●希望と落胆
++++++++++++++++
希望と落胆は、ある一定の周期をおいて、
交互にやってくる。
希望をもてば、そのあとには、必ず
落胆がやってくる。しかしそこで終わる
わけではない。
朝のこない夜はないように、落胆の
あとには、これまた必ず希望がやってくる。
++++++++++++++++
最近、何かと落ちこむことが多くなった。失敗(?)も重なった。調子も悪い。何をしても、空回
りばかりしている。
で、そういうときというのは、おかしなもので、自分の書いた原稿に慰められる。つまり自分で
書いた原稿を読みながら、自分を慰める。今朝もそうだ。ふと自分に、『私たちの目的は、成功
ではない。失敗にめげず、前に進むことである』と言い聞かせたとき、それについて書いた原
稿を読みたくなった。
検索してみたら、3年前に書いた原稿が見つかった。
++++++++++++++++++
【私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むことである】
ロバート・L・スティーブンソン(Robert Louise Stevenson、1850-1894)というイギリスの
作家がいた。『ジキル博士とハイド氏』(1886)や、『宝島』(1883)を書いた作家である。もと
もと体の弱い人だったらしい。44歳のとき、南太平洋のサモア島でなくなっている。
そのスティーブンソンが、こんなことを書いている。『私たちの目的は、成功ではない。失敗に
めげず、前に進むことである』(語録)と。
何の気なしに目についた一文だが、やがてドキッとするほど、私に大きな衝撃を与えた。「そ
うだ!」と。
なぜ私たちが、日々の生活の中であくせくするかと言えば、「成功」を追い求めるからではな
いのか。しかし目的は、成功ではない。スティーブンソンは、「失敗にめげず、前に進むことで
ある」と。そういう視点に立ってものごとを考えれば、ひょっとしたら、あらゆる問題が解決す
る? 落胆したり、絶望したりすることもない? それはそれとして、この言葉は、子育ての場で
も、すぐ応用できる。
『子育ての目的は、子どもをよい子にすることではない。日々に失敗しながら、それでもめげ
ず、前向きに、子どもを育てていくことである』と。
受験勉強で苦しんでいる子どもには、こう言ってあげることもできる。
『勉強の目的は、いい大学に入ることではない。日々に失敗しながらも、それにめげず、前に
進むことだ』と。
この考え方は、まさに、「今を生きる」考え方に共通する。「今を懸命に生きよう。結果はあと
からついてくる」と。それがわかったとき、また一つ、私の心の穴が、ふさがれたような気がし
た。
ところで余談だが、このスティーブンソンは、生涯において、実に自由奔放な生き方をしたの
がわかる。17歳のときエディンバラ工科大学に入学するが、「合わない」という理由で、法科に
転じ、25歳のときに弁護士の資格を取得している。そのあと放浪の旅に出て、カルフォニアで
知りあった、11歳年上の女性(人妻)と、結婚する。スティーブンソンが、30歳のときである。
小説『宝島』は、その女性がつれてきた子ども、ロイドのために書いた小説である。そしてその
あと、ハワイへ行き、晩年は、南太平洋のサモア島ですごす。
こうした生き方を、100年以上も前の人がしたところが、すばらしい。スティーブンソンがすば
らしいというより、そういうことができた、イギリスという環境がすばらしい。ここにあげたスティー
ブンソンの名言は、こうした背景があったからこそ、生まれたのだろう。並みの環境では、生ま
れない。
ほかに、スティーブンソンの語録を、いくつかあげてみる。
●結婚をしりごみする男は、戦場から逃亡する兵士と同じ。(「若い人たちのために」)
●最上の男は独身者の中にいるが、最上の女は、既婚者の中にいる。(同)
●船人は帰ってきた。海から帰ってきた。そして狩人は帰ってきた。山から帰ってきた。(辞世
の言葉)
(03―1―1)
++++++++++++++++++
希望を高くもてばもつほど、必ずそのあとに、落胆がやってくる。希望通りにものごとが進む
例など、100に1つもない。1000に1つもない。
しかし希望のない人生は、そのものが闇。だからつぶされても、つぶされても、人は何かの希
望をもとうとする。そして再び、前に進もうとする。朝のこない夜はないように、落胆のあとに
は、これまた必ず希望がやってくる。
こうして人は、希望と落胆を、周期的に繰りかえす。そして歯をくいしばりながら、前に進む。
子育ても、また同じ。
そこで大切なことは、仮に子育てをしていて、落胆したり、ときには絶望感を覚えたとしても、
決して、それがドン底であるとか、終わりであると思ってはいけないということ。
私たちにとって大切なことは、『私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むこ
とである』。
今朝は、この言葉に、私は慰められた。
Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司
●子育て相談より
+++++++++++++++++++
以前、「ファミリス」という雑誌に書いた
原稿が見つかった。
私のHPのほうでも紹介しているが、もう
一度、ここに再掲載する。
+++++++++++++++++++
(1)子どものウソ
Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。(小二
男)
A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害によ
る虚言、それに(3)虚言。空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それを
あたかも現実であるかのように錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経
症による症状のひとつとして考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症
状をともなうことが多い。
これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。
ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自
慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。
母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」
子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」
子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。
同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。
その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言
という。こんなことがあった。
ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの子の
手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをするのですか!」
と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思っ
て、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。
結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。
イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせては
ならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界
にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間に
垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをも
ちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのよ
うに、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないの
が、特徴である。
どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」だけ
を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めた
り、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入っていく。
(2)勉強の遅れ
Q 学年がかわり、勉強の遅れが目立ってきました。このままでは、うちの子はどうなるかと、
心配でなりません。(小四女)
A アメリカでは、学校の先生が、子どもに落第をすすめると、親は、喜んでそれに従う。「喜ん
で」だ。これはウソでも誇張でもない。反対に子どもの学力が心配だと、親のほうから落第を求
めていくこともある。「まだうちの子は、進級する準備ができていない」と。アメリカの親たちは、
そのほうが子どものためになると考える。
日本では、そうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。しかし、二〇
年後、三〇年後には、日本もそうなる。またそういう国にしなければならない。意識というのは
そういうもので、あなたが今もっている意識は、普遍的なものでも、また絶対的なものでもな
い。
さて、もし子育てで行きづまりを覚えたら、子どもは『許して忘れる』。英語では、「フォ・ギブ
(許し)・アンド・フォ・ゲッツ(与える)」という。つまり「(子どもに)愛を与えるために、許し、(子ど
もから)愛を得るために、忘れる」ということになる。子どもをどこまで許し、どこまで忘れるか
で、親の愛の深さが決まる。子どもの受験勉強で狂奔しているような親は、一見、子どもを愛し
ているかのように見えるが、その実、自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。自分の設計
図に合わせて、子どもを思いどおりにしたいだけ。しかしそれは、真の愛ではない。
否定的なことばかり書いたが、勉強だけがすべてという時代は、もう終わりつつある。(だか
らといって、勉強を否定しているのではない。誤解のないように!) 重要なのは、そのときどき
において、子どもが、いかに心豊かに、自分を輝かせて生きるかということ。その中身こそが、
大切。
相談のケースでは、何かほかに得意なことや、特技があれば、それを前向きに伸ばすように
する。子どもには、「あなたはサッカーでは、だれにも負けないわよね」というような言い方をす
る。子どもの世界には、『不得意分野を伸ばすより、得意分野を、さらに伸ばせ』という鉄則が
ある。子どもというのは不思議なもので、ひとつのことに秀でてくると、ほかの分野も、ズルズル
と伸び始めるということが、よくある。
さらにこれからは、一芸がものをいう時代。ある大手の自動車会社の入社試験では、学歴は
不問。そのかわり面接では、「君は何ができる?」と聞かれるという。そういう時代は、すぐそこ
まできている。
ところで『宝島』という本を書いた、R・スティーブンソンは、こう言っている。『我らの目的は、
成功することではない。失敗にめげず前に進むことだ』(語録)と。あなたの子どもにも、一度、
そう言ってみてはどうだろうか。
(3)好きになれない
Q 自分の子どもですが、どうしても好きになれません。いい親を演ずるのも、疲れました。
A 不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」と、どうして
も気負いが強くなる。しかしこの気負いが強ければ強いほど、親も疲れるが、子どもも疲れる。
そしてその「疲れ」が、親子の間をギクシャクさせる。
子どもが好きになれないなら、なれないでよい。無理をしてはいけない。大切なことは、自然
体で子どもと接すること。そして子どもを、「子ども」としてみるのではなく、「友」としてみる。「仲
間」でもよい。実際、親離れ、子離れしたあとの親子関係は、友人関係に近い関係になる。い
つまでもたがいに、ベタベタしているほうが、おかしい。
ただ心配なのは、あなた自身に、何かわだかまりがあるとき。これをフロイト(オーストリアの
心理学者、1856~1939)は、「偽の記憶(false memory)」といった。「ゆがめられた記憶」と
私は呼んでいるが、トラウマ(精神的外傷)といえるほど大きなキズではないが、しこりはしこ
り。心のゆがみのようなもので、そのためどこかすなおになれないことをいう。そのゆがめられ
た記憶は、そのつど、あなたの心の中で「再生(recover)」され、あなたの子育てを、裏からあ
やつる。もしあなたが子育てをしていて、いつも同じ失敗を繰りかえすというのであれば、この
わだかまりをさぐってみたらよい。
望まない結婚であったとか、予定していなかった出産であったとか。仕事や生活に大きな不
安があったときも、そうだ。あるいはあなた自身の問題として、親の愛に恵まれなかったとか、
家庭が不安定であったとかいうこともある。この問題は、そういうわだかまりがあったということ
に気づくだけでも、そのあと多少時間はかかるが、解決する。まずいのは、そのわだかまりに
気がつかないまま、そのわだかまりに振りまわされること。そのわだかまりが、虐待の原因とな
ることもある。
今、「自分の子どもとは気があわない」と、人知れず悩んでいる親は多い。東京都精神医学
総合研究所の調査によっても、そういう母親が、7%はいるという。しかもその大半が、子ども
を虐待しているという(同調査)。
あるいは兄弟でも、「上の子は好きだが、下の子はどうしても好きになれない」というケースも
ある。ある母親はこう言った。「下の子は、しぐさから、目つきまで、嫌いな義父そっくり。どうし
ても好きになれません」と。
親には3つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを歩
く。そして友として、子どもの横を歩く。このタイプの親は、友として子どもの横を歩くことだけを
考えて、あとはなりゆきに任せればよい。10年後、20年後には、あなたは必ず、すばらしい親
になっている。
(4)落ちつきがない
Q 参観授業で見ても、騒々しく、落ちつきがありません。家でも集中力がなく、ワーワーと騒ぐ
だけで、勉強もほとんどしません。(小一男)
A 騒々しい子どもがふえている。「新しい荒れ」と呼ぶ人もいる。ADHD児のほか、思考が乱
舞してしまう子どももいる。いろいろな原因が考えられているが、ひとつに、テレビやテレビゲー
ムがあげられる。瞬間的に、めまぐるしく変化する画面は、右脳を刺激するが、一方、左脳の
働きをおろそかにする。論理や分析、つまり「ものごとを静かに考えて判断」するのは、その左
脳である。
それはさておき、こうした問題が子どもにあったとしても、今は、それ以上、こじらせないこと
だけを考えて、小学三、四年生になるまで様子をみる。そのころになると自意識が発達し、子
どもは、自分で自分をコントロールするようになる。「こういうことをすれば、みんなに迷惑をか
ける」「嫌われる」「損をする」「先生に注意される」と。それ以前の子どもは、自分が騒々しいと
いう意識すらない。
ある中学生(男子)は、こう言った。低学年児のころは、落ちつきがなく、学校の先生もたいへ
んだった。しかし「ぼくは、何も悪くなかった。みんながぼくを目のかたきにしただけ」と。おとな
でも、自分の姿を客観的に知ることはむずかしい。いわんや、子どもをや。
むしろ問題は、無理な指導や強制的な指導、さらには、暴力をともなった威圧的な指導が、
症状をこじらせてしまうこと。せっかく自意識が発達しても、そのため子ども自身が、立ちなお
れなくなってしまう。
子どもを指導するときは、言うべきことは繰りかえしながら言い、あとは時を待つ。そして少し
でも、言ったことが守れるようになったら、それをほめる。かなり根気のいる作業だが、このタイ
プの子どもと接するときは、まさに根気との勝負。家庭でも、決して短気を起こしてはならない。
が、悪いことばかりではない。言動が活発な分だけ、好奇心も旺盛で、生活力もある。苦手な
分野もあるが、しかしその分、学力もある。中学生になるころには、かえってよい成績を示すよ
うになることも珍しくない。子どものよい面を信じながら、あとは子どもに合わせた生活を組み
たてる。「30分座って、5分くらい勉強らしきことをすればよし」「勉強と遊びが、ごちゃまぜにな
ってもよし」と。繰りかえすが、このタイプの子どもは、叱っても意味がない。子ども自身の力で
は、どうにもならない。
問題のない子どもはいない。だから問題のない子育ても、ない。子育てというのはそういうも
の。そういう前提で考える。しかしそれから生まれるドラマが、子育てをうるおい豊かにし、親子
のきずなを太くする。平凡は美徳だが、平凡からは何も生まれない。…そう考えながら、子育
てを前向きにとらえる。
(5)反抗的な態度
Q 最近、子どもの態度が反抗的になってきました。一触即発という状態で、どこかピリピリして
います。(小五女)
A よく誤解されるが、情緒が不安定だから、情緒不安というのではない。心の緊張状態がと
れないことを、情緒不安という。その緊張状態のところへ、不安や心配が入ると、それを解消し
ようと、精神が一挙に不安定になる。情緒不安というのは、あくまでも症状。
その症状としては、攻撃的暴力的になるプラス型、ぐずったり引きこもったりするマイナス型、
ものに固執する固着型などがある。
そこで子どもが情緒不安症状を示したら、まず、原因が何であるかをさぐる。慢性的なストレ
スや欲求不満など。ある子ども(小6男児)は、幼児期に読んだマンガの本を大切そうにもって
いた。ボロボロだった。そこで私が、「これは、何?」と声をかけると、「どうチョ、読んではダメだ
と、言うのでチョ」と。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりである。原因は父親にあった。父親
は、ことあるごとに、その子どもをこう、脅していた。「中学校へ入ると、勉強がきびしいぞ。毎
日、3時間は勉強しなければならないぞ」と。子どもの未来をおどすのは、タブー中のタブー。
それはそれとして、こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。
子どもが思春期の第二反抗期にさしかかると、子どもの情緒はたいへん不安定になる。そこ
で大切なことは、家庭では、子どもが体を休め、心をいやすことができるようにすること。方法
としては、子どもの側からみて、親の視線をまったく感じないようにするのがよい。あれこれ説
教をしたり、気をつかうのは、かえって逆効果。また家の中で、態度が横柄になり、言葉づかい
が乱暴になるなど、生活習慣が乱れることもあるが、「ああ、うちの子は、外の世界で、がんば
っているからだ」と、大目に見るようにする。「親に向かって、何よ!」式に、頭ごなしに叱っては
いけない。
なお子どもは、小学三年生くらいを境にして、急速に親離れを始める。学校であったことを、
親に話さなくなったり、女児だと、父親といっしょに風呂に入るのをいやがったりするようにな
る。ただその親離れは、ある日を境に、急にそうなるのではない。日々に、おとなぶったり、反
対に、幼児のようになったり、それを繰りかえしながら、数年をかけて、親離れする。
しかし症状が、ある範囲に収まっているなら、親は、こうした親離れを喜ばねばならない。子
育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。子どもの反抗をすべて容認せよと
いうわけではないが、一方で、「ああ、うちの子は、自分の道を歩み始めている…」と思いなお
し、一歩、引きさがる。そういう姿勢が、子どもを自立させる。中学生になっても、「ママ、ママ」
と、親に頼る子どものほうが、おかしい。
(6)口が悪い
Q うちの子は、口が悪くて困ります。私に向かっても、平気で「クソババー!」とか言います。
(小二男)
A 子どもの口が悪いのは当たり前。それを許せというわけではないが、それが言えないほど
まで、子どもを抑えつけてはいけない。もう少し専門的に言うと、こうなる。
乳幼児の心理は、口唇期(口を使って口愛行動をする)、肛門期、男根期を経て発達する(フ
ロイト)。肛門期というのは、体内にたまった不要物を、外に排出する快感を覚える時期と考え
るとわかりやすい。(これに対して、男根期は、いわゆる小児性欲のこと。おとなの性器性欲の
基礎になる。)
たとえばおとなでも、重大な秘密を知ると、それをだれかに話したいという衝動にかられる。
が、それを話せないとなると、悶々とした状態になる。そこで思いきって、だれかに話す。その
とき感ずる快感が、ここでいう肛門期の快感と思えばよい。
つまり子どもは、思ったことをズケズケと言うことで、自分の心の中にたまったゴミを外に吐き
出そうとする。それは快感であると同時に、子どもにとっては、精神のバランスをとるために
は、必要なことでもある。
むしろそれを抑えつけてしまうことによる弊害のほうが、大きい。イギリスの格言にも、『抑圧
は悪魔をつくる』というのがある。心の抑圧状態が長くつづくと、ものの考え方が悪魔的になる
ことを言ったものだが、子どものばあい、それがとくに顕著に現れる。
++++++++++++++++
希望と落胆は、ある一定の周期をおいて、
交互にやってくる。
希望をもてば、そのあとには、必ず
落胆がやってくる。しかしそこで終わる
わけではない。
朝のこない夜はないように、落胆の
あとには、これまた必ず希望がやってくる。
++++++++++++++++
最近、何かと落ちこむことが多くなった。失敗(?)も重なった。調子も悪い。何をしても、空回
りばかりしている。
で、そういうときというのは、おかしなもので、自分の書いた原稿に慰められる。つまり自分で
書いた原稿を読みながら、自分を慰める。今朝もそうだ。ふと自分に、『私たちの目的は、成功
ではない。失敗にめげず、前に進むことである』と言い聞かせたとき、それについて書いた原
稿を読みたくなった。
検索してみたら、3年前に書いた原稿が見つかった。
++++++++++++++++++
【私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むことである】
ロバート・L・スティーブンソン(Robert Louise Stevenson、1850-1894)というイギリスの
作家がいた。『ジキル博士とハイド氏』(1886)や、『宝島』(1883)を書いた作家である。もと
もと体の弱い人だったらしい。44歳のとき、南太平洋のサモア島でなくなっている。
そのスティーブンソンが、こんなことを書いている。『私たちの目的は、成功ではない。失敗に
めげず、前に進むことである』(語録)と。
何の気なしに目についた一文だが、やがてドキッとするほど、私に大きな衝撃を与えた。「そ
うだ!」と。
なぜ私たちが、日々の生活の中であくせくするかと言えば、「成功」を追い求めるからではな
いのか。しかし目的は、成功ではない。スティーブンソンは、「失敗にめげず、前に進むことで
ある」と。そういう視点に立ってものごとを考えれば、ひょっとしたら、あらゆる問題が解決す
る? 落胆したり、絶望したりすることもない? それはそれとして、この言葉は、子育ての場で
も、すぐ応用できる。
『子育ての目的は、子どもをよい子にすることではない。日々に失敗しながら、それでもめげ
ず、前向きに、子どもを育てていくことである』と。
受験勉強で苦しんでいる子どもには、こう言ってあげることもできる。
『勉強の目的は、いい大学に入ることではない。日々に失敗しながらも、それにめげず、前に
進むことだ』と。
この考え方は、まさに、「今を生きる」考え方に共通する。「今を懸命に生きよう。結果はあと
からついてくる」と。それがわかったとき、また一つ、私の心の穴が、ふさがれたような気がし
た。
ところで余談だが、このスティーブンソンは、生涯において、実に自由奔放な生き方をしたの
がわかる。17歳のときエディンバラ工科大学に入学するが、「合わない」という理由で、法科に
転じ、25歳のときに弁護士の資格を取得している。そのあと放浪の旅に出て、カルフォニアで
知りあった、11歳年上の女性(人妻)と、結婚する。スティーブンソンが、30歳のときである。
小説『宝島』は、その女性がつれてきた子ども、ロイドのために書いた小説である。そしてその
あと、ハワイへ行き、晩年は、南太平洋のサモア島ですごす。
こうした生き方を、100年以上も前の人がしたところが、すばらしい。スティーブンソンがすば
らしいというより、そういうことができた、イギリスという環境がすばらしい。ここにあげたスティー
ブンソンの名言は、こうした背景があったからこそ、生まれたのだろう。並みの環境では、生ま
れない。
ほかに、スティーブンソンの語録を、いくつかあげてみる。
●結婚をしりごみする男は、戦場から逃亡する兵士と同じ。(「若い人たちのために」)
●最上の男は独身者の中にいるが、最上の女は、既婚者の中にいる。(同)
●船人は帰ってきた。海から帰ってきた。そして狩人は帰ってきた。山から帰ってきた。(辞世
の言葉)
(03―1―1)
++++++++++++++++++
希望を高くもてばもつほど、必ずそのあとに、落胆がやってくる。希望通りにものごとが進む
例など、100に1つもない。1000に1つもない。
しかし希望のない人生は、そのものが闇。だからつぶされても、つぶされても、人は何かの希
望をもとうとする。そして再び、前に進もうとする。朝のこない夜はないように、落胆のあとに
は、これまた必ず希望がやってくる。
こうして人は、希望と落胆を、周期的に繰りかえす。そして歯をくいしばりながら、前に進む。
子育ても、また同じ。
そこで大切なことは、仮に子育てをしていて、落胆したり、ときには絶望感を覚えたとしても、
決して、それがドン底であるとか、終わりであると思ってはいけないということ。
私たちにとって大切なことは、『私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むこ
とである』。
今朝は、この言葉に、私は慰められた。
Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司
●子育て相談より
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以前、「ファミリス」という雑誌に書いた
原稿が見つかった。
私のHPのほうでも紹介しているが、もう
一度、ここに再掲載する。
+++++++++++++++++++
(1)子どものウソ
Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。(小二
男)
A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害によ
る虚言、それに(3)虚言。空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それを
あたかも現実であるかのように錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経
症による症状のひとつとして考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症
状をともなうことが多い。
これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。
ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自
慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。
母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」
子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」
子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。
同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。
その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言
という。こんなことがあった。
ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの子の
手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをするのですか!」
と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思っ
て、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。
結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。
イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせては
ならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界
にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間に
垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをも
ちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのよ
うに、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないの
が、特徴である。
どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」だけ
を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めた
り、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入っていく。
(2)勉強の遅れ
Q 学年がかわり、勉強の遅れが目立ってきました。このままでは、うちの子はどうなるかと、
心配でなりません。(小四女)
A アメリカでは、学校の先生が、子どもに落第をすすめると、親は、喜んでそれに従う。「喜ん
で」だ。これはウソでも誇張でもない。反対に子どもの学力が心配だと、親のほうから落第を求
めていくこともある。「まだうちの子は、進級する準備ができていない」と。アメリカの親たちは、
そのほうが子どものためになると考える。
日本では、そうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。しかし、二〇
年後、三〇年後には、日本もそうなる。またそういう国にしなければならない。意識というのは
そういうもので、あなたが今もっている意識は、普遍的なものでも、また絶対的なものでもな
い。
さて、もし子育てで行きづまりを覚えたら、子どもは『許して忘れる』。英語では、「フォ・ギブ
(許し)・アンド・フォ・ゲッツ(与える)」という。つまり「(子どもに)愛を与えるために、許し、(子ど
もから)愛を得るために、忘れる」ということになる。子どもをどこまで許し、どこまで忘れるか
で、親の愛の深さが決まる。子どもの受験勉強で狂奔しているような親は、一見、子どもを愛し
ているかのように見えるが、その実、自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。自分の設計
図に合わせて、子どもを思いどおりにしたいだけ。しかしそれは、真の愛ではない。
否定的なことばかり書いたが、勉強だけがすべてという時代は、もう終わりつつある。(だか
らといって、勉強を否定しているのではない。誤解のないように!) 重要なのは、そのときどき
において、子どもが、いかに心豊かに、自分を輝かせて生きるかということ。その中身こそが、
大切。
相談のケースでは、何かほかに得意なことや、特技があれば、それを前向きに伸ばすように
する。子どもには、「あなたはサッカーでは、だれにも負けないわよね」というような言い方をす
る。子どもの世界には、『不得意分野を伸ばすより、得意分野を、さらに伸ばせ』という鉄則が
ある。子どもというのは不思議なもので、ひとつのことに秀でてくると、ほかの分野も、ズルズル
と伸び始めるということが、よくある。
さらにこれからは、一芸がものをいう時代。ある大手の自動車会社の入社試験では、学歴は
不問。そのかわり面接では、「君は何ができる?」と聞かれるという。そういう時代は、すぐそこ
まできている。
ところで『宝島』という本を書いた、R・スティーブンソンは、こう言っている。『我らの目的は、
成功することではない。失敗にめげず前に進むことだ』(語録)と。あなたの子どもにも、一度、
そう言ってみてはどうだろうか。
(3)好きになれない
Q 自分の子どもですが、どうしても好きになれません。いい親を演ずるのも、疲れました。
A 不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」と、どうして
も気負いが強くなる。しかしこの気負いが強ければ強いほど、親も疲れるが、子どもも疲れる。
そしてその「疲れ」が、親子の間をギクシャクさせる。
子どもが好きになれないなら、なれないでよい。無理をしてはいけない。大切なことは、自然
体で子どもと接すること。そして子どもを、「子ども」としてみるのではなく、「友」としてみる。「仲
間」でもよい。実際、親離れ、子離れしたあとの親子関係は、友人関係に近い関係になる。い
つまでもたがいに、ベタベタしているほうが、おかしい。
ただ心配なのは、あなた自身に、何かわだかまりがあるとき。これをフロイト(オーストリアの
心理学者、1856~1939)は、「偽の記憶(false memory)」といった。「ゆがめられた記憶」と
私は呼んでいるが、トラウマ(精神的外傷)といえるほど大きなキズではないが、しこりはしこ
り。心のゆがみのようなもので、そのためどこかすなおになれないことをいう。そのゆがめられ
た記憶は、そのつど、あなたの心の中で「再生(recover)」され、あなたの子育てを、裏からあ
やつる。もしあなたが子育てをしていて、いつも同じ失敗を繰りかえすというのであれば、この
わだかまりをさぐってみたらよい。
望まない結婚であったとか、予定していなかった出産であったとか。仕事や生活に大きな不
安があったときも、そうだ。あるいはあなた自身の問題として、親の愛に恵まれなかったとか、
家庭が不安定であったとかいうこともある。この問題は、そういうわだかまりがあったということ
に気づくだけでも、そのあと多少時間はかかるが、解決する。まずいのは、そのわだかまりに
気がつかないまま、そのわだかまりに振りまわされること。そのわだかまりが、虐待の原因とな
ることもある。
今、「自分の子どもとは気があわない」と、人知れず悩んでいる親は多い。東京都精神医学
総合研究所の調査によっても、そういう母親が、7%はいるという。しかもその大半が、子ども
を虐待しているという(同調査)。
あるいは兄弟でも、「上の子は好きだが、下の子はどうしても好きになれない」というケースも
ある。ある母親はこう言った。「下の子は、しぐさから、目つきまで、嫌いな義父そっくり。どうし
ても好きになれません」と。
親には3つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを歩
く。そして友として、子どもの横を歩く。このタイプの親は、友として子どもの横を歩くことだけを
考えて、あとはなりゆきに任せればよい。10年後、20年後には、あなたは必ず、すばらしい親
になっている。
(4)落ちつきがない
Q 参観授業で見ても、騒々しく、落ちつきがありません。家でも集中力がなく、ワーワーと騒ぐ
だけで、勉強もほとんどしません。(小一男)
A 騒々しい子どもがふえている。「新しい荒れ」と呼ぶ人もいる。ADHD児のほか、思考が乱
舞してしまう子どももいる。いろいろな原因が考えられているが、ひとつに、テレビやテレビゲー
ムがあげられる。瞬間的に、めまぐるしく変化する画面は、右脳を刺激するが、一方、左脳の
働きをおろそかにする。論理や分析、つまり「ものごとを静かに考えて判断」するのは、その左
脳である。
それはさておき、こうした問題が子どもにあったとしても、今は、それ以上、こじらせないこと
だけを考えて、小学三、四年生になるまで様子をみる。そのころになると自意識が発達し、子
どもは、自分で自分をコントロールするようになる。「こういうことをすれば、みんなに迷惑をか
ける」「嫌われる」「損をする」「先生に注意される」と。それ以前の子どもは、自分が騒々しいと
いう意識すらない。
ある中学生(男子)は、こう言った。低学年児のころは、落ちつきがなく、学校の先生もたいへ
んだった。しかし「ぼくは、何も悪くなかった。みんながぼくを目のかたきにしただけ」と。おとな
でも、自分の姿を客観的に知ることはむずかしい。いわんや、子どもをや。
むしろ問題は、無理な指導や強制的な指導、さらには、暴力をともなった威圧的な指導が、
症状をこじらせてしまうこと。せっかく自意識が発達しても、そのため子ども自身が、立ちなお
れなくなってしまう。
子どもを指導するときは、言うべきことは繰りかえしながら言い、あとは時を待つ。そして少し
でも、言ったことが守れるようになったら、それをほめる。かなり根気のいる作業だが、このタイ
プの子どもと接するときは、まさに根気との勝負。家庭でも、決して短気を起こしてはならない。
が、悪いことばかりではない。言動が活発な分だけ、好奇心も旺盛で、生活力もある。苦手な
分野もあるが、しかしその分、学力もある。中学生になるころには、かえってよい成績を示すよ
うになることも珍しくない。子どものよい面を信じながら、あとは子どもに合わせた生活を組み
たてる。「30分座って、5分くらい勉強らしきことをすればよし」「勉強と遊びが、ごちゃまぜにな
ってもよし」と。繰りかえすが、このタイプの子どもは、叱っても意味がない。子ども自身の力で
は、どうにもならない。
問題のない子どもはいない。だから問題のない子育ても、ない。子育てというのはそういうも
の。そういう前提で考える。しかしそれから生まれるドラマが、子育てをうるおい豊かにし、親子
のきずなを太くする。平凡は美徳だが、平凡からは何も生まれない。…そう考えながら、子育
てを前向きにとらえる。
(5)反抗的な態度
Q 最近、子どもの態度が反抗的になってきました。一触即発という状態で、どこかピリピリして
います。(小五女)
A よく誤解されるが、情緒が不安定だから、情緒不安というのではない。心の緊張状態がと
れないことを、情緒不安という。その緊張状態のところへ、不安や心配が入ると、それを解消し
ようと、精神が一挙に不安定になる。情緒不安というのは、あくまでも症状。
その症状としては、攻撃的暴力的になるプラス型、ぐずったり引きこもったりするマイナス型、
ものに固執する固着型などがある。
そこで子どもが情緒不安症状を示したら、まず、原因が何であるかをさぐる。慢性的なストレ
スや欲求不満など。ある子ども(小6男児)は、幼児期に読んだマンガの本を大切そうにもって
いた。ボロボロだった。そこで私が、「これは、何?」と声をかけると、「どうチョ、読んではダメだ
と、言うのでチョ」と。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりである。原因は父親にあった。父親
は、ことあるごとに、その子どもをこう、脅していた。「中学校へ入ると、勉強がきびしいぞ。毎
日、3時間は勉強しなければならないぞ」と。子どもの未来をおどすのは、タブー中のタブー。
それはそれとして、こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。
子どもが思春期の第二反抗期にさしかかると、子どもの情緒はたいへん不安定になる。そこ
で大切なことは、家庭では、子どもが体を休め、心をいやすことができるようにすること。方法
としては、子どもの側からみて、親の視線をまったく感じないようにするのがよい。あれこれ説
教をしたり、気をつかうのは、かえって逆効果。また家の中で、態度が横柄になり、言葉づかい
が乱暴になるなど、生活習慣が乱れることもあるが、「ああ、うちの子は、外の世界で、がんば
っているからだ」と、大目に見るようにする。「親に向かって、何よ!」式に、頭ごなしに叱っては
いけない。
なお子どもは、小学三年生くらいを境にして、急速に親離れを始める。学校であったことを、
親に話さなくなったり、女児だと、父親といっしょに風呂に入るのをいやがったりするようにな
る。ただその親離れは、ある日を境に、急にそうなるのではない。日々に、おとなぶったり、反
対に、幼児のようになったり、それを繰りかえしながら、数年をかけて、親離れする。
しかし症状が、ある範囲に収まっているなら、親は、こうした親離れを喜ばねばならない。子
育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。子どもの反抗をすべて容認せよと
いうわけではないが、一方で、「ああ、うちの子は、自分の道を歩み始めている…」と思いなお
し、一歩、引きさがる。そういう姿勢が、子どもを自立させる。中学生になっても、「ママ、ママ」
と、親に頼る子どものほうが、おかしい。
(6)口が悪い
Q うちの子は、口が悪くて困ります。私に向かっても、平気で「クソババー!」とか言います。
(小二男)
A 子どもの口が悪いのは当たり前。それを許せというわけではないが、それが言えないほど
まで、子どもを抑えつけてはいけない。もう少し専門的に言うと、こうなる。
乳幼児の心理は、口唇期(口を使って口愛行動をする)、肛門期、男根期を経て発達する(フ
ロイト)。肛門期というのは、体内にたまった不要物を、外に排出する快感を覚える時期と考え
るとわかりやすい。(これに対して、男根期は、いわゆる小児性欲のこと。おとなの性器性欲の
基礎になる。)
たとえばおとなでも、重大な秘密を知ると、それをだれかに話したいという衝動にかられる。
が、それを話せないとなると、悶々とした状態になる。そこで思いきって、だれかに話す。その
とき感ずる快感が、ここでいう肛門期の快感と思えばよい。
つまり子どもは、思ったことをズケズケと言うことで、自分の心の中にたまったゴミを外に吐き
出そうとする。それは快感であると同時に、子どもにとっては、精神のバランスをとるために
は、必要なことでもある。
むしろそれを抑えつけてしまうことによる弊害のほうが、大きい。イギリスの格言にも、『抑圧
は悪魔をつくる』というのがある。心の抑圧状態が長くつづくと、ものの考え方が悪魔的になる
ことを言ったものだが、子どものばあい、それがとくに顕著に現れる。