最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●子育てジャンプ(6)

2009-06-23 08:41:03 | Weblog
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(90)

●行きつくところまで行く

 子育ては、失敗してみて、それが失敗だったとはじめて気づく。その前の段階で、私のようなものがあれこれ言ってもムダ。ほとんどの親は、「うちの子に限って」とか、「まだ何とかなる」と考えて、無理に無理を重ねる。が、やがてそれも限界にくる。

 よくある例が、子どもの燃え尽き(バーントアウト)。概してまじめで、従順な子どもがなりやすい。はげしい受験勉強をくぐりぬけ、やっとの思いで目的の学校へ入学したとたん、燃え尽きてしまうなど。浜松市内でも1番と目されている進学校のA高校のばあい、1年生で、1クラス中、2~3人。2年生で、5~6人が、燃え尽き症候群に襲われているという(B教師談)。1クラス40名だから、10%以上の子どもが、燃え尽きているということになる。この数を多いとみるか、少ないとみるか? 

 燃え尽きは初期症状を的確にとらえ、その段階で適切に対処することが大切。登校前に体や心の不調や、無気力、倦怠感を訴えたりする。不登校の初期症状に似た症状を示すこともある。そういうとき親が、「そうね、だれだってそういうときがあるよ」と言ってあげれば、どれだけ子どもの心は救われることか。が、親にはそれがわからない。

ある母親はあとになって、私にこう言った。「無理をしているという気持ちはどこかにありましたが、目的の高校へ入ってくれれば、それで問題のすべては解決すると思っていました」と。もっともこういうふうに反省できる親はまだよいほうだ。中には、「わかっていたら、どうしてもっと早くアドバイスしてくれなかったのだ」と、私に食ってかかってきた父親がいた。

 結論を先に言えば、結局は親というのは、自分で行き着くところまで行かないと、自分で気づかない。一度(無理をする)→(症状が悪化する)→(ますます無理をする)の悪循環に入ると、あとは底なしの泥沼状態に陥ってしまう。これは子育てにまつわる宿命のようなものだ。そこで大切なことは、いつどのような形で、その悪循環に気づき、それをその段階で断ち切るかということ。もちろん早ければ早いほどよい。そしてつぎのことに気をつける。

(1) あきらめる……「あきらめは悟りの境地」という格言を以前、私は考えたが、あきらめる。

(2) 今の状態を保つ……「何かおかしい」と感じたら、なおそうと考えないで、今の状態をそれ以上悪くしないことだけを考える。

(3) 一年単位でみる……子どもの「心」の問題は、すべて一年単位でみる。「心」の問題はそのつど一進一退を繰り返すが、それには一喜一憂しない。

 これは燃え尽きに限らず、子どもの心を考えるときの大鉄則と考えてよい。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(91)

●見栄、メンツ、世間体

 見栄、メンツ、世間体……どれも同じようなものだが、この3つから解放されたら、子育てにまつわるほとんどの問題は解決する。親はこの3つに毒されると、とんでもないこと(失礼!)をし始める。常識そのものが狂う。

 まず見栄。ある高校生(男子)が私のところにやってきて、こう言った。「先生、法政大学と明治大学、どっちがカッコいいですかね」と。そこで私が「どうしてそんなことを聞くのか?」と言うと、「結婚式での披露宴のこともありますから」と。まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた。

 つぎにメンツ。このH市では、市内の進学校に進学できなかった子どもは、隣のS市の全寮制の学校に入るということが、どこか習わしになっている。(もちろんそうでない子どもも多いが……。)もともと無理をして受験したような子どもが多い。で、地元に残って、ランクの低い高校へ入るよりは、そのほうが格好がつくと親や子どもは考える。

 3つ目に世間体。日本人ほど、他人の目を気にしながら生きる民族は少ない。長く続いた封建時代が、こういう民族性をつくったと考えられる。まわりの人と同じことをしていれば安心、そうでなければ不安と。今でも、「世間が許さない」「世間が笑う」「世間体が悪い」などという言葉を日常的に使う人はいくらでもいる。

それが子どもの世界に入ると、子どもの姿そのものまで見失うことになる。たとえば自分の子どもが不登校児になったとき、子どもを地元の精神科医院に通わせるのは「恥ずかしいから」という理由で、隣町の精神科医院に通わせていた母親がいた。あるいは近所をブラブラされると、やはり「恥ずかしいから」という理由で、不登校になった子どもを一日中マンションの一室に閉じ込めていた母親もいた。

 しかしもうそろそろ日本人も、見栄、メンツ、世間体と決別してもよい時期にきているのではないだろうか。そういうものを気にするということは、その人自身が小さな世界で生きていることを意味する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(92)

●汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはターレス(古代ギリシア・7賢人の1人)だが、自分を知ることは難しい。こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中2男児)がいた。どこがどう問題児だったかは、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。

するとその子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日1人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小1男児)のように、友だちのいない子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行ってほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということのほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。

「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それに気づくことが、自分を知る第一歩である。

まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(93)

●裸で生きる

 私には60人近いいとこがいる。そのいとこの中でも、1番の出世頭(こういう言い方は好きではないが)は、京都に住むUさんだ。Uさんは某一流大学(この言い方も好きではない)を出たあと、これまた某一流銀行(この言い方も好きではない)に入社。あとはトントン拍子に出世して、現役時代はその銀行のドイツ支店の支店長も経験している。

 このUさんと同じ歳のいとこに、Bさんがいる。Bさんは田舎の中学を卒業すると、理容師なり、今は長野県の山村で理容店を営んでいる。魚釣りがうまく、そのあたりでは「名人」というニックネームで呼ばれている。が、それだけではない。魚釣りが高じて、Bさんは釣り竿を自分で作るようになり、今ではBさんが作る釣り竿は、「芸術品」とまで評判されている。

 私はときどきUさんとBさんを頭の中で比較する。一昔前の尺度でみれば、Uさんは勝ち組み、Bさんは負け組みということになる。しかし今、結果としてこの二人を比較すると、勝ち組み、負け組みという言い方すら、空しく聞こえてくる。Uさんはあのバブル経済が崩壊したあと、子会社の金融会社に出向している。それなりに出世したとはいえ、し烈な競争世界で犠牲にしたものも多い。

金融会社に出向する少し前、Uさんは私の家にやってきて、こう言った。「いえね、こうなってみると、何もかもむなしいよ。女房なんか、『私の人生は何だったの。返して!』と言って、ぼくを困らすのだよ」と。Uさんはともかくも、夫の出世を陰で支えてきた妻の悲哀も、また大きい。

 もちろん今でもUさんは、自慢のいとこだ。ときどきいとこ会を開くが、Uさんが席の中央に座っても、それをおかしいと思う人は一人もいない。人格的にも、Uさんは、すぐれた人だ。しかし今、もし私にもう一度人生が与えられ、Uさんか、それともBさんのどちらか一つの人生を選べと言われたら、私は迷わず、Bさんの人生を選ぶ。現在の私の生活そのものがBさんのそれに近いこともある。が、理由はもっとほかにある。

 人は生きるために、食べる。食べるためにお金を稼ぐ。そのお金を稼ぐために働くとしたら、働くことはあくまでも補助的なことだ。その補助的なことが、本末転倒して、「柱」になったとしても、それは錯覚でしかない。Uさんは銀行という会社のために人生を捧げたが、銀行に人生を捧げること自体おかしなことなのだ。一見華々しい社会に見えるが、それは生きることとは本来、無関係なものである。いくら華々しく働いたとしても、その人の人生が豊かになるわけではない。人生の豊かさ、美しさは、もっと別のところにある。

もっと言えば、その人が裸になったとき、その人の価値が決まる。つまり「生きる」という原点をみる限り、BさんのほうがUさんより、はるかに豊かな人生を送ったということになる。Bさんには地位や肩書きがないにしても、それがないからといって、Bさんの人生には何ら影響はない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(94)

●知識と教養

 知識と教養は、まったく別物。たとえば幼稚園児がスラスラと掛け算の九九を言うのは知識。しかしいくらこの知識があるからといって、その子どもが教養のある子どもということにはならない。教養とは、もともとその人の深い人間性と結びついたもの。

たとえばA君がB君に「チビ!」と言ったとする。そのときそれを聞いたC君がA君に、「そういうことを言ってはダメ」とたしなめたとする。そのたしなめる原動力となる深い人間性を、教養という。

 ところがこの日本では、知識と教養が区別されていない。されていないばかりか、知識のある子どもイコール、教養のある子どもということになってしまっている! あるいは勉強のよくできる子どもイコール、教養のある子どもとか、人格的にすぐれた子どもということになってしまっている! しかしこれはとんでもない誤解である。

むしろ事実は逆で、勉強のできる子どもよりも、勉強のできない子どものほうにこそ、豊かな人間性を感ずることのほうが多い。福田恒存も「伝統に対する心構」の中でこう書いている。

「教育と教養は別物です。……教養を身につけた人間は、知識階級よりも職人や百姓のうちに多く見出される」と。

福田ばかりではない。世界の哲学者も、知識に対する見方はきびしい。「思考と知識はつねに歩みを一緒にすべきである。さもなければ、知識は死物で、不毛のまま死滅する」(語録)と言ったパスツール。「教養と知識は別物だ。危険だと思われるのは、勉強していくにつれて陥る、あの呪われた知識というヤツだ。どんなものもみな、頭を通らなくては気がすまなくなる」(青春時代)と言ったヘッセなどがいる。

 もちろん知識を否定してはいけない。知識は人間がよりよい人生を築くための武器となる。しかしその知識は常に両刃の剣。使い方をまちがえると、とんでもないことになる。そこでその使い方を教えるのが、教養ということになる。

 さてあなたはどうだろうか。あなたは子どもに知識をつけさせることが教育だと誤解していないだろうか。そうでなければそれでよいが、もしそうなら、一度、知識と教養を頭の中で分けてみたらどうだろうか。あなたの子どもについて言うなら、勉強がよくできるとかできないとかということではなく、「うちの子は本当に教養があるのだろうか」と、一度じっくりと観察してみたらどうだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(95)

●子どもの自慰は笑ってすます

 ある母親からこんな相談が寄せられた。いわく、「私が居間で昼寝をしていたときのこと。6歳になった息子が、そっと体を私の腰にすりよせてきました。小さいながらもペニスが固くなっているのがわかりました。やめさせたかったのですが、そうすれば息子のプライドをキズつけるように感じたので、そのまま黙ってウソ寝をしていました。こういうとき、どう対処したらいいのでしょうか」(32歳母親)と。

 フロイトは幼児の性欲について、次の3段階に分けている。(1)口唇期……口の中にいろいろなものを入れて快感を覚える。(2)肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなって肛門に興味を示したり、そこをいじったりする。(3)男根期……満四歳くらいから、性器に特別の関心をもつようになる。

 自慰に限らず、子どもがふつうでない行為を、習慣的に繰り返すときは、まず心の中のストレス(生理的ひずみ)を疑ってみる。子どもはストレスを解消するために、何らかの代わりの行為をする。これを代償行為という。指しゃぶり、爪かみ、髪いじり、体ゆすり、手洗いグセなど。自慰もその一つと考える。

つまりこういう行為が日常的に見られたら、子どもの周辺にそのストレスの原因(ストレッサー)となっているものがないかをさぐってみる。ふつう何らかの情緒不安症状(ふさぎ込み、ぐずぐず、イライラ、気分のムラ、気難しい、興奮、衝動行為、暴力、暴言)をともなうことが多い。そのため頭ごなしの禁止命令は意味がないだけではなく、かえって症状を悪化させることもあるので注意する。

 さらに幼児のばあい、接触願望としての自慰もある。幼児は肌をすり合わせることにより、自分の情緒を調整しようとする。反対にこのスキンシップが不足すると、情緒が不安定になり、情緒障害や精神不安の遠因となることもある。子どもが理由もなく、ぐずったり、訳のわからないことを言って、親をてこずらせるようなときは、そっと子どもを抱いてみるとよい。最初は抵抗するそぶりを見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。

 この相談のケースでは、親は子どもに遠慮する必要はない。いやだったらいやだと言い、サラッと受け流すようにする。罪悪感をもたせないようにするのがコツ。

 一般論として、男児の性教育は父親に、女児の性教育は母親に任すとよい。異性だとどうしても、そこにとまどいが生まれ、そのとまどいが、子どもの異性観や性意識をゆがめることがある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(96)

●スキンシップは魔法の力 

 スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。もう20年ほど前のことだが、こんな講演を聞いたことがある。アメリカのある自閉症児専門施設の先生の講演だが、そのときその講師の先生は、こう言っていた。

「うちの施設では、とにかく『抱く』という方法で、すばらしい治療成績をあげています」と。その施設の名前も先生の名前も忘れた。が、その後、私はいろいろな場面で、「なるほど」と思ったことが、たびたびある。言いかえると、スキンシップを受けつけない子どもは、どこかに「心の問題」があるとみてよい。

 たとえばかん黙児や自閉症児など、情緒障害児と呼ばれる子どもは、相手に心を許さない。許さない分だけ、抱かれない。無理に抱いても、体をこわばらせてしまう。抱く側は、何かしら丸太を抱いているような気分になる。

これに対して心を許している子どもは、抱く側にしっくりと身を寄せる。さらに肉体が融和してくると、呼吸のリズムまで同じになる。心臓の脈動まで同じになることがある。で、この話をある席で話したら、そのあと一人の男性がこう言った。「子どもも女房も同じですな」と。つまり心が通いあっているときは、女房も抱きごこちがよいが、そうでないときは悪い、と。不謹慎な話だが、しかし妙に言い当てている。

 このスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、「甘える」という行為である。一般論として、濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受けた子どもほど、甘え方が自然である。「自然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい柔和な表情で、人に甘える。甘えることができる。心を開いているから、やさしくしてあげると、そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染み込んでいくのがわかる。

 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんだり、苦しんでいるのを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。

私「今日はいい天気だね」、子「いい天気ではない」、私「どうして?」、子「あそこに雲がある」、私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。

 ……と、皆さんを不安にさせるようなことを書いてしまったが、子どもの心の問題で、何か行きづまりを感じたら、子どもは抱いてみる。ぐずったり、泣いたり、だだをこねたりするようなときである。「何かおかしい」とか、「わけがわからない」と感じたときも、やさしく抱いてみる。しばらくは抵抗する様子を見せるかもしれないが、やがて収まる。と、同時に、子どもの情緒(心)も安定する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(97)

●慈善は家庭から

 『慈善は家庭から』。これはイギリスの格言。「善良な人になるための心の基本は家庭でできる」という意味だが、子どもは「絶対的な安心感のある家庭」の中でこそ、心をはぐくむことができる。「絶対的」というのは、不安感や疑いを抱かないという意味。

子どもというのは、転勤や転校のような環境の変化など、物理的な変化にはたいへんタフな適応能力をみせる。が、心、とくに愛情がからんだ変化にはたいへんもろい。もろいだけならまだしも、愛情がからんだ変化は子どもの心に大きな影響を与える。たとえば離婚。離婚そのものは子どもにはほとんど影響はないとみてよい。離婚が離婚として子どもに影響を与えるのは、離婚にいたるまでの家庭不和、家庭騒動である。離婚するとしても、子どもの前での騒動は最小限にする。

 一方、子どものやさしさ、思いやる心、いつくしむ心というのは、愛情豊かで、心穏やかな環境ではぐくまれる。それがよいか悪いかということはさておき、(あまり好ましくないのは言うまでもないが)、親の愛情をたっぷりと受けて育ったような溺愛児は、柔和で心も穏やか。それにたいへんやさしい。

反対に生まれてまもなくから施設などに預けられた子どもは、愛情飢餓(きが)の状態におかれ、独特の症状を示す。だれにも愛想がよい反面、他人に心を許さない。許さない分だけ、孤立感が強く、情緒的に不安定になるなど。ほかに知育の発達が遅れがちになるとか、貧乏ゆすりなどの症状がつきやすいことを指摘する学者もいる(長畑氏ほか)。さらに親の育児拒否や虐待を経験した子どもは、心の発達そのものが阻害されることが知られている。

 要するに子どもを心豊かな子どもにしたかったら、子どもは温かい家庭で包む。同じイギリスの格言に、「子どもを幸せにするのが、最高の教育」というのがある。「幸せ」の中身も問題だが、「幸せな家庭」がどういうものであるかをいつも考えながら、そういう家庭づくりを考える。それが本当の意味で「よい子」を育てるための、必要条件ということに

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