goo blog サービス終了のお知らせ 

あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

学べば学ぶほど自分がバカだと感じることって

2019-04-09 | from:sachiaki
あるあるですよね。
まぁ実際アホなんですけれど。

どうも、記憶力とか脳内整頓にはかなり疑問符だらけなsachiakiです。

今期は私がアホをやらかしたおかげで
4月からの放送大学に継続入学できなかったのですけれど
単位が取れないからって勉強しないなんてもったいないだろ!
って、2つほど授業を聞いて個人的にお勉強をしているんですけれど、
今日は『哲学・思想を今考える』を聴講していました。
前回は哲学ってどういう思想なの?的な話で
ソクラテスとプラトンの話をジックリと聞いて
自分が好きな哲学はソクラテスのように
考え続け、人と対話し、やっぱなんもわからん。
なんて深部へと潜ろうとするもので
プラトンのようにアカデミアにしてその学問を広げていこうというよりも
少数の人と真理を求めたいっていうタイプなのかもなぁ
なんてことを思っていました。
かといって、ソクラテスがそうであったように
別に閉じ籠ろうとかそういうんじゃなくって
『考える』ということはオープンソースで
人々がアクセスして深めていって、
一つずつコードを足していくような
そういうものであった方が良いと思っているだけなんです。
『アカデミア』のようにして、囲って高等なものを目指すのも正しいと思うけれど
そうすると賢さを求める人しか賢くなれないというか、
権威主義に落ち着いてしまいそうな
そういう腐った水を作る土壌になりそうな
そんな予感しかないんですね。

だから私は『オンラインサロン』とか
そういったものを邪悪だと思っているし
近寄らないようにしているだけなんです。
ただ、あの集金の仕方は正しいと思うし、
すごいなとも思っているので、
お金の動きを見たい人、人々の欲望を見たい人は
オンラインサロンに入って技術を盗んでくると良いと思います。

まぁそれはさておいて、
いよいよ今まで壁であり続けたカントの『理性批判』の片鱗を
ほんの少し捕まえたかな?って思えたところで
今度は『実存』という恐ろしい壁にぶち当たり、
ヤスパースの話を聞きながら常に感じていた
聖書に基づくものはなんか変だぞ?というものの正体に
ほんの少し触れた気がしました。

というのも、ブッダや孔子・孟子、ギリシャ哲学というものは
自分たちの中から湧いた疑問に対して
どうしたら良く生きられるだろうか?
どうしたら苦しまずにいられるだろうか?
そういったものを問うて実践しているわけなんですけれど
いわゆる聖書を元にしたものっていうのは
「神様がおっしゃるにはこういうことなのです」という
ガッチリとした絶対値で語ってくるわけなんですけれど
その「神様がおっしゃる〜」というのは預言者であって
その人の胸の内のものかもしれないのに
疑いもせずに確信をもって人々を導いたり弾圧していることなんですよね。
まるで「考えようなんていうのは奢っている証拠だ」と言われているようで
大変に窮屈だなぁと感じてしまいます。

ブッダや孔子だって仏教になり、儒教になっているじゃないか
って思われるかもしれないけれど
彼らは自分たちの疑問から発生して
それをどうしたら乗り越えられるだろうかと
等身大で思考しているし、人々にも自分で考えなさいと説いているわけです。
人々を救うには実践的でなくては〜
という意味で教義のようなものがあって
それを実行するとQOLが上がるということはあるけれど
教義を学ぶことによって、深く思考することができる
自分で考えて実践する。
だからお坊さんたちは偉いのです。

human beingであるために
考えることを放棄してはいけないと思うのです。

そしてなぜこれほどまでに一神教は教義を押し付けてきてシンドイもののはずなのに
人々が従っているのだろうか?
という問いについては『自由からの逃走』というように
考えること、責任も持つことが人間にはシンドイから……なのだろうな
なんてことまで考えていました。

と、これ以上書くといろんな方面から怒られそうなのでこの辺にて。
全ての宗教関係者が考えることを放棄しているわけじゃないと思うし、
哲学が好きな人だからといって自分の言葉で考えているわけでもないでしょう。

という逃げの言葉を書いておいてそっと去ります。
とっぺんぱらりのぷぅ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする