最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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(0)老齢期の心理

2010-06-09 06:49:28 | Weblog
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      6月   9日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●Active Learning(生きた教育)vs Silent People(もの言わぬ民)

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バートランド・ラッセルは、つぎのように述べている。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls.
教師の知恵をそのまま受け入れることは、生徒たちにとっては楽なこと。

It involves no effort of independent thought, and seems rational because the teacher
knows more than his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher
unless he is a very exceptional man.
自分で考えるという努力を必要としないし、それに教師は生徒たちよりもよく知っている
という点で、教師のもつ知恵は、より道理的である。

Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life.
が、ものごとを受動的に受け入れるという習慣は、あとになって、たいへんなことだとわ
かる。

It causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that
position...
受動的であると、リーダーを求めるようになり、その地位にある人ならだれであっても、
その人をリーダーと受け入れてしまうようになる。

It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few who can
appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a good.
精神的な冒険による喜びというのは、稀なことであり、それゆえにそれを楽しむ人はほと
んどいない。そのためふつうの教育というのは、規律正しく貴族主義的であればあるほど、
よいと言われる。

I do not believe this.
しかし私は、こんなことを信じない。

The joy of mental adventure is far commoner in the young than in grown men and
women.
若い人たちのほうが、成人した人たちより、ずっとしばしば、精神的な冒険の喜びを経験
している。

Among children it is very common, and grows naturally out of the period of
make-believe and fancy.
幼い子どもたちほどそうで、成長とともに、空想の世界から自然と抜け出ていく。

It is rare in later life because everything is done to kill it during education...
むしろ歳をとればとるほど、教育を通して、それをつぶされてしまうため、そういうこと
が稀になる。

The wish to preserve the past rather than the hope of creating the future dominates the
minds of those who control the teaching of the young.
未来を創造するという希望よりも、過去を保全するという願いのほうが、若い人たちを教
育する教師の心を、より強く支配する。

Education should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity
directed towards the world that our efforts are to create.
教育というのは、死んだ事実を、生徒たちに押しつけることを目的としてはいけない。そ
うではなくて、私たちの努力が創りあげる世界に向かって、生徒たちを活動的にすること
を目的としなければならない。

++++++++++++++++++++

●死んだ教育vs生きた教育

 教師はどうしても、保守主義に陥りやすい。
「教育」本来のシステムそのものが、そういう趣旨から出発している。
とくに日本のばあい、明治以来、「教え、育てる」が、教育の基本になっている。
最初に「教科書」を用意し、それを子どもたちに植えつける。
それが教育の基本になっている。

 しかしオーストラリアでは、(当時は批判的な声も多く聞かれたが)、すでに小学3年生
まで、教科書を使っていなかった(南オーストラリア州)。
それも私が直接確認したのは、25年以上も前のことである。
(最近のことは、知らない。)
また「教科書」という概念ではなく、彼らが使っているのは、「テキスト」である。
テキストブック、イコール、教科書ではない。

 つまり世界的にみれば、日本の教育はバートランド・ラッセル風に言えば、「死んだ教育」
ということになっている。
それが、基本になっている。
「創りあげる教育」ではなく、「上から下へ、押しつける教育」。
だからおもそろくない。
つまらない。
だから子どもたちは、よくこう言う。

「まだ、習っていない!」と。
何か新しい漢字を書かせようとしたり、新しい問題を解かせようとしたとき、など。
決まって、そう言う。
教育の受け方そのものが、受動的。
わかりやすく言えば、小学低学年時においてすら、すでにそう飼い慣らされてしまってい
る!

●では、どうするか?

 教科書の廃止は当然としても、それに代わるシステムを創りあげなければならない。
「指針」のようなものでよい。
また教育現場にダイナミズムをもたらすために、EUのように大学の単位を共通化する。
同時に教育のクラブ化を進める。
重要な必須科目は、「学校」という場で教える。
しかしそうでない科目は、学校を離れたクラブで教える。
クラブを選ぶのは、子どもたちの自由。

 フランスに住んでいるSさんは、最近、こんなメールをくれた。
「(2人)の子どもたちは、自転車クラブに夢中です」と。
まだ小学生である。
そういう子どもたちが、クラブを通して、夢中になれるものをもっている。
それをすばらしいと言わずして、何という。

 もちろんその前に、やるべきことがひとつある。
職業の公平化である。

 親たちは日々の生活を通して、社会の「格差」「差別」「不公平」を、いやというほど、
感じ取っている。
こうした問題を解決しないまま、今、教育を自由化すれば、いわゆる受験産業だけが「ク
ラブ」になってしまう。
それでは元の木阿弥。

 が、皮肉なことに、この日本では、そうした格差、差別、不公平の恩恵を受けているの
が、官僚たち、なかんずく文部科学省。
天下り先として機能している外郭団体にしても、ダントツに多い。
1800団体近くもある。
中には、ほとんど意味のない団体もある。
こうした団体が、日本の教育をがんじがらめにし、硬直化させている。
1500年もつづいた日本の官僚制度の壁は、あなたが考えているより、はるかに厚い。

 その結果、どんな子どもが生まれるか?
それはあなた自身が、いちばんよく知っている。
「もの言わぬ、従順な民」。
あるいは、「もの考えぬ、従順な民」でもよい。
それがあなた自身ということになる。

 日本の教育を真正面から批判してみた。

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別 自由な教育論)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●子育ての山と谷(子育ての限度)

++++++++++++++++++

「山」だからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。
「谷」だからといって、取り越し苦労をしてはいけない。

子育てには、山もあれば、谷もある。
山がすべてではないし、谷がすべてでもない。
山を基準に子育てを見てはいけない。
谷を基準に子育てを見てもいけない。

子育ては、常に平常心。
「限度」をよくわきまえ、動揺しない。
親は親で、マイペースで進む。

ここでは、その「限度」について。

+++++++++++++++++++

●限度

 あのバートランド・ラッセルは、「限度」という言葉を使った。
「限度をわきまえている親のみが、真の家族の喜びを与えられる」と。

 それはその通りで、仮にあなたが長男に、新車をプレゼントしたとしよう。
結婚祝いでも何でもよい。
すると、二男は、それを見て、「自分も買ってもらって当然」と思うようになる。
だから買ってあげても、二男は、「ありがとう」とは言うかもしれないが、そこまで。
で、その話を聞いた三男は、今度は、あなたに、車を買ってくれと請求するかも
しれない。
「兄たちが買ってもらったんだから、ぼくも、買ってほしい」と。
買ってあげても、もちろん、感謝などしない。
「当然」と考える。

 これが「限度」である。
わかるかな?
子育てには、その限度がある。
やるべきことは、やる。
しかしそれ以上のことは、しない。
したら最後、限度がなくなる。
「その限度をわきまえている親のみが、真の家族の喜びを与えられる」(バートランド・
ラッセル)と。

 つまり子どもに車など、買ってやってはいけない。
それは親のすべきことではない。

●親孝行

 はっきり言おう。
最近の若者に、親孝行を説いても無駄。
その意識すらない。
「親孝行」の意味すら、知らない。

 親は自分の意識を基準に、子どもにもそれがあると思うかもしれない。
しかしどんな調査結果をみても、今、日本人(成人男女)で、「将来、
親のめんどうをみる」と考えている若者は、20%前後しかいない。
多くは、「経済的に余裕があれば」という条件をつけている。
つまり「みない」と。
(この世の中に、経済的に余裕のある若者は、いない!)

 あとはささいなきっかけを理由に、「縁を切る」と言って、親を捨てる。
ある男性(40歳)は、「息子(=孫)の運動会に来てくれなかった」という理由だけで、
父親との縁を切っている。
「だからそんな親のめんどうは、みない」と。
つまり(めんどうをみたくない)という思いが先にあり、その口実として、「運動会
に来てくれなかった」という理由にもならない理由を、こじつける。

こういう現状を、いったい、どれだけの人が知っているだろうか。

●きびしくなる老後

 あなたが40代、50代の人なら、こうアドバイスしたい。
「無駄な教育費など、子どもにかけるな!」と。
よほどの余裕があるなら、話は別。
そうでなければ、自分の老後をしっかりと見据え、あまったお金は、自分の
老後の資金に回す。
「息子(娘)に、学資をかけておけば、その見返りはあるだろう」などと考えるのは、
幻想以外の、何ものでもない。
子どもも幸福になり、感謝されるはずというのも、幻想以外の、何ものでもない。

 冷たいことを書いているようだが、これがそこにある「現実」であり、それから
生まれる悲劇が、今、いたるところで起きている。
そうでなくても、やがて人口の3分の1が、高齢者になる。
2人の働き手が、1人の老人を支えることなど、不可能。
むずかしい経済学を知らなくても、そんなことは、だれにでもわかる。
それが「現実」。

 で、学資をかけた分だけ、子どもが親に感謝しているかと言えば、それはない。
よほどの子どもでも、それはない。
今、親に感謝しながら、高校に通っている子どもは、ゼロ!
大学生でも、ほぼゼロ!
親の金で遊びまくったとしても、子どもには、罪の意識はない。
「ぼくたちは、子どものころから、やりたくもない勉強をさせられた」と。

●毒された社会

 どうして、日本は、こうなってしまったか?
そのひとつのヒントが、中国にある。
あの国では、すべてが、マネー、マネー、マネー。
ちょうど30年遅れで、日本を追いかけている。
その結果、中国人は、「心」を見失ってしまった。
ありとあらゆることを、金儲けにつなげて考える。
道徳も倫理も、あったものではない。
そうした中国人たちを見ていると、30年前の日本を思い出す。

 さらにこのことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。
私は、幼児期の子どもから、高校3年生まで教えている。
1日というサイクルの中で、教えている。
だから子どもたちの「心」が、どのように変化していくかが、よくわかる。
そのひとつが、受験期の子ども。

 受験期にかかると、子どもは、急速に暖かい「心」を見失っていく。
ものの考え方が功利的、打算的になる。
人間関係も殺伐したものになる。
親子関係、教師との関係も、無難というわけにはいかない。

 が、最大の悲劇は、そうした「心」を見失いながらも、子ども自身がそれに気づかない
ということ。
さらに悲劇は、そういう子どもほど、親は、「できのいい子」と言って、喜ぶ。
言うまでもなく、親自身が、すでに暖かい「心」を見失っている。

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