最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●普遍的な正常者

2007-07-22 07:42:35 | Weblog
【今朝・あれこれ】(7月22日)

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昨夜、N先生と電話で、1時間
近く話す。

蝶の観察に、北海道まで行って
きたとか。しかしあいにくの雨。
結局、蝶のハシクレすらも
見ることができなかったとか。

そのころ台風4号が、北海道
近辺を北上していた。

それもあって、このところ毎日
のように、天気がめまぐるしく
変わる。

昨日は、一日中、雨。が、今日は、
一転、ほどよい晴れ。

昨夜寝る前、ワイフが、「明日は
どこかへ行こう」と言ったので、
今日は、そのつもり。

そうそう8月5日に、スティーブン・
スピルバーグ監督の、
『トランスフォーマー』(Transformers)
が、封切りになる。

今日、その予約チケットを、
購入してくる。

楽しみ! 私がああいう映画が
大好き。ワイフも長男も、大好き。

N先生は、蝶。
私は、トランスフォーマー。

人、それぞれ。

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●ホルネイ

 アメリカにK・ホルネイという学者がいた。1885年生まれ、1952年に他界している。1952年といえば、私が5歳のとき。

 私はその学者は、ずっと、男性だと思っていた。しかし実は、女性だった! もともとはドイツからの移民。精神分析医として活躍した人物である。

 ホルネイについては、たびたび書いてきた。彼女は、(これからは「彼女」と書く)、「普遍的な正常者はいない」という前提で、心理学を考えていた。つまり正常かどうかは、そのときの社会的背景や文化が決めるものだ、と。

 よい例が、不登校児。

 少し前まで、「不登校は悪」「だから不登校児は問題児」という前提で、学校側も、そして親側も考える傾向が強かった。だから自分の子どもが、学校へ行かなくなったりすると、親は錯乱状態になったりした。学校側は学校側で、それこそ、首に縄でもつけるかのようにして、その子どもを、学校へ引っ張り出したりしていた。

 しかし事情が変わった。「事情」というより、「意識」が変わった。

 不登校を悪として考えるのではなく、学校へ行くか行かないかは、「選択」の問題にすぎないと考えるようになった。不登校児についても、問題児と決めつけて考えるのではなく、不登校児自身の立場になって、ものを考えるようになった。

 わかりやすく言えば、学校へ通う子どもは正常で、そうでない子どもはそうでないという(常識)が、ここで崩れた。むしろ逆に、今のような狂乱した教育事情に、あえて背を向ける子どものほうが正常ではないかと考える人たちも、ふえてきている。

 何も学校だけが、(コース)というわけではない。そのコースからはずれたからといって、問題児と決めつけて考えるほうが、おかしい。

 話がそれたが、ものの見方をほんの少し変えるだけで、それまで(正常だったもの)が、そうでなく、反対に、それまで(正常でなかったもの)が、正常になったりする。だから「普遍的な正常者はいない」となる。

 ナルホド!

 さらにホルネイは、こう説いた。「社会不安が増大すれば、親たちも育児に不安をもつようになる」(「現代の神経症的性格」)と。つまり社会情勢がそのまま、親たちに心理的影響を与える、と。

 これについても、思い当たる事実が、いくつかある。

 1995年ごろから、減少傾向がつづいていた、塾数、塾の講師数が、2000年に入ってからは、増大する傾向を見せ始めている(通産省調べ)。2000年といえば、ちょうど貧富の格差が広がり始めた時期でもある。

 親たちは、何か得体の知れないザワザワとした不安感を覚え始めている。そしてそれが、再び、子どもたちをして、受験勉強に向かわせ始めている。それが「今」ということになる。

 で、こうした社会不安が増大すれば、ホルネイの説にしたがえば、神経症的性格をもった親がふえ、ついで、神経症的性格をもった子どもが増大するということになる。

 ともかくも、この世界、何が正常で、何がそうでないか、よくわからなくなってきた。この私とて、一見、正常者に見えるかもしれないが、私は自分では、そうは思っていない。一方、正常でないという人たちを見ていると、そういう人たちのほうが、実は正常ではないかと思うようなことも多い。

 話をもどすが、たとえば不登校児の子どもと話していると、むしろ不登校を起こす子どものほうが正常ではないかと思うことが、しばしばある。若いときに書いた原稿なので、少し過激な部分もあるかもしれないが、以前、こんなことを書いたことがある。(教材新聞、中日新聞、掲載済み)

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●人間選別の手段?(皆が一〇〇点でも困る)
 
「浩司が英語を読めるぞ」と、私の祖父は心底喜んでみせてくれた。私がはじめて「バイシクル(自転車)」という英語の文字を読んでみせたときのことである。

しかし、今、こういう感動が、ない。喜んでみせる前に、「点は何点だった?」と聞く。そして点が悪いと、「何だ、この点は!」と子どもを叱る。親自身が、勉強は子どもが、子ども自身のためにするということを認めていない。もっと言えば、勉強が、人間選別の手段になってしまっている。諸悪の根源は、すべてここにある。

 皆が100点だと困る。差がわからないから。しかし皆が0点だと、もっと困る。差がわからないから。これが日本の教育の柱になっている。

そうでないというのなら、なぜ中学1年で1次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか。なぜ中学3年で2次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか。それをきちんと説明できる人はいるだろうか。

私など文科系の大学を出たこともあり、社会人になってからこのかた、2次方程式はおろか、1次方程式すら、日常生活で使ったことは、ただの1度もない。こういう知識を、人間の成長に不可欠な知識と信じ込まされ、日夜苦しんでいる子どもたちの姿を見ると、あわれにすらなる。

たとえばオーストラリアでは、中学1年レベルで、2桁かける2桁のかけ算を学習している。日本ではそれを小学3年生のときに学ぶ。こういう一部の比較をもとに、「日本の教育は進んでいる」と言う人がいる。しかしそれは正しくない。

オーストラリアでは、科目数そのものが多い。中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フランス語、インドネシア語、中国語それに日本語の中から1科目を選択できる。美術にしても、音楽、絵画、演劇、写真などが、それぞれ独立した科目になっている。キャンプも必須科目だ。環境保護や宗教の科目もある。

南オーストラリア州では、もう10年以上も前から、しかも小学3年生から、コンピュータの授業をしている。オーストラリアで教授をしている友人はこう言った。「子どもたちが学校を卒業したとき、多様な社会に適応できるようにするのが教育」と。

わかりやすく言えば、子どもたちにとって、将来、役にたつ知識を教えるのが教育だ、と。

しかし日本にはそういう視点がない。教育者自身にもない。高校2年で、微分と三角関数を学ぶ。高校3年で、その三角関数の微分まで学ぶ。一体こんな知識が、何の役にたつというのか。教えている私のほうが、バカバカしくなる。

しかも大学の入試問題ときたら、それをさらに二つも三つもひねったような問題ばかり。仮に平均点があがれば、問題はもっと難しくなるだけ。さがれば簡単になるだけ。

 日本は江戸時代の身分制度の亡霊を、いまだに引きずっている。仕事によい仕事もない。悪い仕事もない。上下もない。あるはずがない。人間にも、そして学校にも、あるはずがない。

にもかかわらず、日本人はそれを意識している。そしてそれを基準に、人間を選別している。勉強は、まさにその選別の手段というわけである。が、しかしもう、こんな愚かなことはやめよう。あなたや私は、今の受験制度の中で苦しんだ。それでもう十分。どうしてこんな制度を、次の世代に残さなければならないのか。(1999年記)

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