最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

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蒙古襲来と30人の白装束の男たち(日本のセイント・ジョージ)

2013-04-08 11:26:19 | Weblog
260 日本の守護聖人・セイント・ジョージ(蒙古襲来と30人の人)
Saint George in Japan and 30 men in white clothes who saved Japan against Mongolian Attack in 14th century.

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http://youtu.be/mtuGIlqc8YI

○元寇(蒙古軍襲来)

 たまたま今、元寇についての記事を読んでいる。
後先を省略するので、わかりにくいかもしれない。
が、ウィキペディア百科事典の一節には、こうある。

『……元軍に戦を挑もうという武士が一人もいなくなった頃、(中略)……
多くが討ち取られて、菊池武房のみが討ちとられた死体の中から這い出して、討ち取った元兵の首を多数つけて帰陣した。
元軍は日本軍を破りに破り、佐原、筥崎、宇佐まで乱入したため、妻子や老人らが幾万人も元軍の捕虜となった。
日本軍は水城に篭って防戦しようと逃げ支度を始め、……奮戦したものの、結局、日本軍は博多・筥崎を放棄して水城へと敗走した。

 (要するに、日本軍はボロ負けしたということ。
おもしろいのは、この先。)

……日本軍が逃げ去った夕日過ぎ頃、八幡神の化身と思われる白装束30人ほどが、兵火によるものか、出火した筥崎宮より飛び出して、矢先を揃えて元軍に矢を射掛けた。
そして、恐れを慄(おのの)いた元軍は松原の陣を放棄し、海に逃げ出したところ、海から怪しき火が燃え巡り、その中から八幡神を顕現したと思われる兵船二艘が突如現われて、元軍に襲いかかり元軍を皆討ち取り、たまたま沖に逃れた者は大風に吹きつけられて敗走した』(ウィキペディア百科事典)と。

○元軍

 話の内容を整理してみよう。

(1)日本軍は、ボロ負けした。
(2)そのとき白装束の30人ほどが飛び出してきた。
(3)矢先をそろえ、元軍に矢を仕かけた。
(4)恐れおののいた元軍は、陣を放棄し、海に逃げた。
(5)海から怪しき火が燃え巡ってきた。
(6)その中から、兵船2艘が、突然現れた。
(7)元軍に襲いかかり、元軍を皆、討ち取った。
(8)沖に逃れた者も、大風に吹きつけられ、敗走した。

 元軍の数はわからない。
相当数、あったと思われる。
が、そこへ30人ほどが出てきて、一気に、元軍を打ち破る。
30人は、白装束だったという。

 「?」と思うような内容。
しかしフィクションでは、ここまで書けない。
当時の武将の名前が、実名で、(当然だが)、ズラリと出てくる。

○白装束

 1年前の私だったら、こんな話は信じなかっただろう。
とくに「白装束30人ほど」が、という部分。
たった30人で、暴れ狂う蒙古軍に、襲いかかった(?)。
それを見て、蒙古軍は、「恐れ慄いた」と。

 その蒙古軍。
大きく、2度に分けて、日本を襲う。
一度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)という。
二度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。
ともに「神風」が、大きく幸いした。

 が、この部分が何と言っても、おかしい。
一時は九州北部一帯が、蒙古軍の支配下に陥った。
幾万人という日本人が、捕虜となっている。
神風といっても、何も蒙古軍にばかりに、悪く影響したわけでもないだろう。
が、「神風」は吹いた。
「白装束30人ほど」の突撃隊もいた。
その結果、日本軍は、文永の役、公安の役、双方で勝利した。

 が、白装束の30人は、いったい、だれだったのか。
どこから来たのか。
この部分の記述は、これだけしかない(ウィキペディア百科事典)。

○筥崎宮(はこざきぐう)

 「筥崎宮」。
「はこざきぐう」と読む。
早速、ネットで調べてみる。
筥崎宮のホームページには、つぎのようにある。

『……鎌倉中期、蒙古襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。
後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・
文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました』と。

 ナルホド!
そういうことだったのか。

 住所は、「福岡市東区箱崎」となっている。
なおこの筥崎宮は、宇佐神宮、石清水神宮と並んで、日本の三大八幡宮となっている。

○三大八幡宮

 「三大」と聞いて、またまた緊張感が走る。
この数日、「三大稲荷神社」に取り組み、その謎を解いたばかり。
今度は、「三大八幡神宮」。

 で、早速調べてみた。
 
(1)箱崎宮(「箱崎」と記す)と、熱田神宮(名古屋市)を結ぶ直線下に、石清水神宮(京都市)がある。

 直線からの誤差は、200メートル。
(直線から、本殿の屋根までの距離が、200メートルということ。)
が、それ以上に驚いたのは、石清水神宮のある敷地の形。
「完全」と言ってよいほど、左右対称。
縦、990メートル、横、1730メートル。
よく見ると、山の畝(うね)の形まで、左右対称!

石清水神宮は、その中央点にある。

 またまたドキッ!
どうしてこういうことばかり、つづくのだろう。
さらに調べると、またまたドキッ!
百聞は一見にしかず。
つぎの写真を見てほしい。

a10

 石清水神宮の写真だが、やや右よりの縦線は、箱崎宮と熱田神宮をつないだもの。
横線は、90・00になるように、私が引いたもの。
これをみると、この石清水神宮の敷地は、まっすぐと熱田神宮、箱崎宮を指し示していることがわかる。

 偶然か?
それとも意図的か?

 が、今では、この程度では、ビデオ化はしない。
「偶然」と言われれば、それでおしまい。

○「なぜ?」

 そこでさらに調べてみる。
(仁徳陵)→(石清水八幡宮)→(伏見稲荷)→(比叡山、延暦寺)は、ほぼ一本の直線でつながっていることがわかった。
が、これでも弱い。
(石清水八幡宮)と(仁徳陵)の距離は、(仁徳陵)と(金剛峯寺)の距離は等しい。
が、これでも弱い。
さらに、(伊勢神宮)と(石清水八幡宮)の距離と、(伊勢神宮)と(金剛峯寺)の距離は等しい。
が、これでも今の私には、弱い。
つまりドキドキ感が弱い。
ビデオ化するには、早すぎる。
理由がある。

 こうした(一致)には、「なぜ」が必要。
なぜ一直線上にあるか、その理由が必要。
たとえば桜島とテオティワカンをつなぐと、比叡山、延暦寺は、その直線下にある。
仁徳陵と熱田神宮をつなぐと、その直線は、ナスカへとつづく(誤差は、4・5km)。
こういう話なら、わかる。
が、なぜ(箱崎宮)→(石清水八幡宮)→(熱田神宮)は、一直線に並ぶのか。
理由が、ない。
「偶然」と言われたら、それでおしまい。

 そこで(箱崎宮)-(熱田神宮)ラインを、両側に延長してみる。
が、一方はナスカ近く、もう一方は、プレア・ビヒア近くに行くものの、かなり離れている。
そこでさらに考える。
「なぜ?」と。

○異星人の性質

 今回、『謎の点と線』を調べていて、気がついた。
異星人にも、性質がある。
それに気がついた。

 たとえば(1)美しい幾何学的図形にこだわる異星人。
(2)数学的秩序にこだわる異星人。
(3)角度にこだわる異星人。
(4)一点集中型にこだわる異星人、など。

 それぞれに、こうした特性がある。
謎を解くときは、その特性に、まず気がつく。
「神」と呼ばれる人たちである。
頭がよい。
よい分だけ、謎解きにも時間がかかる。

 で、このあたりの地域(近畿地方)には、美しい幾何学的図形が、よく出てくる。
幾何学的模様を楽しんでいる。
数学が好きなのだろう。
上記(1)~(4)のうち、(4)の異星人ということになる。

 そこで試しに、(伊勢神宮・内宮)と(仁徳陵)をつないだ。
その延長線を調べた。
で、その結果、(伊勢神宮・内宮)と(仁徳陵)は、ルンビニ(釈迦の生誕地)とつながることがわかった。
が、これでも弱い。
理由が、ない。
仮に(伊勢神宮)からルンビニに行くとしたら、一度、敦煌へ向かい、そこから60度の角度で南下したほうが、わかりやすい。
つまりこうして謎は謎を呼び、謎の渦の中に入っていく。

○鉄則

 で、こういうときの鉄則。
『道に迷ったら、テオティワカンに戻れ』
が、相手は日本。
小さな島国。
少し高度をあげれば、上から一望できる。
道に迷うことはない。
あえて仰々しい道しるべを、造る必要もない。

 実際、日本の謎解きをしていると、息苦しさを覚えることがある。
あまりにも狭い。
スケールが小さい。
奈良盆地にしても、ひとまとめにして考えても、何ら、おかしくない。

 ……ということで、この謎は、ここまで。

○考古学

 それにしても日本の考古学は、小さい。
日本そのものが小さいのだから、しかたない。
しかしそれにしても、小さい。
少し前も、こう思った。
メキシコの、カラクウムルの遺跡を調べていたときのこと。
「ここにある石ころひとつでもよい。
それが日本で出てきたら、日本中は大騒ぎするだろうな」と。
現に、あの酒船石ひとつで、日本中は大騒ぎした。

 さらに言えば、邪馬台国論争。
地べたに這いつくばったような研究ばかり。
銅鏡をさがす。
数を競う。
重箱の隅をほじくり返すようなことばかりしている。
あまりにもスケールが小さい。

○白装束

 話を戻す。

 あの当時なら、異星人が直接乗り込んできて、日本人を助けたと聞いても、私は驚かない。
当時は、そういう時代だった。
時は鎌倉時代。
京都の東大寺前と、鎌倉では、蒙古撃退の大祈祷会が開かれている。
天皇が主宰。
それを見て、異星人が助けた?

 常識で考えてみよう。
数はわからないが、「幾万人」もの日本人を捕虜にした元軍。
同じように、兵力も、幾万人、いただろう。
1万人でもよい。
1000人でもよい。
そんな元軍を相手に、30人で戦う?

 ……その30人は、異星人だった……。
もしこの話が事実とするなら、異星人だった。
今の私は、そう考える。
つまり白装束というのは、言うなれば防弾チョッキ。
戦闘服。
使った武器は、レザー光線銃。
想像するだけでも、楽しい。


Hiroshi Hayashi+++++April.2013+++++はやし浩司・林浩司

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