最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●戦中派の世代の思考回路

2011-07-31 10:43:56 | 日記
●言葉(日本語)の起源(原始言語)

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中学生や高校生を教えていると、
ときどき、こんな話しになる。
「大昔の日本語は、どうだったか」と。

大昔といっても、石器時代の話し。
あるいはそれ以前。
そのつど、私はこんな話しを生徒たちにする。

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●「イ」と「ウ」の世界

 人類の歴史は、約20万年と言われている。
その中でも、新石器時代に別れを告げ、現在に見る文明社会に突入したのは、約5500年前。
そのころ黄河流域に黄河文明、チグリス・ユーフラテス川流域に、メソポタミア文明が生まれた。

 もちろん地域差も大きかった。
黄河文明が栄えたときですら、その周辺の民族は、火を使うことすら知らなかったという。
いつだったか、台湾から来ていた東洋医学の先生が、そう話してくれた。

 で、そういう世界では、つまり文明が始まる以前の人間は、どのようにして意思を伝達していたか。
その点、私たちが使っている日本語には、ひとつのヒントが隠されている。
「イ」と「ウ」である。

●状態は「イ」、動作は「ウ」

 これはあくまでも私の推察だが、ものの状態を表すときは、「イ」を使った。
「イ~」だったかもしれない。
あるいは発音は、「イ」に近いというだけで、もっとあいまいなものだったかもしれない。
その「イ」の前に、いろいろな名詞がくっついた。

 たとえば「草」と「イ」で、「クサイ(草イ)」と。
それが「臭い」となった、など。

 当初は単純な表現のみだった。
食生活や危険に関するものが多かったのでは?
「うま・イ」「まず・イ」「あぶな・イ」「こわ・イ」など。
それがやがて感情の表現へと発展していった。
「かなし・イ」「うれし・イ」と。

 同じように動作を表すときは、「ウ」を使った。
たとえば「走る・ウ」「食べる・ウ」「切る・ウ」と。
だから原始の日本人は、(モンゴル人でもよいが)、「イ~」「ウ~」というような言い方で、ものの性質や動作を表していた。
もちろん何らかのジェスチャも併用された。

 「食べる」というジェスチャを示しながら、「ウ~、ウ~」と言っていたことは、じゅうぶん、推察される。

●幼稚言語

 私は似たような現象を、ときどき、幼児の世界に見る。

 もう30年前になるだろうか。
私の近所のアパートに、若い家族が移り住んできた。
が、両親は共働き。
今で言う崩壊家庭。
2人の子ども(上が4歳前後の男児、下が2歳前後の男児)がいたが、保育園へも行かず、一日中、近所の広場で遊んでいた。
ときどき母親が仕事先から戻ってきて、何かの世話をやいていたが、それだけ。
その子どもたちの騒々しさといったら、普通ではなかった。
道路が遊び場だった。

 そのときのこと。
私は2人の子どもが、独特の言葉を使っているのを知った。
三輪車は「シャーシャー」、
押すは「ドウドウ」、
コロ付きの台車のようなものをもっていたが、それは「ゴーゴー」。
だから、「三輪車を押す」は、「シャーシャー、ドウドウ」となる。

 ほかにもいろいろな言葉を使っていた。
記憶は定かではないが、「あぶない」は、「ウヒャ」「ドヒャ」など。
終日、わけのわからない奇声が道路から聞こえていた。

●原始言語

 今から思うと、原始言語と言われるものも、それに近かったのではないか。
まず身近で関心のあるモノを、何らかの言葉で表現する。
先の子どもたちにすれば、三輪車。
「三輪シャ」の「シャ」だけが残って、「シャーシャー」になったとも考えられる。

 では、「ドウドウ」は、どうか。
いつか親が、「押す」という言葉を教えたのかもしれない。
「押す」が、「ドウ」になった?

 ともかくも原始言語の世界では、「モノ」に「ウ」がくっついた。
それによって、動作を表した。
ものの変化もその中に含まれる。

 たとえば「草・ル」が、「クサル(腐る)」になったなど。
草が変化して、臭くなる。
(私は、草・イ(臭い)、草・ル(腐る)は、「草」から生まれた派生語と推察している。)

「生きる」にしてもそうだ。
息をしている人は、生きている。
だから「息(いき)る」が「生きる」となった(?)。

が、その中でもとくに注目したいのが、短い単語。
原始言語の世界では、音の数も少なかったはず。
たとえば「うつくし・イ」は、6つの母音を含む。
こういう言葉は、ずっとあとになって生まれた。

 原始言語の世界では、母音の数は1つ、あるいは2つ。
「見る・ウ」「聞く・ウ」など。
わかりやすいのは、「イイ」。
自分にとって都合のよいものは、「イイ」と表現した。
それが「良い」へと変化していった。

 食べものであれば、「うま・イ」から、「おいし・イ」と。
もちろんその反対のこともある。
「わる・イ」「こわ・イ」と。
興味深いのは、「まず・イ」と「まずし・イ」。
本当に関連があったかどうかは、わからないが、ともに、「貧しい」の「貧」でつながっている。
味が貧弱だから、「まずい」、食料が乏しいから、「貧しい」と。

●早口

 ついでに言うと、1000年前の日本人と比べただけでも、現代人はきわめて早口になっていると推察される。
私はそのことを、学生時代、謡(うたい)を習っているときに知った。
ご存知の方も多いと思うが、謡の中に出てくる会話は、実にかったるい。
『これはこのオ~、~~の~~がしにて、そうろうウ~」と。
現在の話し方と比べても、数倍は時間がかかる。

 謡の中の会話がかったるいのではない。
1000年前の日本人は、そういう話し方をしていた。
そう考えるべきである。
というのも、私たちが子どものときでさえ、(ちょうど半世紀前ということになるが)、当時の日本人は、今よりずっとゆっくりと話していた。

 さらにこんなこともあった。
私たちが高校の修学旅行で、山口県の秋芳洞へ行ったときのこと。
私たちが早口なのを知り、現地のバスガイドがたいへん驚いていた。
「岐阜では、みな、そんな話し方をするのですか!」と。
地域性もある。

 これを原始言語に当てはめて考えると、言葉が誕生したころの世界では、人々は、今より、はるかにゆっくりと話しをしていた。
語彙数にしても、当時の日本人は、(モンゴル人でもよいが)、数10とか、数100とか、その程度しかなかったのでは?

 ……こうして想像力を働かせていくと、この世界はかぎりなく膨らんでいく。
それがまた楽しい。
子どもたち(中学生や高校生たち)も、こういった話しになると、目を輝かせて耳を傾けてくれる。

 もちろん私がここに書いたことは、あくまでも私の推察。
記録などあるはずもない。
しかしさらに最近、私はこんな発見をした。

 犬のハナ(今年20歳)が、ときどき言葉らしきものを話す。
たとえば私が家に帰ったようなとき、垣根の向こうから、「クク~ン、ウ~ン」というような声を出す。
それが毎回、同じ。
まったく、同じ。
私には、「パパ、お帰り」と言っているように聞こえる。
つまり「同じ」という点で、それがハナの言葉ということになる。
声帯が発達していないから、「言葉」としては認識できないが、もし声帯が人間並みに発達していたら、簡単な言葉を話すようになるかもしれない。

 恐らくこうした研究は、言語学の世界で真剣になされているだろうから、私がここに書いたことは、雑談ほどの意味しかない。
が、おもしろいことは、おもしろい。
たいへん興味深い。
原始時代の人間は、どんな言葉を使っていたか。
あなたも一度、子どもとそんなテーマで話しを進めてみるとよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 原始言語 原始時代の日本語 新石器時代の言葉)2011/07/31記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●浜松(遠州地方)の言葉

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私が住むこの遠州地方では、「本当?」と
聞き返すようなとき、「ウッソー(嘘)」と言う。

40年前、私が浜松へ来た直後には、
この言葉が、たいへん不愉快だった。
最初のころは、「嘘とは何だ!」と、本気で
言い返したことがある。

このことについては、もう何度も書いた。
が、ほかにもある。

このあたりでは、久しぶりに人に会ったりすると、
こう言う。
「まだ、~~の仕事、してたのオ~?」と。
60歳以上の年配の人が、よく使う。

たぶん、「元気で仕事をつづけられていいですね」
という意味でそう言う。
しかし先にも書いたように、私はここに住んで
40年になるが、いまだにこの言葉を使われると、
頭にカチンと来る。

たとえば私に向かって、「まだ塾やってるのオ~?」と。
聞き方によっては、(私はそう聞いているが)、
バカにされたように聞こえる。
だからそのつど、私はこう思う。
「バカにするな!」と。

「ウッソー」にしても、「まだ~~してるのオ?」に
しても、あまり品のよい言葉ではない。
遠州地方の人たちにはそれがわからないかもしれない。
が、外の地方では使わない方がよい。
相手を確実に不愉快にする。

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●独特の考え方

 戦争を経験した世代の人たちは、独特のものの考え方をする。
「死」を、「生きること」にからませて考える。
たとえば30年ほど前、私にこう言った人(男性)がいた。
当時40歳くらいだった。

「なあ、林(=私)、どうせ、あいつはオレより早く死ぬんだよ」と。
その男性は、相手の年齢を見て、そう言った。
つまり「長生きをしたほうが、勝ち」と。
あるいは「人生の結論は、臨終のときにわかる」と言う人も多い。

が、さらに一歩進んで、生き残り競争をしている人もいるという。
朝食のとき、ワイフがこんな話しをしてくれた。

●生き残り競争

 A氏(85歳)とB氏(75歳)は、隣どうしだが、仲が悪い。
顔を合わせることもない。
視線が合っても、たがいに顔をそむける。
あいさつすらしない。

 ともに元公務員。
年金だけは、じゅうぶんある。
それもあるのだろうが、A氏はいつもこう言っている。
「あいつ(=B氏)の最後だけは、見届けてやる」と。

 10歳も年下だから、平均余命から計算すれば、A氏のほうが先に死ぬ。
が、A氏は、「見届けてやる」と。
B氏に対する憎しみを、生き残り競争に転化させた。
それはすさまじいほどの執念と言ってよい。
80歳を過ぎてから、ウォーキングマシンを購入したという。
毎朝散歩し、ときどき自転車にも乗る。
ほかに生きがいらしい生きがいはない。

 妻はいるが、すでに毎日ケアセンターに通っている。
息子と娘がいたが、この30年以上、音信はない。
だからその執念(=恨み)を、B氏に向けた。

●以心伝心

 が、ここからの話しが興味深い。
そういうA氏の執念は、B氏に伝わっている。
A氏は、様々ないやがらせを、B氏に繰り返した。
それもあって、B氏はこう言っているという。

「Aさんが何を考えているか、よくわかっています」と。
が、幸か不幸か(?)、B氏はいたって健康。
奥さんも健康。
75歳を過ぎても、どこかの事務所で、事務の仕事を手伝っている。
それがA氏には、どうもおもしろくないらしい。
A氏は、ますます長生き競争に拍車をかけた。

●憎しみは人格を崩壊させる

 『人を憎むことは、ネズミを追い出すために、家に火をつけるようなもの』という。
つまり人格そのものを崩壊させる。
それもそのはず。

 憎しみを覚えると、免疫細胞がサイトカインという悪玉ホルモンを分泌する。
そのサイトカインが、脳ストレスを引き起こす。
それが免疫機能を弱体化させる。
が、それだけではない。

脳ストレスが慢性化すると、異常にこだわりが強くなり、ひいてはうつ病を引き起こす。
これが精神のさまざまな分野に影響を及ぼし、その人の人格を少しずつむしばんでいく。
つまり人格の崩壊をもたらす。
『家に火をつけるようなもの』というのは、そういう意味。

 事実、A氏の形相はふつうではない。
いつ見ても苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
それがぞっとするほど、醜い。

 つまりこうしたものの考え方そのものが、戦争を経験した世代の独特の考え方ということになる。
彼らがよく使う、「死んでも死にきれない」という言葉の裏には、そういう憎しみが隠されていることが多い。

 が、もちろんそうでない人も多い。
ワイフの父親(=義父)などは、いつもこう言っていた。
「申し訳ない」「申し訳ない」と。

 義父はラバウルで生き残った数少ない帰還兵。
「自分だけ生き残って帰ってきて、申し訳ない」という意味で、そう言っていた。
そういう人もいる。
だからみながみな、A氏のようなものの考え方をしているというわけではない。
しかし少なくないのも、事実。

●長生き

 日本人の平均余命(年齢)は、世界一という。
男性で80歳前後。
女性で86歳前後。

 もちろん長生きをすることは、すばらしい。
それはそれでよいこと。
しかしそこに「だからそれがどうしたの?」という疑問をかぶせてみると、平均余命も、そのまま色あせてしまう。

 長生きをする……だからそれがどうしたの?、と。

 つまり長生き競争も結構だが、長生きをするならするで、そこに生きる意味を加味しなければならない。
そうでないと、それこそ「息(いき)ている」だけで終わってしまう。
言い換えると、「息ている」だけの人生に、どれほどの意味があるというのか。
……とまあ、私たちの世代は、そう考える。
が、戦争を経験した世代は、そうではない。

 「自分だけ助かった」という思いを、「ああ、よかった」という思いに変えてしまう。
そういう思いが思考回路の基礎になっているから、「長生きしたほうが勝ち」と。
あの独特のものの考え方に、変わっていく。

 ともあれ、生と死を駆け引きに使ってはいけない。
神聖にして不可侵のテーマ。
いわんや「競争」に使ってはいけない。
A氏は、その愚かさに、死ぬまで気がつかないだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 戦中派 独特の考え方 生存競争 生き残り競争)2011/07/3記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司



●7月29日、刈谷で一泊(愛知県)

2011-07-30 21:23:03 | 日記
【同窓会で名古屋市へ】はやし浩司 2011-07-29

●名古屋

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今夕は名古屋市へ。
大学の同窓会(名古屋支部)が、名古屋市である。
ワイフも行きたいと言ったので、いっしょに行くことにした。
が、同窓会のほうではない。
「名古屋へ行きたい」と言った。

そこで刈谷の名鉄イン・ホテルに予約。
同窓会が終わるまで、ワイフにはそこで待っていてもらうことにした。
その名鉄インのこと。

ツィンルームは、1人6000円、2人で1万2000円(朝食付き)。
しかしシングルルームは、1名、2700円(朝食付き)。
この料金体系は、どう考えてもおかしい。
部屋を2つ借りたほうが、安い?
(シングルルーム2部屋で、5400円。
半額以下!)
おかしいので、電話をかけ、確かめてみる。

電話の向こうの男性は、あれこれ、ていねいに説明してくれた。
「部屋が広いです」とか、何とか。
まあ、こういうことで争うのは、いや。
予約どおり、1名6000円の部屋に泊まることにした。

同窓会は早めに切り上げ、ホテルに戻るつもり。
ワイフは、名古屋きしめんを、どこかで食べるのを楽しみにしている。
Me,too!

(補記:やはり部屋が広かった。
シングルルームの2倍以上。
泊まってみて、納得。
壁紙もトイレも新しく、清潔感にあふれていた。
1泊6000円(1名)でも、文句なし。)

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●同窓会

 名古屋で同窓会に出るのは、今回で2度目。
名古屋周辺に住む友人たちは、たがいに頻繁に会っているよう。
そのつど誘いがかかったが、時間が合わない。
たいてい金曜日の夕方。
仕事の帰りに、みなが、駅前のどこかに集まるといったふう。
加えて私は、アルコールが飲めない。

 が、今回は、夏休みということで、何とか、やりくりをした。
時間を作った。
で、4時30分の新幹線に。

 今、その新幹線の中にいる。
こだま号だが、座席の前後の間隔が広くなったように感ずる。
濃紺のシートが真新しい。
詳しくはないが、新型の新幹線らしい。
ただし電源用のコンセントはなし。
周りを見回してみたが、やはり、なし。
パソコンを持ち歩く私としては、やや不満。

 変わったところといえば、3号車と7号車に、自販機がついたこと。
1号車から8号車まで、すべて禁煙とか。

 ワイフは、列車最前部の電光ニュースを読んでいる。
私は、こうしてパソコンのキーボードを叩いている。

●教示

 同窓会にもいろいろある。
が、金沢大学法科の仲間たちは、結束力が強い。
出るたびに、楽しいというよりは、何か貴重な教示を受ける。
私には、それが楽しみ。

 それには理由がある。
その第一、みな、自分を飾らない。
あっけらかんとしていて、みな、自分のことを、平気で話す。
「今度、会社を3度目のクビになりまして……」とか、「(がんによる)闘病生活も、4年目になります」とか、など。
そのたびに、みなが、ヤンヤと拍手喝采。

 ただ、どういうわけか皆、奥さんの話しはしない。
私もしない。
息子や娘の話しもしない。
これはどういう理由によるのか。
同窓会というのは、そういうもの。
会ったとたん、学生時代に戻る。
独身時代に戻る。

●三河安城

 新幹線は、三河安城に着いた。
あと15分。
あと15分で、名古屋市。
今日のお供は、ダイナブックN200。
ドコモの携帯端末を買ったら、おまけにくれた。
が、このパソコンだけはネットに、スイスイとつながる。
WINDOW MAILの送受信も、楽。
さすが「おまけ」と、今、へんに感心する。

 で、浜松と名古屋は、遠いようで、近い。
新幹線で、たったの45分。
もし浜岡原発が福島第一原発のような事故を起こしたら、浜松はもちろん、名古屋市だって、あぶない。
人が住めなくなる。
悪い癖だ。
最近の私は、何か書いていると、すぐそういう話になってしまう。

●放射能汚染

 ものの考え方が、暗い。
陰鬱。
それは自分でもよくわかっている。
しかし私に言わせれば、世の中、反対にノー天気すぎる。
昨日も栃木県下の放射能汚染図が新聞に載った(中日新聞)。
それによれば、栃木県ですら北西部は、真っ赤。
福島県のいわき市と同程度に、汚染されているという。

 が、ここからが放射能汚染の怖いところ。
空気以上の「線」となって、じわじわとそこに住む人の人体を汚染する。
空気は人体を通過しない。
放射線は通過する。
いくら食べ物に気をつけていても、そういったものをすべて素通りして汚染する。
防ぎようがない。

●ハナ(犬)のダニ

 毎年この季節になると、ハナ(犬)の体にダニが付く。
ハナの血を吸い、大きさが5ミリほどになる。
それが少し油断していると、体中に何10匹と付く。

 そこでハナの体を洗い、薬をつける。
が、ハナはそれをいやがる。
洗ってやろうとすると、雰囲気で察して、そのままどこかへ隠れてしまう。
今朝もそうだった。

 そこでワイフにまずハナをつかまえてもらう。
そのあと、私はパンツ一枚で、外に出る。
ダニ取り用のシャンプーで、ハナの体を洗う。
そのときのこと。
私はこう思った。

 私の家で、昔からハナの世話をしているのは、この私。
が、ハナのほうといえば、その私をもっとも警戒している。
本来なら、私にいちばん感謝してよいはず。
「ご主人様、どうもありがとうございます」と。

 が、犬は犬。
そこまでの学習能力はない。
シャンプーで体を洗われることを、「ありがた迷惑」ととらえている(?)。
だから私から逃げる。

 が、今朝のハナはいつもと、少しだけちがった。
体を洗ってやっている間、私はずっとハナに話しかけた。
「かゆいだろ? だから洗うんだよ」よ。

 それがわかったのか(?)、いつもなら瞬時を置かず逃げ腰になるハナが、今朝はおとなしくしていた。
少しは私の善意が通じたよう(?)。
ハナは言葉を話さないから、本当のところはわからないが……。

●ホテルで

 午後9時ごろ、ホテルに着いた。
ワイフがドアのところで、迎えてくれた。
「食事は?」と聞くと、「すませた」と。
「ホテルの前にサイゼリア(店名)があって、そこですませたわ」と。

 あれこれ身支度を整えなおすと、外に出た。
出たところに、コメダ(店名・コーヒーショップ)があった。
私はそこでサンドイッチを食べた。
ワイフは、かき氷を食べた。

ワ「楽しかった?」
私「40年来の謎も解けたしね」
ワ「40年来の謎?」
私「そうだ」と。

 私は学生時代、けっして品行方正な学生だったというわけではない。
むしろ異端児だった。
そんな私だから、何をしてもドジばかり。
こんなことがあった。

●謎

 大学3年生のとき、内灘の海で4人の女子学生と知り合った。
4人の女子学生は、東京から来ていた。
金沢までいっしょに帰り、ビアガーデンへ行った。
で、そこからがロマンス。
要するに、よくある男と女の話し。

 私たちも4人。
女子学生たちが泊まるホテルに、忍び込んだ。
が、ここからが謎。
4人対4人。
かなりいい線までいったところで、突然、4人の女子学生たちが怒って部屋を出て行ってしまった。
「風呂へ行く!」と言って、浴場へ行ってしまった。

 私にはその謎がわからなかった。
どうして突然、4人の女子学生は怒ってしまったか。
が、今夜はじめてその理由がわかった。
あの夜、私は知らなかったが、DM君(4人のうちの1人)が、その女子学生の体の中に、手を入れたという。
タイミングが悪かった。
それでその女性学生が怒り、ほかの3人も、つづいて怒った。

 それでロマンスは終わり。

私「あのDM君が?」
友「そうなんだよ」
私「DM君は、ずっとぼくのせいだと言っていた」
友「いや、DM君のせいだよ。ぼくは横でそれを見ていたから」
私「ぼくは、見ていなかった……」と。

 DM君は、法学科の中でも1、2を争うほどの、まじめな学生だった。
(……というふうに、私は思っていた。)
そのDM君が、そんなことをしたとは!
信じられないというよりは、私はその話しに仰天した。
あの夜の雰囲気からして、もう少しじょうずに女子学生を誘導していたら、一生の思い出になっていたはず。

 で、あの夜覚えた、あのみじめな敗北感は、今でも忘れない。
私たちはトボトボと、深夜の金沢の道を歩いて、それぞれの下宿に帰った。

●日本経済新聞

 このところ毎日、日本経済新聞(本紙)に目を通している。
アメリカの債務協議問題や米国債格下げ問題が、気になる。
オバマ大統領は、上限を撤廃するのか、しないのか。
国債の格下げはしかたないとしても、それがどう国際経済に影響するのか。
上限をあげなければ、アメリカはデフォルト。
債務超過。
国家破綻。
一方、これ以上の借金は、無理。
どちらにせよ、アメリカ経済は破綻する。

……というほど大げさなものではないとしても、世界経済に与える衝撃と影響は、深刻なものになる。
すでにその予兆が、あちこちで現れ始めている。
世界中の株価が下落し始めているのも、そのひとつ。
もちろん日本の株価も、今週、大きく下落した。
が、この程度ですむとは、だれも思っていない。

 超巨大な台風を目前に控え、私たち一般民衆は、オタオタするだけ。
その向こうは、すべて、大恐慌という暗雲に包まれている。
経済の専門家ですら、「何が起こるか、予想が立たない」と言いだした。

 8月2日に、オバマ大統領は、どのような決断をくだすか。
8月3日に、世界はどのように動くか。
私たちは今、それを固唾をのんで、なすすべもなく、見守っている。

●7月30日

 刈谷の朝は、茜(あかね)色に輝いていた。
窓を開けると、眼下に、大型ショッピングセンター。
その左に、スポーツジムが見えた。
昨夜は遅くまで、ランニングマシーンの上で走っている人たちが見えた。

 静かな朝だ。
道路には、走る車もない。
時刻は午前5時半。
モゾモゾしながら、横からワイフが聞いた。
「何時?」と。

●ニュース

 ネットのニュースに目を通す。
あちこちで、いろいろな異常気象がつづいている。
韓国、北朝鮮の大洪水。
アメリカ北部の洪水と南部の大干ばつ。
この先、世界はどうなるのだろう……と考えたまま、思考停止。
この日本にしても、明日のことはわからない。
超大型の台風6号は、運よく太平洋にUターンしてくれた。
が、すでにそれにつづく台風がまた発生している。

 「もう、いいかげんにしてくれ!」と叫びたいが、自然は、もちろんそんな声に耳など傾けてくれない。
福島第一原発にしても、近くの浜岡原発にしても、余震や地震が、いつ起きてもおかしくない。
「安定している」とは言うが、問題は何も片づいていない。
さらに昨日の報道によれば、政府機関である保安院まで、(ヤラセ会議)を開いていたという。
マスコミは大騒ぎしているが、どうして?
こうした(ヤラセ)は、官僚のお家芸。
そのつど開かれる、「審議会」という名前の会議にしても、ヤラセでないのをさがすほうがむずかしい。
方法は簡単。

(1) YES・マンのみを集める。(どういう基準で人選されるのか?)
(2) 会議の進行は、官僚側が進める。(あらかじめ議題などは、すべて官僚側で用意。)
(3) 座長が、きわめて抽象的な答申をまとめる。(答申の内容を文書化するのも官僚。)
(4) その答申を自分勝手に料理する。(あとは官僚のやりたい放題。)

 座長には、それなりの地位と立場のある人物が選ばれる。
経済界の重鎮や御用学者たち。
御用文化人がなることも多い。
それなりの「三つ葉葵の紋章」をもっている人ほど、よい。
よくテレビなどにも名前と顔が出てくるから、どういう人が座長になっているか、それを見てみるとおもしろい。
つまり日本の政治は、政治家ではなく、官僚たちによって、こうしてゆがめられていく。

●スカイツリー 

 東京にスカイツリーができた。
600メートル以上もあるという。
一度は上ってみたいと思う。
しかし「上る」は「登る」。
私の山荘の横には、標高が550メートルの、M山がある。
3、4度、登ったことがある。
浜松市が一望でき、その向こうには丸みを帯びた太平洋が見える。
スカイツリーから見える景色も、あんなものだろうと想像する。

 が、このとき私の頭の中で、相反した2つの考えが交錯する。

 ひとつは、M山に匹敵するような高い「人工の山」を、よく作ったものだと感心する驚き。
もうひとつは、そんなものわざわざ作らなくても、「自然の山」があるではないかという思い。
ゼネコンは、こういう形で日本の技術力を世界に誇示したいのだろう。
言うなればゼネコンの看板のようなもの。
ドバイのように、自然の山のない国の人たちには、それなりに魅力的に映るかもしれない。
しかし私なら、近くのM山に登る。
登って、スカイツリーに上れない悔しさを解消する。
が、これは私の負け惜しみ。
すごいことには、ちがいないが……。

●大洪水

 朝のニュースは新潟県地方の洪水の様子を伝えている。
音は聞こえないが、映像からして、たいへんな洪水のようだ。
川を茶色の濁流が、波を打って流れていく。
画面で見ていると、その迫力はわからない。
が、私はその迫力をよく知っている。

 私が子どものころ、長良川も、よく洪水に見舞われた。
ふだんは静かでおとなしい川だが、大雨が降ると一転する。
そういうときは、川の近くまで行って流れを見る。
川が巨大なうねりを作り、ゴーゴーと流れていく。
それを見て、足がガクガクと震えたのを、今でも、よく覚えている。

 が、どうして今ごろ、大雨?
梅雨が終わって、もう2週間にもなる。

●アサヒスーパードライ
 
 同窓会は、楽しかった。
久しぶりに、腹の底から笑った。
ゆいいつの難点といえば、どうしてみな、同窓会というと、ああいう騒々しい場所でするのか。
静かなところで、静かに語らいあうというほうが、同窓会らしい。
今回も、「笹島交差点近くにある、アサヒスーパードライ」(案内)という店で、同窓会をした。
どこかドイツ風のビアホール。
金曜日の夜ということもあって、ほとんど満席。
みな、大声で怒鳴りあうようにして、話しをした。

 「次回は、どこかの温泉にしよう」という話しも出た。
それには大賛成。
名古屋市周辺にも、よい温泉地が、たくさんある。

 「みな元気だった?」とワイフが聞いた。
「……元気な人だけが、来た」と私。
そう答えたとき、ツンとしたさみしさが、心を横切った。

●刈谷

 刈谷は名古屋市の近くとばかり、思っていた。
が、来てみると、むしろ三河安城(新幹線の駅)のほうに近いことがわかった。
その先は岡崎、そして豊橋。
帰りはローカル線で帰ることにした。

 私たち夫婦は、「観光」には、ほとんど興味がない。
手元には、ホテルがくれた観光マップというのがある。
まだ目を通していないが、帰りにはごみ箱へ捨てるつもり。
それよりも、きしめんが食べたかった。
味噌カツでもよい。
昨夜口にしたのは、同窓会では、水とサラダだけ。
コメダでは、サンドイッチだけ。
観光より、食べ歩き。
そのほうが、ずっと楽しい。

 が、私の胃袋は、どこかいじけている。
食べだせば、いくらでも食べられる。
しかし今が、その状態だが、食べるまで、空腹感がほとんどない。
軽い逆流性食道炎が起きているよう。
腸内ガスがたまっているのか、腹全体が何となく腫れぼったい。

 もっともダイエットを始めて、すでに2週間。
昨日も自転車で1時間ほど、走った。
それもあって、胃袋自体が小さくなったように感じる。
少量の食事を口にしただけで、すぐ満腹感を覚える。

 ワイフがこう言った。
「ラッシュアワーをはずしましょう」と。
帰りの電車のことを言った。
「来週は、XX温泉に行こう」と声をかけると、「そうね」と。

 今ごろこんなことを書くのもおかしな話しだが、温泉といっても、気をつけなければならないことがある。
その第一が、皮膚病。
が、注意していても、何かの皮膚病をみやげにもらってしまう。
少し前、私はインキン、ワイフは水虫をもらって帰った。
私の印象では、露天風呂風の温泉ほど、あぶない。
岩肌がごつごつしているような温泉である。
見た目には風流だが、そこは病原菌だらけ。

 だから温泉は、湯につかるだけ。
体は部屋の中の内湯で洗う。
最近の私たちは、そう決めている。

●刈谷の駅で

 JR刈谷駅で、8時39分発の浜松行を待つ。
プラットフォームの長椅子を見つけた。
が、どこか疲れた様子の女性が手荷物を2つ並べて座っていた。
私たちが近づいても、荷物をどける様子もない。
で、私が「すみませんが……」と声をかけると、視線を合わせようともせず、不機嫌な顔をして見せた。
そのままの顔で、片手で、荷物を下におろした。

 同じ化粧にも、「旬の化粧」と、「疲れ化粧」がある。
若い女性が生き生きと、前向きにしている化粧を、「旬の化粧」という。
が、年を取ると、化粧もどこか投げやりになる。
それなりの化粧はするが、肌になじまない。
それを「疲れ化粧」という。
が、こうなると、化粧をしても逆効果。
不潔感だけが漂うようになる。

 相変わらず隣の女性は、ふてくされた顔つきをしている。
「うるさいジジイ」と、私のことをそう思ったのかもしれない。
そう、たしかに私は、うるさいジジイ!

●ラッシュアワー

 やはりラッシュアワーに重なってしまった。
電車が着くたびに、ドドーッ、ドドーッと人が降りる。
降りるというより、電車が人間を外へ吐き出す。
それらの人たちが、プラットフォームからあふれんばかりに、ゆっくりと歩いていく。
それぞれの人が、それぞれの思いをもって、今日という1日を始める。
しかしこの無機質な風景は、いったい、何なのか。
駅も、電車も、そしてそれを取り囲むビルも、さらにそこに見える人たちも、みな機械仕掛けで動くロボットのよう。

 都会生活というのは、それをいう。

●電車の中のオバチャン

 刈谷からはすぐ座れた。
が、またまた運の悪いことに、またまたあのオバチャン連中。
少しうしろの席に陣取って、ゲラゲラ、ギャハハハ……と。
しゃべりづめ、しゃべっている。
カラカラ、キャッキャッ、と。
男でもおしゃべりの人は多い。
しかし女性のそれは、甲高い。
よけいに耳に障る。

 羞恥心というものが、ない。
周りの人たちへの心遣いもない。
「うちのバーサンが……」と、そんな話しを繰り返している。
うるさいと思うが、これが日本の現実。
どこへ行っても、このタイプのオバチャンたちがいる。
まさに日本の低俗文化の象徴。
低俗そのもの。
山ザルが、服を着て、電車に乗っている。
私には、そう見える。

●眠い

 電車は蒲郡(がまごおり)を過ぎ、もうすぐ豊橋に着く。
窓の外の景色が白っぽくかすんで見えるのは、窓ガラスが汚れているせい?
それとも湿度が高いせい?

 たった今、豊川の鉄橋を渡った。
ゴーッという金属的な音が、足元から伝わってきた。
眠い……。
昨夜は、あまりよく眠れなかった。
ああいうホテルでは、温度調整がむずかしい。
「L(低)」にすると、暑すぎる。
「M(中)」にすると、寒すぎる。
そこで昨夜は、「M」にし、薄い掛布団を2枚重ねて寝た。

 ……あのオバチャンたちは、豊橋で降りなかった。
残念!
終点の浜松まで、行くらしい。
それにしても、よくしゃべる。
いつもの私なら、それを注意するが、今日は、その元気もない。
畑の中のやぶ蚊のようなもの。
このタイプのオバチャンは、叩いても叩いても、つぎからつぎへと出てくる。
だったら、畑の中には入らないこと。
こうした電車には、乗らないこと。

●今日の予定

 今日の予定は、とくになし。
庭の草刈りをするつもりだが、炎天下ではできない。
このところ暑さに、ぐんと弱くなった。
あとは来週の教材作り。
人に会う予定はなし。

 あああああ……。
今度は私たちの前に座ったオバチャンたちまで、大声でしゃべり始めた。
豊橋から乗り込んできたオバチャンたち。
うしろからと前から。
意味のない話し。
安っぽい情報の羅列。
それが間断なく、つづく。
こういうのを文化的拷問という。

 ……電車の車掌は、いつもこう言う。
「周りのお客様の迷惑になりますから、携帯電話はオフかマナーモードにしてください」と。
オバチャンたちの話し声のほうが、ずっと迷惑。
どうしてそのオバチャンたちの会話を、野放しにしているのか。

★オバチャンたちへ、

 そんなことをつづけていると、本当に社会のゴミになってしまうぞ!
なぜ私たちが老人になるかといえば、自分たちの得てきた知識や経験を後世の人たちに伝えるため。
それが老人。
その老人が、自らそ老人の立場を破壊している。
だから最近の若い人たちは、こう言っている。
「老人というのは無駄で、役立たず」と。
さらに若い人たちが、私たち老人組を「社会の邪魔者」と思うようになったら、おしまい。
私たちの居場所は、もうない。

●あと少しで、浜松

 あと少しで、浜松。
何でもない旅行だったが、ワイフは満足そう。
よかった!

2011/07/30記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司









●退化する日本語

2011-07-29 10:18:28 | 日記
●7月29日

+++++++++++++++++++

「7月29日」と聞いて、驚く。
今月も残すところ、今日も含めて、残り3日!
……というふうに考えるのは、まちがっているのかもしれない。
月数、日数などというものは、ただの「数字」。
便宜上の「数字」。
今、ここにあるのは、「今日という一日」。
私がすべきことは、今日という一日を、無駄なく、懸命に生きること。

そう言えば、先週、ある温泉に行ったら、そこに血管年齢測定器というのが、
置いてあった。
手の指を装置の中に入れ、1分ほど静かにしている。
するとその人の血管年齢(=健康度)が、グラフで示され、それがプリントアウト
して打ち出される。

どういうしくみによるものなのかは知らない。
信頼性も、どの程度あるのかも知らない。
たぶん、血流の流れを測定し、その流れのよしあしから、「血管年齢」を
計算しようというものらしい。

その測定器によれば、私の「血管年齢」は、51歳と出た。
注意書きには、「実際の年齢より、血管年齢が高い場合には、脳卒中、心筋梗塞
などに注意してください」(記憶)とあった。
逆に読めば、私はこと血管に関しては、健康ということになる。

もっとも温泉から出たあとのことなので、血流の流れはよかったのかもしれない。
料金は、300円。
「51歳」という年齢を見て、悪い気はしなかった。

+++++++++++++++++++++

【ネオテニー進化論・幼児成熟の問題】

●若い人たちの日本語

 このところBLOGやYOUTUBEへのコメントが、多くなった。
ほとんどは好意的なものだが、中には辛らつなものもある。
そういうコメントを読んでいると、ふと、こんな疑問が湧いてくる。
最近の若い人たちは、きちんとした日本語が話せるのだろうか、と。
「書けるのだろうか」でもよい。
さらにもうひとつ、気になることがある。
文そのものが、破滅的。

 たとえば昨日も、こんなコメントが寄せられた。
私が、『伸びる子vs伸び悩む子』というタイトルで話した、YOUTUBEについてだが、こうあった。
「こんなことで、決められるのかよお」と。

 たったそれだけ。
禅問答のようでもある。
謎かけ問答のようでもある。

 私はそのYOUTUBEの中で、スタンフォード大学でなされた、『マシュマロテスト』について話した。
あのテストは、1960年代になされ、その後も詳細な追跡調査がなされている。
信頼性はきわめて高い。
もしこうしたテストを否定するというのであれば、では研究とは何かということになってしまう。

 それはそれとして、こうしたコメントを整理すると、こうなる。

(1)きわめて短文(文章になっていない)
(2)相手の心をズバリと一撃する(イヤミ)
(3)論理性がない(非ロジカル)
(4)全体に、謎かけ的(勝手に判断しろと、内容が攻撃的)

 この中で「イヤミ」という言葉を使った。
そのイヤミを平気で口にしたり、文にしたりできる人とというのは、かなり心のゆがんだ人とみてよい。
つまり今、そういう若い人たちが、ふえている。
こうした特徴を反対側から整理すると、こうなる。

(1)長い文章が書けない(文章がつながらない)
(2)説得力のある文章が書けない(短絡的、直情的、直感的)
(3)思考が支離滅裂(ロジカルなものの考え方ができない)
(4)建設的な意見をまとめることができない(破壊的、否定的)

 もっともこういう人たちは、全体の中の一部?
が、気になるのは、ネットユーザーの中に、そういう人たちが多いということ。
つまりこの先、ネット社会が普及すればするほど、そういう人たちがふえてくる(?)。

●直情的、短絡的

 幼児に、こんな質問をしてみる。

「あなたがブランコに乗っていたら、分からず屋のA君が、ブランコを横取りしようとしてきました。
そのときあなたなら、どうしますか?」と。

 これに対して、「横取りはだめと話す」とか、「順番に乗る」とか、そういうふうに考えるのが、常識的。
しかし中には、「そういう分からず屋は、ぶん殴ってやればいい」とか答える子どももいる。
ものの考え方が、直情的かつ短絡的。
ものごとを冷静に、かつロジカルに考えることができない。

 実は、昨日も、こんなことがあった。

 この1週間、発砲スチロール製のパイプ様の棒を教室に置いておいた。
チャンバラごっこをするためである。
が、この遊びはチャンバラごっこというよりは、幼児に自信をつけさせるためにする。
わざと私のほうが負けてみせる。
それによって幼児たちは、「先生をやっつけた」という自信をもつ。
どこか自信喪失気味の子どもには、効果的。
そのあと、見違えるように、積極的になる。

 で、その棒を使って、小6の子どもたちに剣道の基本を教えた。
私は学生時代、柔道をずっと習っていた。
その余力で、剣道にもかなり詳しい。

 で、一通り、それを説明し、「さあ、勉強しよう」と棒をテーブルに置いたとたん、後頭部から一撃。
強烈な一撃だった。
しかも水平打ち。
剣道では、禁じ手である。

 ほんの少し耳をはずれたからよかったもの、まともに当たっていたら、私は鼓膜を破られていたはず。
振り返ったら、S君がニヤニヤと悪びれた様子もなく、そこに立っていた。
私は思わず、「何てこと、するんだ!」と怒鳴りつけた。
が、しばらくは怒りが収まらなかった。

 もともと過剰行動性のある子どもだったが、まさか背後から、力一杯襲いかかってくるとは思っていなかった。
実のところ、こういう子どもが、いちばん、恐ろしい。
ものの道理がわからない。
自己管理能力が弱い。
行動が衝動的で、突発的。

 行動と思考とは、そういう点で連動している。
相互に密接にからみあっている。
相手がまだ私だったからよかった。
もしこれが生徒だったら……。
それで私の教室は閉鎖……ということにもなりかねない。

●作文力

 今さら手遅れかもしれない。
アメリカなどでは、読書力、作文力が教育の柱になっている。
小中学校にも、「Library(読書)」という時間がある。
その教科だけは、学士号ではなく、修士号をもった教師が指導に当たっている。
つまりそれだけ重要視されている。

 が、この日本では、作文力は、ほとんど問題にされていない。
指導するとしても、受験塾が受験対策として、それをしている。
だからというわけではない。
日本語の特性というか、日本語というには、ウーパールーパー的※なところがある。
日々にどんどんと変化していく。
文法などあって、ないようなもの。
文法だけではない。
言葉そのものも、変化していく。

 あと20~30年もすれば、今、私がここに書いている文章にしても、辞書なくして読めなくなるかもしれない。
それは日本の文化にとっても、「熟成」という観点からしても、たいへん悲しむべきことと言ってよい。
若い人たちは、先人の知恵や経験を、そのまま生かすことができなくなる。

●コメント

 辛らつなコメントだったが、私は、もう慣れた。
どうせその程度の文しか書けない人たちである。
本気で相手にする必要はない。
それに先にも書いたように、心はすでに壊れている。
気づいていないのは、本人だけ。
書きたければ書けばよい。
私のほうは、何も考えず、削除するだけ。

 「こんなことでいいのかなあ」という思いは残るが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 作文力 作文力を失った若者たち)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)ウーパールーパー(ネオトニー進化論・幼児成熟)

 以前、別の角度から、ウーパールーパーについて書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●原始反射(2006年7月の原稿より)

++++++++++++++++

赤ちゃんには、赤ちゃん特有の反射
的運動がみられる。

これを、「原始反射」と呼ぶ。

++++++++++++++++

 二男の娘(私の孫)が生まれて、もう2か月になる。名前を芽衣(Mae)という。最近、やっと漢字の名前が決まった。

 その芽衣を想像しながら、改めて心理学の本(心理学用語辞典・かんき出版)を、ひもとく。乳児と幼児は、必ずしも、連続的につながっているわけではない。たとえば、赤ちゃんには、赤ちゃん特有の、反射的運動がある。

 これを「原始反射」と呼ぶ。この原始反射の多くは、生後3~4か月で、消失してしまうことが知られている。

 その原始反射には、つぎのようなものがある(心理学用語辞典より)。

(1)把握反射
(2)バビンスキー反射
(3)モロー反射
(4)口唇探索反射
(5)自動歩行反射
(6)マグネット反射

 把握反射というのは、手のひらを指などで押すと、その指を握ろうとする現象をいう。

 バビンスキー反射というのは、新生児の足の裏を、かかとからつま先にかけてこすると、親指がそりかえり、足の指が開く現象をいう。

 赤ちゃんの胸の前に何かをさし出すと、それに抱きつくようなしぐさを見せることをいう。ドイツのモローによって発見されたところから、モロー反射と呼ばれている。

 口唇探索反射というのは、赤ちゃんの口のまわりを指などで触れると、その指を口にくわえようとする現象をいう。

 自動歩行反射というのは、脇の下を支えながら、右足に重心をかけると、左足を前に出そうとする。これを繰りかえしていると、あたかも歩いているかのように見えることをいう。

 マグネット反射というのは、両脇を支えて立たせると、足が柱のようにまっすぐになる現象をいう(以上、同書より要約)。

 これらの現象は、短いので、生後2~4週間で、長くても、8~10か月で消失すると言われている。で、こうした現象から、つぎの2つのことが言える。

 ひとつは、乳児が成長して、そのまま幼児になるのではないということ。赤ちゃんには、赤ちゃん特有の成長過程があり、その期間があるということ。

 もうひとつは、前にも書いたが、いわゆるネオトニー進化論の問題である。その原稿は、このあとに添付しておくが、要するに、人間は、未熟なまま誕生し、その未熟さが、こうした現象となって、現れるのではないかということ。

 本来なら、こうした原始反射といったものは、母親の胎内で経験し、誕生するまでに消失しているべきということになる。つまりわかりやすく言えば、人間は、その前の段階で、誕生してしまうということになる。

 ご存知の方も多いと思うが、人間は、(ほかの動物もそうだが)、母親の胎内で、原始の時代からの進化の過程を、一度すべて経験するという。初期のころには、魚のような形にもなるという。その一部が、誕生後も、こうした原始反射となって現れる(?)。

 もしあなたに、今、赤ちゃんがいるなら、一度、この原始反射を試してみるとよい。何かの新しい発見ができるかもしれない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

日本人は、未熟な民族?

そんなことを考えさせられるのが、
ネオテニー(幼児成熟)進化論である。

+++++++++++++++++++

●幼児性の持続(ネオトニー進化論)

 人間は、ほかの動物たちとくらべても、幼児期から少年少女期までの期間が、著しく長い。鳥の中には、孵化すると同時に歩き始め、エサを自分で食べ始めるのもいる。

 つまり人間は、未熟なまま、生まれる。そしてその分、親(とくに母親)の手厚い保護を受けなければならない。

 ……という話は、常識だが、同じ人間でも、種族によって、その「期間」が違うのではないか。

 私自身も、幼稚ぽいところがあったが、35年前に、オーストラリアの大学へ留学したとき、向こうの学生たちが、みな、私よりはるかにおとなに見えたのには、驚いた。
本当に、驚いた。
「これが同じ大学生か!」と。

 で、以来、ときどき、私は、この問題を考える。
こうした「違い」は、なぜ生まれるのか、と。

 それについては、いろいろな説がある。
欧米と日本とでは、子育てのし方そのものが違うという説。日本では、元来、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子と位置づける。
が、欧米には、そういう考え方は、ない。
ないものはないのであって、どうしようもない。

 つまり、欧米では、子どもは、生まれながらにして、1人の人格者として、扱われる。育てられる。

 ……というふうに、私は考えてきた。しかしそれだけでも、ないのではないか。

 昨夜も、バラエティ番組なるものを、かいま見た。20~25歳前後の若い女性が、10~15人ほど、そこに並んでいた。私は、その若い女性たちの顔を見て、あ然とした。

 幼稚顔というよりは、まさに幼児そのもの。
Sというよく知られた、司会者(お笑いタレント)に誘われてあれこれ意見を述べていたが、「これが20歳を過ぎた女性の意見なのだろうか」とさえ、思った。

 一説によると、私たち日本人は、欧米人と比べても、幼児性を残したまま、おとなになる遺伝子をもっているという。
生まれてからおとなになるまでの期間が長いとも解釈できるし、反対に、精神的におとなになりきれないまま、体だけはおとなになるとも解釈できる。

 前者の説をとるなら、日本人は、それだけ教育期間を長くしなければならないということになる。
後者の説をとるなら、日本人は、民俗学的(生態学的)に、未熟な人間ということになる。
さらに恐ろしい意見もある。

 日本人の子どもの前頭連合野の発育が、以前よりも、未熟になりつつあるというのだ(沢口俊之著「したたかな脳」日本文芸社)。そのため、

「以前は、小学3年生でできていた課題が、今は、4年生の子どもでも、満足にできないというのが、現状です。

 これは状況を判断する力や、自己をコントロールする力が衰退しているということ、すなわち、自分の行動を積極的に制御する脳の機能が未熟になっていることを示しています」(同、P131)と。

 「小学3年生でできていた課題が、今は、4年生の子どもでも、満足にできないというのが、現状です」という澤口氏の意見には、「?」を一つ、つけたいが、しかし、年々、子どもたちが幼稚化しているのは、私も感ずるところである。

 とくに男児の幼稚化が著しい。たいはんが、どこかナヨナヨしていて、ハキがない。

 で、こうして、子どもたちは、幼児性(幼稚性)を残したまま、おとなになる。
あるいはおとなになりきれないまま、おとなになる。

 一般論として、子どもというのは、その年齢になると、その子どもの年齢にふさわしい、「人格」が育ってくる。「核」というか、(つかみどころ)ができてくる。
その年齢に比して、「子どもっぽく見える」というのは、日本では、あまり問題視されないが、国際的に見れば、決して、好ましいことではない。

 そこで全体として、たとえば高校生や大学生をみると、日本の高校生や大学生は欧米の子どもたちと比較すると、かなり子どもっぽいのがわかる。
澤口氏の説によれば、つまりその分、大脳前頭連合野の発達が、未熟(?)ということになる。

 こうした違いが生まれるのは、教育によるものなのか。それとも遺伝子によるものなのか。

 「したたたかな脳」の著者の澤口氏は、「ネオテニー」という言葉を使って、日本人の幼児性を説明する。

 「ネオテニーとは、(幼児成熟)、つまり幼い時期の特徴をもったままで成熟し、繁殖することをいいます。

 その有名な例は、アホロートル(ウーパールーパー)です。
アホロートルは、サンショウウオの一種で、サンショウウオは、両生類です。

 ですから幼生期に水中でエラで呼吸し、成長すると、変態して、肺で呼吸するようになり、陸上で生活します。

 ところがアホロ-トルは、変態しません。つまりエラをもったまま、つまりは幼生期のまま、水中で生活します。繁殖も幼生期のままの姿でします。いってみれば、カエルがオタマジャクシのままで、卵を産んでしまうようなものです。

 これをヒトにあてはめて考えた進化論が、「ネオテニー進化論」です。(中略)

 ネオテニー化が進むということは、進化の過程で、ヒトがネオテニー的な特徴をより多く、身につけてきたという意味です。

 ネオテニー的な特徴とは、単純な言い方をすれば、外見的に、子どもぽいとか、未熟だとかいうことです。
このような身体的な特徴から見ると、ヒトの大人は、幼児の姿をとどめたまま成熟したチンパンジーのようにも見えます。

 そしてアジア人(モンゴロイド)が、年齢よりも若く見えるのは、より多く、ネオテニー的な特徴を備えているということです。
とくに日本人は、幼くみえるようです」(同書、P133~)と。

(わかりやすく言えば、欧米人は、たとえていうなら、サンショウウオ。アジア人は、幼児成熟なままで発育が止まっている、ウーパールーパーということになる。)

 ナルホドと思ったり、そうだったのかと思ったり……。
日本人は、極東の島国で生活し、他民族のように、「血」の交流をほとんどしてこなかった。
その結果、モンゴロイドとしての特徴が、そのままより色濃く残ってしまったのかもしれない。
骨相学的に見ても、日本人の骨相(顔)が、悲しいかな、世界で一番、貧弱だと言われる理由も、そこにある。

 それはさておき、澤口氏の意見に従うなら、私たち日本人は、日本人のあり方そのものを、基本的な部分から、考えなおさなければならない。
短い足や、貧弱な骨相はともかくも、人格的な完成度という意味では、考えなおさなければならない。

 そしてそれが教育でカバーできるものであれば、「教育」そのものも考えなおさなければならない。澤口氏の言葉を借りるなら、「状況を判断する力や、自己をコントロールする力」を、どうやって養うかということにもなる。

 昨日、静岡市での講演に出かけるとき、駅構内で購入した本だったが、おもしろかった。
久々に、頭の中で、火花がバチバチと飛ぶのを感じた。興味のある方は、どうぞ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司はやし浩司 幼児性 幼稚性 ネオテニー ネオテニー進化論 ネオトニー ネオトニー進化論 はやし浩司 原始反応 把握反射 ウーパールーパー 幼児成熟 はやし浩司 アホロートル)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司



●幼児成熟の問題、退化する日本人?

2011-07-29 10:02:18 | 日記
●7月29日

+++++++++++++++++++

「7月29日」と聞いて、驚く。
今月も残すところ、今日も含めて、残り3日!
……というふうに考えるのは、まちがっているのかもしれない。
月数、日数などというものは、ただの「数字」。
便宜上の「数字」。
今、ここにあるのは、「今日という一日」。
私がすべきことは、今日という一日を、無駄なく、懸命に生きること。

そう言えば、先週、ある温泉に行ったら、そこに血管年齢測定器というのが、
置いてあった。
手の指を装置の中に入れ、1分ほど静かにしている。
するとその人の血管年齢(=健康度)が、グラフで示され、それがプリントアウト
して打ち出される。

どういうしくみによるものなのかは知らない。
信頼性も、どの程度あるのかも知らない。
たぶん、血流の流れを測定し、その流れのよしあしから、「血管年齢」を
計算しようというものらしい。

その測定器によれば、私の「血管年齢」は、51歳と出た。
注意書きには、「実際の年齢より、血管年齢が高い場合には、脳卒中、心筋梗塞
などに注意してください」(記憶)とあった。
逆に読めば、私はこと血管に関しては、健康ということになる。

もっとも温泉から出たあとのことなので、血流の流れはよかったのかもしれない。
料金は、300円。
「51歳」という年齢を見て、悪い気はしなかった。

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【ネオテニー進化論・幼児成熟の問題】

●若い人たちの日本語

 このところBLOGやYOUTUBEへのコメントが、多くなった。
ほとんどは好意的なものだが、中には辛らつなものもある。
そういうコメントを読んでいると、ふと、こんな疑問が湧いてくる。
最近の若い人たちは、きちんとした日本語が話せるのだろうか、と。
「書けるのだろうか」でもよい。
さらにもうひとつ、気になることがある。
文そのものが、破滅的。

 たとえば昨日も、こんなコメントが寄せられた。
私が、『伸びる子vs伸び悩む子』というタイトルで話した、YOUTUBEについてだが、こうあった。
「こんなことで、決められるのかよお」と。

 たったそれだけ。
禅問答のようでもある。
謎かけ問答のようでもある。

 私はそのYOUTUBEの中で、スタンフォード大学でなされた、『マシュマロテスト』について話した。
あのテストは、1960年代になされ、その後も詳細な追跡調査がなされている。
信頼性はきわめて高い。
もしこうしたテストを否定するというのであれば、では研究とは何かということになってしまう。

 それはそれとして、こうしたコメントを整理すると、こうなる。

(1)きわめて短文(文章になっていない)
(2)相手の心をズバリと一撃する(イヤミ)
(3)論理性がない(非ロジカル)
(4)全体に、謎かけ的(勝手に判断しろと、内容が攻撃的)

 この中で「イヤミ」という言葉を使った。
そのイヤミを平気で口にしたり、文にしたりできる人とというのは、かなり心のゆがんだ人とみてよい。
つまり今、そういう若い人たちが、ふえている。
こうした特徴を反対側から整理すると、こうなる。

(1)長い文章が書けない(文章がつながらない)
(2)説得力のある文章が書けない(短絡的、直情的、直感的)
(3)思考が支離滅裂(ロジカルなものの考え方ができない)
(4)建設的な意見をまとめることができない(破壊的、否定的)

 もっともこういう人たちは、全体の中の一部?
が、気になるのは、ネットユーザーの中に、そういう人たちが多いということ。
つまりこの先、ネット社会が普及すればするほど、そういう人たちがふえてくる(?)。

●直情的、短絡的

 幼児に、こんな質問をしてみる。

「あなたがブランコに乗っていたら、分からず屋のA君が、ブランコを横取りしようとしてきました。
そのときあなたなら、どうしますか?」と。

 これに対して、「横取りはだめと話す」とか、「順番に乗る」とか、そういうふうに考えるのが、常識的。
しかし中には、「そういう分からず屋は、ぶん殴ってやればいい」とか答える子どももいる。
ものの考え方が、直情的かつ短絡的。
ものごとを冷静に、かつロジカルに考えることができない。

 実は、昨日も、こんなことがあった。

 この1週間、発砲スチロール製のパイプ様の棒を教室に置いておいた。
チャンバラごっこをするためである。
が、この遊びはチャンバラごっこというよりは、幼児に自信をつけさせるためにする。
わざと私のほうが負けてみせる。
それによって幼児たちは、「先生をやっつけた」という自信をもつ。
どこか自信喪失気味の子どもには、効果的。
そのあと、見違えるように、積極的になる。

 で、その棒を使って、小6の子どもたちに剣道の基本を教えた。
私は学生時代、柔道をずっと習っていた。
その余力で、剣道にもかなり詳しい。

 で、一通り、それを説明し、「さあ、勉強しよう」と棒をテーブルに置いたとたん、後頭部から一撃。
強烈な一撃だった。
しかも水平打ち。
剣道では、禁じ手である。

 ほんの少し耳をはずれたからよかったもの、まともに当たっていたら、私は鼓膜を破られていたはず。
振り返ったら、S君がニヤニヤと悪びれた様子もなく、そこに立っていた。
私は思わず、「何てこと、するんだ!」と怒鳴りつけた。
が、しばらくは怒りが収まらなかった。

 もともと過剰行動性のある子どもだったが、まさか背後から、力一杯襲いかかってくるとは思っていなかった。
実のところ、こういう子どもが、いちばん、恐ろしい。
ものの道理がわからない。
自己管理能力が弱い。
行動が衝動的で、突発的。

 行動と思考とは、そういう点で連動している。
相互に密接にからみあっている。
相手がまだ私だったからよかった。
もしこれが生徒だったら……。
それで私の教室は閉鎖……ということにもなりかねない。

●作文力

 今さら手遅れかもしれない。
アメリカなどでは、読書力、作文力が教育の柱になっている。
小中学校にも、「Library(読書)」という時間がある。
その教科だけは、学士号ではなく、修士号をもった教師が指導に当たっている。
つまりそれだけ重要視されている。

 が、この日本では、作文力は、ほとんど問題にされていない。
指導するとしても、受験塾が受験対策として、それをしている。
だからというわけではない。
日本語の特性というか、日本語というには、ウーパールーパー的※なところがある。
日々にどんどんと変化していく。
文法などあって、ないようなもの。
文法だけではない。
言葉そのものも、変化していく。

 あと20~30年もすれば、今、私がここに書いている文章にしても、辞書なくして読めなくなるかもしれない。
それは日本の文化にとっても、「熟成」という観点からしても、たいへん悲しむべきことと言ってよい。
若い人たちは、先人の知恵や経験を、そのまま生かすことができなくなる。

●コメント

 辛らつなコメントだったが、私は、もう慣れた。
どうせその程度の文しか書けない人たちである。
本気で相手にする必要はない。
それに先にも書いたように、心はすでに壊れている。
気づいていないのは、本人だけ。
書きたければ書けばよい。
私のほうは、何も考えず、削除するだけ。

 「こんなことでいいのかなあ」という思いは残るが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 作文力 作文力を失った若者たち)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)ウーパールーパー(ネオトニー進化論・幼児成熟)

 以前、別の角度から、ウーパールーパーについて書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●原始反射(2006年7月の原稿より)

++++++++++++++++

赤ちゃんには、赤ちゃん特有の反射
的運動がみられる。

これを、「原始反射」と呼ぶ。

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 二男の娘(私の孫)が生まれて、もう2か月になる。名前を芽衣(Mae)という。最近、やっと漢字の名前が決まった。

 その芽衣を想像しながら、改めて心理学の本(心理学用語辞典・かんき出版)を、ひもとく。乳児と幼児は、必ずしも、連続的につながっているわけではない。たとえば、赤ちゃんには、赤ちゃん特有の、反射的運動がある。

 これを「原始反射」と呼ぶ。この原始反射の多くは、生後3~4か月で、消失してしまうことが知られている。

 その原始反射には、つぎのようなものがある(心理学用語辞典より)。

(1)把握反射
(2)バビンスキー反射
(3)モロー反射
(4)口唇探索反射
(5)自動歩行反射
(6)マグネット反射

 把握反射というのは、手のひらを指などで押すと、その指を握ろうとする現象をいう。

 バビンスキー反射というのは、新生児の足の裏を、かかとからつま先にかけてこすると、親指がそりかえり、足の指が開く現象をいう。

 赤ちゃんの胸の前に何かをさし出すと、それに抱きつくようなしぐさを見せることをいう。ドイツのモローによって発見されたところから、モロー反射と呼ばれている。

 口唇探索反射というのは、赤ちゃんの口のまわりを指などで触れると、その指を口にくわえようとする現象をいう。

 自動歩行反射というのは、脇の下を支えながら、右足に重心をかけると、左足を前に出そうとする。これを繰りかえしていると、あたかも歩いているかのように見えることをいう。

 マグネット反射というのは、両脇を支えて立たせると、足が柱のようにまっすぐになる現象をいう(以上、同書より要約)。

 これらの現象は、短いので、生後2~4週間で、長くても、8~10か月で消失すると言われている。で、こうした現象から、つぎの2つのことが言える。

 ひとつは、乳児が成長して、そのまま幼児になるのではないということ。赤ちゃんには、赤ちゃん特有の成長過程があり、その期間があるということ。

 もうひとつは、前にも書いたが、いわゆるネオトニー進化論の問題である。その原稿は、このあとに添付しておくが、要するに、人間は、未熟なまま誕生し、その未熟さが、こうした現象となって、現れるのではないかということ。

 本来なら、こうした原始反射といったものは、母親の胎内で経験し、誕生するまでに消失しているべきということになる。つまりわかりやすく言えば、人間は、その前の段階で、誕生してしまうということになる。

 ご存知の方も多いと思うが、人間は、(ほかの動物もそうだが)、母親の胎内で、原始の時代からの進化の過程を、一度すべて経験するという。初期のころには、魚のような形にもなるという。その一部が、誕生後も、こうした原始反射となって現れる(?)。

 もしあなたに、今、赤ちゃんがいるなら、一度、この原始反射を試してみるとよい。何かの新しい発見ができるかもしれない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「私論」byはやし浩司@掛川グランドホテルにて

2011-07-27 12:11:18 | 日記
【私とは何か】byはやし浩司
 
●自己中心性(Egocentricity)

++++++++++++++++++

自分がそう思っているから、相手も
そう思っているはずと考えるのは、
自己中心性以外の何ものでもない。

あるいは自分がこう思っているから、
あなたもそう思えというのもそれ。
さらに一歩進んで、「私は正しい」と
思うのは、その人の勝手。
が、その返す刀で、「あなたは
まちがっている」というのもそれ。

こうした自己中心性は、発達過程に
ある乳幼児の心理に共通する。
つまり自己中心的な人は、それだけ
乳幼児に近いということになる。
もう一度、乳幼児の心理について、
おさらいをしておきたい。

+++++++++++++++++

●乳幼児期(エリクソン・心理発達段階論)

 この時期の幼児の特徴を一言で表現すれば、「自己中心性」ということになる。
ものごとを、(自分)を中心にして考える。
「自分の好きなものは、他人も好き」「自分が嫌いなものは、他人も嫌い」と。

 それがさらに進むと、すべての人やものは、自分と同じ考え方をしているはずと、思いこむ。自然の中の、花や鳥まで、自分の分身と思うこともある。
これをピアジェは、「アニミズム」と名づけた。
心理学の世界では、物活論、実念論、人工論という言葉を使って、この時期の子どもの心理を説明する。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。
風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考える。
……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心理をいう。
ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。
乳幼児は、心の中でそれを念ずることで、実現すると考える。
……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられたと考える心理である。
人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月を指さしながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。
そういう心理は、乳幼児の人工論によって、説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。しかしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎えることがある。

●自己中心性

 私も子どものころ、……小学1年生くらいのことではなかったか、学校へ行く途中、こんなことを考えた。
「目に見えない、うしろの世界はどうなっているんだろう」と。

 前の世界は、目で見ることができる。
しかしうしろの世界は、見えない。
だからひょっとしたら、うしろの世界は、私が目を離した瞬間、消えてしまうのではないだろうか、と。

 まさに自己中心的な発想である。
が、こうした現象は、私だけのものではなかった。
そのあと、同じように考えている幼児や、小学生に、何人か出会った。
その子どもたちも、同じようなことを言っていた。

●否定期

 こうした自己中心性は、やがて修正期に入る。
言い換えると、人格の完成度は、いかに自己中心的でないかによって、決まる。
ピーター・サロベイの「EQ論」を例にあげるまでもない。
が、それで終わるわけではない。
そのあと今度は、自己中心性の否定期へと入る。

 簡単に言えば、私から「私」をどんどんと脱ぎ去っていく。
つまり私というのは、ちょうどタマネギのような構造をしている。
私の周りを、無数の「私」が取り囲んでいる。
その「私」をどんどんと脱ぎ去っていく。

 すると私はかぎりなく、かつ細く、小さくなっていく。
所詮、私というのは、その程度のもの。
中には、タマネギの皮を脱ぎ去っていったら、何も残らなかった……という人もいるかもしれない。
この私も含めて、大半の人たちがそうかもしれない。
死ぬまでに、ほんの少しでも私を残せる人は、そんなにいない。

 私たちは、それほどまでに、私であって私でないものに、毒されている。
私でないものを、「私」と思い込んでいる。
つまりその(思い込み)自体が、まさに自己中心性の表れとみる。

●ある宗教団体

 ときどき私の家にも、どこかの宗教団体の人たちが、よく勧誘に来る。
断っても断っても、来る。
が、そういった人たちは、おしなべて、穏やかで穏和な表情をしている。
自分で努力し、自分でそういう境涯に達してそうであれば、それはそれで結構。
しかし中身は、「注入された思想」。
注入された思想をもって、自分の思想と思い込む。
言うなれば、あとから張りつけられたタマネギの皮。
そういう皮でもって、身を飾る。
心を飾る。

 もっともその人自身が、それで幸福なら、それでよい。
事実、幸福そうな顔をしている。
が、そういう人たちは、ひとつの重要な事実に気づいていない。
つまり、たった一度しかない人生を、それと引き替えに、無にしている。

 いらぬ節介かもしれないが、自分の足で立つ。
自分の足で歩く。
不完全で未熟であることを恥じる必要はない。
それに気づいたら、また前に進む。
失敗や挫折を恐れる必要はない。
さらに前に進む。

つまりそれこそが、私たちが「今、ここにいる」という意味である。
無数のドラマもそこから生まれる。
生きる気高さもそこから生まれる。
あのトルストイも『戦争と平和』の中で、こう書き残している。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。
そのピエールの言葉である。

●私たちは何を残せるか

 タマネギの皮をめくることは、勇気のいること。
最悪のばあい、そこには何も残らなくなってしまう。
そんなこともありえる。
その不安があるから、勇気がいる。
「私もただのオジチャン」「私もただのオバチャン」と認めることは、そのまま自己否定につながる。

 何が恐ろしいかといって、人生の晩年になって、「私の人生は何だったのか」と思い知らされることほど、恐ろしいことはない。
それが自己否定ということになる。

 だから釈迦は、『精進』という言葉を残した。
私たちは死ぬまで、ただひたすら精進あるのみ、と。
が、それでも残せるものは、少ない。
が、ヒントがないわけではない。
それが冒頭にあげた、「自己中心性」の否定である。
道はちがい、方法もちがうかもしれないが、それを実行した人は多い。
インドのマザーテレサもその1人。

 私たち凡人には、とてもまねできないが、しかし不可能ではない。
あのマザーテレサは、それを私たちに教えてくれた。

 難しい話しはさておき、あなたもこう思ったらよい。
「自分の中に自己中心的なものを感じたら、それこそ闘うべき、己の敵」と。
けっして楽な闘いではない。
ないが、日々の精進のみによって、達成できる。
方法は簡単。
いつも、何をしても、自分の心に静かに問いかけてみればよい。

「だから、それがどうしたの?」と。

 そのとき、意味のないものは、スーッと風のように消えていく。
意味のあるものは、何か、心にひかかる。
こうして自分のタマネギの皮をむいていく。
で、最後に残ったもの。
それが「私」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 タマネギの皮 私論 私とは何か はやし浩司 私発見)

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●7月27日

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今夜は掛川グランドホテルに一泊。
今、そのホテルの一室にいる。
時刻は、午後11時。
先ほど、市内での講演を終え、このホテルに
やってきた。
掛川市で泊まるときには、いつもこのホテル
と決めている。
駅前にあり、交通の便もよい。
(掛川駅から歩いて、1、2分)
雰囲気も、よい。

ところで今日のお供(パソコン)は、
TOSHIBAのUX。
これが、どうも調子が悪い。
メールにしても、受信はできるが、送信ができない。
ワードを使っているが、一語ごと、変換に時間がかかる。
モタモタというよりは、そのつど動きが止まってしまう。

(たった今、パソコンを再起動してみた。
動きがもどった。
よかった。
こういうときは、再起動をかけてみるのが、イチバン。)

・・・前回このホテルに泊まったのは、ちょうど1か月前。
偶然なのか。
前回泊まった部屋の2つ、隣の部屋。
今夜は5階の、5XX号室。

朝食つきで、1名1泊6000円。
ワイフと2人で、1万2000円。
ポイント割引がついたので、1万1500円。
ワイフはもうベッドの上で、寝息を立てている。

++++++++++++++++++

●ダイエット

 ダイエットの効果が表れ始めた。
つまりダイエットというのは、最初の7~10日前後は、効果が表れない。
いくら運動をしても、またいくら節食をしても、体重はそのまま。
「脂肪が筋肉に変わるため」という説もあるが、私は知らない。
(これはワイフの説。)

 毎日、300~500グラムずつ、体重が減っていく。
それがうれしい。
現在、65・0キロ。
2・5キロの減量に成功。

 そう言えば数日前から、体を軽く感ずる。
それに加えて、運動量をふやしたせいか、頭の回転もよくなった。
中学生を教えていると、それがよくわかる。
頭の回転が悪いときは、脳みそが眠ったような状態になる。
計算ミスが多くなる。

 が、ここで油断をしてはいけない。
明日の朝食は、バイキング。
私の意思の強さが試される。
どこまでがまんできるか。
私たち団塊の世代は、バイキング料理を前にすると、こう考える。
「食べなければ損」と。
心貧しい世代。
それが試される。

 目標の63キロまで、あと2キロ。
苦しい闘いがつづく。

●秘策

 今度、生徒を山荘に招待することにした。
Sさん(中3女子)と、もう1人・・・。
そのSさんが、こう言った。
「奥さんも来るんでしょ?」と。
「そうだ」と答えると、「ああ、よかった・・・」と。

 ひとつ秘策がある。
最初、Sさんを、ボロボロの農家へ連れて行く。
(一軒、廃屋になった農家がある。)
「ここが山荘」と、説明する。
「あの木が、その木」と、説明する。

少し前、Sさんにこう言った。
「先日、山荘の前の木で、首をつって死んだ人がいてね」と。
「その木」というのは、その木をいう。
で、Sさんが、泣きべそをかき始めたら、私の山荘へ連れて行く。

 風呂はドラム缶、ベッドはベニア板、トイレはボットン便所、・・・ときどき朝起きると、ヘビが横で寝ている。
Sさんにはそう話してある。
Sさんは、それを本気にしている。
いつも私のことを、「オヤジ」と呼んでいる。
そのカタキを、今度、取ってやる。
生意気な子だが、あっけらかんとした明るい性格。
自分でも「私は男」と言っている。
そんな性格が、私は好き。

(ただし、ワイフは、この秘策には反対。
「かわいそうだから、そんなことをしてはだめ」と言っている。
どうするかは、その日の雰囲気で決める。)

●至極の時

 こういう夜は、いつまでも文章を書いていたい。
私にとっては、至極の時。
部屋の温度は、最適。
静か。
デスクの横のランプの明かりも、よい。

 ワイフは、背中側のベッドで熟睡中。
すっかりバーさん顔になった。
そんなワイフが小娘のような姿勢で眠っている。
片方の手を頬にあて、横向きに眠っている。

 今週は、名古屋市でもう一泊するつもり。
すでに予約をすませてある。
が、これも老後の過ごし方のひとつかもしれない。
生活の中に変化をどんどんと、取り込んでいく。
それが脳に、ほどよい緊張感を与える。
ボケ防止には、よいのでは・・・?
多分?

●自由

 先ほどから、スカイプの呼び出しがつづく。
たぶんアメリカに住む二男からのものだろう。
しかし今夜は、やめた。
今の私には、「この時」が大切。
穏やかで満ち足りた夜。
自由な夜。
私は今、脳みその中を自由気ままに飛び回っている。
何かを書かねばという気負いもない。
ひらめいたことだけを、書いている。
私には、それが楽しい。

 そう、中国語で「自由」というのは、「自らに由る」という意味。
これについては、何度も書いた。
が、英語では、「freedom(自由)」という。
「freedom」というときは、何も束縛のない状態をいう。
今、その「freedom」を、満喫している。
私を束縛するものは、何もない。
私はしばし、その心地よさに、酔いしれる。
 
●メール

 先ほど、Kさんという方から、メールが入った。
BW教室(私の教室)への見学を申し込んできた。
しかしこの7月に、満員になってしまった。
例年だと、今の時期、クラスを2つに分ける。
が、今年は不景気。
2クラスに分けるほど生徒が集まらない。
だから1クラスのまま。
しばらくこのまま。
だから満員。

 その旨のメールを送ろうとするが、何度トライしても、サーバーのほうで
切断されてしまう。
?????

 試しに自分宛にメールを送信してみるが、これもだめ。
?????
こんなことは今までになかったこと。

●見学

 ある幼稚園の園長も、そう言っていた。
最近の母親たちは、幼稚園でも、「当然入れる」という前提でやってくる、と。
が、引き受けられる子どもと、そうでない子どもがいる。
そこで幼稚園のほうで、「お引き受けできません」とでも言おうものなら、猛烈にそれに抗議してくるという。
「どうしてうちの子は、入れてもらえないのですかア!」と。

 私の教室ではさらにそうで、一度だけだが、こう言われたことがある。
「何を、お高く留まっているの!」と。
その言葉が今でも、トラウマになっている。
見学を断わるにも、神経を遣う。

●老人組

 今夜の講演でも、こんな話しをした。
「昔は子どものほうが、ごめん、ごめんと、謝りながら生活していた。
今は、親のほうが、ごめんごめんと言って生活をしている。
さらに、最近に至っては、祖父母のほうが、孫に、ごめんごめんと言って生活をしている」と。
親子の立場が逆転している。

 同じような意識が、親たちの世界にも入り込んでいる。
社会のほうが、親たちに、ごめんごめんと言いながら、頭を下げている。
もっとも、そういう社会を恨んでもしかたない。
若い人たちを責めてもしかたない。
そういう社会にしたのは、私たち。
私たちの責任。

 言い換えると、私たち老人組は、ますます小さくなるしかない。
社会の隅で、ひっそりと生きていくしかない。
しかし・・・。
そういう世界で、結局は、損をするのは、若い人たち。
今はわからない。
保護者が何重にも、そのうしろで構えている。
その保護者がいなくなったら、どうなるのか?
どうするのか?
そのとき、それがわかる。

●掛川グランドホテル

 話しがかなりグチぽくなってきた。
読む人だって、おもしろくないだろう。
だからこの話しはここまで。

 で、ワイフが言うには、このホテル(掛川グランドホテル)は、インドネシアのホテルみたい、と。
ライティングもそうなっている。
ロビーを飾る調度品もそうなっている。
「エキゾチック」という言葉が、ふさわしい。
ひとつだけ残念なのは、大浴場がないこと。
露天風呂でもあれば、最高。
が、もしそうなら、とても先の料金では泊まれない。

 先ほど窓の外の景色をしばらくながめた。
大きな駐車場をはさんで、立派な民家が、左右に並んでいた。
「駅に近くていいな」と思った。

●逆恨み

 話題を変えよう。

 思春期を通り過ぎると、男性も女性も大きく変わる。
が、男性のばあいは、どんな形であれ、社会の前面に出ることができる。
しかし女性のばあいは、そうでない。

 それなりに恋愛をし、結婚できればよい。
が、そうでないときに、女性は、心をゆがめる。
失恋がつづけば、なおさら。
その一例というわけでもないが、軽自動車に乗っている若い女性ほどこわいものはない。
スピード違反など、朝飯前。
ふつうのスピード違反ではない。
社会を逆恨みしているかのような走り方をする。
もちろん信号無視、駐車場無視。
さらに今日、こんなことも発見した。

 プラットフォームで列車の到着を待つ。
そのときのこと。
若い女性たちは、「列」を作らない。
ブラブラとバラバラに立っている。
私たちは、そのうしろに並んだ。
が、あとから来た女性たちが、どんどんと横に張りついてくる。
割り込みなのだが、割り込んでいるという意識すらない?

 どうしてか?

 これも子どもたちの発達段階を見ていると、よくわかる。
小学2、3年生までは、男児をいじめ、泣かすのは女児。
いじめられて泣くのは男児。
いじめて泣かすのは女児。
それが小学3~4年生を境に逆転し始める。

 そのときから、女性には、(欲求不満)が、うっ積するようになる。
それが慢性化する。
社会に出ると、さらにそうで、それが先に書いた「逆恨み」に転化する。
自動車を運転していても、余裕がない。
心に余裕がないから、運転にも余裕がない。

・・・とまあ、私は、勝手にそう解釈している。
またそう解釈しないと、女性の、こうしたゆがんだ心理(失礼!)を理解することができない。

 もちろんみなが、みな、そうというわけではない。
男性でも、世の中を逆恨みしながら生きている人はいくらでもいる。
今の私もそうかもしれない。
ハハハ。



 ……しばし、ぼんやりとする。
やがてこの時間も過ぎ、明日になる。

 今夜の講演は、まあまあのでき。
ワイフがそう言った。
それに時間通り、終わることができた。
ほどよい満足感が身を包む。

 ……眠くなってきた。
もう、寝よう。

おやすみ。

2011年7月26日夜記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司