最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●形のない世界

2009-06-01 12:52:29 | Weblog
●「形」



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パソコンを相手に、何かをしていると、

ときおり、以前には経験したことがない

独特の不安感に襲われる。



たとえば今、私は、デジタルカメラで撮った

写真を、パソコン内部に取り入れた。



そこまでは、よい。



で、そのあと、メモリーカードに残っている

写真を、削除(フォーマット)しようとした

ときのこと。



またまた、あの不安感に、襲われた。



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●パソコンの世界



 私は、基本的には、パソコンなる電気製品を、信用していない。便利すぎるほど便利な電気
製品だが、扱い方が、むずかしい。ひとたび扱い方をまちがえると、そのまま奈落の底へと、
叩き落される。



 1~3時間もかかって書いた文章が、そのまま消えてしまうということもある。



 で、その道のプロに相談すると、(プロといっても、私の二男だが……)、こう教えてくれた。



 「データは、二重、三重の方法で保存しておくのが、この世界の常識だよ」と。



 データを、パソコン本体に保存するだけではなく、外づけのハードディスクに保存したり、DVD
に焼いておくのが常識、と。私のばあいは、それでも安心できず、さらにインターディスクにも、
保存している。



(インターディスクというのは、インターネット上の架空のハードディスクをいう。いろいろなサー
ビス会社があって、年間1万円ほどの費用で、1GB分までのデータを保存してくれる。)



 が、それでも、不安が残る。今でも、ときどき失敗して、データを削除してしまうことがある。
で、みなさんご存知のように、一度削除してしまったデータは、それこそ、まったく跡形(あとか
た)もなく、消えてしまう。



 こうした不安は、パソコンとつきあっていると、いつもつきまとう。たった今も、そうだ。



 デジタルカメラのメモリーがいっぱいになったので、一度、撮った写真をパソコンの中に取り
こんだ。そのあとのこと。



 いつものようにメモリーの中の写真を削除するため、メモリーカードをフォーマットしようとし
た。そのとき、あの独特の不安感が、ふと、心の中を横切った。フォーマットするということは、
撮った写真を、すべて消すことを意味する。



 「だいじょうぶかな?」「本当に、パソコンは、写真を取りこんでくれたかな?」と。



 そこでフォーマットする前に、もう一度、それを確認する。マイドキュメントの中の、マイピクチ
ャを開く。そしてその中に、たった今取りこんだ写真のフォルダがあることを、確認する。



 しかしそれでも安心できない。フォルダを開いて、そこに写真があることを確認する。



 写真なら、つまりフィルムで撮った写真なら、こういうことはない。「形」として残るからだ。しか
しパソコンの世界には、それがない。ないから、不安になる。



●形のない世界



 私たちは、長い間、形のある世界に生きてきた。何億年という長い間、だ。今も、基本的に
は、形のある世界に生きている。



 野原も山も、空も、そしてこの地球も、だ。私たちも含めて、ありとあらゆる生物には、「体」と
いう形がある。



 しかしパソコンの世界は、まったく異質の世界と考えてよい。そこは電子と信号の織りなす世
界。たとえば今、私はこうして文章を、架空の便箋の上に書きこんでいる。そして今、あなたは
こうして私の書いた文章を、架空の便箋の上で、読んでいる。



 が、これらはすべて、架空の世界である。便箋など、どこにもない。文章にしても、画面を下
へスクロールしたとたん、上の文章は、そのままどこかへ消えてなくなってしまう。



 しかし私たち人間は、形ある世界を常識として、今まで生きてきた。ものを書いても、写真を
撮っても、それを、形あるものとして残すことによって、そこに安心感を覚えてきた。もっとも安
心感といっても、そのときは、そんなことも考えなかったが……。



 しかしパソコンの世界は、ちがう。形そのものがない。ほかにたとえばネット取り引きがある。
ネット取り引きで、株の売買をしても、動くのは、画面上の数字だけ。「儲けた」「損した」と言っ
ても、現実に札が、動くわけではない。実感がないといえば、これほど実感のない世界はない。



 ほかにもある。



 たとえば単行本を出版する。そのとき初版で送られてきた本というのは、自分の子どものよう
に、いとおしい。かわいい。私のばあいは、そのあと数日間、いつもそれを抱いて寝る。



 が、パソコンの世界には、それがない。まったくない。現在、電子マガジンの読者が、2200
人ほどいる。HPへのアクセス数も、毎月、10000件前後ある。BLOGへのアクセスについ
ては、毎月、数万件近くもある。



 単純に計算すれば、毎月、(毎月だぞ!)、数万人以上の人たちが、私の書いた文章を読んでくれていることになる。



 こんな数字は、単行本の時代には考えられなかったことだ。



 で、私としては、それを喜ばなければならないのだが、これまた不思議なことに、その実感が
ない! まったくない!



 つまり、「形」のない世界というのは、そういう世界を言う。



●不安の中身 



 話はぐんと飛躍するが、そういう意味では、パソコンの世界と霊の世界は、どこか似ている。



 私自身は、霊の存在など、まったく認めていない。見たこともない世界のことだから、「あると
信じろ」と言われても、困る。それが私にとっては、常識ということになる。



 だからたとえばだれかが、こう言ったとしても、私は、安心しない。……できない。「あなたが
死んでも、あの世はちゃんとあります。安心しなさい」と。



 そう言われると、かえって不安になってしまうこともある。ないなら、「ない」と、はっきり、そう
言ってくれたほうが、よっぽど、気が楽。それを「ある、ある」というから、かえって不安になって
しまう。



 そう言えば、私が学生だったころ、こんなことを言う信者がいた。どこかのカルト教団に属す
る男性だった。



 「(テレビなどの)電波は見えない。見えないけど、ある。同じように、霊も、見えないだけで、
ある。目で見えないからといって、簡単に否定してはいけない」と。



 そのときは、「なかなかうまいことを言うなあ」と感心したが、同じように考えると、パソコンの
世界も、形がないだけで、「ある」ということになる。霊とちがって、少なくとも、こうして目で見る
ことだけはできる。



 で、もう一度、目の前の、この文章について、考えてみたい。



 私はこうして文章を、架空の便箋の上に書きこんでいる。そして今、あなたはこうして私の書
いた文章を、架空の便箋の上で、読んでいる。



 この便箋を、「ある」と言い切ってよいのか。便箋の上に書かれている文章を、「ある」と言い
切ってよいのか。



 しかし、私には、どうしても、「ある」と言い切ることができない。こうして書いたものが、自動的
に横でプリントアウトされて、本として残れば、「ある」ということになる。そしてその本が、何千
部も印刷されて、書店に並べば、「ある」ということになる。



 が、それがない。その実感が、ない。つまり「ある」と言い切れないところに、不安が残る。そ
してその不安が、不安感となって、ときおり、私を襲う。



 わかりやすく言えば、私が死ねば、そしてだれかが、プロバイダーへの更新料を払いつづけ
てくれなければ、私の書いた文章や、撮った写真は、それこそ、完全に、この世から消える。消
えてなくなる。私が生きたという痕跡すら、この世から消えてなくなる。



 形のない世界というのは、そういう世界をいう。



 それが時折、不安感となって、私を襲う。


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