最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

●いじめ

2010-03-08 09:42:56 | Weblog
****************************************

【息子に対するいじめ】

【OMさんより、はやし浩司へ】

++++++++++++++++++++

小学6年生の男児に対する、いじめについて
相談が届いています。
もうすぐ卒業式。
何とか笑って卒業できれば・・・と、
母親のOMさんは悩んでいます。

++++++++++++++++++++

はやし浩司さまへ

内容が具体的なので、くれぐれも住所・年齢・家族構成がわからないようにお願いします。

以前、娘のことで何度か相談しお世話になりましたN県N市の、OMです。
今回は、もうすぐ中学生になる息子のことで相談したく、パソコンを開きました。

これまで娘のこと(学校でおとなしい。自分が出せない・・・)で悩むことが多く、息子
に関しては、仲良しの友達もいて、先生からも誰とでも仲良くすると聞いていたので、全
く心配していませんでした。

最近、娘のほうは落ち着いてきて、相変わらずおとなしいけれど、自分なりに楽しく家で
も明るく学校の話をするようになり、ホッとしていました。
その矢先、今度は、息子が・・・

ある日、突然、
仲良しグループから仲間外れにあっていると、言い出したのです。

原因は何度考えてもわからない。
いつものように、休み時間に友達のところへ行くと、まるで息子が居ないかのように仲良
く話しをしたり、昼休みも息子を無視して外へ遊びに行ったり・・・。

掃除の時間は仲良しグループの子と一緒なのですが、息子と二人のときは普通に話すけれ
ど、終わると、また無視して、他ところへ行くそうです。

息子は初めのうちは何事もなかったように話しかけたりしていましたが、反応があまりに
も嫌われていると、わかるので今では自分からは話しかけていません。
たまにそのグループの子から「バイバイ」程度のことは言ってくれるようですが・・・。

最近、息子は1人が少し慣れたのか、休み時間は、1人で本を読んだりして過ごしていま
す。
登校を嫌がることは、今のところありません。

今のところ親友がいるので、心強いのですが、その親友の子にも共通の友達がいるので
いつか、親友にも無視されるのではないかと、息子は心配しています。

このまま、原因もわからず、仲間外れにされたままで、息子は大丈夫でしょうか?
グループの子になんで無視するの?、っと聞くと、余計にややこしくなったりするから聞
きたくない。どうせ、嫌われているならもう関わりたくないと、言っています。

もうすぐ卒業式。
笑って卒業できないことがくやしいです。

なんとか仲良くもとに戻ってほしいのですが・・・

息子は、少し人の気持ちを考えずに思ったことを話すところがあり、友達には「もし、悪
いところがあったら直したいから言ってよ」などと、仲良し子に対しては何でも話します。
でも、ちょっと苦手な子がくると、仲良しの子がいても、みんなで楽しく遊んだりできな
いタイプだと思います。

4月から中学になります。
違う地区からも、生徒がきます。
そこで新しく友達ができるといいのですが。

まとまりのない文章になってしまいましたが、今、息子に対して、家族としてあげること
はあるでしょうか?

【はやし浩司よりOMさんへ】

●加害意識と被害意識 

 加害意識と被害意識。
いじめを考えるときは、まずこの2つに着目しなければなりません。
むずかしい問題ですね。
「害を与えた者は、害を受けた者の心の痛みが理解できず、いつも害を過小評価する」。
あるいは「害を与えた者は、害を受けた者がそれをいつまでも覚えていることに気づかず、
すぐそれを忘れてしまう」。
わかりやすく言えば、いじめる側には、それだけの加害意識がないということ。
この意識のズレが、害を受けた人の心の傷を、さらに大きくします。
子どもの世界では、とくにそうです。

 私もよく(いじめの現場)を、直接見ることがあります。
しかしそういうとき、どこまでが(遊び)で、どこから(いじめ)なのか、よくわからな
いというのが、実情です。
私の目の前で、堂々と、それをしますから・・・。
しかもそのときは、双方が、むしろ笑いあいながら、それをしている・・・。

あとになって、親のほうから、「いじめられた」という報告をもらってはじめて、「ああ、
あのときがそうだったのか」と知ったりします。

 しかし(いじめる側)にとっては、(遊び)でも、(いじめられる側)にとっては、(遊び)
ではない。
そのつど(いじめられる側)は、大きく傷つきます。

●いじめ

 OMさんの息子さんが、そうだというのではありません。
しかし(いじめる側)と、(いじめられる側)は、いつも一方通行というわけでもありませ
ん。
べつの場面では、(いじめる側)が、いじめられ、一方、(いじめられる側)が、(いじめの
側)に回ったりします。
あるいはいじめられる前に、いじめのグループに入り、(いじめの側)に回ったりします。
子どもにとっての「仲間」というのは、そういうもので、仲間を作ることによって、自分
にとって居心地のよい世界を作ろうとします。
その仲間意識を維持するために、意味のない(いじめ)を繰り返すこともあります。
この時代の子どもたちを総称して、「ギャング・エイジ」と呼ぶのも、そういう理由からで
す。

 わかりやすく言えば、「善や道徳の通ずる世界」では、ないということです。
たとえば(いじめる側)は、その意識もないまま、面白半分で、それをしたりします。

つまり私たちおとなが考えるより、(いじめの問題)は、はるかに複雑ということです。
しかもどこか動物的。
もちろんだからといって、いじめを肯定しているのではありません。
どうか、誤解しないでください。

●では、どうするか?

 (いじめの問題)は、常に(いじめられる側)の立場で、(いじめられる子どもの心)の
救済だけを考えて対処する。
これは大原則です。
(いじめる側)が、いくら「いじめていない」と言い張っても、(いじめられた側)が、そ
れだけつらい思いをしているなら、(いじめ)があるという前提で対処します。
またそういう前提で、子どものいじめを考え、(いじめられる側)の救済にかかります。
もし(いじめる側)に、加害意識がないなら、それをわからせるまで、徹底的に指導しま
す。
これも大原則です。

 しかし実際には、指導の仕方をまちがえると、かえっていじめを陰湿化させてしまうこ
とにもなりかねません。
水面下にもぐらせてしまうこともあります。
嫉妬やひがみがからむと、さらにそうなります。
そこでもうひとつの大原則があります。

 大切なことは、子どもが楽しく通学すること。
そのためには、折れるところは折れ、妥協するところは、妥協する。
この世界には、『負けるが勝ち』という格言もあります。
ほかの世界とはちがって、子どもの世界は、不合理のかたまり。
先にも書いたように、もともと道理が通ずるような世界ではありません。

 ですから、結局は、つぎのような結論になってしまいます。

(1) その範囲のいじめなら、親としてつらいところかもしれませんが、子どもを慰め、
励ましながら、様子をみる。
(2) その範囲を超えたら、一に、担任の先生に相談です。仲のよい友だちがいたら、そ
の友だちの親に相談するのも大切なことです。
(3) さらにその範囲を超えたら、転校も視野に入れて、学校の先生に相談、です。

 ここでいう「その範囲」というのは、あくまでもその子どもの(心の状態)をみて、と
いう意味です。
いじめられることにタフな子どももいれば、そうでない子どももいるということです。

●列を作らない子どもたち

 話は変わりますが、今、この原稿を、沼津市のホテルの一室で書いています。
今朝は、市の医師会のほうで講演をすることになっています。
夕方、沼津市に着きましたが、駅での光景を見て、驚きました。

 一度新幹線で、JR三島まで来て、そこでローカル線に乗り換えて、沼津市へやってき
ました。
三島駅でのこと。
中学生や高校生たちで、ごったがえしていました。
が、驚いたことに、学生たちはそのあたりに、三々五々に集まっているといった雰囲気で、
列を作らないのです。

 私とワイフは、プラットフォームに書かれた数字を見ながら、そこへ並ぼうとするので
すが、どう並んだらよいか、かなり迷いました。
先回りして、割り込むこともできない。
かといって、どこが最後尾かもわからない・・・。

 「最近の若い人たちは、列を作らない」と、そんなことを知りました。
理由はいろいろ考えられます。

その第一、「急いで家に帰ろう」という意識が、希薄?
その第二、ルールを守らない。
その第三、立ち話を楽しんでいる。
その第四、早く乗って、座席に座ろうという意思がない(?)。

 どうであるにせよ、それでいて電車が到着し、ドアがあくと、ゾロゾロと車内へ入って
くる・・・。
ゾロゾロ、とです。
ダラダラ・・・かな?
もともと座席に座ろうという意識もないようで、席があいていても、そのまま立ち話を繰
り返しています。

 私たちの世代とはもちろん違いますが、おそらくOMさんたちの時代とも、違うのでは
ないでしょうか。
日本人が古来よりもっていた、(まじめさ)が、一本、抜けてしまったような印象をもちま
した。
つまり今、子どもたちが質的に変化しつつあります。
子どもたちというより、日本人が、です。

●暖かい無視

 さてOMさんの息子さんの件ですが、まだ(その範囲)にいて、(その範囲)でがんばっ
ているように感じます。
不登校ということでもないようですし、「関わりたくない」とがんばっています。
つまり(その範囲)で、息子さん自身が、懸命に処理しようとしているのが、文面からも
わかります。

 こういうときは、子どもの様子を見ながら、つまり暖かく見守りながら、「家庭は、そう
いう子どもの心を癒す場所」と考えて、無視するしかありません。
これを「暖かい無視」(野生動物愛護協会の言葉)といいます。
残念ながら、いじめのない世界はないし、いじめから逃げても、またつぎのいじめが、そ
こで待っています。
一方、子どもは、そういう世界を切り抜けることによって、たくましく成長していきます。
OMさんには、つらいことかもしれませんが、親のできることにも限界があるということ
です。
息子さんは、小学6年生ということですから、すでに思春期に入っています。
息子さんのほうは、とっくの昔に親離れしています。
そういうことも考えると、今、OMさんができることは、かなり限られてくると思います。

 そこで大切なことは、
(1) ここにも書いたように、家庭を(心を癒す場所)と考えて、思いっきり、ゆるめる。
(2) よき聞き役に回り、子どもの心を解放させる、です。

 生活態度がだらしなくなっても、「ああ、うちの子は、こうして心を休めているのだ」と
思い、それを許します。

 もちろん心の変化には、じゅうぶん、注意します。
とくに(その範囲)を超えそうなときには、注意します。

●シカト(無視)

 私も高校3年生のとき、今で言うシカトで、いやな思いをしました。
あるグループが、徒党を組んで、私を無視しました。
しかし私は、そんなヤワな人間ではありませんでした。
あるとき、その中の1人がもっていた、ギターをぶったたいて、壊してやりました。
相手は相手で、私をいじめていたという意識があったのかもしれません。
何も抵抗しなかったのを、覚えています。

 で、それから20年近くたったときのこと。
同窓会に出てみました。
で、そのグループが、当時のことを覚えているかなと、それなりに会話を交わしてみまし
た。
が、だれにもその意識がないことを知りました。
つまりまったく平気な顔をしていました。

 (いじめられた側)の私は、よく覚えていました。
今でも、よく覚えています。
しかし(いじめた側)は、何も覚えていない(?)。
それを知って、むしろ私のほうが、驚いたくらいです。

 言い換えると、私自身も、どこかで(いじめる側)で、だれかをいじめていたのかもし
れません。
気がついていないのは、私だけ、とです。

 だからメールでの様子からすると、息子さんをいじめているグループには、そういう意
識も希薄なまま、いじめているといった感じがします。
私があなたの息子さんなら、そういった連中は相手にしないで、マイペースで進むことだ
けを考えるかもしれません。

 その点、同じいじめでも、(もの隠し)や、(暴力)、(恐喝)とは、質がちがいます。
今は、様子を見られたほうがよいかもしれません。
「笑って卒業できない」、悔しさはよくわかりますが、別の見方をすれば、よい「転機」に
もなるのではないでしょうか。

 相手はただの子ども。
小学6年生。
そんな子どもを相手に、「悔しい」と思ってはいけません。
あなた自身の精神のレベルを下げてしまいます。

●小沢一郎の不起訴処分

 悔しいといえば、今の民主党。
反自民というよりは、反麻生の票が、どっと民主党へ流れ込んだ。
結果は、民主党のひとり勝ち。

 その結果が今。
結局、「秘書が勝手にやったことです」と言って、小沢一郎は、逃げてしまった。
検察側は、証拠不十分ということで、一連の小沢疑獄事件にはメスを入れないまま、不起
訴処分にしてしまった。

 悔しいといえば、悔しいですね。
最初から現場には、自分が出ないで、秘書たちを出させていた。
おそらくあとあとのことを考えて、そうしていたのでしょう。
つまり汚れ役は秘書たちにやらせて、自分は、奥から指示だけを出していた。
そして事件が発覚すると、「私は知りません」「秘書が勝手にやったことです」と。

 こういう事件が明るみになるたびに、政治家たちは、ますます巧妙になっていく。
やり方がズル賢くなっていく。

そこで「連座制」というのが生まれたわけですが、しかしこれは刑事訴訟法には、規定さ
れていない。
あくまでも政治家のモラルの問題というわけです。

 つまり私が言いたいのは、「上」がこのザマだから、どうしてその「下」がよくなるかと
いうことです。
いわんや、子どもの世界をや!

●OMさんへ

 話が脱線しましたが、あなたもそろそろ子離れを始めるときです。
「子離れ」というのには、2つの意味があります。

 ひとつは、あなた自身が、子どものことを忘れて、自分の人生を生きるという意味。
もうひとつは、あなたの子どもがじょうずに親離れできるように、子どもを仕向けるとい
う意味。

 さらに言えば、あなたがもっている(幻想)を、早く捨てること。
「私たちはすばらしい親子である」とか、「私は人一倍、愛情の深い親である」とかいう幻
想です。
こうした幻想は、かえって子どもの足かせになるだけで、子どもの自立ということを考え
るなら、好ましいことではありません。
子どもも、いつかそれを負担に思うようになるでしょう。

 私もこの年齢になってはじめて気がついたことがあります。

 やっと子育てが終わって、ほっとしたとき、そこでドカッと待っていたのは、老後だっ
たということ。
老後の資金といっても、息子たちの学費で、使い果たしてしまっていますから、ほとんど
残っていません。
学費だけでは、ありません。
頼まれもしないのに、100万円単位のお金を、そのつど供出してきました。
が、息子たちには、感謝の「か」の字もない。
ないというより、その余裕がない(?)。
自分たちの生活を支えるだけで、精一杯。
というより、目一杯の生活をするから、余裕など、生まれるはずもない。
そんな感じです。

何というバカ親だったのかと、私もこの年齢になってやっと、思い知らされたというわけ
です。
いえ、息子たちを責めているのではありません。
「年老いた親を、どんなことをしてでも養う」と答えた若者は、28%しかいません(総
理府、2009年調査)。

イギリス人でさえ66%、アメリカ人でさえ、64%!
東南アジアの若者たちにいたっては、80~90%ですから、いかにこの数字が低いもの
か、わかっていただけると思います。

ここに書いた、「自分の人生を生きること」という言葉には、そういう意味も含まれていま
す。
ついでですが、どうか、参考にしてください。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。