最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

●偽善(1)

2009-08-16 06:34:31 | Weblog





☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β       
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 16日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★ ★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page009.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●私たちは死なない(What is the Death for Us?)

人は日々に死に、日々に生まれ変わる。
細胞の生死を考えれば、それがわかる。
骨の寿命にしても、それほど長くはない。
6か月とか1年単位で、すべて入れ替わる。

死んだ細胞は、体外へ排出され、ときに
分子レベルまでばらばらになって、また
別の生物や無生物の中へと、取り込まれていく。
同時に、私たちは日々に、ほかの生物や
無生物から、食物として、新しい細胞を
取り入れて、いく。

こうして私たちはありとあらゆる生物と
つながり、今というときを生きている、

では、死んだらどうなるか。
基本的には、人にかぎらず、生き物には死はない。
意識は途絶えるが、(命)は、姿や形を変え、
別の生物となって生きていく。
虫かもしれない。
花や木かもしれない。
動物や、魚かもしれない。
ともかくも、生きていく。

この連続性を総称して、「命」という。
ただそれぞれの意識は、一度、途絶える。
たとえばあれほどまでに人を警戒していた
スズメにしても、死ねば、その羽を
風にさらず。
人につかまれても、身動きひとつしない。
が、だからといって、それが(終わり)を
意味するわけではない。
スズメの意識が、途絶えただけ。

が、意識が途絶えることは、こうした生命の
流れの中では、何でもないこと。
今、あなたが感じている意識しにしても、
あなたの脳の意識の、数十万分の1、
あるいはそれ以下かもしれない。
「これが私」と思っている意識にしても、
そのほとんどが、私であって私でない。
そんな意識が途切れることを、恐れる必要はない。
恐れてはいけない。

それよりもすばらしいことは、あなたの命が、
今のこの瞬間にも、日々に、ほかの生物へと
伝わっているというその事実。
同じように反対に、ほかの生物が、
日々にあなたを作りあげえているという、
その事実。
何も「死」だけが死ではない。
繰り返すが、私たちは、すでに日々に死に、そして日々に
生まれ変わっている。
そうした生物ぜんたいの一部として、私がここにいて、
あなたがそこにいる。

死ぬことを恐れる必要はない。
たとえばあなたはトイレで便を出すことを恐れるだろうか。
そんなことはだれも恐れない。
しかしあの便だって、ほんの1週間、あるいは1か月前には、
あなたの(命)だった。
その命が、便となり、あなたから去っていく。
その便が、いつかどこかで、別の命を構成していく。

もし「死」が何であるかと問われれば、それは
意識の(とだえ)をいう。
死んだとたん、意識は連続性を失う。
しかし心配無用。

ものが見えなくなる。
ものが聞こえなくなる。
しかしそれを悲しむ意識そのものも消える。
だから取り越し苦労はしない。
そのときは、そのとき。
そのときまでものが見えるなら、それを喜べばよい。
ものが聞こえるなら、それを喜べばよい。
それに意識を残す方法は、いくらでもある。

たとえば今、あなたは私の書いたこの文章を読んでいる。
その瞬間、私の意識とあなたの意識はつながる。
私はあなたの意識の中に、入る。
多少の時間差はあるかもしれないが、あなたの意識の中に入る。

「多少の時間差」というのは、数日かもしれないし、
5年とか、10年という年月かもしれない。
しかしどうしてそれが問題なのか。
時の流れというのは、そういうもの。
一瞬を数万年に感ずることもできる。
数万年を一瞬に感ずることもできる。
長い、短いという判断は、主観的なもの。
もともと時の流れに、絶対的な尺度など、ない。

大切なのは、今、この瞬間に、私がここにいて、
あなたがそこにいるという、この事実。
この瞬間にこの文章を私が書き、あなたが
読んでいるという事実。

あなたの意識は、あなたの肉体の死とともに
途絶える。
しかしその意識は、別のだれかに伝えられる。
また、それができる。
ちょうど今、釈迦やキリストの代わりに、
あなたがこの世界を見たり、聞いたりするように、
いつかだれかがあなたの代わりに、この世界を
見たり、聞いたりするようになる。
こうしてあなたは、べつのだれかの中で、
生き返る。
それを繰り返す。

大切なことは、本当に大切なことは、
そのためにも、よい意識を残すこと。
伝えること。
善なる心を残すこと。
伝えること。
その努力を怠ってはいけないということ。
それが私たちが今、ここ生きている、
第一の目的といってもよい。

さあ、死を恐れるのは、もうやめよう。
死なんて、どこにもない。
私たちはこれからも、永遠に生きていく。
姿、形は変わるかもしれないが、もともと
この世のものに、定型などない。

なにも人間の形だけが、「形」ではない。
また私たちの姿、形が、ミミズに変わったとしても、
ミミズはミミズで、土の中で、結構楽しく
暮らしている。
人間だけの判断基準で、ほかの生物を見ては
いけない。

そうそう犬のハナのした糞にさえ、ハエたちは
楽しそうに群がっている。
それが命。

私たちが日々に生き、日々に死ぬことさえわかれば、
最後の死にしても、「命」の一部にすぎない。
そのときは、何もこわがらなくてもよい。
あなたは静かに目を閉じるだけ。
それだけで、すべてがすむ。

すでにあなたの生まれ変わりは、あなたの周囲に、
ゴマンといる。
そこにいるハエだって、ハエはそれを意識することは
ないだろうが、あなたの生まれ変わり。
あなたも、ハエの生まれ変わり。

あなたはありとあらゆる生物の(輪)の中で
生きている。
あなたが死んでも、その輪は残る。
そしてあなたはその輪の中で、永遠に生きる。

繰り返す。
死んだときから、その輪が始まるわけではない。
輪は、すでに永遠の過去から始まり、
この先も永遠につづく。
しかも日々に、この瞬間ごとに、つづく。

あとはその日まで、思う存分、生きること。
目的はただひとつ。
あなたの意識を、深めること。
あなたの意識を、一歩でもよいから、善なるものに
近づけること。
つぎにつづく人や生物たちが、よりよく生きやすく
するために。
それが今を生きる私たちの使命ということになる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「反戦の誓い」?(Making a Vow not to break out a War?)

++++++++++++++++++++++++++++++++

8月15日、麻生総理が「不戦の誓いを新たにし、
世界の恒久平和の確立に向けて積極的に貢献していくことを誓う」と
式辞を述べたあと、正午からは1分間の黙祷が行われたという。
(全国戦没者追悼式・日本武道館)

++++++++++++++++++++++++++++++++ 

●反戦の誓い?

「反戦の誓い」とは、何か?
私には理解できない。
文字通りに解釈すれば、「戦争に反対する誓い」ということになる。
それに、「誓い」といっても、いったいだれに対してするのか。

 何度も繰り返し書くが、戦後、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、
「反戦の誓い」があったからではない。
世界最強のアメリカ軍が駐留していたからにほかならない。
もしアメリカ軍が日本に駐留していなかったら、あるいはあのまま日本を去って
いたら、日本は繰り返し、外国の攻撃にさらされていたはず。
これは(可能性)の問題ではない。
(確実にそうなったであろう)という話である。

 毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・北朝鮮、マルコス・フィリッピン。
それにスターリン・ソ連などなど。
アジアの国々が連合軍を組織して、日本を攻めたかもしれない。

 何もこう書くからといって、「反戦の誓い」がまちがっているというのではない。
言葉としては、美しい。
美しいが、それだけ。
もし仮に、アメリカのオバマ大統領が、「反戦の誓い」なるものをしたとしたら、
どうなる?
その瞬間から、世界中は、大混乱に陥るはず。
日本だけが、「反戦の誓い」とやらをしながら、自分だけ安全圏に逃れるのは、
果たして許されることなのか。

 もし全国戦没者追悼式で宣言することがあるとするなら、「反戦の誓い」ではなく、
「反省の決意」である。
私たち日本人は、世界各国から戦後、袋だたきにあってもしかたのないようなことを、
先の戦争でしてしまった。
いくら弁解しても、この事実をゆがめることはできない。
もし戦時中の日本軍の行動が正しかったと言うのなら、逆に、現在の日本が、その反対の
ことをされても、文句を言わないことだ。
どこかの国の植民地になったとしても、文句を言わないことだ。
つまりそこまで覚悟して、「反戦の誓い」は、意味をもつ。

 反戦も結構。
しかし先のK国のミサイル発射実験を例にあげるまでもなく、仮に、どこかの国が
日本を攻撃してきたら、どうするのか?
「自衛は反戦ではない」と、そのときは「誓い」を捨てるつもりなのか?

 反戦という以上、「戦争はしない」。
たとえどこかの国が攻めてきても、戦争はしない。
というのも、自衛と戦争の間に、線を引くことはできない。
現に先のミサイル発射実験のときには、敵地攻撃論、さらには最近に至っては、
先制攻撃論、核兵器保有論まで、政府の高官の口から出てきている。
「坐して死を待つことはない」と。

 自衛戦争は、即、「戦争」そのもの。
古今東西、どの国も、「自衛」を口実に、世界に向かって戦争をしかけていった。
つまりこれほどまでにいいかげんな「誓い」というのは、そうはない。
だいたい、だれに向かって誓うというのか?

 自分か?
日本国民か?
それとも世界か?
あるいは神や仏か?

 平和というのは、他国の平和をまず考えてやってこそ、守れる。
インドの元首相のネールも、そう言っている。
わかりやすく言えば、他国に脅威を与えない。
「日本は脅威ではありませんよ」という印象を与えてこそ、日本の平和は守れる。
誓うとしたら、「他国に脅威を与えるようなことはしません」でもよい。
そういう具体性、かつ、世界の人が納得する(誓い)であるなら、私も賛成する。
が、そうでないから、私は首をかしげる。
しかしそれにしても、10年、20年一律のごとく、「反戦の誓い」とは?

 少しは自分の頭で考えて、進歩しろ!

 あえて言う。
戦争はいやですと言って、逃げて回るのは、平和主義でもなんでもない。
ただの臆病という。
戦争になって、殺されても構いませんと言うのも、これまた平和主義でも
なんでもない。
ただの事なかれ主義という。
いざとなったら、国を守るために戦いますというのが、平和主義ということに
なる。

 つまり平和というのは、つねに積極的に求めてこそ、守れるもの。
「何もしないから、相手も何もしてこないだろう」という考え方は、甘い。
いかに甘いかは、日本軍が戦時中にしたことを思い浮かべてみればわかるはず。
日本軍は、そういう国々をつぎつぎと占領していった。

 それを棚に上げて、「反戦の誓い」はない。
すべきことがあるとするなら、「反省の決意」である。
勇気が必要だが、その勇気を世界に示してこそ、日本ははじめてアジア諸国のみならず、
世界の国々に認められる。
またそのときこそ、日本の平和が保障される。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 平和宣言 反戦の誓い 戦没者追悼式 平和主義 平和主義者 日本
の平和と安全)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●映画『ナイト・ミュージアム2』

+++++++++++++++++

字幕版、『ナイト・ミュージアム2』を見てきた。
字幕版のほか、「日本語・吹き替え版」というのもある。
吹き替え版のほうは、ちょうど夏休みということで、
子ども向けということか。

星は3つの、★★★。
前作は、4つの、★★★★。
今回の「2」は、あまりにもドタバタ。
あれも、これもと、何もかも詰めすぎた。
結果、何がなんだか、訳が分からない映画に
なってしまった。
おもしろい映画だったが、それだけ。
ドタバタ、ドタバタ・・・。
それだけで終わってしまった。
だから星は、やはり3つ。

やはりこの映画は、子ども向け。

+++++++++++++++++++

●映画と文学

 映画のもつアカデミック性は、文学のそれよりは
一般的に低く評価される。
(コミックと文学の関係も、それに似ている。)
映画はあくまでも娯楽、という考え方が、今でも根強い。
私自身も、心のどこかで、そう感じている。
しかしそれは偏見。

映画はそれ自体、すばらしい芸術。
絵画や音楽そのものが、そこへ凝縮されている。
文学と比較しても、なんら遜色がないばかりか、実はその逆。

絵画、音楽、文学の3つが一体化したのが、映画ということになる。
ときに、それ以上のものを表現する。
絵画、音楽、文学では表現できないものを、映画は表現する。
が、問題がないわけではない。
そのひとつが、(時の流れ)。
つまり映画は、製作者の意図したまま、私たち自身を操る。
ときに考えるスキを与えない。

たとえばもし映画を、政府のプロパガンダ(情宣活動)や、
どこかの宗教団体の洗脳教育用に使われたら、たいへんなことになる。

一方、本なら、ときどき読むのをやめたりして、時間を調整することができる。
批判をはさむこともできる。
映画では、それができない。

また文学のもつ(想像性)というのが、映画では、抹殺される。
つまり映画を見ながら、自分の想像力を働かせるということができない。
それ以上のものを、映画は、(現実)として、それを観る人に
押しつけてしまう。

たとえば本で、「水もしたたるような美人」という表現があったとする。
そういうとき私たちは、頭の中で、それぞれの美人を想像する。
が、映画では、その美人そのものまで、画像として出してしまう。

むずかしい話はさておき、映画と文学の最大のちがいは何かといえば、
(考える力)ということになる。
文学では、常に考える力を試される。
一方、映画では、考える力を必要としない。
「観れば、それでわかる」と。

が、もちろん映画には、文学にはない、すばらしい面がある。
それは過去や未来、あるいは遠い見知らぬ国を、先にも
書いたように、それを(現実)のものとして、見せてくれる。
いくら想像力を働かせても、想像できないような世界を見せてくれる。

ただもちろん映画にも限界がある。
たとえば私は今、ここまで40行前後の文章を書いた。
テーマは、「映画と文学」。
こうした文章にみられる、(論理性)というのは、映画にはない。
あるにはあるのだろうが、観る人にその力がないときには、
「ああ、おもしろかった」で終わってしまう。

だからあえて言うなら、映画を観たら、どこかでそれを(思想)として
消化しなければならない。
具体的には、その映画について考え、評論し、思想として抜き出させるものは、
抜き出す。

それをしないで、ただ観っぱなしにすれば、それこそただの娯楽で終わってしまう。 
つまり読む側、観る側の姿勢のちがいによって、文学は文学になり、映画は映画に
なる。

で、最近、DVDで好んで借りてくるのが、実話もの。
昨夜も、オーストラリア映画の、『ディア・マイ・ファーザ(Dear My Father)』というの
借りてきた。
原作は、Raimond Gaita著※の、『Romulus, My Father』となっている。

舞台は、メルボルン市の郊外にあるバララートという、昔からある町。
(最後のエンディングのところで、ビクトリア州のMaldonで撮影、とある。)
今でも、開拓時代の面影を強く残す町として、多くの観光客が訪れている。
内容はともかくも、私はその主人公に興味をもった。

年齢は、私と同じ。
「1960年に、満13歳」とあった。
私も1947年生まれ、1960年には、満13歳!
最後のところには、こうあった。

「主人公のRaimondは、のちに、著名な作家、哲学者となった」と。
ビクトリア州で、哲学科のある大学といえば、メルボルン大学しかない。
大きな大学だから、私と接点があったとは思わないが、その主人公に
たいへん興味をひかれた。
確率論的には、どこかで顔を合わせているはず。

実際、ハウス(カレッジ)の同窓生には、そののち映画監督になったのもいる。
オーストラリア医師会の副会長になったのもいる。
それぞれがそれぞれの分野で、大成している。
哲学者になったのがいたとしても、なにもおかしくない。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。