最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

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●臨界期

2010-02-21 13:05:58 | Weblog
【臨界期・精読】(大学の同窓会)
(Critical Period for Children & Class Re-Union Party at Kanazawa)

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理化学研究所の論文を、精読してみたい。
(読んで頭の痛くなりそうな人は、下の(*)
まで、skipしてください。

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『ヒトを含む多くのほ乳類の大脳皮質視覚野神経細胞は、幼若期に片目を一時的に遮蔽すると、その目に対する反応性を失い、開いていた目だけに反応するよう変化します。この変化は、幼若期体験が脳機能を変える例として、これまで多くの研究が行われてきましたが、このような変化は「臨界期」と呼ぶ生後発達の一時期にしか起きないと報告され、脳機能発達の「臨界期」を示す例として注目されてきました。

(中略)

サル、ネコ、ラットやマウスなどの実験動物で、生後初期に片目を一時的に遮蔽すると、大脳皮質視覚野の神経細胞がその目に反応しなくなり、弱視になることが1960年代に発見され、その後、生後の体験によって脳機能が変化を起こす脳の可塑性の代表的な例として、多数の研究が行われてきました。さらに、片目遮蔽によって大脳皮質にこのような変化を起こすのは生後の特定の期間だけであったことから、鳥類で見つかった刷り込みと同じように、この期間は「臨界期」と呼ばれるようになりました。

この「臨界期」の存在は、その後ヒトでも報告されたことや、視覚野だけでなく脳のほかの領域にも認められたことから、「臨界期」における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性を示す例として、神経科学のみならず発達心理学や教育学など、ほかの多くの分野にも影響を与えてきました。その中で、例えば、脳機能発達には「臨界期」が存在することを早期教育の重要性の科学的根拠とする主張も出現してきました。

最近になって、成熟脳でも可塑性のある脳領域が存在することや、「臨界期」を過ぎた大脳皮質でも可塑性が存在することを示唆する研究が報告されました(Sawtell et al., Neuron 2003)。しかし、大脳皮質視覚野の「臨界期」後に可塑性が保持されるのかどうか、保持されるとすればどの程度なのかは不明のままでした。

研究チームは、大脳皮質神経回路を構成する興奮性と抑制性の2群の神経細胞を区別して、それらの左右の目への光刺激に対する反応を記録することで、「臨界期」終了後の可塑性の解明に挑みました』(以上、「理化学研究所」HPより)。

●(*)精読

★ヒトを含む多くのほ乳類の大脳皮質視覚野神経細胞は、幼若期に片目を一時的に遮蔽すると、その目に対する反応性を失い、開いていた目だけに反応するよう変化します。

いろいろな専門用語が並ぶ。
大脳皮質視覚野神経細胞、幼若期、遮蔽、反応性などなど。
つまり視覚を司る神経細胞は、乳幼児期に遮蔽されると、「反応性」を失う、と。
ここで重要な言葉は、「反応性」。

 神経細胞が機能を失うというのではない。
神経細胞は、基本的には、ふえたり、減ったりはしない。
退化するということもないし、消滅するということもない。
あくまでも「反応性を失う」ということ。
わかりやすく言えば、眠ったままの状態になるということ、

 つまり光に対して反応しなくなる、と。
その結果、開いていたほうの目だけで、ものを見るようになってしまう。
イコール、遮蔽されていたほうの目は、反応性を失い、視力を失うということになる。
なおこの実験は、よく知られた実験で、別の論文などによれば、子ネコのばあい、「生後、2~3週間」遮蔽していただけで、「反応性を失う」ということらしい。
(たったの2~3週間!)

★この変化は、幼若期体験が脳機能を変える例として、これまで多くの研究が行われてきましたが、このような変化は「臨界期」と呼ぶ生後発達の一時期にしか起きないと報告され、脳機能発達の「臨界期」を示す例として注目されてきました。

「幼若期体験が、脳機能を変える」。
これを言い換えると、幼若期でなければ、脳機能は変わらないということになる。
たとえばおとなの私たちが、何かの病気か事故で、しばらくの間、片目を遮蔽していたとしても、再びその遮蔽していたものを取り除けば、視力は回復する。
多少のリハビリは必要かもしれないが、そのまま失明するということはない。

 つまり先にあげたような現象は、「一時期」にしか起こらない。
それを「臨界期」という。

 が、ここで注意しなければならないことは、「例」、つまり一例として、あげられているということ。
臨界期というのは、それぞれの機能すべてにあるというように考えてよい。
たとえばよく言われるが、音楽教育についても、幼少のある時期から始めないと、ものにならないと言われている。
小学校に入学してから、音楽教育をほどこしたとしても、子どもはそこそこにはできるようになるかもしれない。
しかし「すばらしい才能を発揮して・・・」というところまでは、ならない。

ただ「音楽教育」とまでいかなくも、「音楽」に慣れ親しんで育ったばあいには、小学校に入学してからでも、手遅れということにはならない。
「音楽」といっても、(感性)(技術)(鑑賞力)(音感)などに分けられる。
臨界期を過ぎたからといって、すべてがだめになるというわけではない。

 最近では、論理性、さらに具体的には、読書力や表現力などについても、同じような臨界期があると説く人もふえてきた。
最近、「作文力にも、臨界期がある」というような意見も聞いたことがある。
多くは我田引水型の拡大解釈なので、そのまま鵜呑みにすることはできない。
たとえばどこかの音楽教室などでは、さかんにこの「臨界期」という言葉を使って、乳幼児期における音楽教育の重要性を主張している。

 が、私の経験からも、「臨界期はある」と断言できる。
たとえば4~5歳の時期に、(数)の指導を施すと、子どもは、たしかに数に鋭い子どもになる。
一方、小学生になってから、数にうとい子どもを、鋭い子どもにしようとしても、たいていうまくいかない。

 (中略)

★サル、ネコ、ラットやマウスなどの実験動物で、生後初期に片目を一時的に遮蔽すると、大脳皮質視覚野の神経細胞がその目に反応しなくなり、弱視になることが1960年代に発見され、その後、生後の体験によって脳機能が変化を起こす脳の可塑性の代表的な例として、多数の研究が行われてきました。

 人間の子どもに対して実験するわけにはいかない。
しかし人間も、哺乳動物。
サル、ネコ、ラット、マウスでもそうなのだから、人間もまた、同じと考える。
が、こうした現象は、すでに1960代に発見されていたという。
今から50年も前のことである。

 しかしこれはほんの一例。
「生後の体験によって、脳機能は変化を起こす」。
その代表的な例が、大脳皮質視覚野の神経細胞が起こす反応ということになる。
で、こうした現象を拡大解釈すると、たとえば、聴覚はどうなのか。
嗅覚はどうなのか。
味覚はどうなのか。
つぎつぎと興味の範囲が広がっていく。

 おそらくそれについては、すでに多くの研究者が取り組み、その結果を発表しているはず。
さらには先にも書いたように、音感や、数的感覚、論理性、言語能力などなど。
こうしたものにも臨界期があるとするなら、それぞれの臨界期に、適切な環境で適切な指導をする。
子どもの指導を考えるとき、これはとても重要なことである。

★さらに、片目遮蔽によって大脳皮質にこのような変化を起こすのは生後の特定の期間だけであったことから、鳥類で見つかった刷り込みと同じように、この期間は「臨界期」と呼ばれるようになりました。

 ここで「刷り込み」という言葉が出てくる。
この研究とは別に、発達心理学の世界でも、人間にも「刷り込み」があることが、最近、わかってきた。
生後直後から、7か月前後までの間と言われている。
この時期を、発達心理学の世界では、「敏感期」という。
この論文によれば、「敏感期」イコール、「臨界期」ということになる。
この時期を通して、母子関係は、絶対的なものとなる。
言うまでもなく、子どもは母親から生まれ、母親から乳を得て、成長する。
「絶対的」というのは、本能に近い部分にまで、その関係が刷り込まれることをいう。

 が、この時期に刷り込みがなされなかったら、どうなのか。
よくあるのが、何らの事情により、生後直後から、親の元を離れて育てられるケース。
「ホスピタリズム」という言葉もあることからわかるように、子どもの心に大きな影響を与える。
反対に、生後7か月を過ぎて、確固たる親子関係を築こうとしても、臨界期(敏感期)を過ぎているため、それはむずかしいということになる。

 しっかりとした親子関係を作ろうとしたら、生後7か月まで、ということになる。
この時期の家庭環境、とくに母子関係が、重要であることは、今さら言うまでもない。

★この「臨界期」の存在は、その後ヒトでも報告されたことや、視覚野だけでなく脳のほかの領域にも認められたことから、「臨界期」における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性を示す例として、神経科学のみならず発達心理学や教育学など、ほかの多くの分野にも影響を与えてきました。

 大脳生理学や生物学の世界では、人間のことを「ヒト」と表記する。
教育の世界では、もちろん「人」もしくは、「人間」である。
「ヒト」というのは、「種」としての人間をいう。
サル、ネコ、イヌと並べて、「ヒト」という。
私はこの言い方に、いまだに違和感を覚える。
 
 この中で、論文は、こう書いている。
「・・・臨界期における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性を示す例として・・・」と。

 ここが重要である。
「刺激」という言葉が出てくる。
つまり(できる・できない)ではない。
(覚えた・覚えない)ではない。
刺激である。
その刺激が大切。

 わかりやすく言えば、刺激を与える。
与えても、仮に効果らしきものがなくても、気にしない。
刺激というには、「教え育てる」という意味での「教育」とは、ちがう。

このことは、私も経験則上、納得する。
たとえば年少のはじめごろの子ども(3~4歳児)などにものを教えても、反応がまったく見られない状態が、しばらくつづく。
子どもによっては、数か月から半年近く、つづく。
教えても教えても、乾いた土に水がしみ込んでいくように、教えたことが、どこかへ消えてしまう。
が、けっして無駄ではない。
無駄と考えてはいけない。
そうして与えた情報は、やがて子どもの頭の中で膨らみ、臨界点に達する。
とたん、子どもは大きく変化する。
ある日を境に、子どもが階段を上るように、まるで別人のように変化していくことも珍しくない。

 が、それはそれとして、この時期に与える刺激が、いかに重要なものであるかが、これでわかる。
すばらしい音楽を聞かせる、すばらしい絵画を見せる、すばらしい本を読んであげる、あちこちへ旅行に連れていってやる、など。
こうした刺激が、子どもの才能を、いつかやがて開花させる。

★その中で、例えば、脳機能発達には「臨界期」が存在することを早期教育の重要性の科学的根拠とする主張も出現してきました。

 「早期教育」というと、「早取り教育」と誤解している人も多い。
たとえば小学校で学ぶ掛け算を、幼児に教えるなど。
足し算にしても、引き算にしても、そうである。
しかし「早取り教育」は、「早期教育」ではない。
いくら臨界期があるといっても、幼児に掛け算を教えることは、早期教育ではない。

 同時に忘れてならないのは、子どもを楽しませること。
楽しませることによって、脳内で特殊な反応が起こる。
たとえばカテコールアミンというホルモンが分泌され、それが子どもを前向きに引っ張っていく。
それがどういうものか知りたければ、生き生きと反応している子どもの顔を見ればよい。
(生き生きとしている)ときの顔のツヤ、それがカテコールアミンである。

 つまりいくら(刺激)といっても、子どもが逃げ腰になっていたのでは、効果はないということ。

★最近になって、成熟脳でも可塑性のある脳領域が存在することや、「臨界期」を過ぎた大脳皮質でも可塑性が存在することを示唆する研究が報告されました(Sawtell et al., Neuron 2003)。しかし、大脳皮質視覚野の「臨界期」後に可塑性が保持されるのかどうか、保持されるとすればどの程度なのかは不明のままでした。

 「可塑性」というのは、「元に戻る可能性」のこと。
先ほどから、「反応性を失う」と書いてきた。
つまり「元には戻らない」と。
またそれが今までの常識だった。
しかし理化学研究所の研究員の研究によれば、「もとに戻ることがある」、あるいは、「戻る部分もある」ということになる。

 もちろん程度の問題もあるだろう。
「戻る」といっても、「元通り」ということではない。
そのことは、1920年代に見つかったオオカミ姉妹を例にあげるまでもない。
あるいはもっとわかりやすい例で言うと、手乗り文鳥がいる。
文鳥という鳥を手乗りにするためには、その時期までに、人間の手で育て始めなければならない。その時期を逸すると、手乗り文鳥は、「手乗り」にならなくなる。

 まったく不可能ではないが、野生化し、たいへんむずかしくなる。
「元に戻る」といって、その程度のことをいう。

★研究チームは、大脳皮質神経回路を構成する興奮性と抑制性の2群の神経細胞を区別して、それらの左右の目への光刺激に対する反応を記録することで、「臨界期」終了後の可塑性の解明に挑みました』(以上、「理化学研究所」HPより)。

 ここから先は、さらに専門的になる。
神経回路には、(興奮性)と(抑制性)がある。
いつもペアで、働いている。
たとえば指を上下させるときも、(動かせ)という命令と、(動かすな)という命令が、同時に働く。
それがバランスよく働くから、指はスムーズかつなめらかに動く。
(興奮性)が強ければ、パッパッと、かみそりでものを切るように動く。
(抑制性)が強ければ、ダラダラとしたような動きになる。

 (行動の世界)のみならず、いわゆる(精神の世界)でも、同じようなことが起きている。

 理化学研究所の研究員たちは、その「可塑性」の研究に臨んできたという。

●再び、臨界期

 私が音痴なのも、芸術に親しみがないのも、運動神経がイマイチなのも、ものさがすのが苦手なのも、女性が苦手なのも、すべてそれぞれの臨界期において、適切な刺激を受けてこなかったせいかもしれない。

 その一方で、私は子どものころから、かなり理屈ぽい人間だったようだ。
ものごとを理詰めで考えるのが得意だったし、またそうでもしないと、納得しなかった。
そういう自分は、ひょっとしたら、すでに幼児期にはできていたのではないか。
記憶に残っているのは、近くの公園で遊んでいるとき、だれかが私に向かって、こう言ったこと。
「浩ちゃん(=私)は、哲学者だなあ」と。

 私はまだ幼稚園児だった。
「テツガクシャ」という言葉だけが、ずっと記憶に残った。

 で、そういう自分をフィードバックしてみると、私という人間がそうなったのは、すでにそのころまでにそうなっていたということ。
このことも、今、子どもの世界を観察してみると、よくわかる。
年長児でも理屈ぽい子どもは、理屈ぽい。
そうでない子どもは、そうでない。
小学生になると、この傾向は、さらに大きく分かれる。

 幽霊や霊の存在をまったく認めない子どももいる。
一方、まじないや占いに凝っている子どももいる。
ちなみに、私は、まじないや占いを、まったく信じていない。
信じていないというより、体が受けつけない。

 ともかくも、「臨界期」を知ることには、2つの意味がある。
ひとつは、それによって、より自分のことが深くわかるようになるということ。
もうひとつは、あなた自身が、自分の子どもを見る目が変わってくるということ。
小学生にもなった子どもに、「どうしてあなたは~~ができないの!」と叱っても、意味がない。
その子どもの中身のみならず、方向性のほとんどは、乳幼児期にできあがる。
言い換えると、その後の「私」は、その「燃えカス」のようなもの。
そういったこともわかるようになる。

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Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司

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