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I

2015-10-04 | 糸井重里


糸井重里
『ぼくの好きなコロッケ』★★★

2014年の「小さいことば」


お使い途中で靴を衝動買い
ストレス発散 気分も上がる。


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たしかに、どんな人だって、心のなかに、
たくさんのことばが詰まっている。
無口な人の心のなかも、実はことばで満たされている。



あらゆることについてしゃべるのは、へんだ。
まったく興味がないということもある。
嫌いだし考えたくないということもある。
よく知らないので語れないということもある。
なんについてでも語るといいうのは、逆におかしい。
語れぬことがあり、黙っていることがあるのは
あたりまえのことだ。



「ひとりでいる」という時間を、
ちゃんと持っているかどうかは、
ものすごく大事なことだと、強く思っています。
「ひとりでいる」時間、
その時間にこそ出会うじぶん自身という他人。








あったら、バランスがとれるもの。そういうものって、なんだか大事なんですね。ほんとうは「ない」ものだとしても、あったほうがバランスがとれると
思うと、人はそれを、無理やりにでも存在させちゃいます。



過去のなかには、現在が薄く含まれていたし、現在のなかには、すでに未来が練り込まれているし、現在が目に見えるようになるためには、未来という距離に立つしかない・・・・・・っていうことですよね。



ネット検索って、たまにするだけでいいと思うんだよね。



じぶんが変わることは、たのしみのひとつだお思うのです。



人間は、実はリズムに合わせて生きている。太陽と地球と月との回転周期という前に、なによりも、心臓が鼓動しているし、呼吸がリズムを刻んでいる。自由な心臓なんてものがないかぎり、人間のまるっきりの自由なんてものは、不快であるのだ。
リズムというのは、生命であるということでもある。



ららら~、人生なんて、紙一重なのよ~ららら~。








「漫然とやってちゃダメだぞ」



濃く本気なものが薄い興味の人たちにも支持されたら勝ち。








「ダサいかダサくないか」って、
そんな大事なことじゃないだろう?
ダサいかどうかなんてことを超えた価値を、
見つけてきたはずじゃなかったのか?








「馬場とロック」








「好きになってもらう方法」について考えはじめたら、
それはもう、えんえん救われない道に迷いこむと思うんだ。



「貫禄がついたね」



人の一生ってけっこう短いです。できるだけ自由に、好きなことをやりたいものですねー。








人間のこころって、まぁ、
ほんとにグロテスクでもあり、
ものすごく色とりどりなものだと思います。



「じゃ、愛しましょう」というわけにはいかない。
沸きあがってきた感情を「愛」と呼んでるだけですから。














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吉本隆明さんが、最晩年に
いちばんくり返し言ったのは
「沈黙」ということばではなかったか。

とにかく、「ことばの幹と根は沈黙なんです」と、
何度も何度も聞いた。
そして、「沈黙」というのは
「自己門答なんじゃないでしょうか」と。

じぶんがじぶんに問いかけ、じぶんがじぶんを疑い、
じぶんがじぶんに教えられ、じぶんがじぶんをたしなめ、
じぶんがじぶんを励まし、じぶんがじぶんと交わる。
門答の材料は、他人から受け取ってきたものもあるだろう。
聞きかじりも、読みたての知恵や知識もあるだろうが、
それを、ひとり、自己門答することで、
じぶんの考えが生まれてくる。
ぼくはそんなふうに受け取っていた。

矛盾が矛盾のままであることも、いくらでもある。
解決や正解といったものから離れていってしまうことも、
いまはあえて棚上げにしていることもあるし、
さらなる熟成を待たねばならないこともある。
じぶんのこころのなかで、さんざんやりとりされる門答。
それが無言のうちにこころのなかで行われている。

自己門答があったか、つまり沈黙の時間はあったか、
そこを経ている考えかどうかで、ことばの根がわかる。
ぼくが、よく人のことばにうたれるときに、
「あの人、それについてさんざん考えてきたんだよ」
と思うことが多い。
たっぷりの沈黙を根に抱えていることばは、生きている。

少なく語って、少なく力になれたら、強くなると思うよ。



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恋をしている人が、
ひさびさに恋人に会うときみたいに、
少し心臓の鼓動を速くして、
顔から前に進んでいく。









年上の人に会うというのは、
なにかしら運のいることだと思うのです。
同い年だとか、年下の人たちと会うのは、
じぶんの意思がおおいに働きます。
しかし、年上の人に会うのは、
その相手の「いいよ」という許しがいるように思います。








人間というものは、「一喜一憂」したいのです。
「一喜一憂」が、好きなのです。








とっさの「じぶん」が、じぶんの育てた「じぶん」だよな。







基本的に、「もとめるものは2番目に置け」なんだよ。








「ぜんぶは無理だ」は、ぼくのため、君のためのことばです。








「いままでなかったけど、こんなのがあったらなぁ」という理想が見えること、それこそが大事なんです。
ほんとうの「理想論」って、現実を動かすと思うんです。



「なんとなく、わかる」

「嫌じゃない程度に」



「いろんな種類の忙しさ」








「よく見えてないことに少し気づく」


つまり、それは「じぶんが見えていること」よりも、
じぶんに「見えてないこと」のほうが
大きくて豊かだ。
と知ることでもあります。








「たいしたことない」ことは、なかなかたいしたことだぜ。」







じぶんを失っていないなら、なにがなんでも大丈夫。








恋人たちよ、握りあった手を離して、
それぞれの場所に出かけたまえ、
そしてまた、帰ってきて手をつなげばよいだろう。




























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近づいてくる それは一瞬 
キスをされて不快に思うことってあるんだ。
ごしごしと唇を拭う。
そして今愛しい人が浮かび「そうなんだ」

くると思ってた?一週間ぶりに声を聞く。

線引き///




























あ 誕生日・・・
「おめでとう」
興味がないらしいけどね。
去年は笹塚のイタリアンでお祝いした。雨の日だった。




種を蒔く。ひとり引っかかった。

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