最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

●マガジン(2月23日号)(2)

2009-02-23 10:17:01 | Weblog


●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなること
がある。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、
あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命
令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に
包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事
典・石田瑞麿氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱり
わからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要す
るに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行け
る」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当た
り前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つま
りそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問
題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。
私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。そ
の教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、
無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N
宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。ある
いはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようにな
った。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちが
っている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやるこ
とこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤ
ロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「こ
の子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではな
い私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や
仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題の
ある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の
目を通して見ると、そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなか
ったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりする
と、意外とよく理解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」
と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放
す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの
願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力するこ
とをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全
体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめ
てしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考える
のは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーでは
なく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、
今でもはっきりと覚えている。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●子どもの宗教を考える法(宗教の話は慎重にせよ!)

教師が宗教を語るとき

●宗教論はタブー 

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子
ども(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが
当たったからだ」と。そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこ
のところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てこ
とを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱
心な信者だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人
には、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこ
で「真理というのは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほし
いと思っているところです」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。
が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」の
ことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、
それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひ
もに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。
叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある
宗教教団の熱心な信者だった。

●宗教と人間のドラマ

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うこ
とは許されない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求
める信者がいるから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一
つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のド
ラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国
の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、
それだけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰
している。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

●「さあ、ぼくにはわからない」

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私は
そういうとき「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あ
るいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」
と逃げる。霊魂や幽霊についても、そうだ。ただ念のため申し添えるなら、私自身は、ま
ったくの無神論者。「無神論」という言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、家
相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐ
いは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」
ということで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だっ
たということも、あとから母に言われて、はじめて知った。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
宗教論 宗教とは 親鸞 回向論 悪人をや)

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。