそんな映画ができるようになるかもしれない。
「そんな映画」というのは、映画の中で、実体験をするような映画をいう。
つまり自分自身が、主人公となって、映画の中で動き回る。

●総選挙

 総選挙が近づいてきた。
浮動票層(無党派層)の私としては、「もう一度、民主党に入れてみるか」という
気持ちになりつつある。
しかし小沢一郎が、カーテンの間から、あの不気味な顔を出すたびに、その気持ちが
引っ込んでしまう。

 「反小沢」の旗印は、ひょっとしたら、仮面?
選挙用のカモフラージュ?
どうも、よくわからない。
選挙に勝ったとたん、また小沢一郎が、したり顔で表に出てくる?
そんな心配があるから、ここは慎重にならざるをえない。

 ……数日前も駅前で、民主党の党員たちが、選挙運動をしていた。
1人の女性の応援をしていた。
で、私は運動員の1人に、「この方は、小沢派? それとも反小沢派?」と聞いた。
運動員は、「民主党には、そういう派閥はありません」と。

 その女性は、それで小沢派とわかった。
中央から、小沢一郎によって送り込まれた刺客(?)。
歩きながらワイフが、「あの人(候補者)は、小沢派よ。知らなかったの?」と。

●消費税vs公務員の給料

 このままでは日本経済は、確実に破綻する。
時間の問題。
そのために消費税のアップは避けられないものであるということは、よくわかる。
しかしそれには、条件がある。

 公務員の給料カットである。
現状では、20~25%前後のカットは、やむをえない。
給料のカットそのものに抵抗があるというのなら、諸手当のカット。
諸手当の費用が、バカにならない。
「総人件費」の抑制に、まず手をつけるべき。
その上での、消費税アップ。
そうであるなら、私たちも納得する。
そうでなければ、納得しない!

●今夜はサッカー

 今夜はサッカー、W杯。
相手は、パラグアイ。
私は、超能力とは、無縁。
予言力はない。
だからどちらが勝か、わからない。
予想はできるが、あくまでも予想。
その予想によれば、日本は当初、パラグアイの野獣的な攻撃にたじろぐが、
やがて攻勢に出て、2-1で勝つ。

 しかし11時という時間帯に問題がある。
観るべきか、観ざるべきか。
今、迷っている。
(6-29記)


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

●五十肩

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近くの友人が、五十肩になったという。
症状は、かなり重いという。
夜なども、痛くて寝返りが打てない、と。
そのため睡眠不足になり、日中も、
眠さが残る、と。

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●義姉

 ワイフの話によれば、義姉(つまりワイフの姉)も、10年ほど前、五十肩に
なったという。
で、5~6年ほど、それに苦しんだという。
が、治るときは、知らぬ間に、治ってしまうという。
それで「五十肩」という(?)。

 友人と私はそれほど年齢がちがわない。
「明日は我が身」と、そういう話を聞くたびに、気が重くなる。
若いときなら、「自分でなくてよかった」と思ったかもしれない。
が、今は、順番の問題。
五十肩でなくても、何があるかわからない。
「病気は背中から、ある日、突然、やってくる」(O氏の言葉)。

●6月30日

 昨夜は、サッカーW杯、日本対パラグアイ戦を、観た。
0-0の同点のまま、延長線。
さらにPK戦。
見終わってから、どういうわけか、涙が出てきた。
すばらしい試合だった。
感動した。
負けたのは残念だが、その残念感が、あまりない。
「よくやった!」と。

 床に就いたのは、午前2時過ぎ。
ふとんの中で、ワイフとしばらく音楽を聴いた。
聴いているうちに、眠ってしまった。

●新しいソフト

 パソコン用の新しいソフトがいくつか、手に入った。
非現実的な世界を創るソフトと、写真をキュービックに加工するソフト。
あとで試してみたい。

 そう言えば、数か月前、モーフィングを試してみた。
ひとつの顔から、別の顔に、少しずつ変化していくというもの。
しかしこれは失敗。
データが重すぎて、ホームページに載せられなかった。
ひとつのモーフィングをするのに、50~100枚の写真を並べる。
写真のサイズにもよるが、1つだけで、30MBを超えてしまった。
だからあえなく、ボツ。

 そのあとマンガをいくつか作ってみた。
が、これは10作ほど作ったところで、あきてしまった。
(そう言えば、このところ、何かにつけて、あきっぽい。
これも脳の老化現象によるものか?)

●独居老人→孤独死

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この先、私たち老人は、60%が独居老人と
なり、孤独死を迎える。
発見までの平均日数は、7日とか。

これらの数字が仮に事実であるとしても、
こと私に関して言うなら、「私はそれでも構わない」。
今は、そういう心境になりつつある。

「独居」であるとしても、それを「不幸」と決めつけて
はいけない。
「孤独死」をしたからといって、それを「不幸」と
決めつけてはいけない。
大切なのは、それまでの人生。
人生の中身。

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●反省

 私は「独居老人」や「孤独死」について、「あってはならないこと」と、
決めつけて考えていた。
そしてそこに「私」を置き、それを「不幸な末路」と、決めつけて
考えていた。

 しかしこの考え方は、まちがっていた。
「60%」(この数字は、何かの雑誌で知った数字だが)の老人が
そうなるというのなら、「それがふつうの死に方」ということになる。
またそういう前提で考えれば、老後の過ごし方も、ぐんと気が楽になる。

●孤独死イコール、不幸?

・・・となると、「独居老人」イコール、「孤独」と決めつけて考える
のは、まちがっている。
若い人でも、孤独な人は、いくらでもいる。
独りで住んでいる老人でも、心豊かな人は、いくらでもいる。

 さらに「孤独死」といっても、孤独な世界で煩悶(はんもん)しながら、
死ぬとはかぎらない。
「孤独」という言葉をつけるから、話がおかしくなる。
中には、独り静かに、眠るように、かつ満足しながら死ぬ人だっているはず。
また死後、すぐ発見されないからといって、嘆くことはない。
それが古今東西、ふつうの人の、ふつうの死に方だった。

●天下老人

 だから言葉を変えればよい。
「独居老人」を、「天下老人」。
「孤独死」を、「自然死」と。

 孤独か孤独でないかということになれば、死ぬときは、みな、孤独。
「家族に見守れて・・・」というのは、そのほうがベターというだけで、
そうでなければならないということではない。
またそうであったからといって、孤独が癒されるというものでもない。
こんな話がある。

 A氏(84歳)が、臨終を迎えた。
連絡を受けて、親戚中が集まった。
総勢、30人あまり。
が、その直後、A氏は、昏睡状態から覚め、再び元気になってしまった。
で、そのあとも、(臨終)→(回復)を、数度繰り返した。
そうなると、家人も、親戚に連絡するのも、おっくうになる。
親戚も、「またか・・・!」となる。

 で、結局、最後は、A氏は、真夜中にだれにも看取られないまま、独り静かに
他界した。
これは私のワイフの伯父の話である。

●孤独感

 老人の感ずる孤独は、「孤独死」とは、切り離して考える。
孤独イコール、孤独死、孤独死イコール、孤独と考えるから、
話がおかしくなる。

 もっと平たく言えば、「死ぬ」のは、一瞬のできごと。
が、孤独、それから生ずる孤独感は、老後になってから、綿々とつづく。
途切れることはない。
今、私たちが問題とすべきは、むしろそちらのほうということになる。
もっともこれについては、「バカになって、忘れる」という方法もないわけ
ではない。
趣味三昧、旅行三昧、ぜいたく三昧・・・。
しかしこの方法は、邪道。
かえって虚しさが、増すだけ。

●生きがい

 老後を考えるということは、どの方向から考えても、行き着く目的は
ただひとつ。
「生きがい」の問題ということになる。
どう生きがいを構築するか?
その是非によって、老後の姿そのものが、変わってくる。

 それについては、「統合性」という言葉がある。
(すべきこと)を、(現実にする)。
両者が一致した状態を、統合性が確立した状態という。

 が、それには条件がある。
無私、無欲。
打算、功利が入ったとたん、統合性は、霧散する。
それに「老後になりました。明日からゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」
というわけにはいかない。
統合性を確立するためには、その基礎づくりが必要。
20年とか30年とかいう、時間をかけた基礎づくりが必要。
エリクソンは、人生の正午と呼ばれる40歳くらいから、始めろというようなことを
教えている。
しかし40歳でも、遅い。

●夢と希望、そして目的

 自分が老人の入り口に立ってみて、気づいたことがある。
つまり老後になっても、夢と希望を失ってはいけないということ。
夢と希望があれば、何とか、生きていかれる。
夢と希望があれば、その先に目標が生まれる。
その目標が、老後に、光を灯(とも)してくれる。

 言い替えると、いかにして夢と希望をもちつづけるか。
それが重要ということになる。
たとえば今度、(まだ本決まりではないが……)、中央の大きな会場で
講演をすることになった。
そういう目標が生まれると、体力作りに心がけるようになる。
もちろん脳みその健康にも、注意を払うようになる。

 今でも講演がある日には、その数日前から、運動量を、2~3倍にふやす。
新しい情報を手に入れて、古い情報と置き換える。
そのために本を読む。
文章を書く。
こうして点つなぎのようにして、自分の人生を未来へとつないでいく。

 「そんなことをして、何になるのだろう」とか、そういう迷いはないとは言わない。
しかし迷っていても、しかたない。
ここは無私、無欲。
結果は、いつもあとからついてくる。
ついてこなくても、構わない。

 今は、そういう心境に変わりつつある。


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

●今日で、6月は、おしまい

 2010年6月30日。
6月も、今日でおしまい。
が、過去を振り返っているヒマはない。
7月は、忙しい。
このままだと、バタバタと過ぎていくだろう。

 がんばるしかない。

 では、また


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

●感情論

2010-06-30 08:42:25 | 日記
【感情論】

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人間のもつ感情は、いったいどのようにして
生まれ、私たちの心を支配するのか。
それを考えているうち、私は「反感情」という
言葉を考えついた。

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●感情の行動命令と抑制命令

 自律神経には、交感神経と副交感神経がある(注※)。
行動の行動を司るのが、行動命令。
行動の抑制を司るのが、抑制命令。
この両者がバランスよく機能したとき、行動はスムーズな動きとなって現れる。
行動命令が強すぎれば、(あるいは抑制命令が弱すぎれば)、行動は、興奮性をもつ。

反対に抑制命令が強すぎれば、(あるいは行動命令が弱すぎれば)、行動は、鈍くなる。

(理屈の上では、行動命令と抑制命令の両方が、同じように強くなったり、弱くなったり
することもある。
これは蛇足だが、ニンニクの中には、興奮性をもつ物質と、鎮静性をもつ物質の両方が
含まれているという。
いつだったか、どこかの科学者が話してくれたのを記憶している。)

 ともかくも私たちの何気ない行動も、実はその裏で、交感神経と副交感神経の絶妙なバ
ランスの上で成り立っているということになる。

つまり腕の上げ下げするときも、交感神経は「上げろ」と命令し、副交感神経は「上げる
な」と命令する。
それがうまく調和しているとき、なめらかな行動となって、それは現れる。
その調和が崩れたとき、行動はなめらかさを失ったり、反対に、鈍くなったりする。

 同じように、感情も、興奮命令と抑制命令によって支配されていると、考えられる。
たとえば「怒り」。
怒りを覚えたとき、脳の中では、同時に2つの命令がくだされる。
「怒れ」という命令。
「怒るな」という命令。

 「怒れ」という命令が強く、「怒るな」という命令が弱くなったとき、「怒り」という感
情となって、外に現れる。
一方、いくら「怒り」を感ずるような場面でも、「怒るな」という抑制命令が強く働けば、
その人の感情が、外に現れることはない。
理屈で考えれば、つぎの4つのパターンに分類できる。

(1)(怒れ)という命令と(怒るな)という命令が、ともに強いケース。
(2)(怒れ)という命令が強く、(怒るな)という命令が弱いケース。
(3)(怒れ)という命令が弱く、(怒るな)という命令が強いケース。
(4)(怒れ)という命令と(怒るな)という命令が、ともに弱いケース。

この中で、(2)のような状態になったとき、人はそれを(怒り)という形で、表現する。

●行動命令と抑制命令

 ここでいう行動命令と抑制命令は、よく知られた脳の中の反応である。
それについて、6年前(04年)に、こんな原稿を書いたことがある。
私はこの小さな事件を通して、行動命令と抑制命令が、どういうものであるかを実感する
ことができた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●心のバランス感覚


 駅構内のキオスクで、週刊誌とお茶を買って、レジに並んだときのこと。突然、横から
二人の女子高校生が割りこんできた。


 前の人との間に、ちょうど二人分くらいの空間をあけたのが、まずかった。


 それでそのとき私は、その女子高校生にこう言った。「ぼくのほうが、先ですが……」と。
するとその中の一人が、こう言った。「私たちのほうが、先だわよねえ」と。


 私「だって、私は、あなたたちが、私のうしろで、買い物をしているのを、見ていまし
たが……」

 女「どこを見てんのよ。私たち、ずっと前から、ここに並んでいたわよねエ~」と。


 私は、そのまま引きさがった。そして改めて、その女子高校生のうしろに並んだ。


 で、そのあと、私がレジでお金を払って、駅の構内を見ると、先ほどの二人の高校生が、
10メートルくらい先を、どこかプリプリした様子で、急ぎ足に歩いていくところだった。


 事件は、ここで終わった、が、私は、この一連の流れの中で、自分の中のおもしろい変
化に気づいた。


 まず、二人の女子高校生が、割りこんできたときのこと。私の中の二人の「私」が、意
見を戦わせた。


 「注意してやろう」という私と、「こんなこと程度で、カリカリするな。無視しろ」とい
う私。この二人の私が、対立した。



 つぎに、女子高校生が反論してきたとき、「別の女子高校生と見まちがえたのかもしれな
い。
だからあやまれ」とささやく私と、「いや、まちがいない。私のほうが先に並んだ」と怒っ
ている私、。この二人の私が、対立した。


 そして最後に、二人の女子高校生を見送ったとき、「ああいう気の強い女の子もいるんだ
な。
学校の先生もたいへんだな」と同情する私と、「ああいう女の子は、傲慢(ごうまん)な分
だけ、いろいろな面で損をするだろうな」と思う私。この二人の私が対立した。


 つまり、そのつど、私の中に二人の私がいて、それぞれが、反対の立場で、意見を言っ
た。
そしてそのつど、私は、一方の「私」を選択しながら、そのときの心のあり方や、行動を
決めた。


 こういう現象は、私だけのものなのか。


 もっとも日本人というのは、もともと精神構造が、二重になっている。よく知られた例
としては、本音と建て前がある。心の奥底にある部分と、外面上の体裁を、そのつど、う
まく使い分ける。


 私もその日本人だから、本音と建て前を、いつもうまく使い分けながら生きている。こ
うした精神構造は、外国の人には、ない。もし外国で、本音と建て前を使い分けたら、そ
れだけで二重人格を疑われるかもしれない。


 そこで改めて、そのときの私の心理状態を考えてみる。


 私の中で、たしかに二人の「私」が対立した。しかしそれは心のバランス感覚のような
ものだった。運動神経の、行動命令と、抑制命令の働きに似ている。「怒れ」という私と、
「無視しろ」という私。考えようによっては、そういう二人の私が、そのつどバランスを
とっていたことになる。


 もし一方だけの私になってしまっていたら、激怒して、その女子高校生を怒鳴りつけて
いたかもしれない。反対に、何ら考えることなく、平静に、その場をやりすごしていたか
もしれない。


 もちろんそんなくだらないことで、喧嘩しても、始まらない。しかし心のどこかには、
正義感もあって、それが顔を出した。それに相手は、高校生という子どもである。私の職
業がら、無視できる相手でもなかった。それでどうしても、黙って無視することもできな
かった。


 こうした状態を、「迷い」という。そしてその状態はというと、二人の自分が、たがいに
対立している状態をいう。だからこうした現象は、私だけの、私特有のものではないと思
う。


もともと脳も、神経細胞でできている。運動に、交感神経(行動命令)と副交感神経(抑
制命令)があるように、精神の活動にも、それに似た働きがあっても、おかしくない。


 そして人間は、その二つの命令の中で、バランスをとりながら、そのつどそのときの心
の状態を決めていく。そのとき、その二つの命令を、やや上の視点から、客観的に判断す
る感覚を、私は、「心のバランス感覚」と呼んでいる。つまりそのバランス感覚のすぐれた
人を、常識豊かな人といい、そうでない人を、そうでないという。


 キオスクから離れて、プラットフォームに立ったとき、私はそんなことを考えていた。
 

(040224)(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
はやし浩司 心のバランス感覚 心のバランス)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●反感情

 東洋医学では、さらに一歩話を進めて、感情には、「相生性」と「相克性」があると教え
る。
(詳しくは、はやし浩司著『目で見る漢方診断』を参考にしてほしい。)

たとえば(怒り)と(思い)、(思い)は(恐れ)、(恐れ)は(喜び)、(喜び)は(悲しみ)、
(悲しみ)は(怒り)と、相克性があると説く(素問・陰陽応象大論)。

 わかりやすく言うと、たとえば「怒りがはげしいときは、肝の機能が傷害される。
そして怒りがはなはだしいときは、悲しみを与えてやると、怒りが収まる」。
同じように「あまりにも喜びがはげしいと、心の機能が傷害されるので、そんなときは恐
れを与えてやると、その感情が中和される」(以上、『目で見る漢方診断』P146)。

 ここでもう一度、フロイトが説いた、「サナトス」と「リビドー」という言葉を思い出し
てみよう。

 サナトスというのは、「死への欲求」をいう。
リビドーというのは、「生(性)への欲求」をいう。
フロイトは、人間の感情にはつねに相反する2つのエネルギーが、同時に働くと教える。
「生への欲求」があれば、当然、「死への欲求」もある、と。

 この理論を応用すれば、こういうことも言える。

 ひとつの感情が表出するときは、その裏で、その反対の感情が、心の内側に向かう、と。
「愛している」と口に出して言うときは、「愛していない」という感情が、同時に内側に
向かう。
あるいは「愛していない」という感情が内側に向かうときは、それを打ち消すために、
「愛している」という感情が、外側に向かう。

 喜怒哀楽について言えば、そして東洋医学(黄帝内経)の理論に従えば、それぞれの感
情には、「反感情」があることがわかる。
(「反感情」というのは、はやし浩司の造語。)

 たとえば人は深い悲しみを覚えたとき、同時にその反対側では、別の感情、つまり(怒
り)が働く。
同じようにはげしい怒りを覚えたとき、同時にその反対側では、別の感情、つまり(思い)
が働く。

 つまりそれぞれの感情が、バランスを保っているとき、感情は安定する。
そうでなければそうでない。

 この東洋医学的な考え方を、そのまま「サナトス」「リビドー」に当てはめることはでき
ない。
しかし類似性というか、共通性はある。
さらにこうした一連の情意的反応も、交感神経、副交感神経論で、説明できる。

●感情ホルモン説

 さらに最近では、感情ホルモン説が有力にねってきている。
私たちが感ずる感情は、ホルモンの支配下に置かれているという説である。
たとえば何かよいことをすると、その情報は辺縁系の扁桃核というところに送られる。
その情報を受けて、扁桃核は、モルヒネ様のホルモンを分泌する。
それが脳内を甘い陶酔感で満たす。
つまりもろもろの感情は、こうして生まれる。

 さらに話が一歩進んで、最近の大脳生理学によれば、「悲しいから泣く」のではなく、「泣
くから悲しくなる」というようなことを唱える学者もいる。
私たちが(悲しみ)を意識する前に、無意識の世界ですでに(悲しみ)は作られ、それが
(泣く)という行為を引き起こすというものである。

 それはともかくも、感情ホルモン説には、もうひとつ大きな合理性がある。
言うまでもなく、「脳内ホルモンのフィードバック(作用)」である。

 脳内にある種のホルモンが分泌されると、それを中和(もしくは打ち消す)ために、同
時に別のホルモンが分泌される。
こうして脳は、自分の脳内をつねにクリーンにしておこうとする。

 この考え方は、そのまま「反感情」の説明にも結びつく。
(悲しい)という感情が起こると、同時に脳内では、(怒り)の感情を起こす。
こうして脳は、自分の脳を中和しようとする。
(よく悲しみが高じて、怒りをともなって爆発する人がいる。
こうした日常的な経験とも、合致する。)

●仮説のまとめ

 以上は、言うなれば「仮説」ということになる。
しかしこの仮説は、日常生活において、即、有効に機能する。
言うまでもなく、心の平安を保つために、である。

(1)まず感情にも、交感神経と副交感神経という、自律神経系の機能が働く。
「怒れ」という命令と、「怒るな」という命令は、いつも同時進行的に発生する。
そのバランスの強弱によって、人は怒ったり、自分をなだめたりする。

(2)ひとつの感情が露出すると、その反対側で、別の反作用的な感情が引き起こされる。
東洋医学(黄帝内経)は、それをうまく説明する。
その反作用的な感情を、「反感情」(はやし浩司)という。

(3)こうした一連の脳内における感情反応は、脳内ホルモン説でも、うまく説明できる。

 以上が、私が考えた「感情論」である。
科学的にどうこうというよりも、東洋医学的に、現象的に、うまく説明できる。
このつづきは、しばらく間を置いて、また考えてみたい。
2010年6月5日


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※:参考)

(ウィキペディア百科事典より)

随意神経系である体性神経系と対照して、不随意である「自律神経系」は循環、呼吸、消化、発汗・体温調節、内分泌機能、生殖機能、および代謝のような不随意な機能を制御す
る。自律神経系はホルモンによる調節機構である内分泌系と協調しながら、種々の生理的
パラメータを調節しホメオスタシスの維持に貢献している。近年では、自律神経系、内分
泌系に免疫系を加え「ホメオスタシスの三角形」として扱われることもあり、古典的な生
理学、神経学としての自律神経学のみならず、学際領域のひとつである神経免疫学、精神
神経免疫学における研究もなされている。

交感神経と副交感神経の二つの神経系からなり、双方がひとつの臓器を支配することも多
く(二重支配)、またひとつの臓器に及ぼす両者の作用は一般に拮抗的に働く(相反支配)。
交感神経系の機能は、闘争か逃走か(fight or flight)と総称されるような、身体的活動や侵害
刺激,恐怖といった広義のストレスの多い状況において重要となる。以下に運動時の生体
反応を例にして、交感神経系の機能を述べる。交感神経系の行動により血管が収縮し、
心拍数が増加する。この結果血圧が上昇し末梢組織の還流量が増加する。このような作用
の結果消化管、皮膚への血液量が減少するが、一方で骨格筋への血液供給量が増加する。
これは骨格筋の運動に伴う局所因子の影響に加えて、筋血管では血管拡張に関与するβ受
容体が豊富なことも一因である。気管支平滑筋は弛緩するがこれは気管径の増加をもたら
し結果として、一回換気量の増加つまりガス交換効率を向上させることとなる。一方、代
謝系に視点を移す。運動時には骨格筋において多量のエネルギー基質(グルコース)を消
費するため血糖維持が重要である。なかでも肝臓からのグルコース放出は重要である。交
感神経は肝臓でのグリコーゲン分解と脂肪組織での脂肪分解を促し血液中に必要なエネル
ギーを与える。交感神経は内分泌器官にも作用し副腎髄質ホルモン分泌、グルカゴン分泌
を刺激しやはり末梢組織へのエネルギー供給に促進的に作用する。結果として、骨格筋を
中心とした組織において豊富な酸素とグルコースが供給される一方で、皮膚や消化管へは
供給が乏しくなる。このように,自律神経系は各臓器の機能を統合的に調節することで,
結果として個体の内部環境を合目的にする。
(以上、ウィキペディア百科事典より)


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 交感神経 副交感神経 行動の抑制 感情の抑制 行動と抑制 感情
論 東洋医学 感情の相克性 サナトス リビドー 感情ホルモン説)

●感謝という言葉

2010-06-30 08:38:35 | 日記
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●感謝(老人たちのよく使う言葉)

+++++++++++++++++

老人の中に、「感謝」という言葉を
よく使う人がいる。
「生きていること自体が、感謝」と。
「感謝! 感謝! 感謝!」と。

私の母も、晩年、「ありがとう」という
言葉をよく使った。  
何かあると、すぐ、「ありがとう!」と。
「ありがとう! ありがとう!」と。

+++++++++++++++++

●違和感

ときとして人は、裏腹の言葉を繰り返すことによって、自分の心を
ごまかすことがある。
最初に私がそれに気づいたのは、10年ほど前のこと。
ある女性(当時、40歳くらい)が、電話で私にこう言った。
「私は、今の夫を、愛しています」と。
どこかのキリスト教系の、カルト教団に属している女性だった。
日本では、あまりそういう言い方をする人はいない。
そのため私は、その言葉に違和感を覚えた。

 つぎにそれに気づいたのは、やはりある女性(当時、60歳くらい)と、
話していたときのこと。
その女性は、こちらが何も聞きもしないうちから、こう言った。
「私は、今の夫と結婚できて、よかったと思います」と。
そして何度も、「私の夫は、すばらしい人です」と。

●本心?

 たまたまその両方の場面に、私のワイフも近くにいたので、あとで、
ワイフにこう聞いた。

私「お前なア、どこかの人に、『私は夫を愛しています』とか、
『私の夫はすばらしい人です』などと言ったことがあるか?」
ワ「・・・ないわねエ・・・」
私「だろ! ぼくも、ない」
ワ「でも、どうしてあんなこと、こちらが聞きもしないうちから、あの
人たちは、言うのかしら?」
私「そこなんだよな。人間の心理のおもしろいところは・・・」と。

 私たち夫婦も、それなりに愛しあっているとは思う。
が、それでも、そんな言葉は、めったに使わない。
いわんや他人には、使わない。

私「自分の愛に不安を感ずるからではないかな?」
ワ「そうね。それをあえて打ち消すために、ああいう言葉を使うのよ」と。

●疑っているから、「信じている」と言う?

 もう少しわかりやすい例に、若い人たちがよく使う、「愛している」
「私を信じて」「あなたを信じているわ」という言葉がある。

 相手を愛していない、あるいは疑っているから、そういう言葉を使う。
相手を本当に愛していたり、信じていたら、そういう言葉は、口から
出てこない。
たとえば私のワイフが私に、「あなたを信じているわ」と言ったら、私は、
すかさず、こう解釈する。
「ワイフは、ぼくを疑っている。疑っているから、そういう言葉を
使うのだ」と。

ワ「友だちもこんなことを言っていたわ。2人の息子がいるんだけど、1人は、
いつも手紙に、『ぼくたち(夫婦)は仲よくやっています』と書いてくるそうよ」
私「ハハハ、それは喧嘩ばかりしているという意味だよ」
ワ「そうね。私もそう思うわ」
私「本当に夫婦が仲よくやっていたら、そんなことは書かない。仲よくやって
いないから、『仲よくやっている』と書く」と。

●裏の心

 先の例で言えば、夫を愛しきれない何かがあるから、人には、「私は、今の夫を、
愛しています」と言う。
あるいは夫に対して、大きな不満を感じているから、「私の夫は、すばら
しい人です」と言う。

 こういう現象を心理学の世界では、どう説明するのか。
しかしあのフロイトは、こんな興味深い言葉を残している。
「サナトス」と「リビドー」という言葉である。

 サナトスというのは、「死への欲求」をいう。
リビドーというのは、「生(性)への欲求」をいう。
フロイトは、人間の感情にはつねに相反する2つのエネルギーが、同時に働くと
教える。
「生への欲求」があれば、当然、「死への欲求」もある、と。

 この理論を応用すれば、こういうことも言える。

 ひとつの感情を表出するときは、その裏で、その反対の感情が、心の内側に向かう、と。
「愛している」と口に出して言うときは、「愛していない」という感情が、同時に内側に
向かう。
あるいは「愛していない」という感情が内側に向かうときは、それを打ち消すために、
「愛している」という感情が、外側に向かう。

●武士道

 ところで「死への欲求」とは何か?
わかりやすく言えば、「死ねば楽になる」と思うのが、その一例ということになる。
もう少し掘り下げて考えると、こうも解釈できる。

 私たちが「生きたい」と思うのは、同時に「死にたい」という
欲求を、無意識のうちにも打ち消しているためとも考えられる。
「死」を恐怖と考えるのは、「死」そのものが恐怖だからではなく、
(もちろんその一部ではあるが・・・)、「死」へと自分を引きずりこんで
いくエネルギーに、恐怖感を覚えるため、と。
その恐怖感を打ち消すために、「生きたい」という言葉を口にする。

 こうした感覚は、西洋人には理解しがたいものかもしれない。
しかし日本人の私たちには、意外と理解しやすい。

 「死への欲求」というのは、たとえば日本の武士道に、それが象徴化
されている。
武士道では、「どう死ぬべきか」で、その人の生き様が決まる。

●裏腹の言葉

 最初の話に戻る。

 老人が、「感謝」とか「ありがとう」という言葉を使うときには、
2つの意味がある。

 ひとつは、感謝できない状況、あるいは「ありがとう」と言えない
状況がその周辺にあることをいう。
つまり自分の置かれた状況に不満があり、その不満を裏返して、「感謝」
とか、「ありがとう」とかいう言葉を使う。
使って、自分の中にたまった不満をごまかす(?)。

 もうひとつは、そう言いながら、相手に向かって、「感謝できるような
状況を作れ」とか、「ありがとうと言えるような状況を作れ」と要求して
いる。
つまり催促。

 もちろん状況によっては、そうでないばあいもる。
本当に、本心から、そう言うべきケースもある。
が、そのばあいには、「自然さ」が伴う。
言われた方も、違和感を覚えない。
そうでないときは、そうでない。
どこか不自然。
何かヘン?

それを言うべきときでないときに、(まただれもそれを期待していないときに)、
そういった言葉を口に出して言う。
言われたほうが、ふと「?」に思う。
そういう言い方をする。

●結論

 老人たちは、よくこれらの言葉を使う。
が、世界的にみても、こうした言葉をよく使うのは、日本の老人たちだけではないのか?
英語で、「I am in good health. Thanks, thanks.」などと書くと、書いただけで、
奇異な感じがする。
言い替えると、こうした言葉を、日本の老人たちは、無理に使いすぎる。
つまり無理をしている(?)。

 だから……。

 こと私に関して言えば、努めてこれらの言葉は使わないようにしたい。
意味もなく、「感謝」とか、「ありがとう」という言葉は、使いたくない。

たとえば今日も私は健康だ。
気力は弱くなった。
耐久力も弱くなった。
集中力も弱くなった。
しかし健康は、健康。
で、「私は健康だ。生きている。感謝!」などというようには、使いたくない。

 だいたい、だれに対して感謝するのか?
「感謝の念を忘れるな」という意味では、「感謝」という言葉は、尊い。
しかしそれは自分に向かって使う言葉。
外の世界に向かって、表出する言葉ではない。

 それにたまたま私は健康に恵まれている。
だから「感謝」という言葉を使えば使うほど、今、現在、病気と闘っている
人たちに、申し訳ない気分になる。
そのひとたちは、たまたま病気になっている。
そういう人たちは、どうなのか?
世を恨んでいるのか?
「恨んでいる」と言うべきなのか?
が、そういうことは、ありえない。
またそういうふうに、考えてはいけない。

 ……ちょっと考え過ぎかもしれないが、気になったので、老人たちがよく
使う「感謝」と「ありがとう」という言葉について、書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 感謝 感謝の念 老人の言葉 老人心理 老人性心理 老人の感謝)


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

●閉所恐怖症(恐ろしい実験)

+++++++++++++++++

私なら、ぜったい「NO!」と断わる。
いくらお金を積まれても、できることと、
できないことがある。
私には、それができない!
そんな実験が、今度、ロシアで始まった。
何と、520日間も、窓のない部屋に
閉じこめられるという。
想像するだけで、ゾッとする。

私は、何を隠そう、閉所が苦手。
窓のない部屋に入っただけで、すぐ
息苦しさを覚える。

TBS-iニュースは、つぎのように
伝える(2010-6-4)。

+++++++++++++以下、TBS-iより+++++++++++++++++

 ロシアの研究チームは3日、将来の有人火星飛行を見据え、地上に設置した宇宙船に6
人の男性を520日間閉じ込める実験を開始しました。

 「MARS‐500」と呼ばれるこの実験は、人を地上に設置した宇宙船の中だけで5
20日間生活をさせるものです。モスクワ西部に設置された模擬宇宙船は、バス9台分の
広さがあり、書籍やトレーニングマシンなど生活に必要なものはすべてそろっていますが
窓はありません。

 将来の有人火星飛行を想定したこの実験では、火星への往復にかかるといわれる520
日間を閉鎖された空間に隔離された際、精神や健康の状態に変化がないかを観察するとい
います……。

+++++++++++++以上、TBS-iより+++++++++++++++++

●私なら……

 私なら、数日で、気がへんになる(?)。
たとえば私は、学生のとき、刑法学の教授に連れられて、
刑務所見学なるものをしたことがある。

あのとき見た刑務所が、そのままトラウマになってしまった。
だから今でも、ときどき、こう思う。
「私が悪いことをしないのは、犯罪者になるのが、こわいからではない。
ああいう部屋に閉じこめられるのが、こわいから」と。

 刑務所のばあいは、(懲役と禁錮ではちがうが……)、外の世界との
つながりが、まだある。
しかしバスのような部屋の中では、それがない。
そんな中で、520日間!
私には、とんでもない実験である。
考えられない実験である。
この記事を読んだだけで、ぞっとした。

●疑問

 記事を読んで、「窓ぐらい、つければよい……」と思った。
しかし宇宙では、見えるのは、こまかい星だけ。
窓があったところで、どうしようもない?
しかし火星に近づいたら、どうするのか?
窓の外を監視するカメラが故障したら、どうするのか?
高層マンションの高層階に住む母親ほど、マタニティ・ブルーに
なる確率が高くなるという調査結果もある。
「閉所」には、未知の問題が隠されている。
それを知るための実験ということらしいが、私は、ごめん!

 それにしても、恐ろしい実験ではないか。
私はそう思った。


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●BW幼児教室(形の学習)

2010-06-29 21:33:23 | 日記
●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司

【幼児教室byはやし浩司】(BW幼児クラブ)Hamamatsu Japan


●形の学習(年中児+年長児)


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【子どもの指導(1)】
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【子どもの指導(2)】
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●日本人の依存性(1)

2010-06-29 08:04:45 | 日記
●保護と依存(基本的依存関係)

+++++++++++++++++++++

「基本的信頼関係」という言葉がある。
これに対して、「基本的不信関係」という
言葉がある。
「基底不安」という言葉もある。
しかし「基本的依存関係」という言葉はない。
この言葉は、私が考えた。

+++++++++++++++++++++

●基本的依存関係

 一度、両者の間で、(保護)(依存)の関係ができると、それを是正する
のは、容易なことではない。
そのままの状態で、一生つづくことも、珍しくない。
保護する側は、常に保護する。
依存する側は、常に依存する。
母子の間では、とくにそうである。
それが基本となって、あらゆる人間関係に影響する。
だから「基本的依存関係」。

 そこで父親の役目。
父親は、母子の間に割って入り、保護と依存の関係を是正する。
イギリスでは、『子どもを産んで育てるのは母親の役目だが、狩の仕方を
教えるのは、父親の役目』と教える。
子どもを自立させ、たくましくするのは、父親の役目というわけである。

●母親の問題

 が、依存性の強い子どこというのは、いる。
その年齢にふさわしい核(コア)形成が遅れ、何かにつけ依存的で、
たくましさがない。
柔和で穏やか。
やさしくて、ひ弱。

 そういう子どもを見て、母親は、「どうすれば・・・?」と言う。
しかしそれは子どもの問題というよりは、家庭の問題。
家庭の問題と言うよりは、育児姿勢の問題。
なかんずく母親の問題。

 依存性の強い子どもは、たいてい依存性の強い母親のもとで育っている。
母親自身が自立できていない。
このため子どもの依存性に気づかない。
気づかないまま、子どもを、甘い環境で包んでしまう。
自分が甘いことにすら、気づかない。
その結果として、子どもは、依存性の強い子どもになる。

 してもらうのが、当然、と。

●D君のケース

 印象に残っている子どもに、D君(年長児)という子どもがいた。
そのD君、自分からは、何もしようとしない。
「鉛筆を出してね」と声をかけても、母親のほうを、じっと見ているだけ。
「プリントをしまって、帰るしたくをしようね」と声をかけても、
ただボーッと立っているだけ。

 で、そういうときは、その子どもが行動に移るまで、待つ。
根気よく待つ。
何度も同じことを繰り返して言う。
が、D君はそのうち、メソメソと泣き出してしまった。
たぶん家では、そうすれば、みなが飛んできて、D君のめんどうをみるの
だろう。
が、私は無視した。
が、これが参観していた母親を怒らせた。
突然、こう言って叫んだ。

「どうしてうちの子を泣かすのですか!」と。

●保護と依存

 子どもの世界だけではない。
おとなの世界でも、一度、(保護)と(依存)の関係ができると、それが
ひとつの人間関係として、固定化してしまう。
してもらうほうは、常にしてもらうことを、当然と考える。
してやるほうは、常にしてやることを、当然と考える。
が、それだけではない。

 依存性が強くなると、依存していることすら、忘れてしまう。
忘れた上で、今度は、それを請求してくるようになる。
「どうして助けてくれないのか?」と。

●意識の問題

 私も息子たちの関係において、それを経験している。
たとえば息子たちにかぎらず、今の若い人たちに、戦後の苦労話を
しても、意味はない。
たとえば私は、子どものころ、「貧乏」がこわかった。
貧乏の恐ろしさを、身をもって体験している。
近所でも、夜逃げした人は多い。
だから私は、社会へ出ると、懸命に働いた。
息子たちにだけは、貧乏を経験させたくなかった。
が、それについて、息子たちはこう言う。
「パパは、仕事ばかりしていて、ぼくたちのことを構ってくれなかった」と。

●自業自得?

 それだけではない。
20代、30代のころ、私には休日がなかった。
月に1日だけという月が、ずっとつづいた。
私は私なりに、がんばった。
しかしその(がんばった)という部分が、今の若い人たちには、理解できない。
・・・理解してもらえない。

 いつだったか、私が戦後の日本はそうだったと話したことがある。
それについて、息子の1人は、こう反論した。

「そんなのは、戦争を起こしたパパたちの責任だろ。自業自得」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。

さらに言えば、今に見る飽食の時代にしても、日本は明治の昔から
そうだったと思い込んでいる。
で、息子たちに、「ぼくたちは、食べていくだけで精一杯だった」
と言っても、息子たちには、それが理解できない。

 保護と依存の問題は、意識の問題。
その意識そのものがズレると、こういう現象が起きる。

●裏目

 今、私たちがしてきた子育てが、裏目、裏目に出始めている。
たとえば私たちは、いつも腹をすかせていた。
よく覚えているのは、学校の給食が、ごちそうだったこと。
毎日、家では見たことがないような料理が並んだ。
クリームシチューにしても、スパゲッティにしても、さらにはハンバーグにしても、
珍しかった。
(牛肉のステーキなどというものは、めったに食べられなかったぞ!)

 だから息子たちとレストランへ入り、みなでステーキを食べるたびに、
こう思った。
「よかった」と。
が、そんな思いは、子どもたちには通じない。
通じないばかりか、それを口にしたとたん、「パパは昔の話ばかりする」と、
はねのけられてしまう。
私がどんな言い方をしても、息子たちには、グチに聞こえるらしい。
あるいは「恩着せ?」。

●がむしゃらに生きてきた
 
 しかしその一方で、バカらしさを覚えるのも、これまた如何(いかん)とも
しがたい。
「私たちは、何を求めて、何のためにがんばってきたのか」と。
知人の中には、会社人間として、会社のために家族を犠牲にした人も多い。
かつてそれを知ったオーストラリアの友人は、こう言った。
「家族をバラバラにされて、何が仕事か?」と。
彼は、単身赴任を批判して、そう言った。
私がオーストラリアへ渡った、40年前のことである。

 もっともその結果として、今の日本がある。
一時は、世界第二の経済大国として、世界に君臨した。
が、基本的依存関係というのは、恐ろしい。
依存する側は、それを「当たり前」という前提で、考える。
失うことの恐ろしさを知らない。
失ったあとの、貧しい世界を知らない。
そればかりか、今度は反対に、老人たちを、じゃま扱いするように
なってきている。
 
 私たちは、今のような日本をつくるためにがんばってきたのか?
・・・というのは、言いすぎ。
本当のところ、私たちは、ただひたすら、がむしゃらに生きてきただけ。
今の中国や韓国の人たちのように、がむしゃらに生きてきただけ。
今の日本は、あくまでもその結果でしかない。

●頭をさげさせる

 総じて言えば、日本人は、保護と依存の関係に、甘い。
親をさして、「保護者」と呼ぶところにも、それが表れている。
が、それを是正する時期は、近い。

 たまたまおとといも、ある幼稚園で講演をさせてもらった。
その席でも、私はこう言った。

「子どもに、勉強しろと言ってはいけませんよ。
言えば、その責任を取らされますよ」と。

 今、親に感謝しながら高校へ通っている子どもは、皆無。
大学生でも、いない。
「行くのが当然」「親が学費を出すのは当然」と考えている。
「責任を取らされる」というのは、そういうことを言う。
だから講演では、つづけてこう言った。

 「1度は、子どもに頭をさげさせること。
2度でも、3度でもいい。
『お父さん、お母さん、勉強したいから、大学へ行かせてください』と」と。
それがなかったら、学費は、自分自身の老後のために蓄えておいたほうがよい。

●ありがた迷惑

 こうした基本的依存関係は、代々、親から子へと伝えられる。
そして親は、子どもが生まれたときから、基本的依存関係を作ってしまう。
子どもが望みもしないうちから、「そら、ピアノ教室」「そら、水泳教室」と。
親によっては、子どもに楽をさせること。
楽しい思いをさせること。
それを親の務めと考えている。

 そうそうこんな会話を、数日前、電車の中で聞いた。
ある若い母親が、別の若い母親にこう言っていった。

「あのね、うちの親ったらね、毎週のように、いろいろなものを
送ってくれるのよ。
実家が寿司屋でしょ。
だから高級魚ばかり。
そのせいで、うちの子ったら、安い魚は食べないのよ」と。

 どこか、ありがた迷惑といった感じだった。
私はそれを横で聞きながら、自分の心を支えていたつっかい棒が、
ガクリとはずれるのを感じた。
実は私も、孫たちに対して、同じことをしている。

●では、どうするか?

 私たちは私たちで、生きる。
甘い幻想や期待は、もたない。
若い世代が、「自業自得」という言葉を使うなら、この先、日本が衰退
しても、それもまた自業自得。
今の日本は、私たちの世代が作った。
同じようにこれからの未来は、今の若い世代が作っていく。

 ・・・と考えるのは、あまりにもさみしい。
そこで私は、私たちの世代に向かって、こう提言したい。

もっと若い人たちの世界に、切り込んでいこうではないか、と。
もっと存在感をアピールしていこうではないか、と。
体力や気力を使う分野では勝ち目はない。
しかしそれ以外の分野なら、まだまだ負けない。
つまりは自立した老人として、若い人たちに向かって、果敢なく
挑戦していく。

 そう、今こそ、私たちは、保護・依存の関係をぶち壊し、自立した
老人として、前に向かって進む。
堂々と、独居老人になってやろうではないか。
堂々と、孤独死を、なしとげてやろうではないか。
つまりそういう形で、私たちの生き様を、若い人たちに見せつけて
やろうではないか。

●基本的依存関係

 「基本的依存関係」という言葉を先に考えた。
が、書いているうちに、老人論になってしまった。
読んでくれた人には、申し訳ない。
つまりは、土居健郎の「甘えの構造」の焼き直し版というところか。

 つまり私が書きたいのは、日本人というのは、総じてみれば、「依存型民族」である
ということ。
そしてその原因は、親から子へと代々とつながる、育児観にあるということ。
子どもを依存型に育てながら、依存型に育てているという意識そのものが薄い。
ここでいう「基本的依存関係」というのは、そういう言葉として、理解してもらえば、
うれしい。

 それについて書いた原稿をさがしてみる。

+++++++++++++++++

今から7年近くも前に書いた原稿である。

+++++++++++++++++

【日本人の依存性】

●孫から学んだこと(What I learnt from my G-son)

孫の誠司と接して、学んだことは多い。
たとえば、誠司は、こう言う。

(のどが渇いたとき)……「何か、飲み物をもっているか?」
(風呂に入るとき)……「足がやけどする」
(おなかがすいたとき)……「グレープフルーツを食べたい」と。

同じような場面のとき、日本の子どもなら、(だから、何とかしてくれ言葉)を使う。

たとえば、

(のどが渇いたとき)……「のどがかわいたア! (だから何とかしてくれ)」
(風呂に入るとき)……「熱い! (だから何とかしてくれ)」
(おなかがすいたとき)……「腹、減ったア! (だから何とかしてくれ)」と。

こうした日本人独特の依存性は、おとなになってからも、消えない。

私の叔母のひとりは、50代のころから、いつもこう言っていた。
電話で、話を始めるたびに、
「おばちゃん(=叔母自身)も、歳を取ったからねエ~。(だから、何とかしてくれ)」と。

何も叔母を責めているのではない。
その地方では、そういう言い方が、ごくふつうの言い方となっている。
が、ときとして、イヤミに聞こえることもある。

たとえばしばらく実家に帰っていないでいたりすると、
「浩司君の家の横に、ゴミがたまっていたぞ。(だから何とかせよ)」、
「J君(=私の実兄)が、猛スピードで、坂を、自転車で走っていたぞ。(だから何とかせ
よ)」と。

「浩司君の夢を見たから」とか何とか、おかしな理由をつけて、電話をかけてくる。

一方、私が住んでいるこの浜松では、そうした言い方は、あまりしない。
とくにワイフの家族は、しない。
みな、独立心が旺盛で、それぞれが高次元な立場で、尊敬しあっている。

そんな私でも、誠司の言葉には、そのつど、驚く。
誠司は、日本語をほとんど話せない。
日本人というよりは、アメリカ人である。

いつもYES・NOをはっきりと言う。
会話は、そこから始まる。
だから何かほしいものがあったりすると、直接、「~~がほしい」などと言う。
わずか10日間ほどのつきあいだったが、そのつど、私は、こう思った。

「こんな5歳の子どもでも、日本人とは、ちがうなア~」と。

その日本人の依存性については、たびたび書いてきた。
つぎの原稿は、5年前(03年)に書いた原稿である。

++++++++++++++