最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

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●菩提心

2009-07-27 06:29:56 | Weblog
【「私」って、何だろう?】(1)(09年6月22日記)
(意識と肉体の分離)

【菩提心】

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仏教によれば、私たちは煩悩(=欲望)のかたまり
であるという。
煩悩には、たとえば『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』
などがある。

『貪(どん)』というのは、「貪(むさぼ)ること」をいう。
『瞋(しん)』というのは、「激しく怒(いか)ること」をいう。
『痴(ち)』というのは、「無知なこと」をいう。
そのほかにもいろいろあるが、私たちの肉体は、これらの
煩悩に満ち溢れている。
その煩悩が、自分の内にある『菩提心』(すべての人々を愛すること)
が目覚めるのを邪魔する
世親(300~400年ごろの人、パキスタン、ペシャワール
あたりの人とされる※)が、そう説いている。

だから世親は、菩提心を呼び起こすためには、心(精神)を、
一度、肉体から切り離さなければならないと説いた(『浄土三部経』)。

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●精神と肉体

 私は53、4歳のころ、女性に対する興味を、ほとんどなくしてしまった。
女性が、「女」として意識できなくなってしまった。
たとえばある日、テレビで相撲を見ていたときのこと。
相撲取りの胸が、たいへん美しく思えた。
「若い娘の胸より美しい」と思った。
あるいはこんなこともあった。

どこかのレストランで、写真週刊誌を読んでいたときのこと。
後半のほうに、若い女性たちのヌード写真が、たくさん載っていた。
それを見ながら、ふとこう思った。
「今まで、どうしてこんな写真に興味をもったのだろう?」と。

 で、家に帰ってワイフに、こう言った。
「あのなア、お前、今のぼくなら、混浴風呂で若い女性と肩を並べて入っても
平気だぞ」と。
それに答えて、ワイフはこう言った。
「バカねえ……。相手の女性がいやがるわよ」と。

あとでそのことを人に話すと、「男の更年期」と教えてくれた人がいた。
「初老性のうつ病の症状かも」と教えてくれた人もいた。
うつ病になると、性的な関心を失い、似たような症状が出ることがあるそうだ。
が、それはともかくも、私はそのときはじめて、……というより、思春期以来はじめて、
性欲からの解放感を味わった。
さばさばしたというよりは、どこか乾いた砂漠の中に入ったような気分だった。
心が恐ろしく軽くなったのを覚えている。

 と、同時に、それまでの私が、あまりにも性欲の奴隷だったことを知った。
ありとあらゆる面が、「女性」と結びつき、その向こうにある「性」と結びついていた。
それがそのとき、わかった。

●精神と肉体の分離

 たまたま今、私は精神と肉体の分離を、現実に経験している。
(少し、おおげさかな?)
というのも、目下、ダイエット中。
少し油断していたら、体重がいつの間にか68キロ台にまでふえていた。
そこで体重を、63キロ台に落とすことを決意。
それが今の今もつづいている。

 で、食事のとき、私はいつも自分にこう問いかけながら、食べている。
「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損(そん)なのか」と。
たいへん興味深いことに、「損」という感じは、「損(そこ)ねる」とも使う。
「損(そん)」とも使う。
わかりやすく言えば、「体を損(そこ)ねるほど食べたら、かえって損(そん)」
ということになる。
 
 その食欲は、性欲とたいへんよく似ている。
腹がいっぱいになったとたん、食欲はスーッと消える。
性欲もまた同じ。

 回りくどい言い方をしたが、私たちの精神は、常に肉体からの命令によって、
左右される。
食欲にしても、性欲にしても、それらは肉体の反応でしかない。
その肉体の反応が、私たちの精神を操る。
ダイエットをしていると、それがよくわかる。

●肉体の奴隷

 が、もし肉体の反応のまま、精神が操られるとしたら……。
それが『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』ということになる。
ここでいう『痴』というのは、仏教でいうところの『愚痴(ぐち)』ということになる。
(日本語のグチとは、意味がちがう。
しかしグチを言う人は、基本的に愚かな人とみてよい。)

 操られるなら操られるなで構わないと、思う人も多いかと思う。
そのほうが楽しい、と。
ほしいものは、何でも手に入れる。
食べたいものは、何でも食べる。
したいことをし、行きたいところへ行く。
「それがどうして悪いことなのか」と。

が、しかしそれでは、「真理」に到達することはできない。
菩提心を目覚めさせることはできない。
世親は、それを言った。

●『瞋(しん)』

『瞋(しん)』というのは、「激しい怒り」をいう。
世親がそこまで考えて書いたかどうかは知らないが、怒りといっても、2種類ある。
原子力にたとえるのも、どこか不謹慎な感じがしないでもない。
が、原子力の使い方にも、2種類ある。
原子力発電所として、原子力を利用する方法。
もうひとつは、核爆弾として利用する方法。

 私は(怒り)を否定しない。
たとえば今、私はこうしてモノを書いているが、心の根底にあるのは、(怒り)と
言ってもよい。
社会に対する怒り、国に対する怒り、世界に対する怒り、など。
もちろん自分に対する怒りも、ある。
特定の個人に対する怒りも、ないとは言わない。
(できるだけそうしたことに、モノを書くということを利用したくないが……。)

 そうした(怒り)がなかったら、こうしてモノなど書かないだろう。
つまり私の感じている(怒り)というのは、原子力発電所の中の原子力のようなもの
である。

 これに対して、相手の襟首をつかまえ、「コノヤロー」「バカヤロー」と怒鳴りあうのは、
核爆弾の中の原子力のようなもの、ということになる。

●『痴(ち)』

 賢者からは、愚痴な人がよくわかる。
手に取るように、よくわかる。
しかし愚痴な人からは、賢者がわからない。
「自分と同じくらいだろう」くらいにしか考えない。

 同じように、自分が愚痴な人だったというのは、自分がより賢者になってみて、
はじめてわかる。
それはちょうど山登りに似ている。

 下から見たとき、それほど高くないと思っていても、登ってみると、意外と視野が
広いのに驚く。
また同時に、それまでの自分が、いかに低い位置にいたかを知る。

 さらに言えば、賢者も、愚痴な人も、相対的な(差)でしかない。
賢者の上には、さらなる賢者がいる。
愚痴な人の下には、さらなる愚痴の人がいる。
だから釈迦は、『精進(しょうじん)』という言葉を使った。
「日々に、研鑽あるのみ」「死ぬまで、研鑽あるのみ」と。

 その努力を怠ったとたん、どんな賢者でも、愚痴の世界に向かって、そのまま
まっしぐらに、ころげ落ちていく。

●『時は金なり』

 こうして私たちは、肉体は肉体とし、精神は精神として、分離する。
けっして肉体の奴隷になってはいけない。
奴隷になったとたん、自分を見失う。
見失って、貴重な時間を浪費する。

 『時は金なり』とはいうが、『時(=時間)そのものが、貴重』なのだ。
仮に今、あなたが「あなたの余命は、あと半年です」と宣告されたら、あなたは
どうするだろうか。
あなたは自分の命の短いことをのろい、悶絶するかもしれない。
しかし半年でも、10年でも、20年でも、同じではないか。
人はみな、例外なく、死に向かって、静かな行進をしつづける。
今、病気の人たちだけではない。
健康な人も、だ。

●恐怖心

 これから先については、私は想像で書くしかない。
「生きとし生けるもの、すべてに愛をもつこと」を『菩提心』というが、それが
どういうものなのかは、私にもわからない。
そこがどんな世界かも、知らない。
またそういう世界へ入っていくことに対して、恐怖心もないわけではない。

 そのことは、若いころ、インドのマザーテレサを知ったときにも感じた。
マザーテレサは、私たちのそれとは想像もつかないほど高い境地に達した人だが、
では、それがそのまま私たちの幸福感とつながるのかどうかということに、自信
がもてなかった。

 さらに具体的には、こうも考えた。
「もし私の息子の1人が、マザーテレサの弟子になりたいと言い出したら、それを
親として許すか」「許せるか」と。

 あなたなら、どうするだろうか。
それがここで私がいう、「恐怖心」ということになる。

●『菩提心』

 キリスト教では、愛を説く。
仏教では、慈悲を説く。
イスラム教というと、キリスト教とはまったく異質の宗教と考えている人は多い。
しかしキリスト教とイスラム教は、実際には、兄弟宗教と考えてよい。
この2つは、知れば知るほど、よく似ている。
もちろんイスラム教でも、愛を説く。

 これに対して、『菩提心』というのは、愛に合わせて、「智」も含まれる。
だから世親は、人間の欠陥のひとつとして、『痴』という言葉を使った。
「愛だけでは、人間は完成されない。智が伴って、はじめて人間は完成される」と。
これは私の勝手な判断によるものだが、それほどまちがっていないと思う。

 で、その『智』とは何か。
東洋医学では、(意)→(志)→(思)→(慮)→(智)と順に生み出していくと教える。
日本語にも、「意志」「思慮」という言葉がある。
「智」は、その先にある言葉ということになる。
英語では、sharp(頭が切れる)→clever(頭がよい)→wise(賢い)
というふうに使い分ける。

話はそれたが、簡単に言えば、人間は愛だけではだめ。
知性、理性がともなって、はじめて、愛は愛として光り輝く、というふうにも、
解釈できる。
世親のすごさは、一言で言えば、ここにある。

 要するに、『菩提心』というのは、心の中にある山の中でも、最高峰ということになる。
そこから見える景色は、どんなものか。
そのとき私はどんな境地に包まれるのか。
それは私にもわからないが、死ぬまでに一度は、その山に登ってみたい。
きっとすばらしい世界にちがいない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 世親 浄土三部経 菩提心)

(注※……世親、ウィキペディア百科事典より)

『世親(せしん、サンスクリット、vasubandhu ヴァスバンドゥ、音写:婆藪般豆、婆藪
般頭、旧訳名:天親〈てんじん〉)は、古代インドの仏教僧。現在のパキスタン、ペシャワ
ールの人で、無著の弟。浄土真宗七高僧の第二祖。
初め部派仏教の説一切有部を学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄の無
着から大乗仏教を勧められ、下らない教義を聞いていたと自らの耳をそいで、瑜伽行唯識
学派に入ったといわれている。その後、唯識思想を学び体系化することに勤めた』『300
~400年ごろの人』とある。

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