最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●権威主義

2009-06-01 13:00:32 | Weblog
【権威主義】



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いまだに権威主義的なものの考え方をする人は、

多いですね。



しかも最近の傾向としては、その権威主義を

復活させようとする動きすらあります。



その種の本が、書店の店頭を飾り、

ベストセラーとなっています。



このままでよいのでしょうか?



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●権威



今でも、権威や権力をカサに着て、威張り散らす人は、少なくない。傍(はた)から見れば、バカ
げているのだが、当の本人には、そうではない。威張ることが、その人にとって、ステータスに
なっている。生きる哲学になっている。



 このタイプの人は、異常なほどまでに、上下意識にこだわる。たった1年でも先輩は、先輩、
後輩は後輩というような考え方をする。組織の中では、地位や、役職にこだわる。そして目上
の人(?)には、必要以上にペコペコし、目下の人(?)には、必要以上に、威張り散らす。



 こうした上下意識は、まさに封建時代の亡霊と考えてよい。その亡霊が、軍国主義時代にな
って、軍人たちによって、引き継がれた。そしてそれが、戦後は、政治家や官僚、さらには、会
社という組織の中で生き延びた。



 もっとも、今の若い人たちにこんな話をしても、理解できないかもしれない。威張るということ
が、どういうことかさえ知らない人も多い。いや、知らないなら知らないでも、かまわない。しかし
それも知らないまま、過去を美化してはいけない。安易な復古主義に陥っては、いけない。



 で、今でも、威張り散らす人は、少なくない。ときどき政治家の中に、そういう人を見かける。
胸を張り、ふんぞり返って歩いたりする。そしてことあるごとに、「無礼だ!」とか、「失敬だ」とか
言ったりする。こういうのを、私の世界では、「権威主義」と呼んでいる。いくつかの特徴があ
る。



(1)強い上下意識

(2)職業による差別意識

(3)男尊女卑思想

(4)見栄、体裁、世間体意識

(5)「偉い人」に代表される、偉人意識

(6)度を越した礼儀意識

(7)権威、権力への隷属意識



 ざっと思いつくまま書きあげたが、こうした権威主義は、そのまま民主主義の発展をさまたげ
る、「敵」と考えてよい。権威主義がはびこればはびこるほど、民主主義は、後退する。あるい
は、権威主義は、民主主義の完成度を知るためのバロメーターにもなる。



 よい例が、あの『水戸黄門』である。



 今でも、あのテレビ番組は、20%前後の視聴率を稼いでいるという。しかしそれは同時に、
日本の民主主義の未熟さを示していると考えてよい。三つ葉葵の紋章を見せただけで、まわり
の者たちは、地面に額(ひたい)をこすりつけて、それに答える。



 実にバカげた世界なのだが、日本人には、そうは思わない。そういう場面を、「痛快」と思う。
つまりそれだけ、ものの考え方が権威主義的というか、権威に対して、あこがれをいだいてい
る。



 実を言うと、私も、子どものころは、あの『水戸黄門』をよく見た。痛快に思ったこともある。し
かしあるときから、体が、それを受けつけなくなった。で、今は、見れば見るほど、バカらしく思
う。今の私なら、三つ葉葵の紋章を見せつけられても、多分、こういい返すだろう。



 「だから、それがどうしたというの?」と。



 もっとも、そんなことを江戸時代に言えば、そのまま首をはねられたにちがいない。私は、そ
れがバカげていると言う。



 が、ここで誤解しないでほしいのは、だからといって、こうした権威主義を否定しているのでは
ない。歴史の中のある過程では、こうした権威主義が必要な時代もあった。江戸時代も、そう
いう時代だったかもしれない。



 上下意識によって、社会秩序を維持することができる。またそれがあったからこそ、時の為
政者たちは、江戸時代という(時代)をつくることができた。が、それは同時に、多くの人たち
の、犠牲の上に成り立った時代とも言える。



 いかに多くの人たちが、その上下意識という意識の中で、押しつぶされたことか! その話
はまた別の機会に考えることにして、この上下意識を支えるのが、「権威」ということになる。



 「どうして上の者が上なのか?」「下の者が下なのか?」……それを説明するのが、権威とい
うことになる。



 「上だから、上」「下だから、下」と。



 この権威主義が家庭に入ると、「親が上で、子が下」「夫が上で、妻が下」「兄が上で、弟が
下」となる。理由など、ない。あるわけがない。



 しかし今、この権威主義が、再び、日本の社会の中に台頭し始めている。それについて書い
た本が、ベストセラーとなり、書店の店頭で、平積みにされている。中には、「武士道こそ、日本
人のアイデンティティ」と説く本もある。あるいは「英語教育不要論」を説く本もある。



 こうした復古主義を唱える人たちは、伝統とか文化、さらには「過去」を背負っているだけに、
強い。少なくとも未知の道を歩きつづける私たちより強い。



 しかし、権威主義など、クソ食らえ!



 それがわからなければ、韓国のあのN大統領を見ればよい。何を、ああまで威張っているか
と思うるほど、威張っている。悪しき儒教文明の亡霊を、そのまま引きずっている。多分、N大
統領自身は、それが大統領としてあるべき姿だと思っているかもしれない。が、冒頭にも書い
たように、傍から見れば、バカげている。



 私たちは、前に進もう。道なき道かもしれないが、前に進もう。自由と平等と、そして平和を求
めて、前に進もう!



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2作、以前書いた原稿を添付します。

内容が、少しダブりますが、

お許しください。



若いころ(?)書いた原稿なので、

かなり過激な部分もあります。

あらかじめ、ご承知おきください。



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●権威主義の象徴「水戸黄門」



 権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えお
ろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげる。



日本人はそういう場面を見ると、「痛快」と思うかもしれない。が、欧米では通用しない。オース
トラリアの友人はこう言った。



「もし水戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。フランス革命以来、あるいはそれ以前から、
欧米では、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。



 この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。Mさん(男性)の家もそうだ。長
男夫婦と同居して15年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。別居も何度
か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。



「今の若い者は、先祖を粗末にする」と。Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。



一方長男は長男で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。一度、私も間に入って二人の
仲を調整しようとしたことがあるが、結局は無駄だった。長男のもっているわだかまりは、想像
以上のものだった。問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。



 そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。特に冠婚葬祭については、まったくと言
ってよいほど妥協しなかった。しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもら
った。長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。そしてことあるごとに、先
祖の血筋を自慢した。



Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占めるほどの大地主であった。ふつうの会話をしてい
ても、「M家は……」と、「家」をつけた。そしてその勢いを借りて、子どもたちに向かっては、自
分の、親としての権威を押しつけた。少しずつだが、しかしそれが積もり積もって、親子の間に
ミゾを作った。



 もともと権威には根拠がない。でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明で
きる人はいるだろうか。あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。
だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。



 権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われ
る。もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。命令と服従、保
護と依存の関係と言ってもよい。そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがな
い。



権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。権威、つまり「私
は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへと、一方的なもの
になる。そのため子どもは心を閉ざす。



Mさん親子は、まさにその典型例と言える。「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさ
ん。しかしそれをそのまま黙って無視する長男。こういうケースでは、親が権威主義を捨てるの
が一番よいが、それはできない。権威主義的であること自体が、その人の生きざまになってい
る。それを否定するということは、自分を否定することになる。が、これだけは言える。



もしあなたが将来、あなたの子どもと良好な親子関係を築きたいと思っているなら、権威主義
は百害あって一利なし。『水戸黄門』をおもしろいと思っている人ほど、あぶない。



Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司



●家族主義



 日本人は、古来より上下意識の強い国民である。男が上で女が下。夫が上で、妻が下。先
生が上で生徒が下、と。



たった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩という関係をつくる。そしてそれが組織の秩序とな
る。で、この秩序を支えるのが、権威。もともと上下関係には、理由などない。根拠もない。「偉
いものは偉い」という権威が、その関係を支える。日本人はこの権威に弱い。あるいはその権
威にあこがれを抱く。そのよい例が、「水戸黄門」。



水戸黄門の取り巻きが、葵の紋章を見せて、「控えおろう。これが目に入らぬか!」と一喝する
と、周囲の者が、「ははあ」と言って頭をさげる。日本人はそういう世界を「痛快だ」と思う。しか
し水戸黄門は絶対的な善玉だからよいようなものの、もし悪玉だったら、どうする。日本人のこ
とだから、それでも頭をさげるに違いない。実際、秀吉や家康といった圧政暴君たちが、この
日本では必要以上に美化され、英雄になっている!



 この権威主義は、教育にも暗い影を落としている。「大学の教授」というだけで、一も二もな
く、日本人は皆、頭をさげる。しかし実際には、大学の教員の世界は、完全に年功序列の世
界。「そこに人がいるから人事」が、長年慣行化している。



幼児教育の世界に限ってみても、実際幼児教育などしたこともないような教授が、その道の権
威者になっている。日本でも有名なA教授は、たった数か月間、幼児の心理を調査しただけ。
またN教授は、ラジオのトーク番組の中で、ふとこう口をすべらせている。「私は三人の孫で、
幼児教育を学びました」と。たった三人である! 



ある幼稚園で講演をしたときのこと。「S大学附属幼稚園」という名前がついていたので、「教授
たちは来ますか」と聞くと、そこの副園長がこっそりこう教えてくれた。「たまにね。来てもお客様
ですから」と。そういう教授でも、「教授」というだけで、皆、頭をさげる。



 家族主義というと、小市民的な生き方を連想する人は多い。99年の春、文部省がした調査
でも、「一番大切にすべきもの」として、約40%の人が、「家族」をあげている。が、これに対し
て、さっそくその夜、あるテレビの解説者が、「日本人は小市民的になった」と評した。



とんでもない。とんでもない誤解である。



家族主義は、新しい国家観、新しい愛国心にもつながる。昔の日本人は、国、つまり天皇制と
いう体制を守るために戦場に出かけたが、これからはもうそういう時代ではない。家族の集合
体としての「国」を考える。そしてもし戦争することがあるとするなら、私たちは「家族を守るため
に」戦う。愛国心も、そこから生まれる。



 日本は欧米化したとよく言われるが、それは表面的な部分だけ。日本は日本。しかも旧態依
然のまま。今でも日本は、世界から見ると、「わけのわからない国」ということになっている。欧
米化が必ずしもよいというわけではないが、世界の人に安心してつきあえってもらえる国民に
なるためには、欧米化は避けて通れない。



これからは「家族を大切にします」「一番大切なものは家族です」と、日本人も胸を張って言う時
代になった。家族主義は、決して恥ずかしいことではない。 





Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司



●敏感な子ども



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敏感な子ども。昔は、

「神経質な子ども」といった。



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 A子さん(年長児)は、見るからに繊細な感じのする子どもだった。人前に出るとオドオドし、
その上、恥ずかしがり屋だった。母親はそういうA子さんをはがゆく思っていた。そして私に、
「何とかもっとハキハキする子どもにならないものか」と相談してきた。



 心理反応が過剰な子どもを、敏感児という。そしてその程度がさらに超えた子どもを、過敏児
という。敏感児と過敏児を合わせると、全体の約30%が、そうであるとみる。



一般的には、精神的過敏児と身体的過敏児に分けて考える。心に反応が現れる子どもを、精
神的過敏児。アレルギーや腹痛、頭痛、下痢、便秘など、身体に反応が現れる子どもを、身体
的過敏児という。A子さんは、まさにその精神的過敏児だった。



 このタイプの子どもは、



(1)感受性と反応性が強く、デリケートな印象を与える。おとなの指示に対して、ピリピリと反応
するため、痛々しく感じたりする。

(2)耐久性にもろく、ちょっとしたことで泣き出したり、キズついたりしやすい。

(3)過敏であるがために、環境になじまず、不適応を起こしやすい。集団生活になじめないの
も、その一つ。そのため体質的疾患(自家中毒、ぜん息、じんましん)や、神経症を併発しやす
い。

(4)症状は、一過性、反復性など、定型がない。そのときは何でもなく、あとになってから症状
が出ることもある(参考、高木俊一郎)。A子さんの場合も、原因不明の発熱に悩まされてい
た。





 結論から先に言えば、敏感児であるにせよ、鈍感児であるにせよ、それは子どもがもって生
まれた性質であり、なおそうと思ってなおるものではないということ。無理をすればかえって逆
効果。症状が重くなってしまう。



が、悪いことばかりではない。敏感児について言えば、その繊細な感覚のため、芸術やある特
殊な分野で、並はずれた才能を見せることがある。ほかの子どもなら見落としてしまうようなこ
とでも、しっかりと見ることができる。



ただ精神的な疲労に弱く、日中、ほんの10数分でも緊張させると、それだけで神経疲れを起
こしてしまう。一般的には集団行動や社会行動が苦手なので、そういう前提で理解してあげ
る。……というようなことは、教育心理学の辞典にも書いてある。が、こんなタイプの子どももい
る。



見た目には鈍感児(いわゆる「フーテンの寅さん」タイプ)だが、たいへん繊細な感覚をもった
子どもである。つい油断して冗談を言い合っていたりすると、思わぬところでその子どもの心に
キズをつけてしまう。



ワイワイとふざけているから、「パンツにウンチがついているなら、ふざけていていい」と言った
りすると、家へ帰ってから、親に、「先生にバカにされた」と泣いてみせたりする。このタイプの
子どもは、繊細な感覚をもちつつも、それを茶化すことにより、その場をごまかそうとする。心
の防御作用と言えるもので、表面的にはヘラヘラしていても、心はいつも緊張状態にある。先
生の一言が思わぬ方向へと進み、大事件となるのは、たいていこのタイプだ。



その子ども(小3男児)のときも、夜になってから、親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。
「パンツのウンチのことで、息子に恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。敏感かどうかという
ことは、必ずしも外見からだけではわからない。

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な子ども 神経質な子供 神経質な子ども 感受性の強い子供 敏感児 神経衰弱)





Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司



●子育ての宿命



 緘黙児の子ども(年長女児)がいた。症状は一進一退。少しよくなると親は無理をする。その
無理がまた、症状を悪化させる。私はその子どもを一年間に渡って、指導した。指導といって
も、母親と一緒に、教室の中に座ってもらっていただけだが、それでも、結構、神経をつかう。
疲れる。このタイプの子どもは、神経が繊細で、乱暴な指導がなじまない。



が、その年の年末になり、就学前の健康診断が始まった。が、その母親が考えたことは、「い
かにして、その健康診断をくぐり抜けるか」ということ。そしてそのあと、私にこう相談してきた。



「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえます。ですから心
理療法士にかかることにしました。ついては、先生(私)のところにもいると、パニックになってし
まいますので、今日限りでやめます」と。「何がパニックになるのですか」と私が聞くと、「指導者
が二人では、私の頭が混乱します」と。



 緘黙児に限らず、子どもの情緒障害は、より症状が重くなってはじめて、前の症状が軽かっ
たことに気づく。あとはその繰り返し。私が「3か月は何も言ってはいけません。何も手伝っては
いけません。子どもと視線を合わせてもいけません」と言った。が、親には一ヶ月でも長い。一
週間でも長い。そういう気持ちはわかるが、私の目を盗んでは、子どもにちょっかいを出す。



一度親子の間にパイプ(依存心)ができてしまうと、それを切るのは、たいへん難しい。情緒障
害は、半年、あるいは1年単位でみる。「半年前とくらべて、どうだったか」「1年前は、どうだっ
たか」と。1か月や2か月で、症状が改善するということは、ありえない。が、親にはそれもわか
らない。



最初の段階で、無理をする。時に強く叱ったり、怒ったりする。あるいは太いパイプを作ってし
まう。きわめて初期の段階で、つまり症状が軽い段階で、それに気づき、適切な処置をすれ
ば、「障害」と言われることもないまま終わる。



が、私はその母親の話を聞いたとき、別のことを考えていた。はじめて母親がその子どもを連
れてきたとき、私はその瞬間に緘黙児とわかった。母親も、それを気づいていたはずだ。しか
し母親は、それを懸命に隠しながら、「音楽教室ではふつうです」「幼稚園ではふつうです」と言
っていた。



それが今度は、「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえ
ます」と。母親自身が、子どもを受け入れていない。そういう状態になってもまだ、メンツにこだ
わっている。もうこうなると、私に指導できることは何もない。私が「わかりました。ご自分で判
断なさってください」と言うと、突然取り乱して、「そんな冷たいこと言わないでください!」と。



 子どもの情緒障害の原因のほとんどは、親にある。親を責めているのではない。たいていの
親は、その知識がないまま、それを「よかれ」と思って無理をする。この無理が、症状を悪化さ
せる。それはまさに泥沼の悪循環。そして気がついたときには、にっちもさっちもいかない状態
になっている。



つまり親自身が、自分で失敗して、その失敗に気づくしかない。確かに冷たい言い方だが、子
育てというのはそういうもの。子育てには、そういう宿命が、いつもついて回る。

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