最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

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●子育てエッセー(3)

2009-06-22 13:19:47 | Weblog
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(59)

●動機づけの四悪

 子どもを勉強を遠ざける四悪に、無理、強制、比較、それに条件がある。能力を超えた学習を押しつけることを無理。時間や量を決め、それを押しつけることを強制。無理や強制が日常化すれば、子どもが勉強嫌いになって当然。さらに……。

 「A君はもうひらがな書けるのよ」とか、「お兄ちゃんはあなたの年齢のときには、算数は一〇〇点ばかりだったのよ」というのを、比較という。この比較は一度クセになると、あらゆる面でするようになるから注意する。勉強嫌いになるだけならまだしも、子どもから「私は私」というものの考え方をうばう。

 日本人は本当に他人の目をよく気にする。長くつづいた封建時代の名残(なごり)とも言える。他人と違ったことをすることができない。あるいは自分と違ったことをする人を、排斥する。そして幸福感も相対的なもので、「隣の人よりいい生活だから、幸せ」「隣の人より悪い生活だから、不幸」というような考え方をする。ここでいう「比較」というのは、そういう日本人独特のものの考え方と深く結びついている。

 つぎに「条件」。「成績があがったら、自転車を買ってあげる」「100点をとったら、お小遣いを1000円あげる」など、何かの条件をつけて子どもを釣るのを、条件という。

この条件も、一度クセになると、習慣になるから注意する。が、それだけではすまない。条件が日常化すると、子どもから「勉強は自分のためにするもの」という意識をうばう。そして子どもが小さいうちはまだしも、この条件はやがてエスカレートし、中学生になると、バイク。さらに大学生になると、自動車となる。そうなればなったで、苦労するのはあたな自身だ。

実際、今、親に感謝しながら高校に通っている高校生はいない。大学生でも少ない。中には、「親がうるさいから大学へ行ってやる」と豪語する高校生すらいる。そうなる。

 子どものほうから何か条件をつけてくることもあるかもしれないが、そういうときは、「あなたのためでしょ」とはねのける。こういう毅然(きぜん)とした態度が、結局は子ども自立させる。

 ともかくも無理、強制、比較、それに条件は子どもを手っ取り早く勉強させるにはよい方法だが、それだけに弊害も大きい。

 







ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(60)

●子どもは人の父

 イギリスの詩人ワーズワース(1770~1850)は、次のように歌っている。

 空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
 私が子どものころも、そうだった。
 人となった、今もそうだ。
 願わくば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
 子どもは人の父。
 自然の恵みを受けて、それぞれに日が
 そうであることを、私は願う。

 原詩は、「The Child is Father of the Man」となっている。私はその「Man」の訳に苦しんだ。ここでは、ほかの訳者と同じように、「人」と訳したが、どうもしっくりこない。「おとな」、あるいは「人格者」と訳すこともできる。つまりワーズワースがこの詩の中で言わんとしていることは、子ども時代がその人の原点であるということ。

いくらおとなになっても、その子ども時代の美しい心や純粋な心を忘れてはいけないということ。もっと言えば、人はおとなになるにつれて、知識や経験はたしかに豊富になるが、ともすればそれと引き換えに、子ども時代に覚えた感動を踏みにじってしまう。ワーズワースは、そうであってはいけない、と。

 私はこの詩に出会ってからというもの、この詩をずっと子育て評論の座右の銘としている。そしてそのつど、ふとどこかで袋小路に入りそうになったとき、この詩を思い出して、自分を取り戻すようにしている。たしかに子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。自尊心もあれば、嫉妬心もある。むしろ人はおとなになればなるほど、悪賢く、そして醜くなっていく。そのため失うものも多い。

 「子ども的」であることは、何ら恥ずべきことではない。子ども的であるということは、それ自体すばらしいことなのだ。あなたも一度、空の虹を見ながら、童心に返って、「わーっ」と大声をあげて感動してみたらどうだろう。遠慮することはない。「わーっ」とだ。あなたも子どものころを純粋さを、心のどこかに感ずるはずだ。




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(61)

●子どもは水

 私は幼児教育の世界に入って、まずしたことは、アンケート調査だった。そのアンケート調査だけを、ただひたすら繰り返した。で、その調査の中でも、最初にしたのが、つぎのような調査だった。

私は静かな住宅団地に住む子どもは静かで、街中の交通のはげしいところに住む子どもは騒々しいと思っていた。それを証明したくて、調査をした。が、結果はハズレ。住環境と子どもの静かさ、騒々しさはまったく関係がないことがわかった。静かな環境に住んでいる子どもでも、騒々しい子どもはいくらでもいた。騒々しい環境に住んでいる子どもでも、静かな子どもはいくらでもいた。

 子どもというのは、物理的な環境の変化、たとえば引っ越しなどによっては、ほとんど影響を受けない。とくに満4・5歳までの子どもは、あたかも水のように自在に形を変えて、それぞれの環境に適応していく。むしろ引っ越しなどは、子どもによい影響を与えることが知られている。よく「転勤族の子どもは頭がいい」と言うが、それもその一つ。そんなわけで、私は『子どもは水』という格言を考えた。が、子どもは、愛情の変化には、たいへん敏感に反応する。こんなことがあった。

 俗にいうツッパリ症状というのがある。目つきが鋭くなる、肩をいからせて歩く、ものの考え方が投げやりになり、言動が乱暴になるなど。私が経験した中での最年少は、小学一年生のI君だった。彼は夏休みを境に、ここでいうツッパリ症状が出てきた。そこで母親に聞くと、母親は「思い当たることはありません」と。そこでさらに調べてみると、こういうことだった。

 それまでI君は、両親の間で、「川」の字になって寝ていた。が、夏休みに入って子ども部屋ができ、I君はそこでひとりで寝ることになった。I君はI君なりに、親の愛情が変化を感じたのかもしれない。私がそれを指摘すると、母親は「そんなことで!」と言ったが、もとのようにまた床を移すと、ツッパリ症状もウソのように消えた。

 家庭騒動、離婚騒動など、子どもの側からみて愛情の変化と見られるような行動は、慎重にするにこしたことはない。








ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(62)

●子どもは見るもの、聞くものではない

 子どもはうるさいのが当たり前。ワーワーと自己主張する。ワーワーと驚いたり、親に反発したりする。時には大声で歌を歌ったり、笑ったりする。それが子どものふつうの姿と考えてよい。そういう意味で、『子どもは見るものでは、聞くものではない』という。イギリスの格言である。

 これに対して静かな子どもは、それだけで何らかの心の問題を疑ってみたほうがよい。たとえば親の神経質な過干渉が日常的につづくと、子どもの心は内閉する。さらに症状が進むと、精神の発達そのものが阻害され、心が萎縮する。今、幼稚園の年中児でも、皆がドッと笑うようなときでも、大声で笑えない子どもが、10人のうち、1人2人はいる。

 ところで日本では、静かで、先生の言うことをハイハイと聞く子どもほど「いい子」と考える傾向が強い。少なくとも2、30年前までは、そう考えられていた。今でも、そういうふうに思っている先生や親は多い。しかしそれは世界の常識ではない。

たとえば日本では、学校の先生は、「わかったか?」「では、つぎ!」と授業を進める。しかしアメリカやオーストラリアでは、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と言って授業を進める。日本では、先生が教えたことをスラスラとできる子どもを優秀な生徒と考え、アメリカやオーストラリアでは、自分の考えをしっかりともち、それを発言できる子どもを、優秀な生徒と考える。

科目にしても、向こうには「ドラマ(演劇)」という科目があるくらいだ。さらに日本では子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をしっかりと聞くのですよ」と言う。しかしアメリカでは(特にユダヤ系の家庭では)、「わからないところがあったら、先生によく質問するのですよ」と言う、などなど。日本で常識になっていることでも、外国ではそうでないということはいくらでもある。

 ただし同じ騒々しいといっても、キャーキャーと奇声をあげて騒ぐというのは、別問題である。以前、オーストラリアの幼稚園を訪問したことがあるが、日本の子どもたちとは比較にならないほど静かだったのには驚いた。サワサワとした風の音すら聞こえていた。「子どもはうるさいもの」と言っても、その内容は国によってかなり違う。







ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(63)※

●学力は低下している?

 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・1999年)の調査によると、日本の中学生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第5位。以下、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポールに次いで第3位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(48%)。「理科が好き」と答えた割合は、韓国についでビリ2であった(韓国52%、日本55%)。学校の外で勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ2。一方、その分、前回(95年)と比べて、テレビやビデオを見る時間が、2・6時間から3・1時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この20年間(1982年から2000年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学6年生で、80・8%から、61・7%に低下。分数の割り算は、90・7%から66・5%に低下。小数の掛け算は、77・2%から70・2%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、38・3%から32・8%に低下。全体として、68・9%から57・5%に低下している(同じ問題で調査)、と。

いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見。あるいは文部科学省を批判した意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようがない。

同じ澤田教授の調査だが、小学6年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、2000年度に30%を超えた(1977年は13%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低下し、2000年度には35%弱しかいない。原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、もはや幻想でしかない。

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