最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●子育てジャンプ(3)

2009-07-21 07:45:03 | Weblog





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(513)

●妻の呼び名

 数年前になくなったが、私のオーストラリアの友人の父親は、彼の妻のことを、いつも「フレッド(Fred)」と呼んでいた。「友」という意味である。

 で、私は家では、「晃子(あきこ)」と名前で呼んでいる。しかし文では、「女房」と書いている。ところが最近、私はこの「女房」という言い方に、どこか抵抗を覚えるようになった。そこで女房に相談すると、女房は、「ワイフでいいんじゃない?」と、言った。そこで今日から、女房の呼び方(書き方)を変えることにした。「ワイフ」にした。

女房……何となく、古臭い。
妻……夫と妻というように、どこかに上下意識があっていけない。
家内……男尊女卑っぽい。
かみさん……どこか古臭い。
ワイフ……まあ、悪くない。
つれそい……どこか男尊女卑的。
フレッド……パクリっぽい。それにいちいち括弧づけで、「フレッド(妻)」と書かねばならない。

 いろいろあるが、そんなわけで、「ワイフ」にした。これからは、この呼び方で統一する。書くときも「ワイフ」にする。これなら上下意識も感じられない。ただひとつだけ気になることがある。どうも本人とのイメージがあわない。私のワイフは、このところますます、「かみさん」風になってきた。それを「ワイフ」とは? それにワイフが「ワイフ」なら、私は「ダーリン」か? どこかくすぐったい感じがしないでもない。

 ……ともかくも、今日からワイフ。私の原稿で、「女房」と書いてあるのは、二〇〇二年六月二八日以前のもの。「ワイフ」と書いてあるのは、六月二八日以後のもの。しかもこの子育て ONE POINT アドバイス!の第513号が、その境目ということになる。どうでもよいことだが……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(514)

●親の支配意識

 あなたは今、親だ。それはわかる。しかし親といっても、その意識は、みな違う。たとえば子どもを支配したいという意識がある。支配意識という。その意識は、人によってみな、違う。そこでテスト。

 あなたの子ども(小学生~中学生)が、何かの賞金で、少し高額のお金を手にしたとする。そのとき、あなたはそのお金をどう思うだろうか。

(1) 子どものお金だから、私には、関係ないと思う。どう使おうと、子どもの勝手。私の知ったことではない。(2)子どものものは、私のもの。当然、私が使う権利があると思う。使い道については、私が指示する。あるいは私のお金として使う。 

 ここに書いたのは、極端な例で、もちろんその中間もある。しかし支配意識の強い親ほど、(2)のように考える。いろいろな例がある。

 ある女性(55歳)は夫が死んだあと、小さな店を継いだが、ときどきその店を手伝っていた自分の娘(既婚、夫と別場所に住む)には、ほとんど給料を払わなかった。

 ある女性(七〇歳)はこう言った。「私は今の家に嫁いで四五年になるが、夫にさえ、嫁いだころは、お手伝いか、女C(この語は今、禁止語になっている)のようにしかあつかってもらえなかった」※と。

 ある母親(七五歳)は、自分の息子のできがよいのを喜び、息子を自慢のタネにして、友人たちの間で、いばっている。「あの息子を育てたのは、私だ」と。

 支配意識の強い親ほど、「私のものは、私のもの。私の子どもは、私のもの。だから私の子どものものは、私のもの」という考え方をする。「自分の娘だから、給料など払う必要はない」「嫁は、家に嫁いできたのだから、まず家のために働くべき」「老後は、息子や娘の自慢話をするのが、何よりも楽しみ」と。

 しかしこうした考え方は、一方で、子どもの人格や人権を否定することになる。どう否定するかということではない。支配意識をもつこと自体、否定していることになる。言いかえると、子どもの人格や人権を認めるためには、親自身が、この支配意識から抜け出さなければならない。もっと言えば、「あなたの人生はあなたのもの。どこまでいっても、あなたのもの」と、一〇〇%の人生を子どもに手渡してこそ、子どもの人格や人権を認めたということになる。

 さてあなたの支配意識は、どの程度だろうか。だれにでも、ある程度の支配意識はある。が、もしあなたが「うちの子のことは、私が一番よく知っている」という言葉を、日常的に使っているようなら、一度、この支配意識を疑ってみたらよい。

※……このケースは、夫が妻に対して支配意識の強いケースである。あなたは妻に対して、どの程度の支配意識をもっているか。反対にあなたの夫は、あなたに対してどの程度の支配意識をもっているか。それを知るのも、何かの役にたつかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(515) 

●偏見と誤解

 教育の世界には、偏見と誤解が満ちあふれている。ここでひとつ、「心の実験」をしてみよう。
 あなたは「はやし浩司」という人間を、どう見ているだろうか。たぶん、あなたは私のことを、まじめで、融通のきかないカタブツ人間と思っているだろう。教育問題を論じているから、なおさらそういうタイプの人間だと思っている。あるいはもっと別のイメージをもっているかもしれない。あなたが私をどういう目で見ているか、だいたいのところ察しはつく。しかしつぎの文を読んでほしい。

 「いつも寝る前に、バイアグラと鉄分を含んだ鉄剤をのんでいた男がいた。朝起きると、彼の頭はいつも北の方角をさしていたという。また別の老人は、いつもバイアグラを、一錠だけのんでいた。ドクターが、『バイアグラは二錠のまないと効果がない』と言ったら、その老人は、こう答えた。『いえ、わしは、小便するとき、足元をぬらさないためにのんでいるだけでサ』と。

カトリックの神父学校では、もちろんバイアグラは厳禁。小便のあと、あれを何回まで振ってよいかも決まっている。聞くところによると、三回まではよいそうだ。四回以上は、マスターベーションになるからダメだそうだ」(オーストラリアのB君のメールより)。

 この文を読んで、たいていの人は、強いショックを受けるにちがいない。もちろんこれはつくり話である。私とて男だから、この程度のメールのやりとりは、いつもしている。が、問題はそのことではない。

 このときあなたの頭の中では、バチバチと偏見と誤解がショートを起こして火花を飛び散っているにちがいない。「教育評論家が何てことを書くのだ!」「バイアグラをテーマにするなんて、どういうことだ!」と。

 さて、本題。偏見と誤解について。私たちは日常的な常識(私がいう「常識論」の常識とは別)の中で生きている。そしてその常識が、一方でひとつの固定観念をつくる。固定観念がまちがっているというのではない。その固定観念が、ときとして偏見と誤解を生む。教育の世界はとくにそうだ。その中でも最大のものは、教職は聖職であるという偏見と誤解。中には、教師のことを、牧師か出家者のように思っている人がいる。

私も教育の世界をかいまみて三二年になるが、これほどまでの偏見と誤解が満ちあふれた世界はほかに知らない。しかし教師といっても、あなたやあなたの夫や妻と、どこも違わない。違うほうがおかしい。大学で教育言論を履修したとか、多少の実習を受けたということをのぞけば、会社へ入社した社員と、どこも違わない。

 実は、教育論もそうだ。本来、教育論は、もっと生々しく、もっと人間くさいもの。教育を「教育」として構えてしまうから、話がおかしくなる。そのおかしさを、逆説的にわかってほしかったから、あえてここで「心の実験」をしてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(516)

●同性愛

 「君には好きな子がいないのか?」と聞くと、J君(高一男子)は、さみしそうにうなずいた。ピリッとした緊張感が走ったが、心のどこかで私の話を拒絶したのかもしれない。あるいは罪の意識をもっていたのかもしれない。

 J君は、決してもてないタイプの男ではない。色白で、整った顔立ちをしていた。その気になれば、いくらでもガールフレンドなどできたであろう。で、そこでまた、「女の子に興味がないのか?」と聞くと、J君は黙ったまま、下を向いてしまった。

 この時期に、同性愛者かどうかの傾向がはっきりする。私は女子の同性愛については、まったくわからないが、男子のそれはよくわかる。私が「男」であることによるためかもしれない。本能的な部分で、それをかぎ分けることができる。私は「濃い男」か、「薄い男」かと聞かれれば、「濃い男」だ。女性から遠い位置にいる男を、「濃い男」、女性に近い位置にいる男を、「薄い男」という。これは私が勝手に作った言葉だが、つまり私自身が濃い男であるがゆえに、そうでない薄い男がよくわかる。

 こういうケースでは、私としてはなすべきことは、何もない。あるがままを認めて、あるがままを受け入れるしかない。いつかオーストラリアの友人がこう言ったのを覚えている。「白人の男性の、約三分の一は、同性愛者だ」と。日本では、そこまで多くないかもしれないが、しかし「いない」わけではない。それに同性愛者といっても、いろいろなタイプがある。私の知人の中には、同性愛者でありながら、一方で平穏な結婚生活を営んでいる人もいる。

 J君が、どのようなタイプなのかはわからない。心の奥まで、私とてのぞくことはできない。ただ「できれば……」という思いが働いて、教育の場で何とかできないものかということは考える。ときどき冗談をまじえながら、「女性のヌード写真くらいはもっているだろ?」とか、自分の失敗談を話したりして、それとなく反応をみるのだが、まったくと言ってよいほど、そういう話には乗ってこない。「親に報告すべきか」ということで迷うこともあるが、しかしそれをしたところで、それがどうだというのか? そもそも同性愛は、まちがっているのか? それはいけないことなのか?

 私はさまざまな問題にかかわってきたが、こと「性」の問題については、「我、関せず」を貫いている。さらに最近は、この問題は、教育の問題ではないとさえ考え始めている。もっと言えば、性の問題は、教育の向こうにある問題、と。ただ、子どもが同性愛者になる前の段階として、いろいろなすべきことはあるように思う。環境、なかんずく父母の性格や子育て観が大きく影響することは考えられる。しかしその分野まで、教育が踏み込むのは、はたして正しいことなのか。許されるべきことなのか。

 J君を前にするたびに、私は深く考え込んでしまう。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(517)

●同性愛者になる子ども

 実のところ、この問題は、今日、はじめて考える。だからこの原稿は、あくまでもこれからの叩き台でしかない。あるいは「入り口」と考えてほしい。不勉強で、まちがっているかもしれない。

 男子の同性愛傾向は、いくつかのパターンに分けられる。(1)女の子に興味をもたないタイプ、(2)女の子を嫌悪するタイプ、(3)男子に興味をもつタイプ、(4)自分が「男」というより、「女」と思っているタイプ。いろいろなケースがあった。 

タイプ(1)女の子に興味をもたないタイプ……フロイト風に段階的に分類するなら、男子は肛門期以後、乳房期(乳房に強い関心とあこがれをもつ)、女性器期(女性の性器に強い関心をもつ)、接触期(女性との肉体的接触に強くひかれ、それを求める)という段階を経て、性にめざめる。このうち女の子に興味がないタイプは、肛門期以後、ここにあげたような、段階的興味をもたない。「おっぱい」の話をすると、小学校の低学年児でも恥ずかしそうにニヤニヤするが。そういった反応がない。中学生になっても、女体や女性器に興味をもたない。女の子とは、それなりに「友」としてつきあうが、それ以上の関係には発展しない。

タイプ(2)女の子を嫌悪するタイプ……女性そのものに嫌悪感をもち、そのため女性には関心があっても、女性を女性と意識すると同時に、恐怖心に襲われる。強度の母親恐怖症など、何らかの環境的理由が、子どもにそういう恐怖心をもたせる。これは女子のケースだが、印象に残っている女の子(中学生)に、こんな子どもがいた。

その女の子は、男を男とも思わないというか、完全に男を軽蔑していた。原因は家庭環境にあった。父親は静かでおとなしく、まったく風采のあがらない人だった。一方、母親は、あらゆる会の会長を務めるなど、まさにバリバリのやり手ママといったふうだった。その女の子は、そういう環境の中で、母親の、ものの考え方や男性観をそっくりそのまま受け継いでいた。同じように母親の存在感が強過ぎることが原因で、女性恐怖症になる男子は少なくない。

タイプ(3)男子に興味をもつ……こうした同性愛的傾向は、それぞれの時期に、一時的に見られることはよくある。が、その程度が著しく超え、男子に興味をもち、理想の男性に強いあこがれをもつ。よくあるケースは、兵士やスポーツ選手、さらに筋肉的な男性を理想像と思い、そういう男性に傾注する。男性としての自己コンプレックスの変形とも考えられる。

タイプ(4)自分が「男」というより、「女」と思っているタイプ……独特のしぐさを見せるようになるので、それと区別できる。隣の子どもが何かの拍子に、足を蹴られたとき、「イヤ~ン」という声を出した子ども(小四男子)がいた。歩き方も、どこかナヨナヨしていて、女性的なものを身につけたり、ほしがったりする。花柄のパンツ、花柄のノートや下敷きをもっていた男子高校生もいた。

 こうした子どもへの対処法は、ケースバイケースだが、残念ながら私は指導した経験がないので、これ以上のことはわからない。これからのテーマとしたい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(518)

●家族のルール、一〇か条

●ルール1……家族へのプレゼントは、お金で買ったものはだめ。とくに誕生日、クリスマスなど、心のお祝いをするときは、お金で買ったものはだめ。家族の間で、たがいにそう取り決めておく。

●ルール2……食事のあとしまつは、それぞれがする。使った食器、食べ残したものは、それぞれが自分で始末する。食器を洗い、フキンでふいて、それを棚へしまうまで、個人の責任とする。

●ルール3……たがいを判定(ジャッジ)しない。相手の意見は聞き、自分の意見は言っても、たがいを評価したり、判定したりしない。「あなたはダメな子ね」式の人格攻撃はタブー中のタブー。

●ルール4……家族の言い争いは一日で消す。どんな言い争いをしても、その争いは一日ですます。あとでむしかえしたり、「この前も……」という言い方はしてはいけない。あれこ過去もちだすのはタブー。

●ルール5……家族の悪口は言わない。どんなばあいも、家族で、家族の悪口は言わない。不平、不満も言わない。不平や不満があるときは、本人だけに言い、その範囲でおさめる。「あなたのお父さんはだらしないね」式の批判は、タブー。

●ルール6……喜びあい、ほめあうときは皆の前でする。何かよいニュースがあったら、おおげさに喜びあい、ほめあう。「忠告はひそかに、賞賛は公(おおやけ)に」(シルス)と言った、古代ローマの劇作家がいた。

●ルール7……家族の秘密をあばかない。個人あての手紙、メール、メモなどは、絶対に見ない。携帯電話を調べたり、バッグの中をのぞいたり、子ども部屋を調べたりするのは、タブー。そういうことをしなければならないという状況になったら、すでに家族は破壊されたとみる。夫婦でも、このルールは守る。

● ルール8……家族は、助け合い、はげましあい、いたわりあい、守りあう、教えあう。これにもうひとつ。「家族は同居する」。単身赴任などという状態は、あってはならない

● という前提で、考える。仕事は大切だが、家族のために仕事を犠牲にしてはいけない。皆がそういう意識をもったとき、日本のこのゆがんだ制度は、改善される。

●ルール9……家族にはウソは言わない。隠しごとはしない。いつもすべて話せというわけではない。自分から言う必要がないと判断すれば言わなくてもよい。しかし聞かれたら、ウソは言わない。隠しごとはしない。どうしても言いたくなければ、黙っていればよい。

●ルール10……命令、禁止命令はしない。夫婦の間はもちろんのこと、親子の間でも、命令はしない。しかしこれを守るのは実際にはたいへんむずかしい。だからあくまでも努力目標ということになる。そういう前提で、できるだけ命令口調はひかえる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(519)

●他人に左右されない人生

 個性とは……、他人に左右されない人生をいう。人間は個性的に生きるから人間。言いかえると、他人の目を意識した人生ほど、つまらないものはない。人生そのものを、棒に振ることにもなる。はたから見ても、それほど見苦しい生き方もない。

 たとえば「出世」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、その裏で、他人の目を意識した言葉はない。こうした言葉に毒されると、自分を見失う。自分だけではない。政治家や役人に利用されると、国の方向性すらゆがむ。最近でも、鈴木Mという代議士がいる。出世欲にとりつかれた餓鬼(がき)としか、言いようがない。ああいう政治家の見苦しさを、私たちは今ここで、しっかりと頭に焼きつけておかねばならない。

 たとえば「偉い」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、人間の上下を位置づける言葉はない。この日本では、「偉い人」というときは、地位の高い人や、肩書きのある人をいう。よい例が水戸黄門だが、どうして水戸黄門は偉いのか。どうして民衆は、彼に頭をさげるのか。

英語国では、日本人が「偉い人」と言いそうなとき、「尊敬される人(respected man)」という言い方をする。だから親は子どもにこう言う。「尊敬される人になりなさい」と。「偉い人」と、「尊敬される人」との間には、越えがたいほど大きなへだたりがある。「尊敬される人」というときには、地位や肩書きには関係ない。

 たとえば「立派」という言葉がある。この言葉のおかしさは、今の中国をみればわかる。あの国では、国をあげて「立派な国民」づくりに狂奔している。少し前の日本にそっくりと言ってもよい。「立派になる」というのは、偉い人になって出世することを意味する。

 たとえば「世間体」という言葉がある。日本人は皆と同じことをしていれば安心、そうでなければ不安と、どこか全体主義的な生き方をよい生き方としている。そのため幸福観も相対的なもので、「皆よりいい生活をしているから幸福」「皆より悪い生活をしているから不幸」という考え方をする。しかしそういうものの考え方が強くなればなるほど、自分を見失う。

 私たちは今、生きている。たった一度しかない人生を、この大宇宙の中で、しかも何十億年という時間の、その瞬間を生きている。だったら、思いっきり、自分らしく生きよう。私は私だ。あなたはあなただ。もしそれがまちがっているというのなら、それを言う人のほうがまちがっている。たとえ神や仏でも、この生き方をじゃますることはできない。




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(520)

●変わった性意識

 うちへ遊びにきた女子高校生たち四人が、春休みにドライブに行くと言う。みんな私の教え子だ。そこで話を聞くと、うち三人は高校の教師と、もう一人は中学時代の部活の顧問と行くという。

しかも四人の教師のうち、独身なのは一人だけ。あとは妻帯者。私はその話を聞いて、こう言った。「大のおとなが一日つぶしてドライブに行くということが、どういうことだか、君たちにわかるか。無事では帰れないぞ」と。それに答えてその高校生たちは明るく笑いながら、こう言った。「先生、古~イ。ヘンなこと想像しないでエ!」と。

 しかし私は悩んだ。親に言うべきか否か、と。言えば、行くのをやめる。しかしそうすればしたで、それで私と彼女たちの信頼関係は消える。私は悩みに悩んだあげく、女房に相談した。すると女房はこう言った。「ふ~ン。私も(高校時代に)もっと遊んでおけばよかった」と。

私はその一言にドキッとしたが、それは女房の冗談だと思った。思って、いよいよ春休みという間ぎわになって、その中の一人に電話をした。そしてこう言った。「これは君たちを教えたことのある、一人の教師の意見として聞いてほしい。ドライブに行ってはダメだ」と。するとその女子高校生はしばらく沈黙したあと、こう言った。「じゃあ、先生、あんたが連れてってヨ。あんたは車の運転ができないのでしょ!」と。

 以来一〇年近くになるが、私は一切、この類の話には、「我、関せず」を貫いている。はっきり言えば、今の若い人たちの考え方が、どうにもこうにも理解できない。私たち団塊の世代にとっては、男はいつも加害者であり、女はいつも被害者。遊ぶのは男、遊ばれるのは女と考える。

しかし今ではこの図式は通用しない。女が遊び、男が遊ばれる時代になった。だから時折、援助交際についても意見を求められるが、私には答えようがない。私が理解できる常識の範囲を超えている。ただ言えることは、世代ごとに性に対する考え方は大きく変わったし、変わったという前提で議論するしかないということ。避妊教育や性病教育を徹底する一方、未婚の母問題にも一定の結論を出す。

やがては学校内に託児所を設置したり、授業でセックスのし方についての指導をすることも考えなくてはならない。厚生省の調査によると、女子高校生の三九%が性交渉を経験し、一〇代の中絶者は、三万五〇〇〇人に達したという(九九年)。しかしこの数字とて、控え目なものだ。

つまりこの問題だけは、「おさえる」という視点では解決しないし、おさえても意味がない。ただ許せないのは、分別もあるはずのおとなたちが、若い人たちを食いものにして、金を儲けたり遊んだりすることだ。先に生まれた者が、あとに生まれた者を食いものにするとは、何ごとぞ!、と。私はもともと法科出身なので、すぐこういう発想になってしまうが、こういうおとなたちは厳罰に処すればよい。アメリカ並に、未成年者と性交渉をもったら、即、逮捕する、とか。しかしこういう考え方そのものも、もう古いのかもしれない。

 かつて今東光氏は、私が東京のがんセンターに彼を見舞ったとき、こう教えてくれた。「所詮、性なんて、無だよ、無」と。……実は私もそう思い始めている。

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