最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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1/2 どうして日本人は猿のように見られてしまうのか?

2012-04-26 10:48:12 | Weblog
【今朝の発見】(はやし浩司 2012-04-26)

●目つき

 先日、電車に乗ったときのこと。
前の席に座った女性が、少し変わった動き方をしていた。
年齢は60歳くらいだっただろうか。
落ち着かない動き方だった。
動作が小刻みに動き、そのつど顔がキョロキョロと動いた。
それがちょうど、動物園で見る猿の様子に、そっくりだった。

 その瞬間、欧米人の言葉が、思い浮かんだ。
欧米人は日本人をさして、よくこう言う。
「ジャパニーズ・モンキー(Japanese Monkey)」と。
失礼な言い方だが、その理由がわかった。

 そこで、私はその女性の動きを観察した。
「どこが、どうちがうのだろう?」と。

 結果、つぎのことがわかった。

(1)たとえば左右・上下を見るとき、眼球を動かさない。
(2)眼球を動かさないで、顔(頭蓋骨)を動かす。
(3)そのため、顔の動きが、キョロキョロしたものになる、と。

 一方、欧米人は、顔(頭蓋骨)を、比較的、動かさない。
目が大きいこともある(?)。
それとも遊牧民族の特徴(?)。
左右を見るときも、先に眼球を動かす。
顔(頭蓋骨)を、あまり動かさない。
そのつど動作(顔)を、ピタッ、ピタッと止める。
わずかなちがいなのだろうが、それが連続的につづく。
それが日本人と欧米人のちがいとなって現れる。

 ……と、ここまでは、以前にも書いた。
そこでここではもう一歩、話を進める。

●中国人のばあい

 中国とか朝鮮の人の特徴として、目つきが鋭いということがある。
キロッ、キロッと、目が動く。
「ギロッ」に近い。
形のことを書いているのではない。
動きが鋭い。

 そこで数日前のこと。
駅前にある中華料理店へ入ったとき、私たち日本人とどこがどうちがうかを観察してみた。
その店では、4~6人の中国人たちが働いている。
全員、北京周辺から来た人たちという。

 結果、つぎのことがわかった。

(1)たとえば右の方を見るとき、まず眼球を固定したまま、顔(頭蓋骨)を鋭く右に向ける。
(2)見たい方向の半分くらいまで動かす。
(たとえば60度、右の方を見たいときは、30度分ほどは、顔(頭蓋骨)を動かす。)
(3)その状態で、つまり顔(頭蓋骨)を固定し、今度は眼球だけを、さらに右へ動かす。
(つまり残り30度分ほどは、今度は眼球だけを動かす。)
(4)そのとき眼球を目尻いっぱいまで、やや上方に向かって動かす。

 つまり2段構えの動かし方をする。
半分を顔(頭蓋骨)で動かし、つづいて眼球だけをさらに動かし、左右・上下を見る。
そのとき眼球をやや上方へ動かす。
そのため日本人の私たちには、目つきが鋭く見える。

 「どうしてあんな器用な動かし方ができるのだろう?」と思った。
ためしに私もあとでまねてみたが、これが結構、むずかしい。
(あなたもここに書いたことを参考に、一度、まねてみるとよい。)
が、彼らにしてみれば、何でもない。
生まれたときから、祖父母→両親から、それを見習っている。

 ……民族によって、動作、表情は微妙にちがう。
日本人がよいとか、欧米人がよいとか、中国人や韓国人がよいとか、(あるいはその反対に、おかしいとか書いているのではない。誤解のないように!)、そういうことではない。
たとえばここに書いたように、目つきも、民族によってちがうということ。
私が知るかぎり、こんなことを調べたのは、私が最初かと思う。
(気づいたのも、私が最初かと思う。)

 この世界には、まだまだ未知なことも多い……ということで、「目つき」について書いてみた。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●進歩と借金

 朝食のとき、私はそれまでパソコン雑誌に目を通していた。
この世界は、まさに日進月歩。
今度は、WINDOW8!
目まぐるしく変わっていく。

 で、その雑誌を見ながら、こう思った。
「どうしてコンピューターと無縁の人も多いのだろう?」と。
今ではコンピューターは、万人の必需品。
少なくとも、コンピューターの世界で生きている人は、そう思っている。

 が、その一方で、私の知人の中には、コンピューターはいっさい、使わないという人がいる。
触ろうとすらしない。
年齢的には、60~65歳以上ということになる。

不動産会社を経営している友人などは、資料などは、すべて一度、プリントアウトさせ、それを読んでいる。
理由を聞くと、「あんなのは、(女性)事務員の仕事だよ」と。

 さらに恐ろしい人になると、コンピューターそのものを魔物扱いしている。
コンピューターを扱っている人を、変人扱いしている。

 が、問題は、どうしてこういう(ちがい)が生まれるかということ。

●『借金vsコンピューター論』

 そのことが朝食のとき、ワイフと話題になった。
「どうしてだろうね?」と。

 するとワイフが端的に、こう説明した。
「進歩が速すぎて、ついていけないのよ」と。

 ナルホド!

私「そう言われてみれば、そうだね」
ワ「それにね、50歳も過ぎるとね、覚えるよりも先に、忘れることのほうが多いから」
私「それもそうだね」
ワ「アタフタしているうちに、遠ざかってしまうのよ」と。

 ワイフだってそうだ。
パソコンが不調になっても、自分では直せない。
してもメールのやり取りと、決まったHPの閲覧だけ。
あとのことは、ナ~ニモ知らなくても、困ることはない。

 つまりこうして二極化が進む。

 どんどんと進歩を追いかける人と、どんどんとパソコンから遠ざかっていく人。
進歩を追いかけるためには、月2~3冊の雑誌は読まねばならない。
「進歩」イコール、「学習」と考えてよい。
しかもその学習には、苦痛が伴ってはいけない。
楽しむ。
楽しんで、進歩を追いかける。

私「借金と同じだね」
ワ「どういうこと?」
私「金儲けも、攻めのときは、楽しんでそれができる。でもね、一度守勢に守ると、金儲けも、とたんに苦しくなる」
ワ「借金取りに追いかけられたら、仕事も手につかなくなるわね」
私「そう、それと同じ」と

 称して『借金vsコンピューター論』ということになる。
つまり、前向きにコンピューターの世界をのみ込んでそれを使えば、よし。
そうでなければ、そうでない。
一度「遅れた」と感じたとたん、後方にはじき飛ばされてしまう。

 で、そういう人ほど、自分の心を合理化するため、「魔物」とか「変人」とかいう言葉を使う。


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司





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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2012年 5月 4日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●小1,2年生に、「時速」と「距離」を教えてみる。

少し意気込んで・・・小学1年生と2年生に、「時速」と「距離」を教えてみました。
結果は、「まだ理解できないな」という印象をもちました。
こうしたレッスンは、教える側の私が、かなり意気込まなければ、失敗します。
が、その私は、この日花粉症がひどくで、たいへん調子が悪かったです。
それに薬のせいか、眠くてたまりませでした。
4月にもう一度、教えてみます。

I teach here in the video, Km.p.h. to children of Age 6,7,&8. Hiroshi Hayashi Hamamatsu Japan 2012

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Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【仮面をかぶる、親と子】

●仮面親子

「仮面夫婦」という言葉がある。
表面(おもてづら)だけは、何とか、取り繕っている。
見た目には、仲のよい夫婦。
しかし互いの心は、バラバラ。
いちばんの特徴は、互いの悲しみや苦しみを、共有できないということ。
いざというときに、顔をそむけてしまう。

 夫が息子たちと言い争いになった。
一方的に、息子が夫に向かい、はげしい暴言を吐いた。
そのときのこと。
何かの拍子に、息子が、夫(息子の父親)の胸ぐらをつかんだ。
つかんで、片方の手で、夫を殴ろうとした。

が、その妻(息子の母親)は、それを止めようとしなかったばかりか、立ったまま、それを上から見ていた。
顔には、意味のわからない笑みまで浮かべていた。

 あとで夫がそのことで、妻に問いただすと、妻は、平然とこう答えたという。
「本当に殴るとは思っていなかったから……」と。

 さらにこんなことも。

 ある日、何気なく、夫が妻にこう聞いたという。
「お前は、ぼくのことを愛してないだろ」と言うかわりに、「ぼくは、お前のことを愛していると思うか」と。
そう聞いた。
すかさず、妻は、こう答えたという。
「あなたは、私を愛していないわ」と。

 こういうのを心理学では、「投影」という言葉を使って説明する。
つまり自分の心を相手に、そのまま投影※させる。
「私があなたを嫌っているのは、あなたが私を嫌っているから」と。

 自分の中の好ましくない評価を、それを相手のせいにして、自分を正当化する。
その妻は、子どものころから、心を開けない女性だったよう。
それもあって、夫にすら、心を開くことはなかった。
が、自分がそうであるのは、「夫が悪いから」と。

 つまり妻は、「自分が夫を愛していない」とは言えなかった。
それで「あなたは私を愛していない」という言い方で、自分の心を表現した。

(注※……投影)
 『自分のもっている不都合な欲求や、好ましくない事象を、他人に転嫁すること。被害者意識の強い人は、投影をよく使います』(心理学用語・渋谷昌三)と。

 同じように、「仮面親子」というのがいる。
「仮面夫婦」というのは、よく論じられる。
しかし「仮面親子」というのは、あまり話題にならない。
「仮面親子」という言葉そのものは、あちこちで使われている。
が、アカデミックな意味では、あまり話題にならない。
数は、かなり多いと思われるのだが……。

●仮面親子

 見るからに母親は、子ども思いのよい人に見える。
子どもの世話も、よくしている。
やさしそうで、穏やか。
教養もあり、話し方も知的。

 が、子どもの評価は、まったく、違う。
母親のことを、「鬼ババ」と言う。

 最初、H子さん(小4)が、そう言ったとき、私は、冗談かと思った。
それでフフフと笑い、相手にしなかった。
とたん、H子さんが、キレた。
プリントに書き始めていた答を、鉛筆で、ゴシゴシと塗りつぶし、そのまま紙に穴をあけてしまった。

 しばらくしてから、こう聞いた。

私「おうちで、いちばん、こわいのはだれかな?」
H「お母さん……」
私「どうして?」
H「勉強しないと、私を叩く……」
私「叩くの?」
H「テストで悪い点を取ってくると、私を叩く……」と。

 母親の気持ちはともかくも、H子さんの心は、完全に母親から離れていた。
が、母親自身は、それに気づいていない。
こういうケースは、多い。
称して、「仮面親子」。

 その「仮面親子」と言えば、最初に思いつくのが、イプセンの『人形の家』。
主人公のノーラは、いい子ぶることで、少女時代を過ごす。
つまり仮面をかぶったまま、少女時代を過ごす。
「私は人形子でした」と。

 そしてその状態は、結婚してからも、つづく。
今度は、夫の前で、いい妻を演ずる。
が、やがてそれも限界にくる。

 ある日、ノーラは、夫のもとを去る。
そのときはじめてノーラは、仮面を脱ぎ去ることができた(?)……というところで、物語は、終わる。

●故郷

 仮面をかぶったまま、「いい子」を演ずる。
が、親には、それがわからない。
わからないから、「うちの子はいい子」と思い込む。
思い込んだまま、子どもの心を見失う。
子どもの心が、まったく別の方向を向いているのに、気づかない。

 私にも、こんな経験がある。

 ……私は中学校へ入るころから、あの郷里の美濃の町が嫌いだった。
息苦しく、自分の居場所すらなかった。
だからいつも、こう考えていた。
「おとなになったら、この家を出よう」と。

 しかしある日、それは私が高校生くらいになってからのことではなかったかと思うが、母が、こう言った。
「ここは、お前の故郷(ふるさと)だからな」と。
私はその言葉に、心底、ぞっとした。
美濃の町を、「故郷」という思いで、ながめたことは、それまでにも、一度もなかった。
それで、ぞっとした。

 母は母だったが、私の心の奥底を、まったく理解していなかった。
(今から思うと、それもしかたのないことだったかもしれないが……。)

 もし今、あなたがこう思っているとしたら、それはどうかな?

「私は子どもを愛している。
人一倍、愛している。
私と子どもの絆は、太い。
子どももまた、私の愛を理解してくれている。
私たちは、すばらしい親子だ」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●離れる子どもの心

●心の別室論(Another Room in the Mind)

人間には、自分にとって都合の悪いことがあると、心の中に別室を作り、そこへ押し込めてしまうという習性がある。

心理学では、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
「心の平穏を守るために自らを防衛する機能」という意味で、「防衛機制」のひとつと考えられている。

その防衛機制は、つぎの7つに大別される。

(1) 抑圧
(2) 昇華
(3) 同一化
(4) 投射
(5) 反動形成
(6) 合理化
(7) 白日夢(以上、深堀元文「心理学のすべて」)

 この中でも、「不安や恐怖、罪悪感などを呼び起こすような欲求、記憶などを無意識の中に閉じ込め、意識にのぼってこないようにする」(同書)を、「抑圧」という。

つまり心の別室の中に、それを閉じ込め、外からカギをかけてしまう。
よく「加害者は害を与えたことを忘れやすく、被害者は害を受けたことをいつまでも覚えている」と言われる。

(そう言っているのは、私だが……。)

この「加害者は害を与えたことを忘れやすい」という部分、つまり都合の悪いことは忘れやすいという心理的現象は、この「抑圧」という言葉で、説明できる。

が、実際には、(忘れる)のではない。
ここにも書いたように、心の別室を作り、そこへそれを押し込んでしまう。
こうした心理的現象は、日常的によく経験する。

 たとえば教育の世界では、「おとなしい子どもほど、心配」「がまん強い子どもほど、心配」「従順な子どもほど、心配」などなど、いろいろ言われる。
さらに言えば、「ものわかりのよい、よい子ほど、心配」となる。
このタイプの子どもは、本来の自分を、心の別室に押し込んでしまう。
その上で、別の人間を演ずる。
演ずるという意識がないまま、演ずる。
が、その分だけ、心をゆがめやすい。

 これはほんの一例だが、思春期にはげしい家庭内暴力を起こす子どもがいる。
ふつうの家庭内暴力ではない。
「殺してやる!」「殺される!」の大乱闘を繰り返す。
そういう子どもほど、調べていくと、乳幼児期には、おとなしく、静かで、かつ従順だったことがわかる。

世間を騒がす、凶悪犯罪を起こす子どもも、そうである。
心の別室といっても、それほど広くはない。
ある限度(=臨界点)を超えると、爆発する。
爆発して、さまざまな問題行動を起こすようになる。

 話が脱線したが、ではそういう子どもたちが、日常的にウソをついているとか、仮面をかぶっているかというと、そうではない。
(外から見える子ども)も、(心の別室の中にいる子ども)も、子どもは子ども。
同じ子どもと考える。

このことは、抑圧を爆発させているときの自分を観察してみると、よくわかる。

よく夫婦喧嘩をしていて、(こう書くと、私のことだとわかってしまうが)、20年前、30年前の話を、あたかもつい先日のようにして、喧嘩をする人がいる。
「あのとき、お前は!」「このとき、あなたは!」と。

 心の別室に住んでいる(私)が外に出てきたときには、外に出てきた(私)が私であり、それは仮面をかぶった(私)でもない。
どちらが本当の私で、どちらがウソの私かという判断は、しても意味はない。
両方とも、(心の別室に住んでいる私は、私の一部かもしれないが)、私である。

私「お前なんか、離婚してやるウ!」
ワ「今度こそ、本気ね!」
私「そうだ。本気だア!」
ワ「明日になって、仲直りしようなんて、言わないわね!」
私「ぜったいに言わない!」
ワ「この前、『お前とは、死ぬまで一緒』って言ったのは、ウソなのね!」
私「ああ、そうだ、あんなのウソだア!」と。

そこでよく話題になるのが、多重人格障害。
「障害者」と呼ばれるようになると、いろいろな人格が、交互に出てくる。
そのとき、どれが(主人格)なのかは、本当のところ、だれにもわからない。
「現在、外に現れているのが、主人格」ということになる。
夫婦喧嘩をしているときの(私)も、私なら、していないときの(私)も、私ということになる。
実際、夫婦喧嘩をしている最中に、自分でもどちらの自分が本当の自分か、わからなくなるときがある。

 ともかくも、心の別室があるということは、好ましいことではない。
「抑圧」にも程度があり、簡単なことをそこに抑圧してしまうケースもあれば、重篤なケースもある。
それこそ他人を殺害しておきながら、「私は知らない」ですませてしまうケースも
ないとは言わない。
さらに進むと、心の別室にいる自分を、まったく別の他人のように思ってしまう。
そうなれば、それこそその人は、多重人格障害者ということになってしまう。

 ところで最近、私はこう考えることがある。
「日本の歴史教科書全体が、心の別室ではないか」と。
まちがったことは、書いてない。
それはわかる。
しかしすべてを書いているかというと、そうでもない。
日本にとって都合の悪いことは、書いてない。
そして「教科書」の名のもとに、都合の悪いことを、別室に閉じ込め、カギをかけてしまっている(?)。

 しかしこれは余談。
ただこういうことは言える。
だれにでも心の別室はある。
私にもあるし、あなたにもある。
大切なことは、その心の別室にいる自分を、いつも忘れないこと。
とくに何かのことで、だれかに害を加えたようなとき、心の別室を忘れないこと。
忘れたら、それこそ、その人は、お・し・ま・い!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
心の別室 防衛機制 抑圧 はやし浩司 心の別室論 人格障害 加害意識)

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●シャドウ論

そこで「シャドウ論」。

以下の原稿も、2009年ごろ書いた原稿である。
この中では、北朝鮮と韓国を例にあげ、「シャドウ論」を
展開してみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●なし崩し的既成事実化

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「独島(日本名、竹島)と、K国の核兵器と
かけて、何と、説く?」。
答……「なし崩し的、既成事実化」。
共に、ものごとをなし崩し的に、既成事実化しよう
としている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●矛盾する論理

 韓国の人たちは、「オレたちは、K国とはちがう」と思っているかもしれない。
とくに、K国の核開発問題については、そうであろう。

K国は事実上、核兵器を所有し、核保有国であることを、既成事実化しようとしている。
韓国政府も、「それは認めない」とがんばっている。
が、同じように韓国は、K国と同じことをしている。
竹島(独島)への実効的支配を強化し(中央N報)、竹島は韓国領土であることを、既成事実化しようとしている。
同じ民族。
発想が、よく似ている。

……というより、K国は、韓国のあとを、懸命に追いかけている。
今日(4月10日)の韓国・中央N報は、つぎのように伝えている。
 「…… 鄭総理は日本の独島(ドクト、日本名・竹島)領有権の主張に関し、『日本がこの問題を持続的に取り上げるのは、韓日間の未来の発展に決して役立たない。
すでに韓国の国民が居住しているが、独島に対する実効的支配をさらに強化していく必要がある』と強調した」と。

 つまり事実上、支配しているから、竹島は、韓国の領土だ、と。

しかしこんな論理がまかりとおるなら、K国の核兵器開発問題は、どうなる?
K国も同じ論理をふりかざして、「自分たちの国を核保有国として認めろ」と騒いでいる。

●シャドウ論

 韓国とK国を並べてながめていると、ユングのシャドウ論が、頭の中を横切った。
韓国のもつシャドウを、K国が受け継いでいる。
そんな感じがした。

そんな感じがしたので、韓国とK国、それにシャドウ論をからめて考えてみたい。
うまくまとめられるかどうか自信はないが、一度、書いてみる。

 シャドウ論……「シャドウ(影)」として、心の裏に閉じこめられた人間性は、その近くにいる人に伝染しやすい。その一例として、佐木隆三の『復讐するは我にあり』がある。

 昨年(09年3月)に書いた原稿を、もう一度、ここでとりあげてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。
で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。
といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

++++++++++++++++++++

●みな、かぶっている

 たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

 今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。
私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。

ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

 映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

 以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

 もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。
たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

 が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、(現実)とは、しっかりと切り離すこと。
たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

 しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたりする。

 が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、自分のことを(神)と思いこんでしまう。
が、それだけではすまない。

●シャドウ

 このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。
が、さらに恐ろしいことが起きる。

 このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付しておく。
こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

 ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と言っていた。

が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に閉じことによって、善人を演じていただけである。
そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。
では、どうするか。

 私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。
この私だって、そうだ。

 で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

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