最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

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●論語

2009-06-01 12:57:20 | Weblog
●論語



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今度、小学校でも、論語の朗読を

するようになったという。



しかし、今、なぜ、論語なのか?



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 論語……もともとは、孔子の現行を、弟子や孫弟子たちがまとめたもの。日本には、応神天
皇の時代に、百済の王仁という人物によって伝えられたとされる(ウィキペディア百科事典)。



 その論語、日本では、律令時代においては、官吏必読の書となった。わかりやすく言えば、
官僚たちの教科書だった。



 その論語を、今度、小学校でも、朗読するようになったという。しかし、なぜ、今、論語なの
か? 研究家がその範囲で読み、研究し、意見を述べるのなら、それはそれで構わない。また
それまでは、私も否定しない。



 が、どうしてお役人たちの発想は、いつも、こうまでうしろ向きなのか? 私には、どうしても、
それが理解できない。もし読むべき本があるとするなら、世界の自由と平和のために戦った人
たちが書いた本である。人間の平等を求めて戦った人たちが書いた本である。



 たとえばアメリカのトーマス・ジェーファーソが書いた独立宣言(1776)でもよい。それには抵
抗感を覚えるというのなら、フランスの人権宣言(1789)でもよい。



 フランスの人権宣言を、ここでおさらいしてみよう(資料、近畿大学・大学院)。



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1条

人は、法律上、生まれながらにして、自由かつ平等である。 社会的差別は、公共の利益に基
づくのでなければ、存在することはできない。



2条

すべての政治的組織の目的は、人間の生まれながらの、かつ取り消し得ない権利の保全であ
る。 それらの権利は、自由、所有権、安全、及び、圧政に対する抵抗である。



3条

あらゆる主権の原則は、本質的に国民に存する。いかなる集団、いかなる個人も、明示的に
発せられていない権限を行使することはできない。



4条

自由は、他人を害することのないもの全てを、なし得ることに存する。たとえば、各人の自然権
の行使は、それが社会の他の構成員に、これらと同じ権利の享有を確保すること以外の限界
を持たない。これらの限界は、法律によって定めることができるに過ぎない。



(以下、つづく)



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 アメリカの独立宣言(前文)でも、「すべての人間は平等に造られている」と説き、不可侵、不
可譲の自然権として、「生命、自由、幸福の追求」の権利をあげている。



 この独立宣言が、明治時代になって、福沢諭吉らに大きな影響を与えたことは言うまでもな
い。ついでながら、福沢諭吉が翻訳した、独立宣言を、ここにあげておく。



『天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テス。即
チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモス可ラサルモノ
ナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ
満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革
シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナ
リ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ』(『西洋事情』初編 巻之二より)』(ウィキペディ
ア百科事典より抜粋)



 この独立宣言から、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)と
いう言葉が、生まれた。



 で、結論から先に言えば、今、日本は、再び、儒教文明国家に戻るのか、それとも、アメリカ
型ではあるにせよ、西欧文明国家に向かってまい進するのか、その瀬戸際に立たされてい
る。



 どちらを選ぶかは、これからつづく若い人たちが決めればよいことかもしれないが、しかしそ
の(流れ)を決めるのは、あくまでも、若い人たち。その(流れ)を、国が勝手につくることは、許
されない。



 しかし、どうして今、論語なのか?



【付記】



 日本は自由な国である。平和な国である。しかしこと「平等」ということになると、それを自信を
もっていえる人は少ない。



 天皇制という制度がある以上、この日本では、「人は、みな、平等です」とは、言いにくい。ど
こか口ごもってしまう。



 が、福沢諭吉は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)と書
いた。しかし当時の常識からすれば、これはたいへんな文章と言ってよい。そのまま読めば、
天皇制の否定とも解釈できる。



 そこでときの知識人たちは、天皇制を否定することもできず、またその一方で、福沢諭吉の
ような大人物を否定することもできず、大ジレンマに陥ってしまった。



 「人の上の人とは、だれのことか」と。



 で、この文章について、さまざまな解釈が加えられた。



 「人とは、人種のことである」という解釈や、「天皇は人ではないから、問題はない」という解釈
など。あるいは「福沢諭吉は、組織の中の上下を言ったものだ」という解釈などが生まれた。詳
しく知りたい人は、インターネットの検索機能を使って、「福沢諭吉 天は人の」で検索してみれ
ばよい。



 しかし福沢諭吉は、天皇も含めて、日本の身分制度について、大いなる疑問を感じていた。



 その「天は人の上に……」が、生まれた背景として、国際留学協会(IFSA)は、つぎのような
事実を指摘している。そのまま抜粋させてもらう。



 『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。



諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。それに対する
アメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという態度であった。誰も
ワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。



ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝や、
徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も関心を持って
いないアメリカの社会制度に諭吉は驚きを隠せなかった。



高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならないのだ。諭
吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造らず、人の下に人
を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言葉を生み出すことになる』
と。

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