最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

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●子育てジャンプ(4)-2

2009-06-23 08:33:47 | Weblog
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(106)

●自慢は要注意

 日本人はもともと上下意識の強い民族。上下関係がないと落ち着かない。そのため無意識のうちにも、上下関係を身の回りでつくろうとする。そしてその結果、「上」の人には必要以上にペコペコし、「下」の人には尊大ぶったり、いばったりする。が、その上下関係がはっきりしないときがある。

そういうとき日本人は、自慢話を始める。……と決めてかかるのも危険なことだが、日本人は自慢することによって、相手を「下」におこうとする。先祖や家柄を自慢する人、学歴や経歴を自慢する人、親類や子どもを自慢する人などがいる。自慢しながら、自分を優位な立場に置こうとする。で、その自慢のし方は、人さまざま。

(1)それとなく会話に中に自慢を折り込む人……「今度S高校(市内でも有名な進学校)の連中と、同窓会をしましてね」とか、「いとこがA町で町長をしてましてね」とか。あるいは「今度の選挙で、親類の選挙運動を頼まれました」とか言うなど。「私の先祖に、○○藩で家老をしていたのがいます」と、ストレートに自分を自慢する人もいる。  

(2)大物ぶる人……「定年退職をしたら、郷里で市長でもしようかな」とか、「先週、○○市の市長から電話がありましてね」とか。「あの大臣がね、この町に来たときにね、パーティに出てほしいと言われて、しかたなく出てきました」と言った人もいた。

 「今」という現実の中で、「私は私」と生きている人は、自慢などしない。しても意味がない。しかし仮想現実の世界※で、他人の目を気にして生きている人は、どうしても自慢が多くなる。だいたいにおいて人間の上下関係などというのも、フィクション(架空)に過ぎない。人間に上下などない。あるわけがない。同じように名誉や地位、肩書き、社会的地位もフィクション。それはちょうど子どものゲームのようなもので、その世界にハマッた人にはその愚かさがわからない。

言いかえると自慢話をして自分を飾る人は、それだけ自分のない人とみる。たとえば議員バッジを胸につけ、ふんぞりかえって歩く国会議員を思い浮かべればよい。はたから見るとこっけいなのだが、本人にはそれがわからない。

 ……と言いながら、実のところ私も、ときどき自慢話をする。しかしそのたびに、「くだらないからやめろ」という声も聞こえてくる。あるいは自慢話をしたあとというのは、どこか不愉快になる。自分がなさけなくなるときもある。「自慢」というのはそういうもので、自慢話をするときの自分は、自分であって、自分でない。だから自慢はできるだけしない。しそうになると、「やめた」と言って、自ら遠ざかる。私は私だ。他人がどう思うとも、私の知ったことではない。さてあなたはどうだろうか。きわどい話になってしまったが、この項は、あくまでも一つの参考意見としてとらえてほしい。

※ ……生きる本分を忘れた生活を、私は、「仮想現実の世界」と呼んでいる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(107)

●子どもは自慢せよ

 前の項で、「自慢は要注意」を書いた。が、「自慢してはいけない」と言っているのではない。問題は、自慢の「質」だ。たとえば英語国では、親は平気で子どもを自慢する。「私は息子を誇りに思う」とか、「私の息子は、○○コンテストで1位になった」とか。日本人はそういうほめ方はしない。謙遜して自分の息子を、「愚息」とか、「バカ息子」とか言うことが多い。

 一般論として、子どもの努力とやさしさはほめる。顔やスタイルはほめない。「頭」についてはほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。そこで子どもの自慢も同じように考えてよい。子どもが努力したことについては、遠慮なくほめる。自慢する。そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。

……と言っても、はじめてアメリカへ行ったとき、向こうの親が自分の子どもを自慢するのを聞いて、私は少なからず驚いた。日本でも自分の子どもを自慢する親はいるにはいるが、アメリカ人のように多くはない。が、そのうち日本と英語国では、自慢の「質」が違うことに気づいた。

日本では、見栄やメンツのために子どもを自慢することが多い。つまり何らかの下心をもって自慢する。しかし英語国では、そういうものをクリアした段階で、子どもを自慢する。つまり親は、子どもという人間だけをみて、子どもを自慢する。だから子どももそれをすなおに受け入れる。受け入れながら、子どもは、「父はぼくを信じていてくれるのだ」「父はぼくのことを喜んでいてくれるのだ」というように思うようになる。

が、この日本ではそうはいかない。「うちの息子はA国立大学へ入いりましてね」と親が言ったりすると、どこかイヤ味に聞こえる。あるいはそれを言うほうにしても、相手はイヤ味に感ずるだろうということがわかっているから、あえて話題にしない。

 ……と言っても今、日本の社会は大きく変わりつつある。欧米化というより、グローバル化が進んでいる。外国の人に自分の息子を、「マイ・スチューピッド・サン(私の愚息)……」などと紹介しようものなら、相手は目を白黒させて驚くだろう。つまりこうした言い方は日本以外の国では通用しない。(だからといって日本のやり方がまちがっているというのではない。念のため。)しないならしないで、なぜ外国では通用しないかを考えてみることも、大切なことではないのか。

もっと言えば、日本は日本で、長くつづいた島国根性の中で、ゆがめられた部分も多いということ。この「自慢」もその一つと考えてよい。本来、親はもっと自分の子どもの成長を、人前でもすなおに喜んでもよいのではないか。しかしそれがこの日本では、どうもできない。できないところが、その「ゆがみ」ということになる。この問題の「根」は、想像以上に深い。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(108)

●今を懸命に生きる

 バーチャルな世界に生きる人ほど、過去や未来(結果)にこだわる。先日もある男性(60歳)が私にこう言った。「そういうことをすれば、私の先祖が許さない」と。私は思わず、「どこに先祖がいるのですか?」と聞きそうになった。このタイプの人は、何ごとにつけ、家柄や出身にこだわる。それが生きがいになっていることもある。

一方、「死に際の様子で、その人の一生が決まる」と言った女性(45歳)がいた。死に際の様子がよければそれでよし。そうでなければ、その人の一生はまちがっていたことになるのだ、と。ある宗教団体に属する人だった。私はこの話を聞いて、「交通事故では死ねないな」と思った。しかし交通事故にあうかあわないかは、偶然と確率の問題。仮に交通事故で死んだからといって、その人の人生がまちがっていたことにはならない。

 ロビン・ウィリアムズ主演の映画に「今を生きる」というのがあった。「今を懸命に生きろ」と教える教師。進学指導中心の学校側。そのはざまで一人の高校生が自殺するという映画である。この「今を生きる」という生き方が、バーチャルな生き方の正反対の位置にある。「過去や未来などどこにもない。あるのは今という現実だけ。だったらこの現実の中で精一杯、人間らしく生きよう。結果はあとからついてくる」と。

 概して日本人は仏教(チベット密教)の影響を大きく受けているから、結果を重視する。「終わりよければ、すべてよし」と。そしてこういう生きざまは子どもの教育にも大きな影響を与えている。いつも結果を重要視するから、幼稚園教育は小学校の入試のため。小学校教育は中学校の入試のため。さらに中学や高校は大学入試のため。大学は就職のため、と。また社会へ出てからも、いつも「今」を未来のために犠牲にするようになる。

こうした生き方は、休暇のすごし方にもあらわれる。日本人はたまの休みが与えられても、その休みの間は休みが終わったあとの仕事のことしか考えない。だからのんびりと休むこともできない。子どもについても同じ。子どもが日曜日に家でゴロゴロしていようものなら、親はこう言う。「宿題はやったの?」「来週のテストはだいじょうぶ?」と。

 が、何といっても日本人の最大の悲劇は、そのバーチャルな世界に住みながらも、それがバーチャルな世界だと気づかないところにある。それはまさしく映画「マトリックス」の世界といってもよい。「今を生きる」という本分が、どこかへ飛んでいってしまい、わからなくなってしまう。

 ……と書いたが、ここから先は、それぞれの人の生きざまの問題。私のようなものがとやかくいう問題ではない。あとは皆さんの判断による。ただ誤解しないでほしいのは、だからといって先祖を粗末にしてよいとか、そういうことを言っているのではない。「あくまでも生きる本分を忘れてはならない」と、私は言っているのである。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(109)

●生きる誇り

 私の留学の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏だった。皇后陛下の父君。そしてその正田氏のもとで、実務を担当してくれたのが、坂本義行氏だった。坂本竜馬の直系のひ孫氏と聞いていた。私は東京商工会議所の中にあった、日豪経済委員会から奨学金を得た。正田氏はその委員会の中で、人物交流委員会の委員長をしていた。その東京商工会議所へ遊びに行くたびに、正田氏は近くのソバ屋へ私を連れて行ってくれた。

そんなある日、私は正田氏に、「どうして私を(留学生に)選んでくれたのですか」と聞いたことがある。正田氏はそばを食べる手を休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。「浩司の『浩』が同じだろ」と。そしてしばらく間をおいて、こう言った。「孫にも自由に会えんのだよ」と。

 おかげで私はとんでもない世界に足を踏み入れてしまった。私が寝泊まりをすることになったメルボルン大学のカレッジは、各国の王族や皇族の子弟ばかり。私の隣人は西ジャワの王子。その隣がモーリシャスの皇太子。さらにマレーシアの大蔵大臣の息子などなど。毎週金曜日や土曜日の晩餐会には、各国の大使や政治家がやってきて、夕食を共にした。元首相たちはもちろんのこと、その前年には、あのマダム・ガンジーも来た。

ときどき各国からノーベル賞級の研究者がやってきて、数カ月単位で宿泊することもあった。しかし「慣れ」というのは、こわいものだ。そういう生活をしても、自分がそういう生活をしていることすら忘れてしまう。ほかの学生たちも、そして私も、自分たちが特別の生活をしていると思ったことはない。意識したこともない。もちろんそれが最高の教育だと思ったこともない。が、一度だけ、私は自分が最高の教育を受けていると実感したことがある。

 カレッジの玄関は長い通路になっていて、その通路の両側にいくつかの花瓶が並べてあった。ある朝のこと、花瓶の1つを見ると、そのふちに50セント硬貨がのっていた。だれかが落としたものを、別のだれかが拾ってそこへ置いたらしい。当時の50セントは、今の貨幣価値で800円くらいか。もって行こうと思えば、だれにでもできた。しかしそのコインは、次の日も、また次の日も、そこにあった。4日後も、5日後もそこにあった。私はそのコインがそこにあるのを見るたびに、誇らしさで胸がはりさけそうだった。そのときのことだ。私は「最高の教育を受けている」と実感した。

 帰国後、私は商社に入社したが、その年の夏までに退職。数か月東京にいたあと、この浜松市へやってきた。以後、社会的にも経済的にも、どん底の生活を強いられた。幼稚園で働いているという自分の身分すら、高校や大学の同窓生には隠した。しかしそんなときでも、私を支え、救ってくれたのは、あの50セント硬貨だった。

私は、情緒もそれほど安定していない。精神力も強くない。誘惑にも弱い。そんな私だったが、曲がりなりにも、自分の道を踏みはずさないですんだのは、あの50セント硬貨のおかげだった。私はあの五十セント硬貨を思い出すことで、いつでも、どこでも、気高く生きることができた。

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