写真歳時記≪まさとしの一日一首≫――写真と短歌で綴るコラボ作品

きょうも生きた、泳いだ、自転車漕いだ。
その一日を、フォト短歌に仕立てる。
写真歳時記≪まさとしの一日一首≫。

なんと北京で、聖徳太子に出会いました

2016-05-26 07:09:56 | 日記
対等に隋から文化吸収し 善隣外交進めし皇子
(在首都博物館、北京)       まさとし

なぜ、聖徳太子の肖像画が北京の首都博物館に
陳列されているのか?

日本と中国・朝鮮とは、海を隔てただけの隣国、
≪一衣帯水≫の密接な関係にあるからだ。

しかも、聖徳太子は難波に四天王寺を建立し、
大和に法隆寺を建て、仏教興隆に務めたからだ。


「聖徳太子」という称号は、功績を称えられて
死後おくられた諡(贈り名)。

生前は、厩戸皇子(うまやどのおうじ)だった。
574年に生まれ、622年に亡くなった。享年49。

それまで朝鮮3国(高句麗・新羅・百済)との
外交を重視していたが、589年、隋が中国を
統一すると、隋から大陸文化を積極的に摂取
する姿勢に改めた。

593年、推古天皇の摂政となり、政治を摂った。
607年、小野妹子を遣隋使として任命し、
隋の煬帝に遣わした。

碧翠にかがよう燕地青銅(Yandi Qingtong)

2016-05-25 08:09:31 | 日記
燕の地に青銅文化はなひらき いまも青々耀いやまぬ
(在首都博物館、北京)         まさとし

燕(Yan)は、中国の戦国時代の国のひとつ。
現在の河北省北部から、遼寧省に当たる地。

七雄の一国であったが、秦の始皇帝によって、
紀元前222年に滅ぼされた。

国は滅びても、その文化は後世に残る。

写真の青銅器の、なんと深い色に滲んで
いることか――。

契丹族男子立像

2016-05-24 07:21:22 | 日記
十世紀中国北部に遼立てし 契丹族の貴族の姿
(首都博物館、北京)        まさとし

満州から中央アジアにかけて、十世紀初頭に
契丹族が「遼」を建国した。

1125年、「遼」は女真族の「金」に滅ぼされた。

この契丹族男子は、おそらく貴族だと思われる。
上衣の袖が長く、前に組んだ両手首を隠している。

端正な、落ち着いた表情と、静謐なたたずまいとに
惹かれる。往時の貴族とは、こういうものだろうか。

なお、立像なので足首まであるのだが、ハイライトの
上半身だけを撮った。それでも十分、雰囲気は伝わる。

きらびやかな景徳街の牌楼

2016-05-23 07:33:23 | 日記
極彩色きんきらきんに押し出して これぞ中国街のシンボル
(首都博物館、北京)              まさとし

牌楼(pailou)は、昔の中国で街の出入り口に設けられた
立派な装飾門。

この「景徳街」の牌楼は、道路拡張工事のため取り払われる
ことになったため、ここ首都博物館の1階ロビーに移された。

写真は中央部門上部のみで、両側に脇門が張り出している。

壁画の二人と、お茶する二人と

2016-05-18 07:17:45 | 日記
アクロポリス麓登れば喫茶あり 壁画に惹かれ二人を撮りぬ
(at the foot of Acropolis, Athens, Greece)  まさとし

リカヴィトスの丘から帰ってきても、まだ2時間余 free time。

さあて、どうやって2時間を潰そうか……。

ぶらぶらと、Roman Agora(ローマ時代の集会場)の方へ
歩いて行った。

途中の土産物屋で、店先にいたお姐さんに声をかけられた。
「ニーハオ!」

「違うよ、日本人だってば」と答えると、
「あら、そう? じゃあ、そのサングラス外してみて」

そこで外すと、美人のお姐さんがこう言って笑った。
「あ、やさしい貌してるから、やっぱり日本人ね」

彼女らは、毎日大勢の観光客を見ているので、
「日本人は中国人・韓国人よりも顔付きがやさしい」
と、経験的に知っているようだ。

さらに登ってゆくと、民家の壁全体におもしろい絵が
描かれていた。

その壁画の前で、男ふたりがお茶していた。

壁画に描かれているのも二人、お茶しているのも二人。
取り合わせに惹かれて、声をかけて撮らせてもらった。

――駆け足でしたが、これで「ギリシャとエーゲ海クルーズ」
の旅の紹介を、ひとまず終わります。

あしたから又、日本を離れます。
次の up は、5月23日になります。

それまで、Ciao!