●子どもの虚言癖
++++++++++++++++++
兵庫県にお住まいの、HGさんより、
子どもの虚言癖についての相談があった。
子どもの虚言癖についての相談は多い。
以前のもらった相談と重ねて、この
問題を考えてみたい。
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はじめまして。小学校2年生の男子(長男)についての相談です。
子供の嘘について相談します。
息子のばあい、空想の世界を言っているような嘘ではなく、
「自分の非を絶対に認めない」嘘です。
先日担任の先生からお電話があり、こんなことがあったそうです。
(1)何かの試合の後、「○○君のせいで負けたんだ」と発言。直接その子に言ったようではなかったが、言われた子は泣き出してしまった。 担任が注意しようとすると、「僕、言っていない」の一点張り。しかし、先生も周囲にいた複数のクラスメートが、言ったことを聞いている。
(2)工作の材料にバルサの板のようなものを4枚、持ってきた子がいた。気がつくと3枚しかなく、探していたところ、いつのまにかうちの子が1枚持っており、「自分が持ってきたものだ」と言い張る。
そこで本当に家から持ってきたものなのかどうか、先生から問い合わせという形で、電話がありました。
しかし、当日家から持っていた形跡はなく、問いつめると
子:「家の近所で拾った」
私:「どこで拾ったか、連れて行って」
子:「わかんない。通学路で拾った」
私:「通学路のどのあたり?」
子:「○○の坂を上がって、右に曲がったところ」
私:「○○君は教室まで4枚、あったって」
子:「・・・」
という感じで、つじつまを合わせようと必死。最後に私が「○○君が持っていたのが欲しくなっちゃったんだ?」と聞くと、小さくコクリ。最後まで「自分が取ってしまった」とは言いませんでした。
また、休日においても、先日お友達と野球場に行った際、お友達(4生)と弟(5歳)との3人で、高いところから通路へ石投げに興じてしまいました。そこへ野球場を管理するおじさんから「そんなことしちゃいかん!」と一喝。
私は現場を見ていなかったので、「何やったの!?」と聞くと、またしても「僕、何にもやっていない」の一点張り。(お友達は「自分もやったが、○○(うちの子)も一緒にやった」と言いました)。しばらくして父親が登場(草野球の試合をしていました)、「おまえもやったんだろ?」と威厳ある態度で聞くと小さくコクリ、でした。
石投げについては、私の聞き方がまずかったかな? (嘘を言うことが可能な質問)とも思いますが、平然と周知の事実について頑なに嘘を突き通すことについて、子供の心の中がどうなっているのかわからなくなりそうです。
小学校1年の頃までは嘘を言うと、なんとなく顔や態度に出るのであまり気にはしていませんでしたが、最近はそれがなくなり「絶対正しい!」という自信さえ漂わせています。
生きていくうえでは嘘は必要なものでもありますが、それより以前に自分に打ちかって、正直に言うことや誠実であることの大切さをわかってもらうには、今後、どう対応していったら良いのでしょうか?
どうぞよろしくお願いします。
(兵庫県A市在住、HGより)
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【HGさんへ】
以前、書いた原稿を、まずここに掲載しておきます。
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子どものウソ
Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。(小二男)
A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害による虚言、それに(3)虚言。
空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのように錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症状をともなうことが多い。
これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。
ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。
母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。
同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。
その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言という。こんなことがあった。
ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの子の手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをするのですか!」と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。
結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。
イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。
このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、特徴である。
どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」だけを繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入っていく。
++++++++++++++++++++++++
ここまでは、いわば一般論。雑誌の性格上、この程度までしか書けない。つぎにもう少し、踏みこんで考えてみる。
子どものウソで、重要なポイントは、子ども自身に、ウソという自覚があるかどうかということ。さらにそのウソが、人格的な障害をともなうものかどうかということ。たとえばもっとも心配なウソに、人格の分離がある。
子どものばあい、何らかの強烈な恐怖体験が原因となって、人格が分離することがある。たとえばある女の子(二歳)は、それまでになくはげしく母親に叱られたのが原因で、一人二役(ときには、三人役)の独り言を言うようになったしまった。それを見た母親が、「気味が悪い」といって、相談してきた。
このタイプの子どものウソは、まったくつかみどころがないのが特徴。ウソというより、まったく別人になって、別の人格をもったウソをつく。私の知っている女の子(小三、オーストラリア人)がいる。「私は、イタリアの女王」と言うのだ。そこで私が「イタリアには、女王はいない」と説明すると、ものごしまで女王ぽくなり、「私はやがて宮殿に迎えいれられる」というようなことを繰りかえした。
つぎに心の中に、別の部屋をつくり、その中に閉じこもってしまうようなウソもある。これを心理学では、「隔離」という。記憶そのものまで、架空の記憶をつくってしまう。そしてそのウソを繰りかえすうちに、何が本当で、何がウソなのか、本人さえもわからなくなってしまう。親に虐待されながらも、「この体のキズは、ころんでけがをしてできたものだ」と言っていた、子ども(小学男児)がいた。
つぎに空想的虚言があるが、こうしたウソの特徴は、本人にその自覚がないということ。そのためウソを指摘しても、あまり意味がない。あるいはそれを指摘すると、極度の混乱状態になることが多い。
私が経験したケースに、中学一年生の女の子がいた。あることでその子どものウソを追及していたら、突然、その女の子は、金切り声をあげて、「そんなことを言ったら、死んでやる!」と叫び始めた。
で、こうした子どもの虚言癖に気づいたら、どうするか、である。
ある母親は、メールでこう言ってきた。「こういう虚言癖は、できるだけ早くなおしたい。だから子どもを、きびしく指導する」と。その子どもは、小学一年生の男の子だった。
しかしこうした虚言癖は、小学一年生では、もう手のほどこしようがない。なおすとか、なおさないというレベルの話ではない。反対になおそうと思えば思うほど、その子どもは、ますます虚構の世界に入りこんでしまう。症状としては、さらに複雑になる。
小学一年生といえば、すでに自意識が芽生え、少年期へ突入している。あなたの記憶がそのころから始まっていることからわかるように、子ども自身も、そのころ人格の「核」をつくり始める。その核をいじるのは、たいへん危険なことでもある。へたをすれば、自我そのものをつぶしてしまうことにも、なりかねない。
そのためこの時期できることは、せいぜい、今の状態をより悪くしない程度。あるいは、ウソをつく環境を、できるだけ子どもから遠ざけることでしかない。仮に子どもがウソをついても、相手にしないとか、あるいは無視する。やがて子ども自身が、自分で自分をコントロールするようになる。年齢的には、小学三,四年生とみる。その時期を待つ。
ところで私も、もともとウソつきである。風土的なもの、環境的なものもあるが、私はやはり母の影響ではないかと思う。それはともかくも、私はある時期、そういう自分がつくづくいやになったことがある。ウソをつくということは、自分を偽ることである。自分を偽るということは、時間をムダにすることである。だからあるときから、ウソをつかないと心に決めた。
で、ウソはぐんと少なくなったが、しかし私の体質が変わったわけではない。今でも、私は自分の体のどこかにその体質を感ずる。かろうじて私が私なのは、そういう体質を押さえこむ気力が、まだ残っているからにほかならない。もしその気力が弱くなれば……。ゾーッ!
そんなわけで小学一年生ともなれば、そういう体質を変えることはできない。相談してきた母親には悪いが、虚言癖というのはそういうもの。その子ども自身がおとなになり、ウソで相手をキズつけたり、キズつけられたりしながら、ウソがもつ原罪感に自分で気がつくしかない。また親としては、そういうときのために、子どもの心の中に、そういう方向性をつくることでしかない。
それがどんなウソであるにせよ……。
(030605)
【補足】
以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いた。内容が重複するが、参考までに……。
+++++++++++++++++
●子どもがウソをつくとき
●ウソにもいろいろ
ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにしてつくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。
虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。
同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言という。
こんなことがあった。
ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。
「うちの子(年長男児)が手に大きなアザをつくってきました。
子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではありませんか。
どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」と。
ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。
そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。
その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。
結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。
イギリスの格言に、
『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』というのがある。
子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。
このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。
そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。
ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。
子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。
「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。
必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソがうまくなる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
おとなの世界とて、例外ではない。
おとなといっても、もとは、子ども。
おとなになっても、虚言癖の残る人は多い。
最近聞いた話に、こんなのがある。
これは「おとなの虚言癖」について。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
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兵庫県にお住まいの、HGさんより、
子どもの虚言癖についての相談があった。
子どもの虚言癖についての相談は多い。
以前のもらった相談と重ねて、この
問題を考えてみたい。
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はじめまして。小学校2年生の男子(長男)についての相談です。
子供の嘘について相談します。
息子のばあい、空想の世界を言っているような嘘ではなく、
「自分の非を絶対に認めない」嘘です。
先日担任の先生からお電話があり、こんなことがあったそうです。
(1)何かの試合の後、「○○君のせいで負けたんだ」と発言。直接その子に言ったようではなかったが、言われた子は泣き出してしまった。 担任が注意しようとすると、「僕、言っていない」の一点張り。しかし、先生も周囲にいた複数のクラスメートが、言ったことを聞いている。
(2)工作の材料にバルサの板のようなものを4枚、持ってきた子がいた。気がつくと3枚しかなく、探していたところ、いつのまにかうちの子が1枚持っており、「自分が持ってきたものだ」と言い張る。
そこで本当に家から持ってきたものなのかどうか、先生から問い合わせという形で、電話がありました。
しかし、当日家から持っていた形跡はなく、問いつめると
子:「家の近所で拾った」
私:「どこで拾ったか、連れて行って」
子:「わかんない。通学路で拾った」
私:「通学路のどのあたり?」
子:「○○の坂を上がって、右に曲がったところ」
私:「○○君は教室まで4枚、あったって」
子:「・・・」
という感じで、つじつまを合わせようと必死。最後に私が「○○君が持っていたのが欲しくなっちゃったんだ?」と聞くと、小さくコクリ。最後まで「自分が取ってしまった」とは言いませんでした。
また、休日においても、先日お友達と野球場に行った際、お友達(4生)と弟(5歳)との3人で、高いところから通路へ石投げに興じてしまいました。そこへ野球場を管理するおじさんから「そんなことしちゃいかん!」と一喝。
私は現場を見ていなかったので、「何やったの!?」と聞くと、またしても「僕、何にもやっていない」の一点張り。(お友達は「自分もやったが、○○(うちの子)も一緒にやった」と言いました)。しばらくして父親が登場(草野球の試合をしていました)、「おまえもやったんだろ?」と威厳ある態度で聞くと小さくコクリ、でした。
石投げについては、私の聞き方がまずかったかな? (嘘を言うことが可能な質問)とも思いますが、平然と周知の事実について頑なに嘘を突き通すことについて、子供の心の中がどうなっているのかわからなくなりそうです。
小学校1年の頃までは嘘を言うと、なんとなく顔や態度に出るのであまり気にはしていませんでしたが、最近はそれがなくなり「絶対正しい!」という自信さえ漂わせています。
生きていくうえでは嘘は必要なものでもありますが、それより以前に自分に打ちかって、正直に言うことや誠実であることの大切さをわかってもらうには、今後、どう対応していったら良いのでしょうか?
どうぞよろしくお願いします。
(兵庫県A市在住、HGより)
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【HGさんへ】
以前、書いた原稿を、まずここに掲載しておきます。
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子どものウソ
Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。(小二男)
A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害による虚言、それに(3)虚言。
空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのように錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症状をともなうことが多い。
これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。
ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。
母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。
同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。
その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言という。こんなことがあった。
ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの子の手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをするのですか!」と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。
結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。
イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。
このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、特徴である。
どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」だけを繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入っていく。
++++++++++++++++++++++++
ここまでは、いわば一般論。雑誌の性格上、この程度までしか書けない。つぎにもう少し、踏みこんで考えてみる。
子どものウソで、重要なポイントは、子ども自身に、ウソという自覚があるかどうかということ。さらにそのウソが、人格的な障害をともなうものかどうかということ。たとえばもっとも心配なウソに、人格の分離がある。
子どものばあい、何らかの強烈な恐怖体験が原因となって、人格が分離することがある。たとえばある女の子(二歳)は、それまでになくはげしく母親に叱られたのが原因で、一人二役(ときには、三人役)の独り言を言うようになったしまった。それを見た母親が、「気味が悪い」といって、相談してきた。
このタイプの子どものウソは、まったくつかみどころがないのが特徴。ウソというより、まったく別人になって、別の人格をもったウソをつく。私の知っている女の子(小三、オーストラリア人)がいる。「私は、イタリアの女王」と言うのだ。そこで私が「イタリアには、女王はいない」と説明すると、ものごしまで女王ぽくなり、「私はやがて宮殿に迎えいれられる」というようなことを繰りかえした。
つぎに心の中に、別の部屋をつくり、その中に閉じこもってしまうようなウソもある。これを心理学では、「隔離」という。記憶そのものまで、架空の記憶をつくってしまう。そしてそのウソを繰りかえすうちに、何が本当で、何がウソなのか、本人さえもわからなくなってしまう。親に虐待されながらも、「この体のキズは、ころんでけがをしてできたものだ」と言っていた、子ども(小学男児)がいた。
つぎに空想的虚言があるが、こうしたウソの特徴は、本人にその自覚がないということ。そのためウソを指摘しても、あまり意味がない。あるいはそれを指摘すると、極度の混乱状態になることが多い。
私が経験したケースに、中学一年生の女の子がいた。あることでその子どものウソを追及していたら、突然、その女の子は、金切り声をあげて、「そんなことを言ったら、死んでやる!」と叫び始めた。
で、こうした子どもの虚言癖に気づいたら、どうするか、である。
ある母親は、メールでこう言ってきた。「こういう虚言癖は、できるだけ早くなおしたい。だから子どもを、きびしく指導する」と。その子どもは、小学一年生の男の子だった。
しかしこうした虚言癖は、小学一年生では、もう手のほどこしようがない。なおすとか、なおさないというレベルの話ではない。反対になおそうと思えば思うほど、その子どもは、ますます虚構の世界に入りこんでしまう。症状としては、さらに複雑になる。
小学一年生といえば、すでに自意識が芽生え、少年期へ突入している。あなたの記憶がそのころから始まっていることからわかるように、子ども自身も、そのころ人格の「核」をつくり始める。その核をいじるのは、たいへん危険なことでもある。へたをすれば、自我そのものをつぶしてしまうことにも、なりかねない。
そのためこの時期できることは、せいぜい、今の状態をより悪くしない程度。あるいは、ウソをつく環境を、できるだけ子どもから遠ざけることでしかない。仮に子どもがウソをついても、相手にしないとか、あるいは無視する。やがて子ども自身が、自分で自分をコントロールするようになる。年齢的には、小学三,四年生とみる。その時期を待つ。
ところで私も、もともとウソつきである。風土的なもの、環境的なものもあるが、私はやはり母の影響ではないかと思う。それはともかくも、私はある時期、そういう自分がつくづくいやになったことがある。ウソをつくということは、自分を偽ることである。自分を偽るということは、時間をムダにすることである。だからあるときから、ウソをつかないと心に決めた。
で、ウソはぐんと少なくなったが、しかし私の体質が変わったわけではない。今でも、私は自分の体のどこかにその体質を感ずる。かろうじて私が私なのは、そういう体質を押さえこむ気力が、まだ残っているからにほかならない。もしその気力が弱くなれば……。ゾーッ!
そんなわけで小学一年生ともなれば、そういう体質を変えることはできない。相談してきた母親には悪いが、虚言癖というのはそういうもの。その子ども自身がおとなになり、ウソで相手をキズつけたり、キズつけられたりしながら、ウソがもつ原罪感に自分で気がつくしかない。また親としては、そういうときのために、子どもの心の中に、そういう方向性をつくることでしかない。
それがどんなウソであるにせよ……。
(030605)
【補足】
以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いた。内容が重複するが、参考までに……。
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●子どもがウソをつくとき
●ウソにもいろいろ
ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにしてつくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。
虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。
同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言という。
こんなことがあった。
ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。
「うちの子(年長男児)が手に大きなアザをつくってきました。
子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではありませんか。
どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」と。
ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。
そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。
その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。
結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。
イギリスの格言に、
『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』というのがある。
子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。
このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。
そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。
ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。
子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。
「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。
必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソがうまくなる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
おとなの世界とて、例外ではない。
おとなといっても、もとは、子ども。
おとなになっても、虚言癖の残る人は多い。
最近聞いた話に、こんなのがある。
これは「おとなの虚言癖」について。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司