最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●偽善(2)

2009-08-16 06:34:04 | Weblog


最後にこうある。

Raimond Gaita grew up to become an acclaimed author and philosopher.
Romulus Gaita returned to live at Frogmore and eventually remarried.
He died in May 1996.
He is buried in the local cemetery close to Christina.
 
ライモンド・ガイタは、著名な作家、哲学者となった。
父のロムラス・ガイタは、フログモアに戻り、再婚した。
彼は1996年の5月の死去。
クリスチーナ(元妻)の近くの墓地に埋葬されている。

実話であるだけに、また実名で映画化されているだけに、元妻の2人の娘たちと
その家族の了解も取り付けたらしい。
「Special Thanks(感謝の意を捧げる)」として、実名と家族名が、それぞれ
公表されている。

内容は、静かな、あのオーストラリアの広大な牧場を舞台とした、どこまでも
静かな映画。
星はつけたくない。
オーストラリアが好きな人には、たまらない映画と思う。
「こういう人生があり、こういう環境で育った子どももいるのだなあ」と思いたい人には、
お勧め。
当時のオーストラリアといえば、世界でも2番目にリッチで、生活が楽な国として
ランクされていた。
メルボルン市にしても、世界でもっとも気候が温暖な都市として、知られていた。
その裏で、こういう世界もあったのか・・・、と。

物語は、1960年から始まる。
私がオーストラリアへ渡る、ちょうど10年前ということになる。
・・・いろいろ考える。

話を戻す。

いくら想像力が豊かでも、本を読んだだけでは、オーストラリアのあの広大な
牧場の景色は思い浮かんでこない。
登場人物の、ちょっとした動作やしぐさにしても、文章を通して読んだら、
日本人のそれをそれに重ねてしまうかもしれない。

映画がよくて、文学がつまらないと書いているのではない。
それぞれに一長一短があるということ。
ときにこうした映画を通して、たがいに補完しあうということもある。

が、残念ながら、映画のアカデミック性は、まだまだ弱い。
大学に、「映画学部」とか、「映画学科」というのが生まれるまでには、
まだ相当の時間がかかる。
(演劇学部というのは、あるが・・・。)
が、だからといって可能性がないわけではない。
映画を観て、人生を学び、真理を探究するという時代も、すぐそこまで来ているように
私は感ずる。

(補記)
 このところ劇場へ足を運ぶと、『20世紀少年』とかなんとかいう、
どこかあやしげな映画の予告編が流される。
どこかの宗教団体と結託してできた映画、という説もある。
あるいはどこかの宗教団体を批判した映画、という説もある。
どこか不自然、かつ不気味?

 もし、どこかの宗教団体が、あの映画制作を裏で操っているとしたら、
これは社会問題ということになる。
そうでないことを願うが、私はああいう映画は、お金を出してまでは観に
行かない。
予告編だけを観た印象では、イヤ~ナ感じ。
だいたいあんな映画が、第3作までつづくということがおかしい。
劇場映画として、劇場まであがってくるのがおかしい。
かなりの資金力が裏で働かなければ、とうていできない芸当である。

 あやしいぞ!
おかしいぞ!
一度、本気で調べてみたい!

(注※)Raimond Gaita(ライモンド・ガイタ)

Gaita attended St. Patrick's College, Ballarat (Victoria) Melbourne High
School(Victoria), University of Melbourne (BA Hons, MA) and University of Leeds
(PhD).
He is married to Yael Gaita, who is a teacher at The King David School, where she
teaches Hebrew. He has two children, Katerina and Eva and two step children, Dahlia
and Michelle.

ガイタは、聖パトリックのカレッジ、Ballarat(ビクトリア)、メルボルン高校(ビクトリ
ア)、メルボルン(オナーBA、MA)大学とリーズ(博士)大学に通う。彼はヤエルGaita
(その人はデイビッド学校王の教師)と結婚。彼女はヘブライ語の教授。彼には、2人の子
供たち、カテリーナとエヴァと2人の継子(Dahliaとミシェル)がいる。

(注)正しくは「レイモンド」だが、オーストラリアでは、「ライモンド」と発音する。
また(オナーBA)というのは、成績優秀者に与えられる学位をいう。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●基本的人生論

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DVD『ディア・マイ・ファーザー』を
ほめてばかりいてはいけない。
DVDを観ながら、こんなことを考えた。

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●裏切られる夫

 映画のストーリーを簡単に説明する。

 夫と妻、それに主人公の息子(ライモンド)の、3人家族。
しかし妻は、つぎからつぎへと男を乗り替え、浮気し放題。
あげくの果てには、夫の友人の弟ともできてしまう。
そしてその弟との間に、子ども(主人公にとっては、
種ちがいの妹)まで作ってしまう。

 が、夫は、静かにそれに耐える。
離婚を考えることもない。
妻はときどき夫のところへ帰ってきて、体を求める。
夫は、どこか冷やかさを残しながらも、そういう妻の求めに応ずる。
そういう家庭環境の中で、主人公の子ども(ライモンド)は成長していく。

 で、最後は、妻は睡眠薬を飲んで自殺。
友人の弟も自殺。
夫は心を病み、精神病院へ……。

 何とも悲惨なストーリーだが、それがこの映画の(柱)に
なっている。

●疑問?

 この映画を観ていて、第一の疑問は、「それほどまでに、よくできた男というのは、
本当にいるのか?」ということ。
あるいは、「それほどまでに妻を深く愛せる男というのは、本当にいるのか?」でも
よい。

 つまり(できすぎ)。
この(できすぎ)のところが不自然。
しかしこの話は、実話である。
となると、俳優が悪いということになる。

 映画に出てくる夫は、ハンサムで、かっこいい。
頭もきれそうだし、生活力もありそう。
何かのラブストーリーの主人公になっても、おかしくない。

 私たちは映画を観るとき、俳優を通して、その俳優の心をさぐる。
で、そこで脳みその中で、電気的ショートが起こる。
「こんなすばらしい夫をもちながら、どうして?」と。

 ……ということで、私は、事実は、少し違うのではないかと思う。
ライモンドの実際の父親は、どこか頼りなく、どこか抜けたような、どこか覇気のない
男性ではなかったか、と。
映画に出てくるような、かっこいい男性ではなく、風采のあがらない、なよなよした
男性ではなかったか、と。
これには、理由がある。

●基礎的人間性

 仮にあなたの妻が、外出しては、浮気を重ねていたとしよう。
そしてその浮気相手と、子どもまで、作ってしまったとしよう。
そのとき、あなたなら、どのように反応するだろうか。
それをほんの少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

 こういうケースのばあい、大きく分けて、2つの選択肢がある。

(1) 妻と大喧嘩を繰り返し、離婚を覚悟する。
(2) 妻の浮気を認め、妻のしたいようにさせる。

 が、主人公ライモンドの父親(夫)は、(2)のほうを選択する。
となると、ライモンドの父親は、ものすごい人生観の持ち主ということになる。
あるいは妻に対して、神々しいほどまでの愛を感じているということになる。
すべてを許し、すべてを忘れる……。

 が、ここで大きな壁にぶつかる。
それほどまでの(愛)となると、並大抵の努力では、自分のものにすることはできない。
幾多の苦労に苦労を重ねて、人生の極致に達した人だけがもちうる愛と考えてよい。
それにそこに至るには、熟成期間というのが、必要。
もし私のワイフが、そんなことを繰り返していたら、私なら、即、離婚を考えるだろう。
40年近くもいっしょに暮らし、もうすぐ62歳になる私にしてもそうだ。

 つまり、それが「基礎的人間性」ということになる。

 どんな人にも、その人なりの人間性というものがある。
その人間性を支える、(基礎)というものがある。
その基礎なくして、突然、その人が、神々しい愛をもつなどということは、常識で
考えても、ありえない。
空腹でおなかをすかした幼児が、自分のもっているパンを、友人に分け与えるようなもの
である。

●偽善

 いくつかの例をあげてみよう。

(例1) Kさんは、周囲の人たちから、高い評価を受けていた。
ボランティアとして、近所の独居老人宅を回り、その世話をしていた。
が、自分の親の介護になったとたん、豹変した。
親を虐待した。
親を食卓へ連れてくるときも、首をつかんだまま、廊下を引きずっていた。

(例2) Xさんは、有名なタレントだった。A国の難民救済運動家として活躍していた。
週刊誌や月刊誌にも、写真がよく紹介された。
が、あるカメラマンが、思わぬ光景を目撃してしまう。
情宣用の写真撮影が終わると、Xさんは、赤子を抱いた手や体を消毒薬で
消毒していたという。
つまり写真撮影のためだけに、難民の赤子を抱いていた。

(例3) Yさんも、このところ孤児救済のチャリティバザーを繰り返している。
ラジオに出ては、ボランティア活動の重要さを説いている。
しかしそこに至る実績はゼロ。
若い時から、ホームレスの世話をしたとか、食事の炊き出しをしたとか、
そういう背景と言うか、積み重ねがあれば話は別。
Yさんをよく知る某テレビ局のディレクターは、こう教えてくれた。
「Yさんは、いつも2時間くらいかけて、化粧をしています」と。

 こういうのを、私たちの世界では、「偽善」と呼ぶ。
善人ぶりながら、自分への評価を高め、最終的にはそれを自分への利益へとつなげていく。
こうした偽善を見破るのは、簡単。
どこかに(ちぐはぐさ)を感じたら、それは偽善と判断してよい。

●ディア・マイ・ファーザー

 DVD『ディア・マイ・ファーザー』に話を戻す。
この映画が実話なら、私はやはり、俳優の選択ミスということになる。
ライモンドの父親は、家具職人である。
鉄の棒を熱で曲げながら、いろいろな家具を作る。

 そういう職歴の男性が、こうまで高邁(こうまい)な愛を、はたして
もちうるものだろうか。
(何も、職人という職業がどうのこうのと言っているのではない。
しかしあまりにも、高邁すぎる?)

 それに若い。
映画の中では、30歳前後の男性として登場している。
つまり基礎的人間性が、それなりにあるとしても、映画で表現されているほどはない。
……という点で、不自然。
私はその(不自然さ)を感じてしまった。

 あとの判断は、映画を観た人に任せる。
「林の言ったとおりだな」と思う人もいるかもしれない。
あるいは「林の言っていることは、まちがっている」と思う人もいるかもしれない。
一度、そういう視点で、あの映画を観てみたらどうだろうか。
家庭で観て、損はない映画である。
よい映画であることには、まちがいない。

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●病気見舞い

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冠婚葬祭というと、派手であればあるほどよい
と考える人は多い。
しかしそれはちょうど、子どもに与えるプレゼント
のようなもの。
高価なものであればあるほど、子どもは喜ぶはずと
親は考える。
しかし実際には、逆効果。
(物欲)には、麻薬性がある。
つぎに子どもは、つぎにもっと高価なものを求めるようになる。
また高価なものでないと、満足しなくなる。
さらに言えば、これを繰り返していると、子どもはかえってドラ息子化するだけ。

で、最近は、冠婚葬祭を質素にすます人がふえてきた。
(形)より(中身)、(中身)より(心)を求める人が、
それだけふえてきたと考えてよい。

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●山城新伍

 私の好きな俳優に、山城新伍という人がいた。
おととい(12日)、亡くなったという。
享年、70歳。
長い間、糖尿病を患っていたという。
その山城新伍について、ちょうど1年前(08年の8月)、
こんな原稿を書いていた。
(このとき母は、まだ特別養護老人ホームに入居していた。)

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●見舞い

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週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城新伍)は、こう語っている。

記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。

YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。

週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。

YSは、こう言っている。

「そんなもん、会いたくないやろ」と。

同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。

それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
「相手は、私に会いたがっているはず」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。

私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。

ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。

仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに来なければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。
母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。

母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。

さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。

母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。

YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

週刊B春によれば、こうある。

「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。

治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。

希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
わずらわしいだけ。
それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。

相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。

これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。

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