最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

●冠婚葬祭

2008-05-22 10:22:09 | Weblog
●「私は私」(Me is Me.)

+++++++++++++++++

この日本では、「私は私」という生き方が、
たいへんしにくい。
社会の構造そのものが、そうなっている。
よい例が、日本の学歴社会。

学校しか道がなく、学校を離れて道はない。

中には、「学歴なんて、関係ない」と
思っている人もいるかもしれない。
しかしこんな事実も、ある。

10年ほど前、大学の同窓会に出た。
そこでのこと。
年齢的には、みな、50~52歳ということになる。

民間企業に入社した仲間は、例外なく全員、
リストラされ、出向、あるいは転職をしていた。
(それでもまだ、恵まれたほうだが……。)

一方、役人になった仲間は、例外なく全員、
60歳まで、その役所に勤めた。
最近では、65歳まで雇用期間が延ばされ、
「あと5年ある」と言っている仲間もいる。
(現在、私は、満60歳。もうすぐ61歳になる。)

だからといって、民間企業に勤めた仲間が損をしたとか、
役人になった仲間が得をしたとか、そんなことを
言っているのではない。

この(歴然とした差)こそが、学歴社会を
象徴しているということ。
その(差)は、60歳になってみると、よくわかる。

つまり日本の社会というのは、(組織)で成り立っている。
「私は私」などと思って生きていると、そのまま
社会の構造そのものから、はじき飛ばされてしまう。

今でこそ、多少、社会の構造もゆるんできたが、
私が若いころは、そうではなかった。

ざっとみても、当時、私のような生き方をしている
人たちが、周辺に10人ほどいた。

しかしそれから10~15年。私のような生き方を
貫くことができたのは、私、1人しかいない。

残りの9人は、そのあと、どうかなってしまった。
30歳の若さで、この世を去った人もいる。
多額の借金をつくって、夜逃げした人もいる。
あるいはサラリーマンに逆戻りした人もいる。

この日本では、「私は私」という生き方そのものを、
許さない。
そんな雰囲気さえある。

卑近な例では、冠婚葬祭がある。
とくに葬儀。

葬儀そのものが、迷信のかたまりのようになっている。
しかし「迷信」という言葉を口にしただけで、
親類、縁者から、袋だたきにされる。

先日も私がある人(女性、60歳くらい)に、こう言ったときのこと。

「日本の盆供養にしても、釈迦は、それについては一言も言っていない」と。

日本の盆供養、つまり盂蘭盆会(うらぼんえ)は、アフガニスタンの
「ウラバン」に由来する。
それにそれまであった中国の「中元」という習慣が、重なった。
つまり日本でいう「盆供養」、盂蘭盆会は、仏教が日本へ伝来する
過程で、こうして生まれた。

釈迦が知るはずもないことである。

それについてその女性は、猛反発。
「あんたは先祖を無視するのか」
「先祖あっての、あなたではないか」
「バチがあたって、あなたは地獄へ落ちる」と。

さらに「葬儀は、質素でいい」などと言おうものなら、さあ、たいへん!
しかし実際には、親の葬儀にしても、それまでの介護費用など、
財産の多くを食いつぶしてしまっている家庭も多い。
「葬儀費用はできるだけ抑えたい」と考えても、おかしくない。

東京在住のS氏は、以前、こう話してくれた。

「親をあの世へ送るのが、こんなに難儀なことだとは、
思ってもいませんでした」と。

兄弟、姉妹、親類、縁者との、壮絶なまでの確執があったらしい。
「結局、残ったのは、多額の借金だけです」とも。

一方、こんな動きも見られるようになった。

結婚式についても、6~7万円でできるようになった。
本当に祝ってくれる人たちだけが集まって、式をする。
そんなサービスを提供してくれる式場が、現在、全国にふえている。

また葬儀についても、「直葬」といって、亡くなった
病院や施設から、直接火葬場で、遺骨にしてもらうケースも
ふえている。

首都圏だけでも、約30%の家族が、そういう方式を
選んでいるという(中日新聞)。

こと冠婚葬祭について言えば、見栄を張って、派手に
やればよいというものでもない。
またそういうバカげた風習は、私たちの世代だけでたくさん。

大切なのは、中身。
今。
そして生きている、私たち。

話が脱線したが、「自由とは何か?」と問われれば、
こうした社会的呪縛感からの解放をいう。
「この日本では、私は私という生き方はむずかしい」と
いうのであれば、まだそれだけ、この日本は、後進国。
自由はないということになる。

++++++++++++++++

「直葬」について……。

++++++++++++++++

●直葬(ちょくそう)

++++++++++++++++++

病院から、直接、火葬場へ。
そしてそのまま、家族だけの
静かな密葬。

それを直葬(ちょくそう)という。

今、その直葬が、ふえているという。
都市圏では、約30%が、その直葬だと
いう(06年3月・中日新聞)。

+++++++++++++++++

 葬儀費用もさることながら、それまでの介護費用、病気治療費が、以前とは比較にならないほど、高額になってきている。だからほとんどの家庭では、その家の老齢者が死ぬころには、大半の貯金を使い切ってしまうことになるという。「とても、葬儀費用なんて、出せない」というのが、本音?

 今、首都圏を中心に、直葬という葬儀のし方がふえているという。「じきそう」と、私は、読んだ。しかし正しくは、「ちょくそう」と読むのだそうだ。つまり病院で死亡すると、そのまま火葬場へ。そして家族だけの静かな密葬を行う。

 新聞報道(中日新聞)によると、人も80歳をすぎると、友人も少なくなり、葬儀といっても、家族だけの集まりになるという。従来の日本の儒教的感覚からすれば、派手な葬儀を行うのが、親の死であれば、子の務めということになっている。が、そうした感覚そのものが、今、大きく、音をたてて崩れ始めている。

 つまり、無駄な葬儀に、どれほどの意味があるのか、と。

 数日前、私は、ワイフにこんな会話をした。ワイフは、「葬儀など、してくれなくてもいい」と。そこで私が、「お前が死んだら、一晩、お前を抱いて寝てやるよ」と言うと、「どうして?」と。

 で、私はこう答えた。「もし、ぼくが先に死んだら、多分、お前は、ぼくにそうしてくれるから」と。ワイフは、それを聞いて、うれしそうに笑った。

 ずっと先かもしれない。あるいは、すぐ先かもしれない。しかし私は、ワイフが死んだら、もうこの世の中で生きていく自信は、ない。そんな私が、ワイフの葬儀など、できるわけがない。したくもない。ワイフが死んだら、その夜は、そしてそのつぎの夜も、そのつぎの夜も、静かに2人だけで過ごしたい。だれにも、その静かな時をじゃまされたくはない。

 それを葬儀というのなら、それが私にとっての葬儀ということになる。型や儀式など、クソ食らえ! そんなことをしたからといって、どうして自分の心が癒されるのか!

 話をもとに戻す。

 私はたくさんの葬儀を見てきた。しかしこのところ、葬儀に出るのが、おっくうになった。はっきり言えば、出たくない。できるだけ、あれこれ理由をつけて、出ないようにしている。そういう私を非難している人もいるようだが、非難したい人には、させておけばよい。そういう人は、自分で考えて私を非難しているのではなく、型にはまったものの考え方から抜け出せず、その中で、私を非難しているだけだ。

 だから、私はあえて言う。私が、死んでも、だれも来なくてよい。つまりその覚悟ができているからこそ、「出たくない」と、言う。私の葬儀に来ない人をうらんだり、非難したりはしない。

 ……と少し力んでしまったが、大切なことは、どう死ぬかではなく、どうそのときまで、生きるか、だ。その結果として、葬儀があるとするなら、それはそれ。あとは残された遺族の問題ということになる。死んだ本人の問題ではない。

 だから私は、ワイフや息子たちにこう言っている。「無駄なお金は使うな。直葬ですれば、費用も30万円程度ですむ」と。私は私の家族には、できるだけ迷惑をかけたくない。だからそういう(やり方)であっても、何ら、思い残すところはない。

 ただこういうことは言える。今、日本人のもつ意識は、大きく変わりつつあるということ。戦前までの儒教的文化圏から抜け出て、アメリカ型の西欧型文化圏へと、その変革期にあると言ってもよい。日本人にとっては、ルネサンスとも言えるべき、意識革命が、深く、静かに、しかし確実に進行しつつある。

 そのひとつが、葬儀のし方ということか。が、「直葬」という言葉に、少なからず抵抗を覚える人もいるかもしれない。地方の田舎へ行けばいくほど、そうだろう。しかしその葬儀も、「型」から抜け出て、「人間」を見る方式に変わってきている。もっとわかりやすく言えば、自然体ということか。自然な形で、自然にする。

 だからといって、もちろん、人の死を軽く考えてよいというのではない。しかし派手な葬儀をしたからといって、人の死を重くとらえたということにはならない。あくまでもそれは心の問題。そういう視点で、ものごとを考えればよい。

 私のワイフが死んだ夜、親類や、近所のうるさい連中がワイワイとやってきたら、私は、こう言うだろう。「出ていけ!」「2人だけにしてくれ!」と。そういう私を、他人がどう思おうが、私の知ったことではない。

 これから先、長生きをすればするほど、私を知る人は少なくなり、私の死を悲しむ人も少なくなる。人も80歳を過ぎると、ほとんどが、そうなるという。新聞記事にも、そう書いてあった。派手な葬儀など、もとから望むべくもないが、あえてしてほしいとも思わない。これはあくまでも、私の個人的な希望だが、私は、静かに、だれにも知られず、死んでいきたい。ずっとあとになって、「あの林が死んでいた?」と思われるような、そんな死に方をしたい。

 死ぬということは、その人にとって、人生最大の醜態をさらけ出すようなもの。少なくとも、私にとっては、そうだ。おおげさ騒いでほしくない。直葬、大いに、結構!

(付記)

 それぞれの遺族は、それぞれの思いをもって、故人と別れを告げる。その遺族が、それぞれの考えをもって、葬儀をする。それは、その遺族の勝手。まわりのものたちが、とやかく言ってはいけない。

 しかし中には、世間体を優先させ、派手な葬儀をする人たちもいる。反対に、親類のだれかが質素な葬儀をしたりすると、「世間体が悪い」と、あれこれ不満を口にする人もいる。どちらにせよ、つまるところ、それだけその人の精神構造が、未熟ということ。そう判断して、まちがいない。

 派手な葬儀にせよ、質素な葬儀にせよ、大切なのは、「心」。いくら派手でも、その心がなければ、ただの祭。しかしいくら質素でも、その心があれば、葬儀は葬儀。他人の目など、気にするほうがおかしい。

 もし型があるとするなら、それはあとからついてくるもの。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 直葬 葬儀論 ちょくそう)


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。