constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

冷静と情熱の東方政策

2011年09月08日 | knihovna
妹尾哲志『戦後西ドイツ外交の分水嶺――東方政策と分断克服の戦略、1963-1975年』(晃洋書房, 2011年)

冷戦の終結を彩る劇的な光景として、思い浮かぶのが、1989年11月9日に起きたベルリンの壁開放であり、そして壁によじ登り、歓喜し、またハンマーで壁を叩き壊す人々の姿であった。そのベルリンの壁が建設された1961年8月から半世紀が経過した現在、改めて壁の建設がもたらした分断の苦難、そしてそれを乗り越えようとした人々の行動に想いを馳せることは単なる郷愁に浸る以上の射程を持っている。

ベルリンの壁は、ドイツの人々、そしてヨーロッパの人々に対して分断という現実を象徴的にだけでなく、物理的な意味においても突きつけ、再認識させる一方で、分断および対立の恒久化に対する懸念を生じさせ、その克服に向けた取り組みの必要性を痛感させることにもなった。その意味で、ヨーロッパ冷戦史における分岐点だといえるだろう。そして緊張緩和および分断克服の動きの中で、もっとも注目を集めたのが、当事者であった西ドイツの東方政策であったことは言うまでもない。東方政策を担った中心人物であるヴィリー・ブラントが、1961年当時、西ベルリン市長としてベルリンの壁建設の現場に居合わせたことは、東方政策を根底で支える国際政治認識を示唆している。

そしてベルリンの壁建設は、アデナウアー政権の「力の政策」およびエアハルト政権(とくにシュレーダー外相)の「動の政策」の限界を印象付け、それに代わる新しい外交理念とそれを実行に移す政治指導者の登場が求められていた。このような西ドイツ外交の停滞を打開し、分断の克服へ向けた構想を提示し、外交政策として具体化していったのが、1969年に成立したブラント政権であった。「東方政策/東方外交 Ostpolitik」の名で知られるようになるブラント政権の外交は、一種の外交革命とみなすことができ、本書のタイトルが示すように、西ドイツ外交における「分水嶺」であった。

東方政策に関しては、同時代において強い関心を集め、日本でも佐瀬昌盛や高橋進の研究を通じて、その概要を知ることができたが、冷戦の終結およびドイツ統一という現実政治の変化、および30年ルールによる外交文書の解禁が、東方政策をめぐる研究環境を飛躍的に改善した。ここで取り上げる本書は、ドイツやイギリスを中心に一次史料を渉猟し、近年の研究成果を踏まえた上で、次の二つの観点、すなわち「ドイツを主体として扱うヨーロッパ冷戦史」(10頁)および「ヨーロッパの『中央部(Mittellage)』に位置し、東西の狭間で展開されるドイツ外交」(11頁)の観点から、東方政策にアプローチする。以上の観点に基づいて、本書の主眼は、ブラント外交の時系列的な再現ではなく、「その構造を構成する諸要素を各章毎に析出し、ほかの要素との関連を念頭に置きながらそれぞれを検討する」(233頁)章立てを採り、東方政策の「多層性の解明」(13頁)に据えられる。すなわち東方政策の機軸であるソ連や東ドイツとの交渉過程の検討に加えて、西側諸国との関係および国内政治の動向にも注意を向け、また二国間から多国間へと拡張される東方政策の射程の長さまで視野に入れた議論が展開される。

西ドイツの東方政策を取り上げる研究と聞いたとき、まさにソ連をはじめとする東側諸国との関係改善をめぐる外交交渉が考察の中心的なテーマになると考えるのが普通であろう。戦後の西ドイツ外交における政策の大転換であるがゆえに、東方政策の持つ画期的・革新的な意義に関心が向けられ、その実態に迫ろうとすることは十分に考えられることである。本書においても、ブラントの側近エゴン・バールの構想を取り上げた第1章、1969年のブラント政権による対ソおよび対東ドイツ交渉過程を検討した第2章、および1975年のCSCE開催に至る政治過程を通じて東方政策の「多国間化」が対象となる第6章が、東方政策とは何であり、それがどのように遂行され、さらにドイツの、そしてヨーロッパの分断状況克服にいかなる影響を与えたのかという論点に答えている。

以上の側面が東方政策の「表」だとすれば、本書の特色であり、多くの紙幅を割いて考察されているのが、同時並行的に展開していた米英仏をはじめとする西側諸国との意見調整をめぐる交渉過程である(第3章および第4章)。それは「東西の狭間で展開されるドイツ外交」という本書の分析視角が持つ有効性を示すものである。先行研究において指摘されるように、東方政策に対して当時から、東側との関係改善に傾注し、西側諸国との関係を等閑にしたという批判が提起されている。西側諸国との関係を考察対象として設定する本書は、こうした批判がどの程度妥当するのかについて一つの解答を提供するものである。本書で再三強調されているように、ブラント政権の東方政策は、「東側との関係改善を成就させるためには西側結束が不可欠である」(128頁)という認識に基づいて進められていったのである。それは、ヨーロッパ統合に関しても「東方政策とヨーロッパ統合の両立」(149頁)が図られ、CSCEに至る東方政策の「多国間化」の試みでも西側諸国との意見調整のもつ重要性が指摘される(218頁)。まさしく西側との緊密な関係が「東方政策成功の基礎」(121頁)にあったのであり、「東方政策は西方政策であり、西方政策はまた東方政策」(242頁)であると評されるように、その相互補完的な関係に注意を向けることで、東方政策の多層性が提起される。

また東方政策が一時の熱狂に駆られた情念過多の政策ではなく、東西関係各国の利害を見極め、譲歩を引き出すための外交カードとして利用するだけの巧妙さを備えていたことも明らかにされる。たとえば、それは、当時の国内政治を検討した第5章の議論に看取できる。東方政策をめぐる野党やメディアによる厳しい批判が引き起こした国内論争は、交渉過程や条約の批准に影響を与えた。そして交渉者バールは、ソ連に対しても、またアメリカに対しても、国内の批判に言及し、東方政策が失敗に帰してしまう可能性を示唆することで、譲歩や支持を獲得するのである(162-163、168-169頁)。あるいはこれとは逆のパターンも見られる。東西ドイツ問題で強硬な姿勢を崩さない野党を説得するために、CSCE準備会合の開始時期と関連付ける(189頁)。要するに、「国内政治基盤が不安定であったことが、かえって国際交渉における立場を強化した」(240頁)わけで、これは西ドイツ外交の主体性を示すエピソードだといえるだろう。

以下、本書から得られる含意について敷衍する形で若干の議論を展開してみたい。第1に、近年、日本のヨーロッパ冷戦史研究は、イギリス外交史研究の興隆に促される形で、次第に大陸ヨーロッパ諸国にまで対象領域を広げている。その結果、冷戦期の西側諸国の同盟政治について新たな知見を得ることが可能となっている(たとえば、最近の研究成果として、山本健『同盟外交の力学――ヨーロッパ・デタントの国際政治史 1968-1973』勁草書房, 2010年)。本書もまた、ドイツ外交の視点からヨーロッパ冷戦構造の変容過程に関する知見を提供してくれる。他方で西側同盟政治の解明に関する研究の進展は、いっそう「鉄のカーテン」の向こう側で繰り広げられるもうひとつの同盟政治(ソ連=東欧関係)について興味を喚起する。たとえば、本書で取り上げられている東西ドイツ首脳会談をめぐるソ連と東ドイツの関係において、東側同盟政治の特徴の一端が垣間見える。つまり首脳会談が流れることを危惧したソ連が東ドイツ指導部に対して開催場所の選定を含め開催を促す一方で(69頁)、エアフルト会談の結果に不安を覚えると、交渉継続に意欲を見せるウルブリヒトに対して交渉の中断を指示するというように(73頁)、ソ連の影響力の強さが示唆されている(166頁も参照)。西側同盟との対比において東側同盟の特質を権威主義的な垂直的関係に見出すとするならば、たしかにソ連の影響力の強さを考慮に入れた「モスクワ第一主義」はリアルな現状認識に基づいていたといえる。また対ポーランド交渉が本書の考察対象から外れていることもあり、簡単に言及される程度にとどまるが、東側諸国との関係改善の争点の一つであるポーランドとの国境問題(オーデル・ナイセ線)は、東側同盟政治の観点に立ったとき、西ドイツとポーランド間に加えて、東ドイツとポーランドとの間で国境をめぐってどのような駆け引きがあったのか、そこにソ連の立場はいかなるもので、同盟関係にある二国の紛争に対してどのような動機に基づいて介入し、収拾しようとしたのかが興味深い論点として浮かび上がってくるだろう(前史に関する研究として、Sheldon Anderson, A Cold War in the Soviet Bloc: Polish-East German Relations, 1945-1962, Westview Press, 2000.がある)。本書の表現を借りれば、東側同盟政治の研究は、「全欧」の視座から叙述されたヨーロッパ冷戦史研究に不可欠な視座であるといえる。

第2に、内政と外交の関係、あるいは外交と民主主義というお馴染みの論点に関してである。本書では第5章で条約の批准をめぐ国内政治が検討されているが、前述したように、国内の政治対立を外交カードとして利用し、譲歩を引き出す強かさを持っていた。この巧妙な外交戦術は、外交舞台に政争を持ち込まない「超党派外交」の確立に失敗したことによる副産物でもあったが、別の観点に立つならば、野党やマスメディアの批判を考慮に入れながら交渉に臨まなくてはならない現代外交の特質を示している。水面下で秘密裏に進められるバールの交渉姿勢に対する不満が、「バール文書」のスクープを契機に噴出するなど、与野党の深刻な対立がこの時期の外交路線を規定したといえる。また東方政策の実施段階において、通常の外交ルートとは別に非公式の「バックチャンネル」が重要な役割を果たした点も見逃せない(63、96頁など)。またこの点は、沖縄返還交渉における「密使」若泉敬の例が示すように、ニクソン=キッシンジャー外交に見られる特質の観点からアプローチすることもできるだろう。いずれにしても、国内政治の影響から遮断された外交ルートの介在とその重用は、外交に対する民主的統制が一般化した現代において、停滞していた交渉の突破口として、一定の意義を有していることが看取できる。

第3の論点として指摘できるのが理論研究との接点である。本書は一次史料を駆使した外交史アプローチから東方政策に迫る研究であるが、国際政治学の分析枠組みを用いた研究へ射程を拡げる可能性についていくつかの示唆を与えている。そのひとつが二層ゲーム論による考察であり、それは、何度か言及したように国内政治の動向が外交交渉に与える影響という視点である(171頁および174頁注37)。また米ソ中心の冷戦史観に内在する「国際政治構造」の重視傾向に対して、西ドイツの東方政策は、緊張緩和という冷戦構造の変容によって空いた外交地平を捉え、構造の変革可能性を包含した政策と理解することもできる(243頁注6)。さらにいえば、ブラントやバールが提唱した東方政策を個人的信条や国際政治認識が反映された政策理念として捉えたとき、それは理念・規範・アイデンティティなどの観念的要素を重視するコンストラクティヴィズムにとって格好の事例となる(たとえば、Joost Kleuters, "Between Continuity and Change: Ostpolitik and the Constructivist Approach Revisited", German Politics, vol. 18, no. 4, 2009.)。この意味で東方政策をめぐる研究は複合的なアプローチによる研究の進展が期待できるテーマだといえるかもしれない。

第4に、本書が扱う時期を越えた1975年以降の東方政策の展開、そして冷戦の終結およびドイツ(再)統一との関連についてである。東方政策は「構想者」バールと「推進者」ブラントによるブラント=バール外交と理解される傾向が強いが、「生みの親」であるブラントやバールの手を離れた東方政策はどのような運命を辿ったのか。東方政策の中身については、野党CDU/CSUはもちろんのこと、連立相手のFDP、さらにはSPD党内でも反対ないし慎重論が聞かれたことは本書でも指摘されているが(38頁)、ブラント退陣後に政権を担ったシュミット、コール、あるいはゲンシャーは東方政策に全面的に賛同していたわけでなく、西側との結束重視の傾向が強かった(233頁)。換言すれば、バールの提起した段階的アプローチの第3段階、すなわち「新たな安保体制の構築による『ヨーロッパ平和秩序』の創出」およびその中での東西ドイツの統一実現(37頁)が描いた長期的な展望とは異なる経過を辿ったことを考えると、この時期に東方政策の変容もしくは分岐が生じたと捉えることもできるだろう。そして冷戦の終結およびドイツ統一をめぐる論争に対する視座とも関連付けるならば、その比重を西側に移しつつも東方政策それ自体が否定されることがなかったことは、現実化・穏健化に帰結し、ある意味で東方政策のアデナウアー路線への吸収を意味し、それは「拡大西ドイツ」といわれる統一の形式に見られるように、東方政策よりもアデナウワー路線の貢献を重視する見方につながる。他方で、政権内での発言力を低下させていたバールが、1980年代に入ると「パルメ委員会」の活動を通じて「共通の安全保障」の体系化に尽力し、それがゴルバチョフの新思考外交に影響を与えた点に注目すると(234頁)、モスクワを経由したドイツ統一に至る道筋が浮かび上がり、それは「ゴルバチョフ・ファクター」をめぐる議論と結びつく論点でもある。

最後の論点として、比較冷戦史の視点から1970年代の国際政治を眺めたとき、米ソあるいは米中間の緊張緩和というグローバル次元の変化がどのような影響を各地の冷戦にもたらしたのかが問われてくる。当然のことながら、アジア冷戦との比較が真っ先に思い浮かぶが、それはヨーロッパとアジアにおける緊張緩和および冷戦終結過程の差異を含み、21世紀の地域政治を規定している意味で、すぐれて今日的な意義を内包した論点である。アジアにおいて、米中デタントは、「七四南北共同宣言」のように南北間の対話の機運を醸成したが、南北朝鮮双方の国内体制の権威主義化(維新体制/唯一体制)という反応をもたらし、分断の克服というよりもむしろ現状の強化あるいは再制度化につながったとされる(李東俊『未完の平和――米中和解と朝鮮問題の変容 1969-1975年』法政大学出版局, 2010年)。朴正熙は西ドイツの東方政策を魅力的な研究材料として注目していたというが(99頁)、こうしたユーラシア大陸の反対側において、東方政策の含意がどのように受け止められたのかという点もまた今後の研究課題といえるのではないだろうか。さらにいえば、西ドイツの東方政策にソ連が応じた要因に、中ソ対立の深刻化に伴う脅威認識の変化が介在したことは本書でも先行研究を引く形で指摘されているが(58頁)、ヨーロッパ冷戦史における、いわゆる「中国ファクター」の意味合いもまた重要な論点として指摘できるだろう。

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