最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●雑感(伊吹山)2

2008-07-24 14:15:53 | Weblog

● 通俗性

++++++++++++++++++H.Hayashi

いかにして、自分の中に、通俗性を確保するか。
通俗であれということではない。
この通俗性の大切さは、老人たちを観察してみるとわかる。

++++++++++++++++++H.Hayashi

老齢になると、極端に偏屈になる人がいる。
小さな殻(から)にこもり、その世界だけで生きる。

社会適応性がなくなるのは、しかたないとしても、
協調性、融和性、同調性がなくなる。
が、それですめばまだよいほう。
さらに症状が進行すると、奇行を繰り返すようになる。

たぶんに脳の老化による部分もあるのだろうが、
それによって迷惑するのは、その周囲の人たちという
ことになる。

だから心の一部は、常に、通俗に向けて開いておく。

こんな経験をしている。

この年齢になると、観光バスによるバス・ツアーは、
たいへんありがたい。
ありがたいが、その中は、通俗そのもの。
先日は、バスに乗り込んだとたん、ムッとするような
ニンニクのにおいがした。
乗客の一人が、ニンニクを食べて、旅行に参加したらしい。

あるいは、こまかいところでマナーを守らない人もいる。
酒を飲んで、騒ぐ人や、大声でしゃべりあう人たち。

しかしそういう人たちに、いちいち腹をたてていたら、旅行も
旅行でなくなってしまう。
つまりこちらも、そうした通俗性に合わせるしかない。
(私たち自身も、気がつかないところで、他人に迷惑をかけて
いるかもしれない。)

このことは子どもの世界をみていても、わかる。

すばらしすぎるほどすばらしい家庭環境で(?)育てられた子どもがいる。
それこそ、毎日、クラシック音楽で目覚めるような子どもである。
(これは少し、おおげさかな……。)

このタイプの子どもは、集団生活の中に押し込むと、その
ストレスから神経疲れを起こしやすい。
実際、こんな例がある。

Nさん(小1)は、いつもていねいな話し方をする子どもだった。
ほかの子どもたちが乱暴な話し方をするときでも、Nさんだけは、
「わかりました」「そうします」というような言い方をしていた。

Nさんの母親も、そういうNさんに満足していた。
私も、そういう言い方を、ほめ、励ました。
が、小学校へ入学してすぐ、異変が起きた。

Nさんのそういう言い方に対して、ほかの子どもたちが、
「お前の言い方は、へん」と、Nさんをいじめ始めたというのだ。
Nさんは、それほど器用な子どもではなかった。
そのまま不登校児になってしまった。

子どもを育てるとき、ある程度の通俗性は必要ということになる。
「ゲームは絶対に、だめ」
「コミックは、禁止」
「携帯電話は、もたせない」と。
頭から子どもを押さえつける親も、少なくない。
そういう意味では、子育てには、その親のもつ哲学観、教育観、
人生観がすべて集約される。
それはそれでしかたのないことだが、それをそのまま子どもに
押しつけてしまってはいけない。

子どもには子どもの世界がある。
大切なことは、子どもがその世界で、みなと楽しく過ごすこと。
そのためには、親自身も、ある程度の通俗性を受け入れる。
子どもの世界を、ほかの世界から隔離してしまえば、かえって
子ども自身が、苦しむことになる。
子どもは無菌状態になってしまう。

「学校」という場ではそれでもよいかもしれないが、一歩、
その場を離れたとき、抵抗力がない分だけ、『温室育ち、すぐ
風邪をひく』という状態になる。

……ということで、私たちはいつも、どこかで通俗との接点をもつ。
その努力を怠ってはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++July 08++++++++++はやし浩司

●うるさい、オバチャンたち

今日もそのバスの中で、うるさいオバチャンたちに、出会った。
うるさい。
本当に、うるさい。
バスに乗るやいなや、ギャーギャー、ゲラゲラ、ワーワーと騒ぎ出した。

旅行というのは、そういうものだと思っているらしい。
またそうすることが、旅行を楽しむ方法だと思っているらしい。
しかしこれはたぶんに、学校教育によるものだと思う。
私たちは、学生のころ、遠足といえばバス。
バスといえば、その中で騒ぐのが、旅行の仕方と学んだ。

欧米の方式がよいというわけではないが、欧米の人たちは旅行といえば、
いつも本を片手に、あちこちを歩き回っている。
一方日本では、少し前まで、観光地といえば、どこでも、
ガンガンと音楽が鳴らされていた。
「騒音」に対する感覚そのものがちがう。

数年前だが、エレベータに乗って驚いた外人の話が何かの雑誌に載っていた。
「日本は、どこへ行っても、騒音だらけ」
「エレベータの中でさえ、音声ガイダンスがあった」と。
ついでに言うなら、バスガイド。
もう、こんなバカげたサービスは、やめたらよい。
市内観光とか、どこかの観光地を回るときは、それなりにガイドも必要かも
しれない。
しかしくだらない無駄話ばかり。

今日乗ったバスのガイドも、こんな話をしていた。
「高校野球がどうの……」
「今年の気温はどうの……」
「交通渋滞はどうの……」と。

そういう話を、甲高い声でキャッキャッ、キンキンと間断なく話す。
それはまさに、拷問。
「携帯電話はオフに」と言いながら、自分ではそれ以上の騒音をがなり
立てている。

そのバスガイドの声に負けないようにと、乗客のオバチャンたちは、
さらに大きな声で話す。

アアアアア……!

しかしそういった通俗性に、私たちは耐えなければならない。
「日本という国は、まだこのレベルなのだ」と。

しかし、一言!
日本のオバチャンたちよ、もう少し、自分の知性を磨け。
理性を磨け!
本を読んで、絵画に親しめ。
でないと、あっという間に、ケアセンターに、足をつっこむことになるぞ!
粗大ごみになってしまうぞ!


● オバチャンのたわごと

ついでに、オバチャンたちが、どんな話をしていたかを、ここに記す。

うしろの席のオバチャンたちは、こんな話をしていた。
どこかのレストランへ行ったらしい。

「あそこのレストランは、おいしい」
「あそこは、値段の割に、まずい」
「Aさんが、勧めてくれたから行ってみたが、その日は休みだった」
「行くならB店がいい。B店は、量も多い」と。

こんな話が、いつまでもつづく。
キャッキャッ、ワイワイと、いつまでもつづく。

そのたびに、私は心の中で、こう反論する。
「だから、それがどうしたの?」と。
「おいしいものを食べた……だから、それがどうしたの?」
「値段の割にまずい……だから、それがどうしたの?」

その答がつづかない会話は、無駄。
つまりは、欲望を無意味に追求しているだけ。
言葉を話すというだけで、そこらのサルと、どこもちがわない。(失礼!)


● 暑い

7月23日、水曜日、暑い。
午前中は、中元のあいさつ回り。
4~5か所回ったところで、ダウン。
昼ごろ家に帰ると、気温は、家の中で32度。
道理で暑いはず。

今日あたり、40度近くなったところがあるかも。
昼食後少し横になるが、ジリジリと、身の置き場がない暑さが、
ふとんの下から伝わってくる。

このところ日本語の豊かさについて考える。
基本的には、日本語の自由度は低い。
英語は、高い。

「暑い」を表現するにしても、ここに書いたように、「ジリジリ」とか、
そういう言葉に限られる。
またそういう言い方をしないと、読者のほうも、安心しない。

そこで私も、いろいろ考えてみる。

肌の穴から空気がもれたように、体がだるい。
額の上で、汗がにじみ出るのがわかる。
フ~ッと吸い込む空気が、肺の中を焦がす。
胸を押さえつける、くすんだ鉛のような重苦しさ。
それをかきむしるようにして、身を起こす。

だいぶ、豊かになってきたようだ。
が、「豊か」では、つまらない。
「言葉の奥の扉が開いたようだ」では、どうだろうか。

この先、もっともっと訓練して、私自身のもつ
国語力を、磨いてみたい。


● 脳みその老化

++++++++++++++

このところ、ふとしたときに、
脳みその老化を感ずる。

脳みそというのも、年齢とともに、
弾性疲労を起こしやすくなるものらしい。
つまり融通がきかなくなる。
緻密なつながりのあちこちに、
小さな盲点ができる。
俗な言い方をすれば、「スキ」ができる。
もっとわかりやすく言えば、「ミス」が多くなる。

++++++++++++++

このところ、ときどきミスが多くなった。
自分でもそれが、よくわかる。
注意力が散漫になったというよりは、ふとしたときに、何かを
し忘れたりする。
「これをしなくては……」と思いつつ、別の行動に移ったりすると、
それをするのを忘れてしまう。

ところで私はよく夢の中で、擬似認知症を経験する。
夢の中の景色を見ながら、ここがどこであるか、わからなくなってしまう。
「この先を行けば、自宅に帰れる」というところまでは、何となくわかる
のだが、その先がわからない。
そういう夢である。

そのくせ、議論になると、つぎからつぎへと言葉が出てくる。
昨夜は、どこかのカルト教団の幹部と、議論をする夢を見た。
「もう少しで相手をやりこめることができたのに……」というところで、
目が覚めた。
残念!

ほかの人の脳みその中までのぞくことはできないが、これは私だけの
現象なのか?


●パイロット

おとといアメリカにいる息子に電話をした。
どこか沈んでいた。
「思うように操縦できない」と言った。

世の中には、車の運転も、飛行機の操縦も同じと説く人がいる。
しかしそういう人は、飛行機の操縦というのが、どういうものであるか、
わかっていない。

飛行機の操縦といっても、晴れた日に、限られた範囲の、限られた高度の下で、
ゆらゆらと飛ぶのもある。
この程度の操縦免許なら、趣味の範囲。
が、それが第一歩。
それからはじまって、双発機操縦免許、計器飛行免許……、事業者用航空免許と
つづく。
さらに大型機ともなると、飛行機ごとの免許が必要となる。
ふつう1人のライン・パイロットを育てるためには、数億円程度の費用が
かかるという。
期間は、4~5年程度。
そのためか、それぞれの段階で、チェック・テストがあり、それに不合格に
なると、そのまま退学、もしくは配置転換。
容赦なし。

が、それで大型機を操縦できるようになるというわけではない。
副機長として、5年程度の訓練が課せられる。
その上、毎年の適性検査と身体検査。
最近では、英語の試験も課せられるようになった。
ひとつでもひかかると、もう飛行機の操縦はできない。

息子の話では、すでに何人かが、チェック・テストで落とされ、日本へ
帰されたという。

そして今日、再び、息子に電話をしてみた。
今度は明るい声だった。

「おととい、声が沈んでいたから、電話したよ」と言うと、
「あら、そう? そうだっけエ?」と。
「うまく進んでいるのか?」と聞くと、「今日は、うまくいったよ」と。

息子「アメリカの空は、飛行機が、四方八方から飛び交っていて、無法地帯みた
いだよ」
私「どういうことだ?」
息子「管制官も不親切で、しょっちゅうミスをしている」
私「日本では考えられないね」
息子「でも、それが世界の空だよ。中国も似たようなものだそうだよ」と。

息子を見ていると、パイロットという職業を、「職業」としてではなく、
「空を飛ぶ手段」と捕らえているような感じがする。
息子は、心底、空が好きらしい。
画家が美の向こうに理想郷を見るように、音楽家が自分の旋律に酔いしれるように、
息子は、青い空と、白い雲に、生きがいを見いだしている。

それもひとつの職業観かもしれない。
私には、想像はできても、よく理解できないが……。


●なぜ、女性は、オバチャンになるのか

美しい女性も、加齢とともに、女の匂いが消え、やがてオバチャンになる。
私たちが「オバチャン」というときは、あのオバチャンをいう。

デリカシー、ゼロ。
色気、ゼロ。
センス、ゼロ。
知性と理性、ゼロ。

しかし生命力だけは、やたらと強力。
あたりかまわず、ギャーギャー、ゲラゲラと騒ぐ。
卑猥な言葉を平気で口にして、ワイワイ喜ぶ。
年齢的には、早い人で、40歳くらいから。
ピークは、50歳~60歳。

もちろんすべての女性が、オバチャンになるのではない。
女性でも、オバチャンになる人とそうでない人がいる。
その(ちがい)は、どうして生まれるのか?

その原因の大半は、夫がつくる。
夫が、自分の妻から、(女)を奪っていく。
その結果、女性は、自ら自分の中から、(女)を消していく。

いつだったか、女性のオシャレは、性的エネルギーのなせるワザと書いた。
もちろんオバチャンたちも、精一杯、オシャレをしている。
しかしそれは異性を意識したものというよりは、見栄、メンツ、世間体、
さらに言えば、仲間を意識したもの。

少なくとも世の男たちは、オバチャンたちのオシャレには、見向きもしない。
色気を感ずることなど、ぜったいに、ない。
オバチャンたちも、それをよく知っている。

で、それを防ぐのは、やはり夫ということになる。
夫たるもの、つねに自分が男であることを意識する。
そして夫たるもの、つねに自分の妻に、女を感じ、女を意識する。
日常のさりげない行動の中から、女性は、自分が「女」であることを意識する。

が、何よりも大切なことは、女性自身が、知性と理性を磨くこと。
この努力を怠ったとたん、女性は、あのオバチャンになる。
オバタリアンになる。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

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