最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●溺愛(2)

2010-07-01 11:45:09 | Weblog


 Hによると、電話での母の声の調子は、毎日のように変わるという。はげしく罵声した
かと思うと、その翌日には、ネコなで声で、甘えるような言い方をするなど。あるいは、
怒った言い方をした翌日は、今度は一転、弱々しい言い方をするときもあるという。一度
は、今にも死にそうな声で、「助けてくれ」と電話がかかってきたこともある。

 あわててHが実家へ戻ってみると、母は台所で、ピンピンしていたという。そしてこう
言ったという。「お帰りなさい。あんたが帰ってくると思ったから、おいしいごちそうを用
意しておいたからね」と。

 Hは夫に、あれこれ口実をつくって、アパートをかえることにした。夫は、それに従っ
てくれた。Hは、もちろん母に内緒で、今度は、市内でも、実家からは反対側にある、E
町に住居を移した。が、電話線を引いたその翌日には、母から電話がかかってきた。

母「引っ越したんだってね。どんなところだい。家賃は、一二万円というじゃないかい。
豪勢な生活だね」
H「……」
母「私に内緒で引っ越しても、ムダだよ。親と神様は、すべてをお見通しだよ」

H「お願いだから、私のことは私に任せて」
母「任せて? よくもまあ、そんな生意気な口がきけたもののね。あんたは、だれのおか
げで、言葉が話せるようになったか、それがわかっているの? 親の私よ。どこに、子ど
もに言葉を教えない親がいるもんかね」

 そこでHは、ふりしぼるような声で、こう言った。

H「お母さん……、私に、どうかお願いだから、もう構わないで……」と。

 「構わないで」という言い方は、Hが母親に対して、はじめて使った言葉である。Hが、
使いたくても使えなかった言葉。いつものどまで出かかっていたが、そこで止まっていた
言葉。予想どおり、その言葉は、母を激怒させた。母は、ヒステリックな金きり声をあげ
て、こう叫んだ。

「何てこと言うの! 親に向かって! この恩知らずめ!」(ガチャン)と。

 この話は、現在進行形である。私も、最初、この話を聞いたときには、自分の耳を疑っ
た。しかし、ここに書いたことは、事実。こうした(常識にはずれた話)を書くときは、
私はできるだけ聞いたとおりを、忠実に書く。

 で、この話とは別に、私は一つの事実に気づいた。それが冒頭に書いた、子どもを溺愛
する親が感ずる「愛もどきの愛」と、ストーカーする人が口にする、「愛もどきの愛」とは、
同質のものである、と。もともと親の身勝手な愛という点で、共通している。

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●溺愛

 溺愛ママには、いくつかの特徴があります。
それについては、以前にも、いくつかの原稿
を書いてきました。その一つ(子育ての最前
線にいるあなたへ」(中日新聞社・掲載済み)
を、ここに転載します。

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●溺愛ママの溺愛児

 「先生、私、異常でしょうか」と、その母親は言った。「娘(年中児)が、病気で休んで
くれると、私、うれしいのです。私のそばにいてくれると思うだけで、うれしいのです。
主人なんか、いてもいなくても、どちらでもいいような気がします」と。私はそれに答え
て、こう言った。「異常です」と。

 今、子どもを溺愛する親は、珍しくない。親と子どもの間に、距離感がない。ある母親
は自分の子ども(年長男児)が、泊り保育に行った夜、さみしさに耐え切れず、一晩中、
泣き明かしたという。また別の母親はこう言った。「息子(中学生)の汚した服や下着を見
ると、いとおしくて、ほおずりしたくなります」と。

 親が子どもを溺愛する背景には、親自身の精神的な未熟さや、情緒的な欠陥があるとみ
る。そういう問題が基本にあって、夫婦仲が悪い、生活苦に追われる、やっとのことで子
どもに恵まれたなどという事実が引き金となって、親は、溺愛に走るようになる。肉親の
死や事故がきっかけで、子どもを溺愛するようになるケースも少なくない。そして本来、
夫や家庭、他人や社会に向けるべき愛まで、すべて子どもに注いでしまう。その溺愛ママ
の典型的な会話。

先生、子どもに向かって、「A君は、おとなになったら、何になるのかな?」
母親、会話に割り込みながら、「Aは、どこへも行かないわよね。ずっと、ママのそばにい
るわよねエ。そうよねエ~」と。

 親が子どもを溺愛すると、子どもは、いわゆる溺愛児になる。柔和でおとなしく、覇気
がない。幼児性の持続(いつまでも赤ちゃんぽい)や退行性(約束やルールが守れない、
生活習慣がだらしなくなる)が見られることが多い。満足げにおっとりしているが、人格
の核形成が遅れる。ここでいう「核」というのは、つかみどころをいう。輪郭といっても
よい。

子どもは年長児の中ごろから、少年少女期へと移行するが、溺愛児には、そのときにな
っても、「この子はこういう子だ」という輪郭が見えてこない。乳幼児のまま、大きくな
る。ちょうどひざに抱かれたペットのようだから、私は「ペット児」と呼んでいる。

 このタイプの子どもは、やがて次のような経路をたどる。一つはそのままおとなになる
ケース。以前『冬彦さん』というドラマがあったが、そうなる。結婚してからも、「ママ、
ママ」と言って、母親のふとんの中へ入って寝たりする。これが全体の約三〇%。もう一
つは、その反動からか、やがて親に猛烈に反発するようになるケース。

ふつうの反発ではない。はげしい家庭内暴力をともなうことが多い。乳幼児期から少年
少女期への移行期に、しっかりとそのカラを脱いでおかなかったために、そうなる。だ
からたいていの親はこう言って、うろたえる。「小さいころは、いい子だったんです。ど
うして、こんな子どもになってしまったのでしょうか」と。これが残りの約七〇%。

 子どもがかわいいのは、当たり前。本能がそう思わせる。だから親は子どもを育てる。
しかしそれはあくまでも本能。性欲や食欲と同じ、本能。その本能に溺れてよいことは、
何もない。

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同じような内容ですが、「マザコン人間」(失礼!)に
ついて書いた原稿を転載します。

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●マザコン人間

 マザコンタイプの男性や女性は、少なくない。昔、冬彦さん(「テレビドラマ『ずっとあ
なたが好きだった』の主人公」)という男性のような例は、極端な例だが、しかしそれに似
た話はいくらでもある。総じてみれば、日本人は、マザコン型民族。よい例が、森進一が
歌う、『おふくろさん』。世界広しといえども、大のおとなが夜空を見あげながら、「ママー、
ママー」と涙をこぼす民族は、そうはいない。

 そのマザコンタイプの人を調べていくと、おもしろいことに気づく。その母親自身は、
マザコンタイプの息子や娘を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。一方、
マザコンタイプの息子や娘は、自分を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。
その双方が互いにそう思い込んでいるから、自分たちのおかしさに気づくことは、まずな
い。

意識のズレというのはそういうものだが、もっとも互いにそれでよいというのなら、私
やあなたのような他人がとやかく言う必要はない。しかし問題は、そういう男性や女性
の周囲にいる人たちである。男性の妻とか、女性の夫とかなど。ある女性は、結婚直後
から自分の夫がマザコンであることに気づいた。ほとんど数日おきに、夫が実家の母親
と連絡を取りあっているというのだ。何かあると、ときには妻であるその女性に話す前
に、実家の母親に報告することもあるという。

しかし彼女の夫自身は、自分がマザコンだとは思っていない。それとなくその女性が夫
に抗議すると、「親を大切にするのは子の努め」とか、「親子の縁は切れるものではない」
と言って、まったく取りあおうとしないという。

 いわゆる依存型社会では、「依存性」が、さまざまな形にその姿をかえる。ここにあげた
「マザコン」もその一つ。で、最近気がついたが、マザコンというと、母親と息子の関係
だけを想像しがちだが、母親と娘、あるいは父親と娘でも、同じような関係になることが
ある。そして息子と同じように、マザコン的であることが、「いい娘」の証(あかし)であ
ると思い込む女性は少なくない。

このタイプの女性の特徴は、「あばたもエクボ」というか、何があっても、「母はすばら
しい」と決めつけてしまう。ほかの兄弟たちが親を批判しようものなら、「親の悪口は聞
きたくない!」と、それをはげしくはねのけてしまう。ものの考え方が権威主義的で、
親を必要以上に美化する一方、その返す刀で、自分の息子や娘に、それを求める。

つぎの問題は、このとき起きる。息子や娘がそれを受け入れればそれでよいが、そうで
ないときには、互いがはげしく衝突する。実際には、息子や娘がそれを受け入れる例は
少なくない。こうした基本的な価値観の衝突は、「キレツ」程度ではすまない。たいてい
はその段階で、「断絶」する。

 マザコン的であることは、決して親孝行ではない。このタイプの男性や女性は、自らの
マザコン性を、孝行論でごまかすことが多い。じゅうぶん注意されたい。

【追記】ことさらおおげさに、親孝行論を唱えたり、親を絶対視する人は、まず、その人
の中に潜む、ここでいう「マザコン性」を疑ってみるとよい。このタイプの人は、自らの
マザコン性を正当化するために、親を絶対視する傾向が強い。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係で、その「質」が決まる。少なくとも親は、「親
である」という、「である」論に甘えてはいけない。親は親で、どこまでも気高く、前向き
に生きていく。それが親としての、真のやさしさではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
溺愛 子どもを溺愛する母親 溺愛ママ でき愛ママ)

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