●私の時代
私の時代には、まだ温もりがあった。
今の若い人たちに、こんなことを言っても理解されないだろう。
しかし私たちの時代には、親への仕送りは、当然のことだった。
私も、結婚する前から、収入の半分を、岐阜の実家へ毎月、送っていた。
ワイフと結婚するときも、それが条件だった。
だから、ワイフは、何も迷わず、結婚してからも、実家へ毎月、お金を送っていた。
(ただし経済的負担感というより、その社会的負担感には、相当なものがあった。
けっして楽しくて、仕送りしていたわけではない。……念のため!)
が、今はちがう。
私の息子たちにしても、懸命に働かざるをえなかった私を、むしろ反対に責める。
「パパは、家庭を顧(かえり)みなかった」と。
そういう言葉を聞くたびに、私はこう思う。
「貧しさを知らない世代は、かわいそう」と。
そう、私たちは、いつも(貧しさ)というよりは、(ひもじさ)と闘っていた。
毎日、空腹だった。
毎日が、その闘いだった。
ワイフにしても、生まれたとき(昭和24年生まれだが)、やせ細り、いつ死んでも
おかしくない子どもだったという。
私も、ひざの骨が変形している。
成長期の栄養不足(カルシウム不足)が、原因という。
が、若い人たちには、それが理解できない。
豊かさがあることについても、「当たり前」と考える。
だからこんな会話をしたことがある。
「ぼくらは、戦後、きびしい時代を生きてきた」と、こぼしたときのこと。
その青年(25歳くらい)は、こう言った。
「そんなの、あんたたちの責任だろ。あんたたちが、勝手に起こした戦争だから」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
どうであれ、私はこう言いたい。
子どもの学費も結構。
子どもの教育も結構。
しかし自分の老後を見ながら、お金は大切に使え、と。
車なんか買ってやるのは、もってのほか。
「ありがとう」と言うのは、そのときだけ。
私が経験者だから、それをよく知っている。
●再び限度
かなり否定的なことを書いた。
もちろん親子仲よく、むつまじく過ごしている人たちも多い。
しかしそういう人たちほど、「競争」とは無縁の世界で、子ども時代を送っている。
受験競争を経験していない。
「心」を見失っていない。
つまりその分だけ、お金に毒されていない。
しかしこれだけは、最後に言える。
こうして「心」を見失った若者たちにせよ、結局は、被害者ということ。
そのツケは、その子ども自身に回っていく。
今は、わからない。
しかし今度は自分が老後を迎えたとき、その悲惨さを、自ら体験する。
「私はだいじょうぶ」と、高をくくっている若い親ほど、あぶない。
「私たちは、良好な親子関係を築いている」と、うぬぼれている親ほど、あぶない。
すでにその時点で、子どもの心を見失っている。
それもそのはず。
「心」というのは、外から見えている部分よりも、見えていない部分のほうが、
はるかに大きい。
自分の「心」にしてもそうだ。
ましてや肉体を別にした、子どもの心など、親がいくら想像力を働かせても、わかる
はずはない。
その一例として、冒頭に、車の話を書いた。
親は、「息子たちは感謝しているはず」と思うかもしれない。
しかしそれはまさに幻想。
わかりやすく言えば、「意識のズレ」。
学費にしても、結婚費用にしても、また新居費用にしても、そこには「限度」がある。
その「限度」をしっかりと守りつつ、子育てをする。
これは、子育ての第一の基本と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 子育ての限度 ラッセル 親のすべきこと してはいけないこと)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●脳と健康(私の推論)
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うつ病の最大の敵は、「こだわり」。
うつ病イコール、こだわり。
こだわりイコール、うつ病。
うつ病とこだわりは、紙でいえば
表と裏の関係。
両者は、いつも同時進行の形で始まり、
そして同時進行の形で終わる。
言い換えると、ひとつのことにこだわり
始めたら、要注意。
それがうつ病の始まり。
・・・と、私は勝手に解釈している。
が、大筋では、それほどまちがっていない
と思う。
書店で、「サイエンス」の最新号を読んだとき、
それを確信した。
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●エネルギー
脳細胞は、ものすごい量のエネルギーを消耗している。
脳とコンピュータを直接比較することはできないが、コンピュータが消費する
電力を思い浮かべればよい。
一説によると、人体の消費するエネルギーの3分の1とか、あるいは80%とか、
その程度を消費している。
が、昨日、面白い論文を読んだ。
「サイエンス」(最新号)に載っていた論文だが、人間の脳というのは、常時、
ものすごい量のエネルギーを消費しているという。
何かを考えているときも、反対に何も考えず、リラックスしているときも、
同じように消費しているという。
むしろ何かを懸命に考えているときのほうが、その部分の脳は活発に活動するが、
全体としてみると、かえってエネルギーの消費量が少なくなる、とも。
従来は、使用される脳細胞をみて、脳の働きをみたが、最近は、消費する
エネルギーの量をみながら、脳の働きをみるそうだ。
(以上、立ち読みで得た知識なので、内容は不正確。)
●こだわり
サイエンスという雑誌で得た知識を、「こだわり」に当てはめて考えてみる。
つまり人が何かのことに、強いこだわりをもったとする。
するとそのこだわりをもった部分については、脳は活発にエネルギーを消費する。
そればかりを懸命に考えるために、そうなる。
しかし全体としてみると、ほかの部分が、休止状態になるため、エネルギーの
消費は低下する(?)。
「リラックスしているときのほうが、エネルギーの消費量が多くなる」というのは、
そういう意味と考えられる。
が、このことは、実生活に当てはめてみると、納得できる。
●こだわりとボケ症状
私の実兄は、晩年、ものごとに対するこだわりが、たいへん強くなった。
たとえば見知らぬ人が、私の家の前に無断駐車をしたりする。
すると、実兄はその車が気になってしかたなかったらしい。
車のことでブツブツ言いながら、車のことばかり気にした。
ときにそのまま、精神状態がおかしくなったりした。
同時に、実兄のボケ症状は、進んだ。
うつ病とボケ。
専門家でも、その区別がむずかしいという。
つまり、うつ病からボケ症状を併発する人もいれば、反対に、ボケ症状から、うつ病を
併発する人もいる。
どちらが先で、どちらが後か。
あるいはどちらが本病で、どちらが表病か。
専門家でも、その区別がむずかしいという。
つまりものごとに対するこだわりが強ければ強いほど、一方でうつ病を引き起こし、
他方で、脳全体の働きを鈍らせる。
うつ病とボケ症状は、いわばペアの関係にあるということになる。
(注:ボケ症状イコール、認知症ではない。)
●私の推論
ずいぶんと乱暴な推論なので、このあたりは適当に読んでもらえばよい。
しかしこう考えると、「こだわり」「うつ病」「ボケ症状」の関係が、スッキリと
頭の中で整理できる。
それにサイエンスに載っていた記事を重ね合わせてみる。
全体がひとつの論理で、さらにうまく説明ができる。
もう一度、復習すると、こうなる。
脳全体は、常時、大量のエネルギーを消費している。
リラックスしているときも、そうでないときも、だ。
が、ひとつのことにこだわると、その部分でのエネルギーの消費は増大するが、
脳のほかの部分でのエネルギーの消費量は、低下する。
その一例として、「こだわり」がある。
こだわりが強ければ強いほど、脳のその部分でのエネルギーの消費は増大する。
が、脳のほかの部分でのエネルギーの消費量は低下する。
それがボケ症状につながる。
「こだわり」と「ボケ症状」との関係は、こうしてうまく説明できる。
●研究バカ(失礼!)
似たような体験は、日常的によくする。
たとえば「研究バカ」(失礼!)と呼ばれる人たちがいる。
その分野では、特異にすぐれた業績を残すが、ほかの部分では、まるで常識ハズレ、
というような人のことをいう。
子どもの世界にも、ときどき、このタイプの子どもがいる。
印象に残っているのに、S君(当時、高校生)という子どもがいた。
私が予備校でアルバイト講師していたときのことだった。
私はS君に出会った。
成績だけはメチャメチャよかった。
難解な数学の問題を、スラスラと解いた。
が、どこからどう見ても、おかしい。
どうおかしかったかということは、ここには書けない。
しかしおかしい。
まともではない。
そのS君が、ある日、こう言った。
「先生、この世の中のことは、すべて数学で説明できる」と。
私は彼に意見に首をかしげたが、S君は真顔だった。
●ボケ防止
つまりS君は、「勉強」という脳の中でも一部の分野では、特異な能力を見せた。
が、それ以外の分野では、むしろ眠ったような状態になっていた。
おそらく「醤油」と「ソース」の使い分けも知らなかったのでは?
またそう考えると、当時のS君が、よりよく理解できる。
「刺身に、ソースをかけて食べる」と言ったこともある。
が、この推論は、そのまま我ら老人族にも、重要な意味をもつ。
結論を先に言えば、こだわりは、ボケの始まり、ということ。
うつ病は、ボケの初期症状と言い換えてもよい。
つまりある特定のことだけに、悶々と悩んだりするのは、脳の健康のためによくない。
むしろ脳の健康のためには、脳をリラックスさせ、四方八方、あらゆることに
興味をもつようにする。
そのための努力を怠らない。