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★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

読書について

2014年07月26日 18時47分51秒 | 徒然(つれづれ)
 老眼なって10年ほどが経つ。それにともない本を読む機会が激減した。

 学生時代には月に10冊以上はコンスタントに読んでいたものだ。
 就職してからは、さすがに月に3、4冊ペースに落ちたが、それにしても今と較べると格段に多かった。
 今では字が見えにくくなったせいもあるが、興味をそそる本が少なくなったのも大きな要因で、年に2、3冊ほどしか読まなくなった。

 映画と同じで、本もベストセラーやロングセラーが少なくなり、生活の多様化に伴うターゲット層の分散化は、不特定多数が存在しなくなり、数打ちゃ当たる式の出版方法にならざるを得ないのであろう。質の低下、興味の減退は必然だ。

 物心ついてから現在までに何冊の本を読んだのだろう。
 漫画や週刊誌を除いても、1000冊は下らないと思う。
 しかし考えてみると、読んだ本の内容はほとんど忘れている。
 有名な小説でさえ、あらすじを言ってみろと言われると怪しいものだ。
 よしんば言えたとしても、その本が自分にどんな影響を与えたか問われると、明確に言えたものではない。
 
 これは私の読書が単なる娯楽か暇つぶし程度だった事を物語っている。
 という事は、今までの読書に費やした時間は無駄だったのだろうか。
 人生とか生き方への影響はほとんどないが、日常の文章の書き方とか読解力の向上、語彙やトリビアの増加には役立っているように思う。
 つまるところ、似非インテリの製造に役立ったわけだ。
 
 その昔は読書は高尚な趣味みたいに考えられ、感動や発見、人生の指針を与えてくれるものというイメージがあった。
 しかし、何千冊の本を読んだとしても記憶に残らないのなら、他の事にその努力や時間を費やすほうが懸命ではないだろうか。
 
 読書が娯楽や暇つぶしだとすれば、それは容易に他の事、たとえばレジャーやゲームやインターネットに取って代わられたとしてもおかしくはない。その程度のものだ。
 人の記憶力で、長編小説のストーリーや、難しい哲学めいた考え方を長期にわたって保持することは困難だ。一般人は決して植草甚一や松岡正剛のような読書の鉄人にはなれない。

「書を捨てよ、町へ出よう」と言う言葉を額面どおりに受け止めようと思うが、時すでに遅しの感は否めない。
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