最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●子育てポイント(5)

2009-07-23 07:12:11 | Weblog
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(553)

●織田信長論

 先日もテレビを見ていたら、こう言った知事(M県)がいた。「私は信長の生き方に共感を覚えます。今の日本に必要なのは、信長型の政治家です」と。

 信長のもとで、いかに多くの善良な庶民が苦しみ、犠牲になったことか。京都の川原では、毎日四〇~五〇人もの人が処刑されたという記録も残っている。少し冷静に歴史を見れば、彼がまともな人間でなかったことは、だれにだってわかるはずだ。

私たちはともすれば、あの時代を、信長の目でしか見ない。が、一度でもよいから、信長にクビを切られる庶民の立場で見てはどうだろうか。県知事という、権力のトップに立ったような人には、信長は理想かもしれないが、しかし私はゴメン。もし今、信長型の政治家が出てきたら、徹底的に私は戦う。

 日本以外の多くの国々では、外国の勢力によって、圧制に苦しんだという歴史がある。そういう国々で、そうした外国勢力をたたえるようなドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。あのオーストラリアでさえ、英国総督府時代のイギリスを美化するだけで、袋叩きにあう。

しかし信長やそれにつづく封建領主たちのした圧制は、植民地の統治者でもしなかったような圧政である。ウソだと思うなら、一度、新居町(静岡県浜名湖の西にある町)の関所跡へ行ってみることだ。当時は関所破りをしたというだけで、一族すべてが処刑された。そんな記録が残っている。

圧制は圧制でも、信長は日本人だったから許されるという論理は、それ自体、おかしい。もし仮に信長が、朝鮮の李朝の出身者だったら、今ごろはどう評価されていることやら。ほんの少しだけでもよいから、それを想像してみてほしい。それともあなたは、それでも信長をたたえるだろうか。もしそうなら、鎌倉時代に、日本を襲った、蒙古のチンギスハン(モンゴル帝国の創始者、元の太祖)をたたえたらよい。信長より、ずっとスケールが大きい。

 歴史は歴史だから、それなりの評価は大切である。しかしそれ以上に大切なことは、その歴史を冷静に評価することである。あのナポレオンは、「歴史はみなが合意のもとにつくった、作り話である」(ナポレオン「語録」)と書いている。ときには、そういう冷めた目も大切である。で、ないと、「歴史は繰り返す」(ツキュディデス「歴史」)ということになりかねない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(554)

●孤独(2)

 私は子どものころから、愛想のよい人間と言われてきた。しかしそれは仮面。本当の私は、人嫌いで、むずかしがり屋で、わがまま。自分勝手で、傲慢(ごうまん)。だから友だちの数は、少ない。本当に心を開いて、何でも話せる人というのは、ワイフくらいしかいない。あとは郷里にいる姉。そういう意味では、私は、実にさみしい人間。孤独な人間。

 そんな私だから、ときどき、こう考える。もしワイフや姉がいなくなったら、私はどうなるか、と。まず第一に、私は生きる力をなくすだろう。第二に、今のような精神状態を保つことはできなくなるだろう。第三に、……?

 私の知人のI氏(五一歳)は、妻を病気でなくしたあと、自(みずから)も精神病院へ入ってしまった。約六か月入院していたが、そのあと、別人のようになってしまった。私との関係は、ここで切れたが、それから数年たって消息を聞くと、I氏はそのあと、全国を旅して回ったという。I氏には暗くて、苦しい六か月だったに違いない。

これに似た話だが、昔、長谷川一夫という俳優がいた。日本人で彼の名前を知らない人はいなかった。そういう俳優だったが、妻が死んだあと、そのあと数か月で、自分も死んでしまった。毎日、毎晩、妻の仏壇の前で、彼女の死を悲しんでいたという。

 私たちはひとりでは生きられない。仮にあなたが巨億の富を手にして、あらゆる権力を手にしたとしても、ひとりだったら、孤独に打ち克つことはできない。たいした富もない、権力もない私がこう結論づけるのは、危険なことだが、こんなことは常識。少し頭を働かせば、だれにだってわかる。

 そこで改めて、生きる意味を考える。私たちは、どうして生きているか、と。あるいはどうすれば、生きることにまつわる孤独から、自分を解放することができるか、と。あるいはそもそも生きる意味など、考える必要はないのか、と。「あるがままを生きて、死ぬときは、さっさと死ぬ。それでいい」と言う人もいる。「そのときはそのときだから、ジタバタしても、しかたないではないか」と。

実のところ、私もできれば、そうしたいと思っている。今は、今なりに、結構、ハッピーなのだから、それでよいではないか、と。しかしこういう生き方は、あとでドンとツケが回ってくるのではないかと、それがこわい。

 こうした恐怖感から逃れるために、ひとつの方法としては、宗教がある。神や仏に身を寄せてしまえば、それはそれなりに楽になれる。実際には、同じ信仰をする仲間どうしが、たがいに慰めあい、いたわりあうことで、楽になれる。しかし今の私には、それもできない。いや、とても残念なことだが、いまだかって、そういう宗教にめぐりあっていない。

 ああ、私は神や仏にすら、見放された人間なのか。ああ、私はそこまで孤独な人間なのか。私はこの孤独から、いったいどうすれば逃れることができるのか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(555) 

●自己分析

 わかっているようで、わからないのが、自分。自分を知ることはむずかしい。「私は私」と思っている人でも、本当のところは、わかっていない。私のばあい、仕事がらいつも子どもを見ているので、子どもを通して、自分を知ることができる。その私のこと。

(帰宅拒否)私は子どものころ、いつも真っ暗になるまで、寺の境内や道路で遊んでいた。あるいは学校から帰ってくるときも、まっすぐ家に帰ったことは、一度もなかった。そういう思い出から、私は帰宅拒否児だったと判断できる。

(かんしゃく発作)私は泣いたあと、よくしゃっくりをしていた。かなりはげしく泣かないと、そのあとしゃっくりが出るということはない。私は興奮性の強い子どもだったようだ。そういうことから、私は家庭教育の失敗による、かんしゃく発作の持ち主だったことがわかる。

(ひねくれ症状)私は中学生のころ、気がある女の子の前へくると、わざと無視したり、意地悪をした記憶がある。小学五年生のときには、一人の女の子のノートに落書きをして、泣かせてしまったことがある。そういう思い出から、私はものの考え方が、かなりひねくれていたことがわかる。

(分離不安)今でも、ときどき夜になると、言いようのない不安感に襲われることがある。ひとり取り残されたかのような不安感だ。人づきあいは、あまりよくない割には、ひとりでいるのが苦手。子どものころ、母親のあとをいつもついて回っていたのを覚えている。そういうことから、私は分離不安だったようだ。

(情緒不安定)私は寝るとき、貝殻でつくったボタンを指でいじるクセがあった。小学三、四年生までそれがつづいた。そのボタンをいじっていると、気持ちよかった。これは固執型の情緒不安定児によく見られる症状である。そういう症状から、私は情緒が不安定な子どもだったようだ。

(愛情飢餓)小学三年生ぐらいのときだった。人形がほしくてほしくてたまらなかったときがある。しかし「男が人形で遊ぶなんて」と言われそうで、なかなかそれを言えなかった。で、伯母に内緒で作ってもらい、その人形を毎晩、抱いて寝た。一方、よく「浩司は愛想がいい」と言われた。相手に合わせて、シッポを振る(相手に取り入る)のがうまかった。そういう思い出から、私はかなり愛情に飢えていたと判断できる。

 いろいろ問題がある私だが、考えてみれば、それも当然。父親は数晩おきに酒を飲んで暴れた。私にはそれが恐怖だった。母親は母親で、虚栄心のかたまりのような女性で、見栄やメンツばかりを気にしていた。戦後の混乱期のことで、親たちも生きていくだけで精一杯。戦争の後遺症を多かれ少なかれ、どの人も引きずっていた。私はそういう時代に生まれ、そしてここに書いたような子どもになった。

 あなたも私がここに書いたことを参考にして、自分の過去をさぐってみてはどうだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(556)

●自己分析(2)

 自分を知るためには、まず(1)過去の思い出を静かにさぐってみる。子どものとき、あなたは自分がどういう行動をしたかなど。あるいは相手の人が、どのように反応したかでもよい。先生があなたのことで何かを言ったことでもよい。あるいはあなたの父親や母親の口グセでもよい。

つぎに(2)そういったことを手がかりに、自分の分析を始める。そのときある程度の知識が必要となる。恐怖症、神経症、情緒不安など。

そしてある程度、自分の症状が類型化できたら、(3)なぜそうなったかを、考えてみる。そのときとくに大切なのか、あなたが生まれ育った、家庭環境である。父母はどういう状態だったか。家庭はどういう状態だったか。あなたと父母の関係はどうだったか。父母に対して、どのような感情をもっていたか、など。

 こうした自己分析をする理由は、二つある。ひとつは、「今の自分」を、よりよく知るため。今、あなたは「私は私」と思っているかもしれないが、実のところ、「過去につくられた部分」のほうが大きい。しかし問題は、そういう過去があることではなく、そういう過去があることに気づかないまま、その過去に振りまわされること。そして同じ失敗を繰り返すこと。いじけやすい、ものの考え方がひねくれている、つっぱっている、ひがみやすい、など。しかしもしあなたが自分の過去に気づけば、こうした問題は、そのあと多少の時間はかかるかもしれないが、それで解決する。

 もうひとつの理由は、子育ては、親から子どもへと、伝播(でんぱ)しやすい。「世代連鎖」と呼ぶ人もいる。その連鎖が、よいものでればよいが、そうでないものもある。たとえば子どもを愛せない、子どもに暴力を振るなど。もしそうであれば、そういう連鎖は、できるだけあなたの代で、断ち切る。そのためにも、なぜ今、あなたが子どもを愛せないか、なぜ今、あなたが子どもに暴力を振るうかを知る。この問題も、あなたが自分の過去に気づけば、そのあと多少の時間はかかるかもしれないが、それで解決する。

 自分を知ることは、おもしろいことでもあるが、同時にこわいことでもある。しかしさらに自分を知ると、人間自身がもつおもしろさに、あなたも気がつくはず。ついで子育ての深遠さに気づき、子育てがどうあるべきかに気づくはず。ぜひあなたも、自分さがしをしてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(557)

●子育て論

 このところ、ほぼ二日おきにマガジンを発行している。うるさく思っている人も多いかと思う。もしそうなら、適当に読んでくださるか、フィルタリング※して、ヒマなときにでも読んでくだされば、うれしい。

 さあて、本論。こうして毎日子育て論を書いていると、ネタが切れるときがある。頭の中がカラッポになる。で、パソコンに向かっても、何も頭に浮かんでこない。そこで「これでマガジンもしばらく休みだな」と思ったりする。しかし、不思議なものだ。町の中へ行き、そこで教室で子どもたちの顔を見たとたん、頭の中にムラムラと、書きたいことがわいてくる。これは不思議な現象だ。

 このことから、私はひとつの教訓を学んだ。子育て論は、現場を離れては書けないということ。また現場を離れた子育て論は、意味がないということ。たとえば昔、Tという日本でも有名な教育家がいた。私も何冊か彼の本を読んだことがあるが、現役時代の彼の本は、たしかにおもしろかった。しかし現役を離れ、引退し、さらに有名人になってからの彼の本は、違った。どれも美辞麗句ばかりで、読むに耐えないものばかりだった。

 言いかえると、私が一番恐れているのは、この点である。もし私の周囲から子どもたちの声が聞こえなくなったら、多分、私はもう子育て論は書けないだろうと思う。だからときどき私はワイフにこう言う。「死ぬまでぼくは、教える仕事をやめることができない。教えるのをやめたら、そのとき、はやし浩司も終わる」と。……実のところ、毎年、どこか鋭さが消えていくように感ずる。気力も、集中力も弱くなったように感ずる。何か目標をもたなければと思っているが、その目標すらかすんできた。ときどき「時間との勝負」と思うことが多くなった。

 今も、「うるさいマガジンと思われているだろうな」と考えつつ、つぎのマガジンを考えている。

※……フィルタリングというのは、受信したメールを自動的により分けて、別のフォルダーに格納することをいう。方法は、(ツール)→(メッセージルール)→(メール)→(メールルール)から、「件名に指定した言葉が含まれるばあい」にチェックを入れる→「指定したフォルダに移動する」にチェックを入れる→「指定した言葉が含まれる」をクリックして、そこに「はやし浩司」と入れる、「指定したフォルダ」のところから、移動先のフォルダを決める。これで私からのうるさいマガジンは、すべて別フォルダに格納される。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(558)

●自分であって自分でない部分
 
 子育てには、「自分であって自分である部分」と、「自分であって自分でない部分」がある。問題は、「自分であって自分でない部分」。それがわからないと、自分で失敗しながら、その失敗に気づかないまま、その失敗を繰り返すことになる。

子育てはそういう意味で、「頭で考えてする部分」と、「条件反射的に、何も考えないでする部分」がある。その「何も考えないでする部分」が、よい部分であればよし。しかしたいていは悪い部分。その悪い部分が、あなたを裏からあやつる。それがこわい。

子育てで失敗する人というのは、その悪い部分に操(あやつ)られている人とみてよい。よい例が、子どもへの暴力、暴行、虐待。子どもに暴力、暴行、虐待を繰り返す人は、自分自身もそれらを親から受けた人が多い。これを「世代伝播(でんぱ)」という。それを防ぐためにも、自分の過去を冷静に見る。それは勇気がいることだが、しかし「何も考えないでする部分」がわからないままだと、この問題は解決しない。

 一方、子育てで失敗する人というのは、たいていパターンが決まっている。「子どものことは私が一番よく知っている」とか、「私は私。私の子育てが一番正しい」と言う。それだけ自己中心的ということになる。つまり自己中心的であればあるほど、人は自分を見失う。子どもの姿を見失う。そして結果として失敗する。いろいろな例がある。

 その母親には二人の息子がいた。異常とも思えるような家庭学習を強制し、結果、兄のほうは高校へ入学したとたん、バーントアウト。そしてそのまま引きこもり。ふつうなら親も、ここで自分の失敗に気づくものだが、しかしその母親は違っていた。弟にはさらにきびしい学習を強制した。

兄のときは、「勉強しなさい!」「うるさい!」の親子げんかが毎晩のようにつづいたが、弟のときは、そのけんかもなかった。そのため弟は、中学二年のときに心の病気になり、そのまま入院。が、この段階になっても、母親は自分のした行為に気づかなかった。「子どもがそうなのは、生まれつき。私はそれをなおそうとしただけ」と言い張った。

 今は、その兄弟は、父親の実家に預けられ、そこから兄は高校へ通っている。弟は、リハビリに通っている。こうした例は、あなたのまわりにも、ひとつやふたつは、あるはず。が、それとて、結局は、つまり母親がそうなのは、母親自身が「自分であって自分でない部分」を、無意識のまま引きずっているだけ。そういう意味では、本当の被害者は、母親自身ということになる。

 どうか、どうか、みなさんも、気をつけてほしい。あなたにとって一番大切なのは、子どもの明るい笑顔。それこそが、家族の基本であることを、どうか忘れないでほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(559)

●子どもの心をつかむために

 あなたは子どもの世界(小学生)を、どれほど知っているだろうか。つぎの言葉の中で、意味を説明できるのが、いくつあるか、答えてみてほしい。

●アブトロニック
●ムッチョ
●ホグワーツのグリフィンドール
●マッチョ(流行語)
●ブルーアイズ、アルティミッドドラゴン
●かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
●SAKURAドロップ
●桃色の片思い

 八問のうち、五~六問までわかれば、あなたはすばらしい親と考えてよい。子どもの心をしっかりと、つかんでいる。

 正解は、つぎ。

○アブトロニック……10分で腹筋を600回、振動する美用具、19800円
○ムッチョ……筋肉モリモリ、「ムキムキマッチョ」……筋肉モリモリの人。
○ハリーポッターの通う全寮制の学校と、宿舎名
○マッチョ……筋肉モリモリ(ムッチョの最近の言葉)
○遊戯王の裏ワザ……ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨する。
○モーニング娘の、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
○宇多田ひかるの「SAKURAドロップ」
○松浦あやの「桃色の片思い」

 あなたも一度、子どもの前で、こう言ってみたらどうだろう。「あのね、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨するんだってね。あなた知っている?」と。

あなたの子どもは目を白黒させて、あなたを尊敬するようになるだろう。一度、試してみてほしい。女子だったら、「私、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっちの中で、やっぱりかごちゃんが一番、すてきだと思うわ」と。コツは、さりげなく、サラリと子どもの前で言うこと。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(560)

●はじめの一歩

 子どもの方向性は、「はじめの一歩」で決まる。……と言いきるのは、少し問題があるが、しかしほぼまちがいがない。たとえば私の二男は大のサシミ嫌い。恐らく幼児のころ、魚のサシミを食べていやな思いをしたためだろう。生臭いサシミを食べたとかなど。そしてそういう経験が、つぎつぎと重なって、ますますサシミ嫌いになっていった……?

 食べ物だけではない。「勉強」もそうだ。何らかの理由で、子どもは一度勉強嫌いになると、それ以後、好きになるということは、まず、ない。あるいは同じ勉強をさせようとしても、そうでない子どもの何倍もの努力が必要となる。

たとえば今、年中児(満五歳児)で、「名前をひらがなで書いてごらん」と指示すると、体をこわばらせる子どもは、一〇人のうち、一~二人は必ず、いる。中には涙ぐんでしまう子どももいる。文字に対して、何らかの恐怖心をもっているためと考えてよい。そういう子どもが、その先、たとえば小学校などで、国語が好きになるということは、まず、ない。(絶望的とは言わないが、好きになるのは、たいへんむずかしい。)

 そういうわけで、子どもに経験させることは、何でも、はじめの一歩を大切にする。このはじめの一歩がうまくいけば、あとが楽。子どもは自分で伸びる。コツは、無理をしないこと。子どものリズムに合わせて、慎重に進める。が、これがむずかしい。先日もある母親が、こう言って相談にきた。

 「うちの子(小一男子)は、『39は30と□』という問題ができない。みんなはできるのに、どうしてできないか」と。そしてたまたまそばにいた息子に向かって、「どうしてこんな簡単な問題ができないの!」と。勉強が、子どもを責める道具になっている! しかし一度、この悪循環におちいると、あとは底なしの悪循環。(親が叱る)→(子どもはますます勉強嫌いになる)→(ますます叱る)の悪循環で、ドロ沼に落ちる。

 この子どものケースでは、私はその母親にこう聞いた。「あなたは自分の子どもが、どうであれば、満足するのですか?」と。すると母親は、こう言った。「こんな簡単なことができないでは、困る」と。そこでさらに、「どうして、だれが困るのですか?」と聞くと、「勉強ができないと、子どもが困る」と。

で、また私が、「子どもが困っているのですか?」と聞くと、「今に、困るようになるはずだ」と。しかし実際には、その困る原因を、母親自身がつくっている! はじめの一歩のところで、子どものやる気そのものをつぶしてしまっている。母親は、それに気づいていない!

 幼児期は、子どもの方向性をつくるための、大切な時期。ものごとは、すべて慎重にすること。この世界では、こう言う。「はじめよければ、すべてよし」と。肝(きも)に銘じてほしい。

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