三島由紀夫
『愛の渇き』
昭和27年3月31日 初版発行
令和2年11月1日 新版発行
昭和25年6月新潮社より刊行された。
--------(抜粋)
【新装版、新・三島由紀夫】
沼のような情念。罪は誰にあるのか――。
〔新解説〕石井遊佳
杉本悦子は、度重なる不倫で彼女を苦しめ続けた夫を突如亡くし、舅の弥吉や夫の兄弟家族が住む別荘兼農園に身を寄せた。やがて舅との肉体関係に陥った悦子は、その骸骨のごとき手で体をまさぐられながらも、雇われ庭師、三郎の若い肉体と質朴な心に惹かれていく。だが三郎には女中の美代という恋人がいた。嫉妬と歪んだ幸福が荒々しい結末を呼ぶ野心的長編
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装丁が統一されてるver.
前作『純白の夜』
そこからの今作『愛の渇き』の解説を読んでうんざり・・はは(^▽^;)
「嫉妬と歪んだ幸福が荒々しい結末」
M - ◆BookBookBook◆
当初のタイトルは『緋色の獣』
冒頭に記されている
かくてわれ‥‥‥緋色の獣に乗れる女を見たり(黙示録 第十七章)
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人生が生きるに値しないと考えることは容易いが、それだけにまた、生きるに値しないということを考えないでいることは、多少とも鋭敏な感受性をもった人には困難であり、他ならぬこの困難が悦子の幸福の根拠であったが、彼女にとっては世間で「生甲斐」と呼ばれるようなもの、——つまり、われわれは生きる意味を模索し、なおそれをも索め得ないでいるあいだも、とにかく生きているのであり、この生の二重性を、求め得られた生の意味の遡及によって、統一しようとする欲望がわれわれの生の本体だとすると、生甲斐とはたえず現前するこの統一の幻覚、また遡及すべからざる生の意味を仮に遡及してみるところから生ずる生の統一の幻覚に他ならないのであるが――、そういう意味の「生甲斐」と呼ばれるようなものは、悦子には縁もゆかりもない代物だった。
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悦子の思考がナゾ・・
三島さんの文字の羅列が悦子の言葉に思えない違和感
どの登場人物も食えない人達・・
私的には三郎がどうしようもない。
「愛する」「愛さない」問題
---(吉田健一の解説より抜粋)
三島氏はこの作品で、その余裕の世界を何に用いているかと言えば、そこで氏は一人の女が幸福を求めて、その実感を自分の心で確かめるためには如何なる苦痛も避けずに、遂にこの探究を完成する過程を描いている。
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知らなかったけど吉田健一の父は吉田茂
そして麻生太郎の母は妹と知る。
そういう情報は毎回読書会で知ることが多い。