最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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2010-02-26 06:20:15 | Weblog


●無私の愛(Unconditional Love)

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無私の愛。
損得の勘定を捨てきった愛。
英語では、「unconditional love(無条件の愛)」という。
しかし無私の愛などというものは、それを求めようとして、
求められるものではない。
無私の愛などいうものは、裏切られ、さらに裏切られ、
その上さらに裏切られ、「どうにでもなれ」という状況
になってはじめて、それがそこにあることを知る。
あるいは苦しみや悲しみの果てでもよい。
苦しんで、苦しんで、悲しんで、悲しんで、
その果てに、それがそこにあることを知る。

が、あくまでも結果。
その結果として、「無私の愛」を知る。
「知る」というよりは、そういう状況に追い込まれる。
否応なしに、追い込まれる。
追い込まれたあと、「無私の愛」がそこにあることを知る。
そこに、最後の救いを見出す。
しがみつく。

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●本能的な愛

 「私は子どもを愛しています」などと、平気で言う人がいる。
結構なことである。
すばらしいことである。
しかしその実、「愛」が何であるか、そういう人たちは、まったくわかっていない。
「愛」という言葉に酔っているだけ(失礼!)。

 というのも本能的な部分で、親は子どもを愛する(?)ようにできている。
一方、子どもは、本能的な部分で、親に愛されるようにできている。
最近の研究によれば、そうした心のメカニズムを、「mutual attachment(相互アタッチメ
ント)」という言葉を使って、説明する。
たとえばあの赤ん坊が、オギャーオギャーと泣いたとする。
が、そうして泣くのも、計算づく。
母性愛や父性愛をくすぐるために、赤ん坊は、自分の脳にインプットされた、プログラム
に従って泣く。
つまり赤ん坊が、親を操る。
親の心を操る。
それが別の形で現れるのが、「赤ちゃん返り」ということになる。

 下の子どもが生まれたりして、愛情飢餓の状態になると、子どもはもう一度、赤ちゃん
に戻り、親の関心を自分に引き寄せようとする。
おもらしをしたり、ネチネチした言い方をするなど。
本能的な部分で起こる現象のため、子どもを叱ったり、説教したりしても意味はない。
また、それでどうこうなるような問題ではない。

 こうした愛(?)を、私は、「本能的な愛」と呼んでいる。
もちろん先に書いた、「無私の愛」とは、まったく異質のものである。

●絶望感

 時として親は、子育てをしながら、はげしい絶望感を覚える。
挫折感、失望感・・・、何でもよい。
が、そこは自分の子ども。
自分の子どもから、逃れるわけにはいかない。
いかにはげしく葛藤しても、最終的には、受け入れるしかない。

 というのも人間の心というのは、不安定な状態には、たいへんもろい。
それから生まれる緊張感には、相当なものがある。
長くは持ちこたえられない。
そのため、一気に、どちらかの側にころぼうとする。
(拒絶)か、さもなければ(受容)か、と。
夫婦のばあいは、(拒絶)=(離婚)という方法もあるが、相手が自分の子どもでは、そう
はいかない。
親は、とことん、袋小路に追い詰められる。

 もっとも(拒絶)が、まったくないかというと、そうでもない。
本気で子どもを見捨ててしまう親も、少なくない。
家庭騒動、経済問題、夫婦不和などが、原因となることもある。
が、ごくふつうの家庭でも、(見た目には、まったくふつうの家庭でも)、(拒絶)が起こる
ことがある。

 援助交際を繰り返していた中学2年生の女子を、警察官が家の母親に電話をしたところ、
その母親は、こう言った。
「私には関係ないことですから、(娘を)勝手にしてください」と。
そして娘には、「2度と、家には帰ってこないでよ」(某テレビ局の突撃番組)と。
(中学2年生の娘に、だぞ!)
現実には、そういう家庭もある。

●受容

 が、一般的なケースでは、子どものできが悪ければ悪いほど、親は、自分を責める。
他人の子どもなら、「ハイ、さようなら!」と別れることもできる。
が、相手が自分の子どもでは、そうはいかない。
義務と責任、憎悪と愛情のはざまで、親は、もがく。
苦しむ。
が、それも頂点に達すると、親は究極の選択に迫られる。

「拒絶か、受容か」と。
その(受容)の先にあるのが、冒頭にあげた、「無私の愛」ということになる。
「もうどうにでもなれ!」と。

 しかしだからといって、子どもを捨てるわけではない。
あきらめるわけでもない。
子どもを自分の中に、完全に受け入れる。
それが「無私の愛」ということになる。 

 が、そこか実におおらかで、ゆったりとした世界。
何ものにも束縛されない、自由な世界。
しかしここで誤解してはいけないことがある。
だからといって、それで親子関係が正常になるとか、心豊かになるとか、そういうことで
はない。
親子関係は、そのまま。

もしあなたの子どもが、どうしようもないドラ息子や、ドラ娘であれば、そのまま。
無私の愛といっても、その中身は一方的なもの。
見返りさえ、ない。
つまりそのことまで、受け入れてしまう。
それが「無私の愛」ということになる。

●補足

 K国による拉致被害者にYTめぐみさんがいる。
その両親は、今の今も、めぐみさんの救済活動をつづけている。
その姿を、テレビなどでかいま見るたび、金xxへの怒りがこみあげてくる。
(拉致の首謀者は、まちがいなく、あの金xxだぞ!)
と、同時に、めぐみさんの両親には、神々しいほどまでの崇高さを感ずる。

それはもう「無私の愛」などという、生やさしいものではない。
私がここで説明した「無私の愛」などというものは、めぐみさんの両親には、ただの紙切
れのようなもの。
苦しんだり、悲しんだりするといっても、そこには限度というものがある。
めぐみさんの両親は、その限度を超えている。
K国に対する非難の攻撃を、けっしてゆるめてはいけない。
もうこれ以上、めぐみさんの両親を、苦しめてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 無私の愛 無条件の愛 親の愛)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【親バカ論】

●就職率50%

 大不況。
目下、進行中。
大卒の就職率も、50~60%とか。
事務所の隣人は、個人でリクルートの会社を経営している。
その隣人が、こう言った。
「実感としては、50%前後ではないですかね?」と。
つまり大卒のうち、2人に1人しか、就職できない。
きびしい!

 浜松市といえば、昔から工業都市として知られている。
HONDA、SUZUKI、YAMAHAなどの各社は、この浜松市で生まれた。
その浜松市でも、「50%」!

●親、貧乏盛り

 『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。
私が考えた諺(ことわざ)である。
それについては、何度も書いてきた。

 で、子どもを大学へ送ることは、得か損かという計算をしてみる。
・・・といっても、学部によって、大きく、異なる。
医学部のばあい、勤務医になれば、勤務後2~3年目には、年収は2000万円を超える。
開業医になれば、月収は500万円を超える。
(月収だぞ!)

 一方、文科系の学部のばあい、学費も安いが、その分、学歴も、ティシュペーパーのよ
うに軽い。
英文学部にしても、高校の教科書より簡単なテキストで勉強しているところは、いくらで
もある。
そんな学部を出ても、実際には、何ら、役に立たない。

 全体としてみると、それなりの資格のともなった学歴であれば、得。
資格をともなわない、ただの学歴であれば、損。
その結果、就職率50%ということになれば、何のための苦労だったのかということにな
る。

●3人に1人が、高齢者

 3人に1人が、高齢者。
そんな時代が、すぐそこまでやってきている。
現在、40歳以上の人は、老後になっても、満足な介護は受けられないと知るべし。
実際には、不可能。

 となると、自分の老後は、自分でみるしかない。
つまりそれだけの蓄(たくわ)えを用意するしかない。
で、たいていの人は、「自分の子どもがめんどうをみてくれる」と考えている。
が、今、あなたが高齢になった親のめんどうをみていないように、あなたの子どもも、ま
たあなたのめんどうをみない。
60%近い若者たちは、「経済的に余裕があれば・・・」という条件をつけている。
「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
(この数字とて、ほぼ10年前の数字。)
実際には、みな、目一杯の生活をしている。
経済的に余裕のある人など、いない。
若い世代では、さらにいない。

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