●発達障害児のための教室
+++++++++++++++
浜松市内では、現在、拠点校として、
6校ほどの小学校が、発達障害の
ある子どもを、専門的に指導する
設備を整えている。
たまたま先日講演をさせてもらった
S小学校もその一つ。そこには約40人
の障害をもった子どもが、通学している。
S小学校の現在の全校児童数は、400
人弱だから、約10%の子どもということ
になる。
自閉症、緘黙症、AD・HD児、LD児
など。ほかに言葉の教室もあり、発語
障害のある子ども(幼児を含む)も、
週1回くらいの割合で通っている。
健常児といっしょに生活することで、
将来にわたって、社会的に自立しやすく
するということで、ほかの子どもたちと、
ほとんど区別することなく、指導して
いるとのこと。
なお、現在(07年7月)、41人の
障害をもった子どもが通学しており、
それに対して、9人の指導教師が、
指導にあたっている(S小学校)。
また指導用の教室は、学校の中に、学校の
建物と併設という形で並んでいる。
S小学校のばあいも、校長室、職員室
と同じ棟、その隣に併設されている。
++++++++++++++++
●変わる親の意識
以前はというと、発達障害をもった子どもの親は、それを世間的に(?)隠そうとする意識が強かった。「障害児をもつことは、家の恥」という、とんでもない誤解と偏見もあった。その疑い(?)をかけられただけで、親は、絶望感にたたきのめされたり、あるいは狂乱状態になったりした。
今でも、その傾向には大きなちがいはない。しかしこの5、6年、親たちの意識が大きく変わり始めているのを感ずる。
S小学校でも、校長とそれが話題になった。私が、「親たちがこういう教室へ入れることに抵抗しませんか?」と質問すると、校長は、笑いながら、「最近では、よその地域から、見学に来る親がふえています」とのこと。
もちろんそこに至る過程の中で、さまざまな葛藤があったと思われる。しかし親たちが、自分の立場ではなく、子どもの立場で、ものを考えるようになった。校長も、そう言っていた。これはたいへんすばらしいことだと思う。
もちろん学校側としては、強制はできない。そういう教室に入れるかどうかは、あくまでも、最終的には、親の判断ということになる。しかし子どもの立場で考えると、その子どもには、その子どもに合った環境で、指導を受けるほうが、BETTERということになる。つまりそういうふうに考える親がふえてきた。
問題点もないわけではない。が、今やっと、こうした指導態勢が、この日本でも始まったばかり。私たちがすべきことは、こうした指導態勢を前向きにとらえて、それを伸ばし、育てていくこと。当然のことながら、親たちもまた、それに合わせて、意識を変えていかねばならない。
国のレベルは、いかに弱者にやさしいかで、決まる。同じように教育のレベルもまた、いかに弱者にやさしいかで決まる。進学率ではない。(やさしさ)である。そうした常識が、日本中の常識となったとき、日本という国は、すばらしい国になる。
+++++++++++++
私が8年前に書いた原稿を
添付します。
中日新聞に発表したものですが、
この原稿には、大きな反響が
ありました。
+++++++++++++
●「お宅の子どもを、落第させましょう」・学校は人間選別機関?
アメリカでは、先生が、「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。あるいは子どもの勉強がおくれがちになると、親のほうから、「落第させてくれ」と頼みに行くケースも多い。これはウソでも誇張でもない。事実だ。
そういうとき親は、「そのほうが、子どものためになる」と判断する。が、この日本では、そうはいかない。先日もある親から、こんな相談があった。何でもその子ども(小二女児)が、担任の先生から、なかよし学級(養護学級)を勧められているというのだ。それで「どうしたらいいか」と。
日本の教育は、伝統的に人間選別が柱になっている。それを学歴制度や学校神話が、側面から支えてきた。今も、支えている。だから親は「子どもがコースからはずれること」イコール、「落ちこぼれ」ととらえる。しかしこれは親にとっては、恐怖以外、何ものでもない。その相談してきた人も、電話口の向こうでオイオイと泣いていた。
少し話はそれるが、たまたまテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた(99年春)。ある人がニュージーランドの小学校を訪問したときのことである。
その小学校では、その年から、手話を教えるようになった。壁にズラリと張られた手話の絵を見ながら、その人が「どうして手話の勉強をするのですか」と聞くと、女性の校長はこう言った。「もうすぐ聴力に障害のある子どもが、(1年生となって)入学してくるからです」と。
こういう「やさしさ」を、欧米の人は知っている。知っているからこそ、「落第させましょう」と言われても、気にしない。そこで私はここに書いていることを確認するため、浜松市に住んでいるアメリカ人の友人に電話をしてみた。彼は日本へくる前、高校の教師を三〇年間、勤めていた。
私「日本では、身体に障害のある子どもは、別の施設で教えることになっている。アメリカではどうか?」
友「どうして、別の施設に入れなければならないのか」
私「アメリカでは、そういう子どもが、入学を希望してきたらどうするか」
友「歓迎される」
私「歓迎される?」
友「もちろん歓迎される」
私「知的な障害のある子どもはどうか」
友「別のクラスが用意される」
私「親や子どもは、そこへ入ることをいやがらないか」
友「どうして、いやがらなければならないのか?」と。
そう言えば、アメリカでもオーストラリアでも、学校の校舎そのものがすべて、完全なバリアフリー(段差なし)になっている。
同じ教育といいながら、アメリカと日本では、とらえ方に天と地ほどの開きがある。こういう事実をふまえながら、そのアメリカ人はこう結んだ。「日本の教育はなぜ、そんなにおくれているのか?」と。
私はその相談してきた人に、「あくまでもお子さんを主体に考えましょう」とだけ言った。それ以上のことも、またそれ以下のことも、私には言えなかった。しかしこれだけはここに書ける。
日本の教育が世界の最高水準にあると考えるのは、幻想でしかない。日本の教育は、基本的な部分で、どこか狂っている。それだけのことだ。
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浜松市内では、現在、拠点校として、
6校ほどの小学校が、発達障害の
ある子どもを、専門的に指導する
設備を整えている。
たまたま先日講演をさせてもらった
S小学校もその一つ。そこには約40人
の障害をもった子どもが、通学している。
S小学校の現在の全校児童数は、400
人弱だから、約10%の子どもということ
になる。
自閉症、緘黙症、AD・HD児、LD児
など。ほかに言葉の教室もあり、発語
障害のある子ども(幼児を含む)も、
週1回くらいの割合で通っている。
健常児といっしょに生活することで、
将来にわたって、社会的に自立しやすく
するということで、ほかの子どもたちと、
ほとんど区別することなく、指導して
いるとのこと。
なお、現在(07年7月)、41人の
障害をもった子どもが通学しており、
それに対して、9人の指導教師が、
指導にあたっている(S小学校)。
また指導用の教室は、学校の中に、学校の
建物と併設という形で並んでいる。
S小学校のばあいも、校長室、職員室
と同じ棟、その隣に併設されている。
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●変わる親の意識
以前はというと、発達障害をもった子どもの親は、それを世間的に(?)隠そうとする意識が強かった。「障害児をもつことは、家の恥」という、とんでもない誤解と偏見もあった。その疑い(?)をかけられただけで、親は、絶望感にたたきのめされたり、あるいは狂乱状態になったりした。
今でも、その傾向には大きなちがいはない。しかしこの5、6年、親たちの意識が大きく変わり始めているのを感ずる。
S小学校でも、校長とそれが話題になった。私が、「親たちがこういう教室へ入れることに抵抗しませんか?」と質問すると、校長は、笑いながら、「最近では、よその地域から、見学に来る親がふえています」とのこと。
もちろんそこに至る過程の中で、さまざまな葛藤があったと思われる。しかし親たちが、自分の立場ではなく、子どもの立場で、ものを考えるようになった。校長も、そう言っていた。これはたいへんすばらしいことだと思う。
もちろん学校側としては、強制はできない。そういう教室に入れるかどうかは、あくまでも、最終的には、親の判断ということになる。しかし子どもの立場で考えると、その子どもには、その子どもに合った環境で、指導を受けるほうが、BETTERということになる。つまりそういうふうに考える親がふえてきた。
問題点もないわけではない。が、今やっと、こうした指導態勢が、この日本でも始まったばかり。私たちがすべきことは、こうした指導態勢を前向きにとらえて、それを伸ばし、育てていくこと。当然のことながら、親たちもまた、それに合わせて、意識を変えていかねばならない。
国のレベルは、いかに弱者にやさしいかで、決まる。同じように教育のレベルもまた、いかに弱者にやさしいかで決まる。進学率ではない。(やさしさ)である。そうした常識が、日本中の常識となったとき、日本という国は、すばらしい国になる。
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私が8年前に書いた原稿を
添付します。
中日新聞に発表したものですが、
この原稿には、大きな反響が
ありました。
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●「お宅の子どもを、落第させましょう」・学校は人間選別機関?
アメリカでは、先生が、「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。あるいは子どもの勉強がおくれがちになると、親のほうから、「落第させてくれ」と頼みに行くケースも多い。これはウソでも誇張でもない。事実だ。
そういうとき親は、「そのほうが、子どものためになる」と判断する。が、この日本では、そうはいかない。先日もある親から、こんな相談があった。何でもその子ども(小二女児)が、担任の先生から、なかよし学級(養護学級)を勧められているというのだ。それで「どうしたらいいか」と。
日本の教育は、伝統的に人間選別が柱になっている。それを学歴制度や学校神話が、側面から支えてきた。今も、支えている。だから親は「子どもがコースからはずれること」イコール、「落ちこぼれ」ととらえる。しかしこれは親にとっては、恐怖以外、何ものでもない。その相談してきた人も、電話口の向こうでオイオイと泣いていた。
少し話はそれるが、たまたまテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた(99年春)。ある人がニュージーランドの小学校を訪問したときのことである。
その小学校では、その年から、手話を教えるようになった。壁にズラリと張られた手話の絵を見ながら、その人が「どうして手話の勉強をするのですか」と聞くと、女性の校長はこう言った。「もうすぐ聴力に障害のある子どもが、(1年生となって)入学してくるからです」と。
こういう「やさしさ」を、欧米の人は知っている。知っているからこそ、「落第させましょう」と言われても、気にしない。そこで私はここに書いていることを確認するため、浜松市に住んでいるアメリカ人の友人に電話をしてみた。彼は日本へくる前、高校の教師を三〇年間、勤めていた。
私「日本では、身体に障害のある子どもは、別の施設で教えることになっている。アメリカではどうか?」
友「どうして、別の施設に入れなければならないのか」
私「アメリカでは、そういう子どもが、入学を希望してきたらどうするか」
友「歓迎される」
私「歓迎される?」
友「もちろん歓迎される」
私「知的な障害のある子どもはどうか」
友「別のクラスが用意される」
私「親や子どもは、そこへ入ることをいやがらないか」
友「どうして、いやがらなければならないのか?」と。
そう言えば、アメリカでもオーストラリアでも、学校の校舎そのものがすべて、完全なバリアフリー(段差なし)になっている。
同じ教育といいながら、アメリカと日本では、とらえ方に天と地ほどの開きがある。こういう事実をふまえながら、そのアメリカ人はこう結んだ。「日本の教育はなぜ、そんなにおくれているのか?」と。
私はその相談してきた人に、「あくまでもお子さんを主体に考えましょう」とだけ言った。それ以上のことも、またそれ以下のことも、私には言えなかった。しかしこれだけはここに書ける。
日本の教育が世界の最高水準にあると考えるのは、幻想でしかない。日本の教育は、基本的な部分で、どこか狂っている。それだけのことだ。