最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●1月23日

2009-01-23 07:02:02 | Weblog
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 23日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●チン問答(正方形)

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ましかく(真四角)を見せて、子どもたち(年長児)に、
「この形は何ですか?」と聞くと、中に、「正方形!」と
答える子どもがいる。

私「ウヌ、何だって? シェイホウケイ?」
子「シェイホウケイじゃないよ、さしすせその、セイホウケイ」
私「セホウケイ?」
子「だからさあ、セイホウケイだってばさア」
私「ホウケエ?(=遠州地方の方言で、「そうですか?」の意)」
子「……?」と。

私はこういうやり取りが、大好き。
子どもたちの脳みそを、ひっかき回すことができる。

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子どもにとって、(おとなにとっても、そうだが)、大切なことは、自分で考えること。
その習慣があること。
その力があること。

それがないと、知識はただの知識で終わってしまう。
あるいは中には、(物知りな子ども)イコール、(頭のいい子)と誤解している人がいる。
しかしこれは誤解。
たいへんな誤解。

今どき情報などというものは、インターネットを介せば、いくらでも手に入る。
情報イコール、知識。
大切なのは、その情報を、自分の力で、いかに加工し、知恵として消化するかということ。
それをしないでいると、あっという間に、情報の洪水の中に溺れてしまう。
私の知人の中にも、こんな女性(55歳くらい)がいる。

たいへんな物知りで、何かを質問すると、こちらの話をじゅうぶん聞かないうちから、
ペラペラといろいろ話し始める。
しかしよく聞いていると、情報が脳みその表面をかすっているだけ。
中身がないというより、深みがない。
情報の洪水の中に溺れるというのは、そういうことをいう。

さて幼児の話に戻る。

掛け算の九九をペラペラと口にしたからといって、その子どもに、算数の力があるという
ことにはならない。
さらにお経をペラペラと口にしたからといって、その子どもに、仏教がわかっているとは
かぎらない。
(おとなの中にも、いるぞ! 知ったかぶりというか、それでもって、優越感を覚えて
いるような人だ。)

では、どうすれば、子どもをして、(考える子ども)にすることができるか?
しかしこれは教育の問題ではなく、家庭環境の問題。
親の習慣の問題。
親にその(力)がなくて、どうして子どもにその(力)をもてと言うことができるのか。
結局は、そこへ行き着く。

たとえば子どもがあなたに何かを話しかけたとする。
そのとき大切なことは、子どもの言葉に耳を傾け、それについて考えてやること。
そして自分なりの意見を、それに添(そ)えてやること。
そういう親の習慣を見ながら、子どもは、(考える力)を身につける。

で、冒頭の話に戻る。
どこかの幼稚園では、子どもに掛け算の九九を教えている。
暗記させている。
そして「ましかく」を、「正方形」と言うように、指導している。
しかしこんなのは、幼児教育でも何でもない。
サルの訓練でも、そこまでしない。

「4つの角があるから、四角」「それがきれいに並んでいるから、ましかく」と、
どうしてそういうふうに、教えないのか。
それでよいではないか。
「方形」というのは、「四角形」をいう(広辞苑)。
だから「正方形」というのは、「どちらの方角から見ても同じに見える、四角形」という
ことになる。
しかしそこまで「セイホウケイ」の意味のわかる子どもは、いない。
だから私は、こう言って、子どもたちをからかう。

私「セイホウケイ……ねえ。どこかで聞いたような名前だなあ」
子「先生、正方形も知らないの?」
私「だからさ、どこかで聞いたような気がする。正方形というのは、ましかくのことか?」
子「そうだよ。ましかくのことだよ」
私「フ~~~ン、知らなかったなあ。覚えておくよ」と。


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●ウソをつく

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犬でも、ウソをつく。
うちのハナが、そうだ。
何かかまってほしいときに、かまってやらないと、ウソをつく。

ワンワンと軽くほえたあと、庭の端まで行って、じっと
体を固める。
「そこに何かがいる」という素振りをして見せる。

ハナの心理をよく知っているから、だまされたフリを
して、庭の端に立つ。
じっと体を固めて、その先を見る。

私「何かいるか?」
犬「……」
私「何かいるか?」と。

こうするとハナのほうも、バツが悪いのか、さらに右へ走ったり、
左へ走ったりして、身を固める。
(身を固めるのは、ポインター種の猟犬の特徴と聞いている。)

こうしてハナは、私をかつぐ。
私は、かつがれたフリをする。
これを発達心理学的に解釈すると、こうなる。

子どもというのは、ウソをつくことで、おとなの優位性を破ろうとする。
年齢的には、2歳前後から始まるとされる。
よく知られているのが、噓寝、噓泣き。

噓寝、噓泣きをすることによって、おとなを操作する。
それがおとなの優位性の打破につながる。
で、こういうとき大切なことは、それを「ウソ」と決めつけ、子どもを叱っては
いけないということ。
「ああ、うちの子は、おとなの優位性を打破しようとしている」と考えて、
一歩、退いてやる。
そのおおらかさが、子どもを伸ばす。

反対におとなの優位性に押し込められてしまうと、(あるいはおとなの優位性を
押しつけ過ぎると)、子どもはハキのない子どもになってしまう。
ひどいばあいには、おとなになりきれないおとなになったり、おとなになることに
恐怖心を抱いたりする。
赤ちゃん返りならぬ、幼児返りをする子どもも、珍しくない。

時には子どもに負けてやる。
「おとなを負かした」という自負心が、自信につながる。
未来に向かって、前向きな姿勢も、そこから生まれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子どもの噓 子供の噓 噓と優位性 おとなの優位性 発達心理)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●発想の転換(ロメオ・シンドローム、ジュリエット・シンドローム)

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ワイフがこう言った。
「今年も、あと少しで終わりね」と。
カレンダーを垣間見ながら、そう言った。
言い方が、どこか暗かった。
沈んでいた。

そこで私はこう言った。
「そういう、うしろ向きな言い方をしてはだめだ。
そういうときは、『もうすぐ新しい年ね』と
言わなくちゃア」と。

こういうのを発想の転換という。
「あと少し……」と言うよりは、「もうすぐ……」と
言ったほうが、心がずっと軽くなる。
明るくなる。
(12月22日記)

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●私は71歳だ

子どもたちに、「ぼくは51歳だ」というと、子どもたちはすかさず「ウソだ、
ウソだ」と騒ぐ。
中に私の生年月日を知っている子どもがいて、(たぶん、親がそう教えているのだろうが)、
「先生は、本当は61歳だよ」と言うのもいる。

自分の年齢をごまかすということは、よくある。
私も少し前まで、10歳ほど、年齢を引いて、子どもたちに言っていた。
「ぼくは、51歳だよ」と。
しかしこういうウソは、疲れる。
どこかで無理をしなければならない。
(本当の年齢は、1947年生まれ、今年、満61歳。)

そこで最近は、こう言うようにしている。
「あのね、本当は、71歳なんだよ」と。
ときどき「81歳だよ」と言うときもある。

すると子どもたちは、「そんなジジイには見えないよ。……先生は、ぼくのパパ
くらいかな」とか言う。

●年齢をごまかす

自分の年齢を若く言うか、それとも、古く言うかで、生き方そのものが変ってくる。
最近、そんな発見をした。

自分の年齢を若く言う人は、「まだ若いから、仕事ができる」と人に思わせたいのかも
しれない。
あるいは若い女性(あるいは男性)に、相手にしてもらいたいという潜在的な
願望があって、そう言うのかもしれない。
それに若さと決別するには、それなりの勇気がいる。
が、中には、異常なまでに、(若さ)にこだわる人もいる。
タレントの中には、40歳を過ぎているはずなのに、どう見ても20代後半かな(?)
と思うような人もいる。
このタイプの人は、自分の年齢を受け入れることができない。
だからそれに抵抗する。
ホルモン剤を顔に注入し、化粧に化粧を重ねる。
整形手術などというのは、この世界では常識。

そういう心理状態を総称して、「ロメオ・シンドローム」、あるいは
「ジュリエット・シンドローム」※という。
私がつけた名前である。

で、女性のばあいは、化粧で年齢をごまかす。
(最近では、こうしたごまかしを、「アンチ・エイジング(抗年齢)」と呼ぶ。)
そのつじつま合わせのために、年齢という(数字)もごまかす。
しかしこの方法は、無意味。

仮に35歳のとき、30歳に見られても、5年後の40歳のときには、35歳に
見られるだけ。
そのつど5歳ほど年齢をごまかすことはできても、10歳は、無理。
それに(若さ)というのは、外見や年齢という数字では決まらない。
中身だ。
中身で決まる。

だったら、35歳だったら、35歳と正直に言いながら、生きればよい……ということに
なる。
が、現実には、だれしも若く見られたい。

が、そこで発想の転換。

●人生、50年

少し前、がんで闘病生活をしている大学の友人が、電話でこう言った。
「ぼくはね、50歳すぎてからの人生は、1年ごと、もうけものと思うようにしているよ」
と。

そのとき彼は、織田信長の話をした。
織田信長は、「人生、50年」と言ったとか。
だから「それからの命は、(もうけもの)」と。
「50歳で、がんで死ぬことを考える必要はない。
悲観的になることはない。
50歳で死んだと思って、残りの人生を楽しく生きる」と。

だったら、これはあくまでも私のばあいだが、「51歳」と言うよりは、「71歳」と
言ったほうが、よいということになる。
「71歳なのだが、61歳の人のように、若々しい」と。
そのほうが、感謝の念も強くなる。
生き方にも、力が入る。
あるいは余命を計算しながら、「残りの人生は、よくて10年」と、生きていることその
ものを大切にするようになる。

それに先にも書いたように、私が「ぼくは71歳だ」と言っても、だれも信用しないだろう。
「あなたは、どう見ても、71歳には見えない」と。
しかし「51歳だ」と言うと、みなが、疑う。

●1年ごと、(もうけもの)

2008年も無事、終わろうとしている。
いろいろあったが、私や私の家族は、ともかくも無事だった。
仕事も楽しかった。
やりがいもあった。
これを(もうけもの)と言わずして、何と言う?
つまりそういう意識をもつためにも、「71歳」と言う。

「71歳」と言えば、60歳から計算すると、11年も「もうけた」ということになる。
その分だけ、心を広くすることもできる。
が、それだけではない。

「71歳」と言うことによって、人生を先取りすることができる。
ジジ臭くなれということではない。
71歳らしく生きろということでもない。
71歳の人が、61歳の人のように、あるいは51歳の人のように、
若々しく生きたところで、おかしくない。

それに本当に71歳になったとき、10年分、前もって心の準備しておくことができる。
81歳になったときも、そうだろう。
91歳になったときも、そうだろう。
そのつど、10年分、得をしたような気分になる。
その(得をした)という気分こそが、大切。

●私は71歳なのだ

「私は71歳」と思うことによって、71歳の高齢者の人たちと、同じレベルに
自分を置く。
そして自分にこう言って聞かせる。
「ぼくは71歳だけど、中身は61歳」と。

そのほうが、ずっと楽しい。
無理をして、51歳のまねをするような、うしろめたさというか、イヤミがない。
ウソはウソだが、「51歳」と言うときは、他人を欺くため。
しかし「71歳」と言うときは、自分を欺くため。
むしろ他人を楽しませるかもしれない。

簡単に言えば、「年齢を若く言って無理をするより、年齢を古く言って、余裕を
もって生きたほうがいい」ということ。

あとのことは、天命に任せる。
そのときが来たら、そのとき。
ジタバタしない。
……ということで、最近、私は子どもたちから年齢を聞かれるたびに、「ぼくは71歳だよ」
と答えることにしている。

(付記)
「♪もういくつ寝ると、お正月……」という歌は、前向きな歌ということになる。
しかしジー様、バー様は、(私も含めて)、暗い顔をして、こう歌う。
「♪もういくつ寝ると、今年もおしまい……」と。
しかしそれではいけない。
いけないということで、このエッセーを書いた。

さあ、ここは童心に返って、『お正月』の歌を、明るく、楽しく歌ってみよう。

♪もういくつ寝ると、お正月
 お正月には、凧あげて、コマを回して遊びましょう。
 早く来い来い、お正月

(付記)
ところであなたはどうだろうか?
新年が近づくたびに、「今年も、もうおしまい?」とか、「もうお正月?」とか
言って、暗い顔をするだろうか。
もしそうなら、あなたはすでに、片足を棺おけにつっこんでいるようなもの!

同じ1年でも、やりたいことを思う存分しながら、有意義に過ごした人は、
その1年を長く感ずる。
新年が来ることを、喜ぶことができる。
そうでない人は、そうでない。
大切なのは、前向きに生きること。
中身の濃い人生を送ること。
が、ふと油断すると、すぐうしろ向きになってしまう。
わかりやすい例が、同窓会。

50歳を過ぎると、とたんに同窓会の回数がふえる。
心理学でも、こうした現象を、「回顧性」という言葉を使って説明する。
過去を懐かしむことが、多くなる。

その反対の位置にあるのが、「展望性」という言葉。
未来に向かって夢や希望をいだきながら、生きることをいう。
その回顧性と展望性は、満55歳くらいのときに、クロス交差するという。
つまり満55歳くらいのときに、前向きな生き方と、うしろ向きな生き方が、交差する。
それからは生き方そのものが、うしろ向きになる。

が、回顧性など、くそ食らえ!
回顧性にしばられるようになると、未来よりも過去ばかりを気にするようになる。
過去の肩書きや、学歴、名誉、地位にしがみついて生きる人もいる。
もっと言えば、そういう人たちは、「年齢の奴隷」ということになる。
若かったころの自分から、自分を解放することができない。

今は今。
年齢という数字にまどわされてはいけない。
私たちは、どこまでも前向きに生きる。
死ぬまで前向きに生きる。
けっしてうしろ向きになってはいけない。
いつか書いたが、年齢というのは、ただの数字。
そんな数字に、どんな意味があるというのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
前向きな人生 展望性 回顧性 後ろ向きな人生 ロメオ シンドローム 
ロメオ症候群 ジュリエットシンドローム ジュリエット・シンドローム)

(注※)ロメオ・シンドローム……若かりしころの自分に、人生の基点を置く。
それから遠ざかることに、強迫観念をもつ。そのため(若さ)の
維持に何よりも注意を払う。自分をロメオに見立て、常にそこに悲劇性を
もたせる。『ピーターパン・シンドローム』を、(おとなになりきれない、
おとな)とするなら、『ロメオ・シンドローム』は、(加齢を受け入れ
ることができないおとな)ということになる。そのため年配者や老人をことさら
嫌ったりする。あるいは年配者や老人の価値観、思想を、ことさら否定したり
する。顔にシワやシミ、白髪が現われたりすると、人一倍、狼狽(ろうばい)
したりする。ロメオ・シンドロームというのは、(ピーターパン・シンドローム
もそうだが)、結局は、その人の精神的未熟性に起因すると考えられる。

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