constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

モーゲンソーへの突破口

2013年06月25日 | nazor
書店にて『思想』1071号の巻末掲載の「8月刊行予定の本」で、数日前から噂が耳に入っていたハンス・J・モーゲンソー『国際政治――権力と平和(上)』が、原彬久の監訳で岩波文庫に入ることを確認する(おそらく上中下の3巻構成になると予想される)。今世紀に入ってから、モーゲンソーを含めた国際政治学の父祖たちの思想形成に注目する研究が次々と生まれ、それに伴い国際政治学の学説史自体も再検討に付されている(邦語では、西村邦行『国際政治学の誕生――E.H.カーと近代の隘路』昭和堂, 2012年、および宮下豊『ハンス・J・モーゲンソーの国際政治思想』大学教育出版, 2012年)。これらの研究においては、未刊行の草稿や書簡の発掘が進められるとともに、「古典」の地位を獲得したテクストの再読作業が中心的な位置を占めている。それゆえに『危機の二十年』や『国際政治』が比較的容易に入手できる環境が整備されることは喜ばしい。

モーゲンソー『国際政治』の場合、国際政治学の基本文献だと喧伝されながらも、福村出版本が2段組600頁の分量という重量感は、初学者にとって心理的なハードルとして立ちはだかり、通読する強い意志と(知的)体力が求められる。その意味で文庫化を契機に「はじめの一歩」を踏み出す条件が緩和されることは疑いないだろう。またそれは、通読することで顕現してくるモーゲンソーの国際政治(思想)の深みについての理解へと導く。たしかに「政治的リアリズムの6原則」や「力によって定義される利益」などリアリズムないし権力政治観の代名詞とも言うべき語句は、強烈な印象を読者に植え付け、それだけでモーゲンソーのリアリズムの真髄を理解したかのような錯覚を覚えさせる。それゆえに国際政治学の概説書の多くも第3部までの内容に沿った記述を基本としており、たとえばテスト勉強/単位取得といった学生の実際的な需要に従えば、わざわざ通読せずともモーゲンソーのリアリズム理解に支障とはならないし、効率的だともいえる。

したがって国家権力の制限や世界平和の実現可能性について考察を加えた第4部以降の諸章は、バランス・オブ・パワーの章を除けば、リアリズムの妥当性を証明する傍証が延々と続く印象を抱かせ、精読するまでの必要性は乏しいものとなる。しかしながら、国際法学者として学究生活を開始したモーゲンソーの思想遍歴の中に『国際政治』を位置づけて読み直すならば、これらの諸章に「アメリカの社会科学」として制度化された現在の国際政治学よりも射程の長く、豊かな思想的鉱脈が見出されるだろう。今回の文庫化がこうしたモーゲンソー理解への突破口となることを期待したいところである。

翻訳の罪と罰・再版(犯)

2012年12月12日 | nazor

ちょうど2年前になるが、イアン・クラーク『グローバリゼーションと国際関係理論』をめぐって、訳者である滝田賢治の度を越えた越権行為に対する不満を述べたことがある(「翻訳の罪と罰」2010年12月11日)。その中でも言及したが、同じ滝田が中心となって翻訳作業を進められていたロバート・O・コヘイン&ジョセフ・S・ナイ『パワーと相互依存』(ミネルヴァ書房, 2012年)が刊行されたので読む機会があった。さすがに原書にないアンダーラインを加えるという暴挙は見られないものの、訳文には、表記の不統一など単純かつ初歩的なミスが散見され、監訳者としての責務を十分に果たしていない印象が拭えなかった。「監訳者あとがき」で校正作業を通じて多くの問題点が見つかったと述べているが、それらが十分に改善されないまま、出版に至ってしまったようである。残念ながら滝田の訳業は、内山秀夫のそれと同じく、信頼の置けないものであることが改めて証明されたといってよいだろう(以下、原書の引用は、Keohane and Nye, Power and Interdependence, 3rd ed., Longman. より)

たとえば、本書冒頭に置かれている「日本語版への序文」を読み始めると、早々に「多様なイシュー」(i頁19行)と「多様なイシュ」(同20行)という表記の不統一に出くわす(42頁においても「他のイシュ」の表記に遭遇する)。続く「序文」でも「グローバルゼーション」(ix頁5行)といった表記に遭遇するときなどは、さすがリチャード・W. スチーブンスン『デタントの成立と変容』(中央大学出版部, 1989年)で「ゴルヴァチョフ」(i頁)と表記した前科のある滝田の面目躍如といったところで、監訳者の責務を果たしていない証左であろう。本の後半部で見つかる誤字脱字の場合、校正作業の集中力が落ちた可能性も否定できず、人間の行うこととして許容できるが、本を開いてわずか数頁の間に、このような単純ミスを続けて目にすると読む意欲が殺がれてしまう。

また同じく「序文」には次のような勘違いに基づく誤訳もある。「しかし第10章の議論は、1974年から75年にかけて書かれ、1977年に出版された『パワーと相互依存』の第1章~第10章とほぼ符合するものである」(x頁)は、原文 "But the argument of Chapter 10 is broadly consistent with Chapter 1-8 of Power and Interdependence, written mostly in 1974-75 and published in 1977." にあるように、10章ではなく8章である。目次にたどり着くまでに、明らかなミスを目にしてしまうと、「間違い探し」のほうに注意が向き、肝心の内容を理解することは後回しにせざるをえない。

こうしてようやく本文に挑むことができるわけであるが、ここでも滝田は期待を裏切らない。彼自身が担当し、「本書の中核部分」(460頁)であると認識している、第1部「相互依存関係を理解する」を一読した限りにおいて、疑問に思われる箇所を列挙してみよう。

(1)第1章の冒頭5行目にある文章「すなわち、パワーの測定は、以前よりもはるかにデリケートで人々を惑わせるものとなっている(1)」(3頁)は、原文では引用符("")で括られているのに対して、翻訳ではそれが取り除かれている。

(2)5頁の脚注について、第1に注を示すアスタリスク(*)の位置が原書では文章末に置かれているが、翻訳文の半ばにある「軍事安全保障」に付されている。たしかに原文 "military-security concerns." の上に注記号があるとはいえ、この脚注が「軍事安全保障」の説明でなく、文章全体を受けていることは明らかであり、注記号の位置は間違いといえる。第2に、脚注文の「外交問題評議会(Council of Foreign Relations)の The Troubled Partnership (New York: McGraw-Hill, 1965)」は、 出版標目である McGraw-Hill for the Council of Foreign Relations が、外交問題評議会が出版し、マグロウヒル社が発売を担当することを意味しており、外交問題評議会を訳出する必要性はない。

(3)「こうした分析をするための基礎作りを目的として、第8章の別の部分では相互依存関係が何を意味するのかを定義し・・・」(6頁)もまた誤訳であり、原文 ""To lay the groundwork for these analyses, in the reset of this chapter we define what we mean by interdependence, ・・・" の "this chapter" を直前の文章にある "Chapter 8" を受けていると理解した結果であるが、これも第1章の内容さらには本書全体の構成を考えれば、第1章の残りの部分をさしていることは容易に察しが付くことであろう。

(4)「夕食をとろうと、今まさにテーブルにつこうとしているヨーロッパやアメリカの人々に南アフリカでの飢餓を生々しく伝えることによって・・・」(16頁)を読んだ後、今度は「南アジアの飢餓がアメリカに及ぼした影響を再度見てみよう」(19頁)との文がある。原文はどちらも "South Asia" である。

(5)第2章「リアリズムと複合的相互依存関係」で、原著で引用されているハンス・モーゲンソーの文章の訳「国際政治に影響を与える国家は、戦争という形をとる組織的暴力に絶えず備え、積極的に関与するか、あるいは立ち直っている、とすべての歴史は示している」(30頁)において、"or recovering from organized violence" の "from" を訳していないため、結果として「組織的暴力に立ち直る」と読めてしまう奇妙な文章となっている。比較のため、引用されているモーゲンソーの文章が、Politics among Nations の邦訳(『国際政治――権力と平和』)でどうなっているか見てみると、「すべての歴史が示すように、国際政治に積極的な諸国家は、戦争という形態の組織的な暴力の準備をつねに怠らず、それにすすんで関与し、あるいはその痛手から立ちなおる」(43頁)となっていて、"or recovering from organized violence" を的確に訳しており、はるかに分かりやすい。せっかく邦訳があるにもかかわらず、それを利用せず、しかもわざわざ意味の掴み難い日本語に訳して良しとする姿勢もまた疑問である。

(6)「同様に、政府官僚以外のエリートたちも通常の仕事でも、3極通商委員会のような組織でも、民間の財団が主催する会議に集まる」(33頁)も、原文 "Similarly, nongovernmental elites frequently get together in the normal course of business, in organizations such as the Trilateral Commission, and in conferences sponsored by private foundations." と照らしてみれば、むしろ「同じく、非政府エリートたちも日常業務を通じての場合や、三極委員会のような組織において、または民間財団主催の会議などで頻繁に顔を合わせている」とするのが適切だろう。なお「Trilateral Commission」をあえて「(日米欧)三極委員会」ではなく、ググってもまったくヒットしない「3極通商委員会」の訳語を当てることも不可解。

(7)34頁のキッシンジャーの引用文の表記は、1行空けてあるものの、1字下げがなされていないため、この文章が引用文であることを示す形式として中途半端になっている。これも単純なミスに属する。

(8)「アメリカの国務長官がデタント政策の進展に伴い1974年に提案した米ソ貿易協定の締結という暗黙のリンケージ政策は、議会と連動して活動していたアメリカの国内集団が、貿易協定をソ連の政策とリンケージさせることに成功したため、覆させられた」(44頁)は、原文の "Soviet policies on emigration" にある「移民」を訳し忘れたため、意味不明な翻訳になってしまっている。

(9)「我々は、伝統的理論は、複合的相互依存関係という状況の下では国際レジームを変化させることはできないと思う」(49頁)は、原文 "one would expect traditional theories to fail to explain international regime change in situations of complex interdependence." にある "to explain" を訳していない。

(10)翻訳文には、ところどころ挿入語を示す()が見られるが、「(本書初版の出版は1977年:訳者)」(4頁)と表記のある箇所はいいとしても、「(かつて有効であった)」(3頁)のように、原著にない訳者による挿入句と、「(前にも指摘したとおり)」(9頁)のような原著者によるそれが区別されていない。これでは原著を読んでいない読者が(:訳者)のない挿入句はすべて原著者によるものと誤解する恐れがある。多くの翻訳書をみるかぎり、訳者による挿入句は、原著者のそれとの違いを明確にするために、()ではなく[]が使われる旨が「凡例」などで明らかにされていることを考えると、監訳者の怠慢に等しい。これ以外にも、原文の「we」の訳し方も、1-3章では「我々」で、4-5章では「本書」、さらに7章では「著者たち」と、訳者間で異なるのもいただけない。

また滝田の担当ではない4章でも、「通貨という問題領域は十分に定義されていて、領域がはっきりしている。すなわち高度な機能的つながりをもった密度の濃い領域である海洋と海洋資源は・・・」(125頁)との訳文は、本来「すなわち高度な機能的つながりをもった密度の濃い領域である海洋と海洋資源は・・・」と句点(。)がなければならないが、抜け落ちているため、まったく意味が通じない。

「正直、日本では翻訳は研究業績としてあまり高く評価されない傾向がある」(459頁)と認識しているならば、そして「監訳者としての力量の限界を痛感している」とわざわざ述べるくらいならば、そこからもう一歩踏み出して、翻訳を断念し、もっと相応しい人物に委ねるのが筋だろう。院生との学習会で講読するために、内輪で翻訳するのが私的行為とするならば、出版する行為は公共的な意味合いを帯び、しかもわずかばかりとはいえ利益が発生することを考えると、杜撰な翻訳を世に問うことは有害であり、貴重な資源の無駄でもある。国際政治学の基本文献であるため、本書『パワーと相互依存』は、ある程度の需要が見込め、版を重ねるだろうことが予想されるが、増刷の際には、徹底的な訳の見直しを行うか、E・H・カー『危機の二十年』のように別の訳者による全面的な改訳が望まれることはいうまでもない。

・追記(12月13日)
『パワーと相互依存』を読み進めていくにつれて、滝田以外の訳者の担当箇所もまた問題を抱えていることが明らかになってきた。

(1)「1945年以降、伝統的な海運企業と漁業者に加え、多国籍石油企業や多国籍鉱山会社、さらにトランスナショナルな科学や生態学、世界秩序に関するトランスナショナルなグループが海洋を利用し、・・・」(144頁)
→原文 "as well as transnational groups devoted to science, ecology, and world order," とあるように、最初の「トランスナショナルな」は不要。

(2)「第2次世界大戦が終わってようやく、主要資本主義諸国間の一体性を生み出す政治的な条件が作られた。経済的な条件に関していえば、ある程度の一体性は、新しい国際通貨レジームへの実質的な進展につながったと言える」(173頁)
→原文 "Only after World War II created the political and, to some extent, the economic conditions for cohesion among the major capitalist countries, was substantial progress toward a new international monetary regime made." に即して訳すならば、「主要資本主義諸国間の一体性を生み出す政治的、かつある程度までの経済的な条件が作られ、そして新たな国際通貨レジームに向けた実質的な進展が見られたのは、ようやく第2次世界大戦後のことであった」となるだろう。

(3)「全体構造アプローチに関する最も単純な説明は、国際レジームの性質を説明するために軍事力を用いる」(174頁)
→原文 "the distribution of military power" で「配分(distribution)」を訳していない。

(4)「1つは、グローバルな軍事的位置から影響を受ける対ソ政策である」(176頁)
→原文 "Soviet policy" は、次の段落の内容から判断できるように、「ソ連の政策」と訳すべき。

(5)「アメリカのヨーロッパや後の日本に対するより惜しみのない、温情的な政策的変化は・・・」(178頁)
→原文 "The change around 1947 toward a more generous, even paternalistic, American policy toward Europe and later toward Japan..." "around 1947" の訳し忘れ。

(6)「1947年に計画されたイギリスの復帰の失敗の後・・・」(179頁)
→原文 "After the fiasco of Britain's attempted resumption of convertibility in 1947,..." 「兌換」の訳し忘れ。

(7)「このことは結果として、アメリカが、戦間期に、より受動的でナショナリスティックな政策を採用するというよりも、通貨システムにおけるその能力を発揮することに役立ったのである」(179頁)
→原文 "the United States would use its capabilities actively in the monetary system, rather than adopting the more passive or nationalistic policies of the interwar years."であり、「アメリカが、戦間期のように受動的で、ナショナリスティックな政策を採用するというよりもむしろ、通貨システムにおいてその[軍事および経済]能力を積極的に行使する」とすべき。

(8)「少数の海洋国家」(188頁)
→原文 "The minor maritime state" で、数の大小ではなく、国家の強さの大小を意味していると考えるのが妥当であり、「二流の海洋国家」などが適訳。

(9)「アメリカの立場は、資源志向の弱小国家と交渉を重ねながら、沿岸利益を持つ国内的なアクターとして大きく変容した」(204頁)
→原文 "the American position was considerably transformed as domestic actors with coastal interests interacted with resource-oriented weak state, ..." で、"as" の訳し方が誤り。「沿岸利益を持つ[アメリカ]国内のアクターが資源重視の弱小国家と相互に関係を持つに連れて、アメリカの立場は大きく変わった」とするのが適切。

(10)「アメリカに有利な変動相場制での調整に関して、修復された固定相場制を予測してもいいはずだ」(207頁)
→原文 "one should have predicted a restored fixed rate system, with adjustments in exchange rates in favor of the United States." で、"exchange rates" を "floating exchange rate" と誤解。「アメリカに有利な為替レートに設定された、固定相場制の復活を予測できたかもしれない」くらいが適当だろう。

(11)「正しい時期にどのツールを用いるのかを知るための差異化」(211頁)
→原文 "the discrimination to know which to use at the right time." で、"discrimination" の訳は、この場合、「見識/識別力」が相応しい。


高野と友川

2012年05月16日 | nazor

1)第58回江戸川乱歩賞が高野史緒「カラマーゾフの兄妹」に決まったというニュース。江戸川乱歩賞は、商業デビューしていない新人作家を対象しているとばかり思っていて、それゆえに同じミステリ関係の新人公募賞である鮎川哲也賞、あるいは後発組の「ばらのまち福山ミステリー文学新人賞」の受賞作に比べて、近年の受賞作は、その読後感において次作への期待を抱かせるものではなかったというのが正直なところである。

ところが今回の場合は、高野の作品を既読済みであること、とりわけ現時点での「最新」長編である『赤い星』(早川書房, 2008年)の印象が強かったため、受賞作「カラマーゾフの兄妹」の内容は興味を引く。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』自体も広義のミステリに位置づけることができることを考えると、それをどのように料理しているのかが気になるところである。

2)「ナインティナインのオールナイトニッポン」をリアルタイムで聞くことは皆無になったここ数年であるが、まれに夜中覚醒し、途中から聞きだすことがある。5月10日の放送もそのような具合であったが、ラジオをつけたタイミングで、友川カズキ「生きてるっていってみろ」が流れてくる稀有な機会となった。後日ユーチューブで全編を聞き、話の流れ(志村けんのコント→ちわきなおみ「夜へ急ぐ人」→友川カズキ)を把握できたが、久しく忘れていた楽曲の存在を思い出させてくれることになった。

友川カズキ / 生きているっていってみろ


『危機の二十年』のコンテクスト

2011年08月27日 | nazor
国際政治学の「古典」であり、必読文献であったが、日本語訳に問題が指摘され、長らく入手困難な状態にあったE・H・カー『危機の二十年』の新訳が、10月に岩波文庫から出版される。新訳を担当する原彬久は、カーと並んで国際政治学の「古典」であるハンス・J・モーゲンソー『国際政治――権力と平和』(福村書店)の翻訳に関わった経験もあり、人選として適任といえるだろう。

また井上訳の435頁から560頁へと分量に増えていることから、単に従来よりも大き目のフォントに変更するだけの改版にとどまらず、2001年に刊行されたマイケル・コックスの詳細な序文が付された英語版が底本として使用されていると推測できる。1990年代に入って著しい進展を見せている国際政治学の学説史研究において、ユートピアニズム対リアリズムというカーが『危機の二十年』で提示した図式の脱神話化が進み、平板なユートピアニズム理解の見直しとともに、『危機の二十年』をはじめとするカーの国際政治関連の著作も批判的な再読の対象となり、それが「カー・リヴァイヴァル」と呼ばれる潮流を形作っていることは、もはや国際政治学を学ぶ者にとって周知の事実と化している(たとえば、『外交フォーラム』22巻2号、2009年が「E・H・カー―現代への地平」と題する特集を組んでいる)。コックスの序文によって、こうした近年のカーをめぐる研究状況の見取り図を知ることができるのは初学者にとって有用であろう。

国際政治学の導入教育で学ぶ「常識」に対する修正主義は進んでいる。たとえば、1648年のウェストファリア条約に近代主権国家(体系)の成立を見る理解は、スティーヴン・クラズナーのようなリアリストからも、あるいはベンノ・テシィケのようなネオマルクス主義者からも、批判的な眼差しを向けられている(クラズナー「グローバリゼーション論批判――主権概念の再検討」渡辺昭夫・土山実男編『グローバル・ガヴァナンス――政府なき秩序の模索』東京大学出版会, 2001年、およびテシィケ『近代国家体系の形成――ウェストファリアの神話 』桜井書店, 2008年)。とはいえ、依然として教科書や入門書などでは、こうした修正主義的研究を視野に入れた記述が十分に浸透しているとはいいがたい。同じくカー『危機の二十年』によって整理された論争構図が、リアリズムを軸とする、いわゆる「大論争史観」として国際政治学の学説史を規定し、教育的な利便性も加味されて、今でも強い影響を与えている。「古典」と評価されることによって、『危機の二十年』の脱コンテクスト化が避けがたいが、それでも二重のコンテクスト化、すなわち書かれたコンテクスト(同時代的意義)と読まれるコンテクスト(今日的意義)それぞれに目配りをした読みが求められる。

・追記(9月15日)
『世界』や『思想』の巻末掲載の「これから出る本」で予告されていた『危機の二十年』の新訳であるが、岩波書店10月の新刊案内に掲載されておらず、理由は定かではないが、刊行延期になった模様。

「内戦の時代」追想

2011年07月08日 | nazor

「地域紛争の時代」ないし「内戦の時代」、すなわちユーゴスラヴィアの国家解体に伴う内戦を端的な事例として、主権国家間の紛争(戦争)よりも主権国家内の武力紛争(内戦)が国際政治の支配的なモードになっていくという時代認識は、冷戦後の世界像について語られた数多くの言説のなかでも、一定程度の現実感と説得性を伴って広く浸透していった。冷戦の終焉によって米ソ両国の直接・間接の関与が戦略的な意味合いを喪失した結果、冷戦期後半において社会経済体制モデルをめぐる競争の舞台となった地域にパワーおよび正統性の真空状態が生まれた。脱植民地化過程で主権の対外的位相に重きを置いた、主権制度の(形式的)受容の帰結は、対外的主権とセットで十全に機能するはずの対内的主権(至高性)の問題を置き去りにしてきた。いわば国家・国民建設が中途半端な時点で、主権国家としての外装を支えていた外部勢力からの支援の根拠となっていた冷戦構造が解体してしまったわけである。この結果、新興独立諸国は、国際政治的なパワーの真空と国内政治的な正統性の真空という二重の苦境に立たされることになった。そしてこれら国家および政治指導者は、それまでの冷戦構造を与件として組み立てられてきた外交戦略とは異なる拠り所を求めるようになり、多くの場合、ナショナリズムの妖しい魅力に引き寄せられていった。もちろん冷戦の終焉が、つまり紛争抑制要因としての米ソの退却が必ずしも各地で内戦の誘因となったり、激化を招いたわけではなく、反対にカンボジアのように停戦・和平に向けた契機として機能した場合もあり、パワーと正統性の真空が持つ意味合いは両義的ではある。

さて、国際領域と国内領域の空間的分節化に基づく国際政治観念を背景にした主権国家「間」の武力衝突である戦争に対して、主権国家「内」の武力衝突が一般に内戦とされる。つまり国家の政策手段として戦争が一定のルール(戦時国際法)によって枠付けられ、限定された戦争の体系と観念された国際領域に、主権権力による暴力の独占を通じて確立された平和と秩序の体系である国内領域が対置され、国内領域での秩序の崩壊がもたらす帰結の一種として内戦が把握される。その意味で、国際政治学において主要な関心は戦争に向けられ、内戦は周辺的な関心事項、あるいは政治変動論といった別個の学問分野に属する問題とみなされてきた。しかしながら、暴力の規模や死傷者の数といった内実を比較するならば、19世紀最多の犠牲者を出した武力衝突がアメリカ南北戦争だったことからも明らかなように、戦争と内戦の間に明白な違いを見出すことは難しい。またフランス革命やロシア革命の展開に見られるように、一国内の政治変動や内戦が国家間の戦争に転化したり、反対に戦争の敗北の結果、国内体制の変更(=革命)が起こり、内戦に発展する現象からも戦争と内戦の連続性が容易に見出せる。

このような国際=戦争/国内=内戦といった二項対立的な図式が観念的なものであることは言うまでもないが、「地域紛争/内戦の時代」と表象される冷戦後の世界に特徴的な点として、第1に、ある国家や地域の境界線を越えて、複数の地域や主体を巻き込む形で内戦は広域化する傾向が指摘できる。堅い殻をまとった主権国家の理念に程遠い擬似国家(Quasi-States)が大半を占める新興独立諸国において、中央政府の権力が遍く一律に国土空間に行き渡っていることは稀であり、国境管理能力は脆弱で、周辺からの浸透あるいは介入に対する耐性はきわめて低い状態にあることが内戦の広域的波及を容易にしているといえる。そして第2に、内戦やそれに起因する人道危機の発生は、先進諸国にとって遠くの世界で起きている無関係の出来事ではなく、脅威や安全保障上の問題と把握されることによって、人道支援から武力介入まで多様な手段を通じた、半ば恒常的な関与が模索される状況が生じている。内戦の広域化とグローバル化という二重の現象を包括的に把握するワードとして「世界内戦」が注目を集めていることも周知のとおりである。

いうまでもなく「世界内戦」という表現は、ドイツの公法学者カール・シュミットに由来する。シュミットの議論には、2つの世界大戦の時代を背景にしたヨーロッパ公法秩序の解体に対する危機感が反映されている。「正しい敵」同士の争いであった戦争の意味は、20世紀に入り、戦争の犯罪化・違法化の潮流によって大きく転換した。代わって台頭してきたのが文明や人類、あるいは平和や民主主義などの普遍主義を掲げる「正しい戦争」である。その根底には敵概念の変化、すなわち現実の敵から絶対的な敵への変化が介在していた。それは、30年戦争の悲惨な状況に対する反省から生まれたヨーロッパ公法秩序の前提が崩れ、再び絶対的敵対関係が支配する状況に回帰することを意味していた。一方でアングロサクソン諸国の普遍主義、他方でレーニンに代表される、土地的性格を欠いた革命的パルチザンの台頭を通じて(再)導入された絶対的な敵対関係において、対峙する敵は間化され、殲滅あるいは根絶の対象になる。正しい敵同士の戦争から(国際的な)内戦への移行というシュミットの認識に、現在アメリカが進める対テロ戦争のそれとの相同性を看取できることは言うまでもないだろう。それゆえに世界内戦という言説が、シュミットの政治思想の再評価の潮流とも重なり合って、注目を集めているといえる。

17世紀の30年戦争がヨーロッパ公法秩序の始点とすれば、20世紀の30年戦争(第一次大戦・戦間期・第二次大戦)は、その終わりを告げるものであった。ヨーロッパ公法秩序の黄昏における絶対的敵対関係の再浮上は、ヨーロッパ公法の外部に位置するアメリカとソ連が主役として登場し、そして核兵器の出現に見られる戦争技術の高度化によって、冷戦に正戦の性格を与えることになる。こうして米ソの冷戦対立は内戦状況に限りなく類似していく。しかし米ソ両国がともに普遍的な理念やイデオロギーを掲げて対峙する状況は、絶対的敵対関係の全面化に対する歯止めとなった。すくなくとも米ソ(およびブロック)の二極構造は、相互抑止が機能する関係の構築によって、敵対関係の非対称的絶対化の一歩手前で踏みとどまらせた。一方で脱植民地化によって主権国家体系が世界大に拡大したことは、国際政治構造の平準化(主権平等)を一気に推し進めたが、ポスト植民地国家の多くが擬似国家と呼ばれたように、それは形式的な水準にとどまり、むしろ米ソ冷戦構造に結びつき、その支援に依存するなど国家の権威や正統性の基盤は脆弱で、この点を見れば、冷戦期の国際政治は表層面での水平化と深層面での階層化の二重の力学が働いていたといえるだろう。

米ソ冷戦構造の崩壊の帰結として、軍事力の集中によるアメリカ単極構造の形成と、正統規範としての民主主義および市場経済の認知・受容・定着という、力と理念の双方における一元化が進み、絶対的敵対関係の全面化に対する制約が取り払われることになった。それによって、著しい非対称性を特徴とするポスト歴史世界=平和圏=文明/歴史世界=紛争圏=野蛮といった新たな空間的分節化に沿った世界政治空間の再編成が起こっている。軍事力と規範・道義の両面での圧倒的な卓越性は、平和圏が紛争圏に対する、そして紛争圏内部での暴力の形態の変化をもたらす。まず平和圏の行使する暴力は、従来の軍事活動というよりも警察・治安活動の性格を強め、たとえば難民の流出あるいはテロ攻撃といった問題を平和圏に波及させず、できる限り紛争圏に押しとどめ、問題の現地化を目的とする一種の封じ込めが主要な対応策となる。そして平和圏の有する規範から逸脱したり、抵抗を試みる動きが紛争圏から生じた場合、絶対的な敵対関係の認識枠組みにしたがって、敵は絶対的な敵とみなされ、容赦のない懲罰対象となる。それは、人道主義といった普遍的な理念で加工されることによって平和圏の依拠する規範を傷つけず、世論の反撥を抑え、むしろ積極的な支持を獲得することができる。さらに戦後の復興活動も、ボスニアやコソヴォで実施されている領域管理を新たな信託統治とみなす議論も登場しているように、一部はかつての宗主国と植民地との関係を想起させるような「文明化の使命」の様相を帯びた関与の常態化を伴い、国際政治構造の階層化、あるいは非対称性の動きを象徴している。

一方、紛争圏の内部で発現している暴力に目を向けると、そこにも敵対関係の絶対化が見出せる。冷戦後の内戦に共通することは、ちょうど国家形成とは反対の国家解体のサイクルが働いている過程で生じている点にある。すなわち統治能力の欠如、徴税機能の低下、政治腐敗などが国家破綻現象を促し、それは、政府の正統性の確立が担保していた政治/経済や公/私など諸々の境界線を支えていた前提が崩れることを意味する。と同時に境界線を新たに引き直し、アイデンティティの再構築を模索する動きも生じるが、その過程で異質な他者との差異が必要以上に強調され、共存よりも排斥が支配的な関係性のモードになる。現代の内戦において人間の尊厳を無視するような凄惨な虐殺が起こる背後に、他者に対する脅威/恐れが過剰なまでに働くアイデンティティ(再)構築過程がある。紛争圏において暴力や内戦は、境界線の動揺・侵犯・引き直し・再画定の過程で生じているといえるだろう。

主権国家を単位とする国際社会が国際と国内の空間的分節化に基づいていたとすれば、20世紀の世界戦争の時代に主権平等原則の水平化(=空洞化)が進み、冷戦終結によって平和圏と紛争圏という新しい空間的分節化に基づく世界政治の形が生まれつつある。そして紛争圏で生じている内戦やテロの広域化は、平和圏の内部へと(心理的に)浸透することで、平和圏の脅威意識を高め、ときにその浸透を防ぐための軍事行動に発展する。しかしテロ集団に象徴されるように、脅威の対象の脱領域的性格は、捕捉の困難さゆえに、平和圏の遂行する治安・警察・軍事活動領域の際限なき一体化と拡大をもたらし、世界内戦は、国家間戦争のように講和条約の締結による明確な終わりが見えない、永久機関化していく。こうして世界全体を包摂する形で敵対関係の非対称化が進展する一方で、戦時と平時の時間的断絶が消滅し、脅威の遍在度が高まっていくパラドキシカルな状況が生まれている。


連鎖する誤記

2011年06月30日 | nazor
アンドレイ・ランコフ『スターリンから金日成へ――北朝鮮国家の形成 1945-1960年』(法政大学出版局, 2011年)の「訳者あとがき」を読んで気になったのが、「ランコフ氏の著書が日本で紹介されるのは初めてである・・・」(261頁: 強調引用者)という記述である。続けて紹介されている英文著書のうち、North of the DMZ: Essays on Daily Life in North Korea, (McFarland & Co., 2007).は、『民衆の北朝鮮――知られざる日常生活』(花伝社, 2009年)としてすでに翻訳されており、またその「訳者あとがき」では「前者[『スターリンから金日成へ』]は(・・・)、邦訳が近く刊行されると聞いている」(382頁: []内引用者)とある。『スターリンから金日成へ』の翻訳企画が2003年に始まったため、2007年刊行の『民衆の北朝鮮』の邦訳が出ることについて知るはずもないとしても、「訳者あとがき」を執筆する段階で、ランコフ自身に確認をすれば、容易にそのほかの邦訳情報を知ることができたはずで、疑問の残るところである。

ひとつの原因として、国立情報学研究が提供している目録サービス NACSIS Webcat で、『民衆の北朝鮮』を検索すると、著者標目で、Lankov ではなく、 Rankov と誤記されていることが考えられる(検索結果)。目録作成過程における誤記によって、同じ著者にもかかわらず、別人として処理されてしまい、すでに存在する邦訳の情報が得られなかったのであろう。それ以上深く確認しないままに、検索結果を信用したため、『スターリンから金日成へ』が初の邦訳とみなしたといえる。

なお『民衆の北朝鮮』の所蔵図書館を見てみると、愛知大学のように「302.21:R15」と誤記が訂正されないままの図書館がある一方で、国際基督教大学のように「302.21/L267nJ」と訂正されている図書館もあり、個々の図書館によっては対応がなされている。しかしNACSIS Webcat が提供する情報は、書誌ユーティリティー機関という性格上、情報の正確性および真正性が自明視されているため、いったん誤りを含んだ情報が登録されたとき、それれがコピーされて各図書館の目録として利用されてしまう危険性を孕んでもいる。それは、利便性の代償とした個々の図書館によるチェック機能の低下を意味しているといえる(なお国立国会図書館のOPACでは、Lankov となっている)。

奥付の著者紹介や訳者あとがきでも, 「Andrei Lankov」と明記されているのに、なぜLをRと取り違えてしまうような初歩的な誤りが生じたのか。さらに考えていくと、ランコフの著書で最初に邦訳された『平壌の我慢強い庶民たち――CIS(旧ソ連)大学教授の"平壌生活体験記"』(三一書房, 1992年)で、すでにLとRが取り違えられているのだが(検索結果)、それは、この本がロシアではなく韓国で最初に出版され、その韓国語版からの翻訳であることに起因する。日本語と同様に韓国語も、LとRの区別がないため、「ラ」がLかRが確認されずになってしまった結果だろう。そして2冊目の『民衆の北朝鮮』は、『平壌の我慢強い庶民たち』の書誌情報を参考に作成されることで、LとRの誤記が継承されてしまったのである。

そのNACSIS Webcat は2012年度末でサービス提供を停止する(「Webcat終了予定および後継の検索サービスについて」)。上記のような目録情報の誤記が後継のサービスでは改善されることを願う次第である。

小国の冷戦ゲーム

2011年06月21日 | nazor
冷戦が、従来の国際関係(論)が想定するような、ほぼパワーが均等な国家間同士が切り結ぶ水平的な関係(=アナーキー)ではなく、核兵器の有無に象徴されるパワー格差にもとづいたハイラーキーの意味合いを多分に有していることを考えると、冷戦時代の国家間関係の基調は、グローバル次元での米ソ関係、アジア地域における米中関係を除けば、非対称的な関係と把握することに異論は少ないだろう。しかも、その関係において、一般に想定されるような支配・従属関係に収まらない、とくに小国が大国の行動を束縛したり、対立関係を利用することで自国の存在意義を確保するような戦略が機能する、幅広い政治選択が存在していた。とりわけ、一方で植民地からの独立を成し遂げた新興国家の基盤を確立する過程と冷戦のグローバルな拡大が同時並行的に進展したことは、独立当初に見られる国情の流動性が大国による内政への介入を誘い、新たな支配・従属関係の確立をもたらす。他方で、複数の介入主体の「援助競争」を通じて、国家建設に必要な資源を確保したり、地政学的状況を踏まえた「存在価値」をアピールすることで、自立性を担保する、強かな戦略を発揮するだけの余地を独立国の政府指導者に与えることにもなった。

このような非対称的な国際関係に特徴的な従属と自立の関係は、冷戦の進展度合いによって、2つのパターンに大別できるだろう。第1のパターンは、従属から自立へという通時的な展開である。このパターンは、第二次大戦から冷戦へと向かう「戦間期」に、大国の占領などの直接関与が建国や政治体制の樹立に際して大きな役割を果たした国家の場合に見られる。そしてこれらの国家は冷戦の前線を形成することになるため、関与の度合いは強い。したがって大国の関与が国家の深奥部にまで及び、自立性を発揮することはほぼ不可能に近く、いわゆる「傀儡国家」として国際政治の舞台に登場せざるを得ない状況に置かれている。しかし従属状態は不変ではなく、大国の政策変更や取り巻く国際環境の変動によって、徐々に自立性を追求する空間が開かれていく。ときに「弱者の恐喝」を行使することで、大国の政策選択に影響を与えることも可能となる(ベルリンの壁建設をめぐるソ連・東独関係が典型的である)。さらにいえば、北朝鮮やアルバニアのように、鎖国という形で冷戦から退却することで国家の自立を達成する帰結がありえる。

第2のパターンは、冷戦構造がある程度確立した段階で独立を達成した場合に見られる。このとき従属と自立の関係は共時的なもので、小国の主体性は、第1のパターンよりも大きいといえる。つまり、一方の陣営との同盟を結ぶか、もしくは冷戦の局外に立つか(非同盟中立路線)が、実際はともかく理念的にいえば、独立国の政治指導者の眼前に政策上の選択肢として提示されている。核の共滅を回避することで米ソ両国の利害が一致した1960年代半ば以降、米ソの利害が直接絡み合うヨーロッパにおける冷戦構造が固定化されたことで、冷戦の主戦場が第三世界地域に移動し、これら地域に大国が関与する状況が生まれた。と同時に、新興独立国の指導者も、この地域とは無縁に等しい冷戦の論理を戦略として用いることによって、援助の獲得競争に参入していく。しかしながら大国の関与を利用することは高度な政治的・外交的な手腕が求められる。ときに大国の関与が政権内部における党派対立と共振することによって、政策選択の自由度は、自立どころか、従属下の安定よりも悲惨な内戦状態をもたらすことになる。しかも強い利害関係を持たないがゆえに、換言すれば、冷戦の外在性ゆえに、内戦への関与は、グローバル次元の冷戦の終焉によって、その意味を喪失してしまい、その残務整理は、いわゆる「新しい戦争」として定式化されることを通じて執行されることになった。

暴走する「サヨク恐怖症」

2011年03月16日 | nazor
大規模災害は一時的であれ冷静で正確な判断能力を失わせてしまう。それゆえにデマが拡散する余地が生じるわけであるが、そうしたデマへの対処策をもっともよく知っているのが報道に携わる者だといえる。しかし、残念ながら、報道の基本中の基本である情報のウラをとる作業を放棄して、不確かな情報に基づいた報道を行ってしまう事例も散見される。

そして今回の東北関東大震災の報道でも、『産経新聞』の阿比留瑠比が「この期に及んで…首相、東電幹部に『撤退すれば100%潰れる!』」と題した記事の最後で、「辻元氏は平成7年の阪神淡路大震災の際、被災地で反政府ビラをまいた」と記している。しかしこの辻元議員に関する話は、「コピペ探訪~阪神大震災コピペの謎を追え(1-3)」で検証されているように、根拠のないデマにすぎない。

民主党政権、より広く「サヨク」的なるものへの嫌悪感を持つことは別に構わないし、それが確証のある情報源に基づくものであるならば、意味のある批判となり、それこそ民主主義の健全さを証明するものであろう。しかし、「サヨク=フォビア」に囚われるあまり、民主党批判につながるものならば何でも飛びつき、事実確認をせずに報道するという姿勢は、公共性を体現し、「第四の権力」機関であるため、より高い倫理が求められる報道人として見たとき、明らかに「落第」であろうし、それを許してしまう編集デスクもまた同様である。

ハリケーン・カトリーナの報道で「略奪しているのは黒人ばかり」との記事を書いた古森義久という「前例」があるだけに、ある意味でこれもまた『産経新聞』の「独自路線」が如何なく発露したものとみなすことができる。

言葉をめぐるプロとアマチュアの作法

2011年03月15日 | nazor
大規模災害の発生によって、基本的な生活基盤が破壊され、機能不全に陥ってしまうことの帰結のひとつに、必要な情報の伝達に混乱や錯綜が生じて、出所や根拠の不明確なデマや流言が拡散する状況がある。すでに枝野官房長官が記者会見あるいは各メディアを通じて注意が喚起されているし、ネット上の駆け巡っている代表的なチェーンメールの事例については「東北地方太平洋沖地震、ネット上でのデマまとめ」で確認することができる。

こうした類のデマや流言の拡散において、被災地域の惨状を目の当たりにして、何か貢献できることはないだろうかという素朴な感情が触媒となっている。それは、感情に従った自覚性の希薄な行為が誤った情報の拡散を結果的にもたらしてしまう意味で、「善意の副作用」といえるだろう。それゆえに情報の受け手がその内容を精査するなどの自覚性を発揮することによって、こうしたデマや流言の拡散の大半は防ぐことができると思われる。さらに大規模災害は、その衝撃度の大きさゆえに直接の被災地域から(物理的)距離が隔たるにしたがって当事者性が薄まる一方で、各種メディアを通じて被災地の光景がリアルタイムで伝えられることで、日常生活の中に非日常性が浸透し、一種の「祭り」的な雰囲気を醸成し、擬似体験している感覚を促す。そしてこのような当事者性なき参加意識・感覚は、自己陶酔を伴うかたちで、無責任な言動や行為につながっていく。これも一歩引いた位置に身を置くことで発言や行動の意味を自省し、無用なコンフリクトを引き起こさずに済ますことができる。

より性質の悪いのは半ば意図的もしくは確信犯的な言動や行為であろう。昨日報じられた石原慎太郎・東京都知事の「天罰」発言は、持論を展開する中で述べられたことを考えると、「口が滑った」という類の失言にとどまらない。作家そして政治家という言葉の取り扱いに精通した、いわば「言葉のプロ」であるはずの石原都知事は、ときに文脈を外れる形で発言が取り上げられ、反発を招くことを予想できなかったとはいえないだろう。あるいは政治家という生業は「言葉のプロ」である一方で、もっとも言葉のもつ影響や暴力性に鈍感であるという一般論も成り立つが、石原都知事は、作家という肩書きを持つ点で、こうした一般論で免責できない。あるいはプロゆえに自らの言葉に酔い痴れ、その酔いに溺れている状態が恒常化してしまった結果、発話行為を相対化あるいは客観視することができなくなったのであろう。そしてこれまでの数々の放言や失言にもかかわらず、政治生命を失うどころか一定の支持を得ていることもまた、自らの発言の影響や行為遂行性に対する感覚麻痺に一役買ったといえるかもしれない。今回の場合、さすがにこれまでのようにいかず、「天罰」発言の撤回を表明したが、このことからどんな教訓を学ぶのか、その学習効果は疑問のあるところである。

その石原都知事はちょうど地震発生の11日に4選出馬を表明したわけであるが、東京都を直下型地震が襲った近未来を舞台に、明らかに石原をモデルとした政治家が登場するのが第30回横溝正史ミステリ大賞を受賞した伊与原新『お台場アイランドベイビー』(角川書店, 2010年) である(以下ネタバレに近い記述あり)。そこで描かれる震災後の東京の風景は、今回の東北関東大震災の被災地というよりも、ハリケーン・カトリーナのそれに近い。被災地において略奪行為が発生していない点に日本人の国民的性格を見出す海外の報道があり、それがいくぶん自慢げな形で日本国内でも伝えられている。しかし小説において震災ストリートチルドレンをめぐる「謎」を解く糸口となっているのが1923年の関東大震災後におきた甘粕事件であることが示唆するように、規律正しく秩序だった日本人像をそのまま過去に投射することはできない。それを日本人の美徳や国民性一般に還元するような議論は、その裏返しとしてハリケーン・カトリーナ被災で略奪が起こったのはアフリカ系住民の性格にあるといった議論と一体の関係にある。また小説では、復興という名目で都知事周辺・ゼネコン企業・暴力団の癒着構造にもとづいて進められる再開発プロジェクトの展開は、ナオミ・クラインが論じている「災害資本主義」の典型例といえる(Naomi Klein, The Shock Doctrine: the Rise of Disaster Capitalism, Metropolitan Books, 2007.)。

モジュール化する民主化

2011年02月22日 | nazor
チュニジアおよびエジプトの政権崩壊をもたらした「民主化」現象はその勢いを加速させている。そしてエジプトの隣国リビアが次なる民主化の筆頭候補として浮上し、メディアの注目を集めている。リビア政府は、反政府勢力との対決姿勢を露にし、軍および治安機関による制圧という手段に打って出たが、反政府勢力の勢いを抑えられずにいる。それどころか、反政府勢力によって国内東部地域が制圧されたとの情報も流れており、さらに一部報道ではカダフィが国外に脱出したとも伝えられたように(この情報は否定されたが)、カダフィ体制が危機的状況に直面していることは明らかであろう。あくまで強硬姿勢を貫いているカダフィ政権が反政府勢力の制圧に成功するならば、つまり反政府デモに対する強硬手段の有用性が証明されるならば、「民主化」波及予備軍の統治者たちが同様の対応策を採ることが考えられる。その結果、「民主化」の勢いが減速を余儀なくされ、中東全域に拡大する可能性は遠のいてしまうかもしれない。その意味で、現在の「民主化」現象において、いわゆる「カスケード」段階に達することができる臨界点(thleshold point)に位置付けられるのがリビアといえるのではないだろうか。

中東および北アフリカ諸国を席巻している「民主化」現象について、今後さまざまな視点から分析・検証されることだろう。そしてそこから得られる含意や教訓も多様なものであろう。その中には「革命」的雰囲気に酔い、いささか短絡的で視野狭窄的な議論が現れるかもしれない。そうした議論のプロトタイプともいえそうなのが、古森義久の記事「反政府デモ イラク波及せず 米指摘『介入で民主化進展』」『産経新聞』2月20日であろう。古森らしく基本的に共和党政治家の発言を中心に「イラクで反政府デモが発生していないのは民主化が進んだからだ」という見方を紹介している。

まず事実確認として、今年1月以降のイラク情勢を見たとき、チュニジアやエジプトのような華々しさに欠けるものの、断続的に「反政府デモ」と呼べる動きが生じている。たとえば、イラク南部の都市クートで2月16日、州政府知事の辞任を求めるデモがあり、警備員の発砲で30人以上の死傷者が出ている。あるいはクルド人自治区スレイマニヤでも20日にデモ隊と治安部隊が衝突し、50人弱の負傷者が出ている。たしかに記事中の『ニューヨーク・タイムズ』が指摘するように、これらは、政権打倒を掲げていない点で、現在中東地域を席巻している反政府デモとは無関係の、イラク固有の事情に起因する出来事であろう。その意味で「反政府デモはイラクに波及していない」かもしれない。しかし政権打倒を掲げる動きは見られないからといって、それが政権の安定を意味するとは限らない。日常生活に関係する不満に端を発するデモに対して、治安部隊の力が必要とされる状況は、すくなくとも「民主化」が不十分である証左ではないだろうか。たしかにイラクでは、さまざまな民主主義の規範や制度が整備されているかもしれないが、しかし民主主義が十分に機能しているのであれば、日常生活で生じる不満を訴える声があがったとしても、それが直接行動に移る前段階で対処され、何らかの合意なり妥協が成立する形で解消されるだろう。むしろ日常生活に根ざす不満が依然として燻っていることは民主主義に対する信頼が十分に内面化されていないことを示唆している。デモという「街頭の政治」と治安部隊の動員・鎮圧という強制手段がその有効性を維持している限り、イラクにおける民主化は停滞し、あるいは逆行する可能性を孕んでいる。

また古森(産経)のリード文の3つ目「介入で民主化進展」という見方は、当然のことながらアメリカのイラク攻撃を正当化する言説を提供する。この言説が結果論でしかない点は言うまでもないし、そもそもイラク攻撃において民主化は半ば後付けの理由であり、民主化が進んだことによって開戦理由も正当性されるわけではない。古森が紹介するダニエル・パイプスは、イラク攻撃に対するリベラル派の批判「イスラムの教徒や教義は本質的に民主主義には合致せず、中東の民主化という目標はあまりに非現実的だ」を的外れだったと非難しているが、このパイプスによるリベラル派の言説はいくぶん戯画的でもある。「イスラーム地域に民主主義は根付かない」という言説を一般化したとき、そこに本質主義的な匂いを嗅ぎ取ることは容易いし、実際そうした見解を持つリベラル派もいたであろう。しかしリベラル派の批判において「民主主義」の意味するものに注意を向けるならば、そこで問われていたのは、アメリカで育まれた民主主義がそのまま「輸出」あるいは「移植」できるとする素朴な信念であった。民主主義と言いつつも、それはあくまでも「アメリカの」民主主義であった。それをイスラーム地域に「移植」したとき、「拒絶反応」が生じるのは当然で、ブッシュ政権の「中東民主化構想」を耳にしたとき、多くの人々が懸念を抱いたのはまさにこの点であった。

たしかにアメリカの介入によってフセイン政権は崩壊した。しかしその後の占領政策は円滑に進んだとは言いがたく、計画や見通しの甘さが明らかとなり、民族・宗派対立あるいはアルカイダの浸透を招く結果となった。それは、ブッシュ政権の描いた「民主化構想」とは程遠いものであり、現在のイラクが曲がりなりにも安定を保っていることとアメリカの介入とを直接的に結びつけるのはあまりに強引であろう。単純な因果関係に還元できないさまざまな要因が作用した結果であり、アメリカの介入は必要条件だったかもしれないが、十分条件であったとはいえない。また歴史のイフの話として現時点でフセイン政権が存続したとすれば、今回の民主化の潮流は当然ながらイラクにも影響を与え、政権の動揺・崩壊をもたらしたかもしれず、ムバラク政権のような形での体制変動が生じた場合、アメリカの(明示的な)介入は必要条件ですらない。いずれにせよ、今回の中東における民主化現象とイラクの事例を結びつけるような議論があまり意味を成さないのは明らかである。

ところで今回の民主化現象を促進している要因としてフェイスブックなどの情報通信技術が注目を集めている。2月20日放送のNHKスペシャル「ネットが“革命”を起こした~中東・若者たちの攻防~」もそうした側面に焦点を当てた番組であった。その中でエジプトの反政府運動「4月6日運動」の旗が映されたとき、そこに拳のロゴマークが描かれていた点が注意を引いた。番組がこの点に言及することはなかったが、このロゴマークは言うまでもなくセルビアのミロシェヴィッチ政権崩壊において重要な役割を担った反政府運動「オトポール」のシンボルである。オトポールの興味深い点は、セルビア一国に限定されずに、2004年のウクライナ・オレンジ革命など旧ソ連諸国などの反政府運動において、オトポ-ルの姉妹組織がその中核として活動したといわれていることにある。「4月6日運動」もまたオトポールの手法に学んでいることがそのロゴマークから窺い知ることができる。それは、反政府運動のモジュール化の一例であるといえるだろう。

なおオトポールにはアメリカ政府の多額の資金援助が流れたとの話が伝えられている。いわばオトポールは純然たる内発的な運動ではなく、運動の組織化や運営において外部勢力が介在していたわけである。それは「アメリカの介入」の一種である点で、体制変動過程において外的要因が果たす役割を示唆している。しかしながら、この点を捉えて、一方でオトポールや「4月6日運動」を「アメリカ政府の手先」と非難し、その運動を全面的に否定する議論も、他方で「アメリカの介入」の必要性を証明するものとみなし、イラク流の介入までも正当化する議論もどちらもまた性急で短絡的であろう。アメリカ政府の意図が100%体現されることはありえず、各地域の実情に合わせた組織のあり方、運動の方針が策定されるのは当然のことである。そうでなければ、民主主義の規範や制度はいつまでも「外来」のものにとどまり、それゆえに転覆される可能性を孕んでしまいかねない。この点は、アメリカによる民主化の成功例として、イラク占領政策においても参照された戦後日本を一瞥すれば明らかである。成功例といわれるにもかかわらず、憲法や戦後レジームを「押し付けられた」と不満を抱く政治家や識者が一定数存在することは、それこそ民主主義が「未完のプロジェクト」であることを示している。

興奮と幻滅の中東民主化現象

2011年02月04日 | nazor

チュニジアのベンアリ政権崩壊に端を発した民主化は、アラブ諸国の主導的地位にあるエジプトに波及し、ムバラク体制を動揺させているとともに、ヨルダンやイエメンといった同様の境遇にある周辺諸国も体制の崩壊を回避すべく予防措置を講じている。とりわけ欧米先進諸国の観点からは、イスラエル/パレスチナ問題(に起因する国際テロリズム)、および石油エネルギー問題など地政学的にも経済的にも座視できない地域であり、その民主化のドミノ現象に心情的に共感する一方で、力の真空状態の創出と地域の不安定化に対する懸念に囚われ、素直に歓迎できない事情がある。

ここでムラバク大統領が直面している現況について、ちょうどムラバクが政権を握った約30年前、つまり1980年前後の世界で見られた(開発)独裁体制、具体的にはスペイン、イラン、韓国などの政治危機を考察した論考において、高橋進が提示した政治体系危機論の枠組みを手がかりに考えてみたい(高橋進『国際政治史の理論』岩波書店, 2008年、初出は『世界』1980年2月号)。

高橋は、ドイツの政治学者イェニッケの議論を紹介する形で、安定・不安定・尖鋭的危機・瓦解の4つの状況に政治体系を区分する。まず安定状態において体制に対する不満は個人レベルに還元されており、個人の紛争主体能力も不十分であるために、体制の動揺を誘うほどではない。しかし、ほかの集団との連帯を通じて、社会不満が個人レベルにとどまらず、社会紛争化していくと体制は不安定化する。この時点で体制側は、利害関係の調整役として不満を中和したり、不満を抱く集団を孤立化させて「治安問題」に還元させたり、あるいは紛争基盤が確立される段階に至ると、体制側が主導する改革の実施、経済的な富の配分政策の見直し、紛争主体の承認・包摂などの「予防的危機管理」を採用し、次の尖鋭的危機への昂進を防ごうとする。この「予防的危機管理」の失敗は、体制側と反体制側の直接対峙、革命前夜の状況をもたらす。体制側は、軍や支持団体の動員といった「対応的危機管理」を採る。しかし「対応的危機管理」の帰結が体制側による弾圧か、それとも体制改革になるかどうかは、この状況におかれた政治指導者のリーダーシップに左右される。そして「対応的危機管理」の失敗が政治体制の「瓦解」を意味する。

この政治的危機論に照らしてみると、エジプトの場合、これまでムスリム同砲団などの野党勢力の排除に典型的に見られるように、社会的不満を組織化する回路を事前に遮断する措置を講じることによって、政権への不満が拡がることを未然に防いできたといえるだろう。このような国内社会における紛争主体の分断統治が一定の成果を挙げてきたことは30年にわたる政権存続という事実が何よりも物語っている。しかし欧米諸国からの援助を期待せざるをえない立場にあるため、選挙の実施といった民主主義の外装を整備することによって、政権の正当性を確保している権威主義体制においては、空洞化しているとはいっても、限定的な参加の余地が残される。この機会を捉えて反対派が体制への不満を吸収し、支持を拡大させ、この動きに反対派の抑圧で応えるサイクルが形成される。高橋によれば「抑圧を行使し限定的な競争を維持しようとする体制のもつジレンマとは、不満と反逆が増大することによって、抑圧は手に負いがたい民主化への爆発を増大させ、そしてさらにきびしい抑圧が必要とされる」(55頁)。そしてこのジレンマは、先の政治危機の各段階の進展度合いにも影響を与え、とくに反対派の目標実現のために体制転換が必要だと認識されるとき、不安定から尖鋭的危機へは短期間で移行することになる。

今回のエジプトの事例を見ても、体制の動揺から流血事態に象徴的な革命前夜状況にいたる過程は加速度的である。しかも危機状況の進展において興味を引く要因として指摘されるそのトランスナショナルな位相である。ムラバク体制の安定から不安定へ、つまり不満の社会紛争化を促進したのは、国内の反対派のイニシアティヴというよりもむしろチュニジアの政権崩壊というトランスナショナルな回路を通じて、社会的不満を抱く紛争主体の覚醒および連帯が促された点に特徴を見出せる。ツィッターやフェイスブックといった情報通信技術の発展はデモンストレーション効果の加速化に寄与し、いわゆる「横からの入力」に対する体制側の対応や規制が追いつかず、それゆえに社会的不満の表出を事前に抑え込むことができなかったといえるだろう。政治体制の不安定状態に直面したムバラク大統領は、空席だった副大統領の任命などの譲歩を示すことで不満の沈静化を目指したわけである。いわば「予防的危機管理」に合致する手段を講じて、危機の収束を狙ったが、反体制運動の勢いを止めることができず、尖鋭的危機を招来してしまったのが現状だといえよう。まさに警察の動員が疑われる大統領支持派のデモ隊と反政府派の衝突は、「対応的危機管理」の一例である。

そしてこの革命前夜の雰囲気が覆う状況が体制の瓦解に帰結することを回避するうえで、政治指導者の対応が注目されると同時に、高橋によれば、大国の対応および行動も事態の行方を左右するファクターとなる(51頁)。言うまでもなくアメリカ政府の対応が注目される。中東地域における民主化は、ある意味でブッシュ・ジュニア政権が夢見た「中東民主化構想」が遅ればせながら実現しつつあるともいえるし、「自由の帝国」たるアメリカの理念が、文化的に異質な中東地域にも芽吹き始めた兆候と捉えられるかもしれない。それは民主主義の普遍的性格を示してもいる。しかし、権威主義あるいは独裁体制の崩壊は、一直線に民主主義体制へと移行するわけでないこともまた事実である。その点でポスト・ムラバクのエジプトは、同じく親米独裁政権の崩壊、そして反米政権の樹立に至ったイランの道を歩むことも十分ありうる。このシナリオはアメリカ政府にしてみれば、最悪の部類に入るものであろう。したがって外交政策の指針において親米か否かが優先的な基準である限り、換言すれば価値よりも利益が重視される限り、民主主義の理念はその文化的境界線を乗り越えることができず、政策上のレトリックでしかなくなってしまう。そしてそれは民主主義への懐疑や幻滅を招き、ひいては権威主義的・独裁的統治に対する免罪符ともなってしまう。

チュニジア発の民主化ドミノ現象は、20世紀後半に生じた民主化の第三の波を想起させる。しかし、民主化には揺り戻し現象が付きまとう。それは21世紀初頭に旧ソ連諸国で連鎖的に起こった「カラー革命」を経験したウクライナ、グルジア、キルギスタン(クルグズスタン)のその後を一瞥すれば、民主主義の「定着」がいかに困難な過程であるか明らかであろう(藤森信吉・前田弘毅・宇山智彦『「民主化革命」とは何だったのか――グルジア、ウクライナ、クルグズスタン』北海道大学スラブ研究センター, 2006年参照)。エジプトのムバラク体制の動揺に対する報道が過熱する一方で、チュニジアの動向が一般メディアでほとんど伝えられないが、むしろ決定的な転換点にあるのはエジプトではなく、チュニジアのほうかもしれない。先発事例であるチュニジアにおける体制移行の成否が、正負いずれかのデモンストレーション効果を発揮して、他国の政策判断に影響することは十分考えられるからである。

「権威主義体制の崩壊には、ほとんど常にゾクゾク興奮させるものがあるが、民主主義体制の樹立にはしばしば幻滅させられる」(サミュエル・ハンチントン『第三の波――20世紀後半の民主化』三嶺書房, 1995年: 163頁)とすれば、民主主義体制の定着はさらなる幻滅を伴う過程であろう。幻滅に彩られた民主主義の樹立・定着過程に対する「耐性」を身に着けておかなければ、早晩、民主化の揺り戻りに見舞われかねない。


翻訳の罪と罰

2010年12月11日 | nazor
一方である言語で書かれた原書を逐語的に訳すことで別の言語においてできる限りの「再現性」を高めることと、他方で文法構造の違いや語彙量の多寡などの点で原書の完全な「再現」など不可能であることを念頭に一定程度の「意訳」によって翻訳したときの読みやすさを重視することの、相容れない要請が、翻訳者にとって出口のない、悩ましい課題となっていることは言うまでもないことであろう。原書に忠実すぎるあまり、文章が直訳調で生硬になり、日本語として意味不明であっては、翻訳を読む意味がないし、そもそも原語に通じているならば原書を読むほうがはるかに理解を深めることになろう。それゆえに原文の意味を汲んだ上で日本語としてこなれているというのが翻訳に求められる基準であろう。

しかしときにこの基準を逸脱するような翻訳に遭遇することがある。このとき翻訳という行為の難しさが改めて認識させられる。翻訳行為が原書を別の言語で読むことができるようにする行為であるとすれば、ある程度の「意訳」が許容されるとしても、訳者自身の解釈や読み方を訳文に反映させるようなことはなるべく抑制するべきだろう。そうした行為は訳者解説で、あるいは書評論文でそれこそ思う存分に展開すればよい話である。訳者は読者に対して特定の解釈や読み方を規定するような「親切心」を慎むべきで、あくまで原書と読者との間に立つ媒介者としての役割に徹することが求められるのではないだろうか。

さてこうした翻訳論の類を展開しようと思うきっかけは、イアン・クラーク『グローバリゼーションと国際関係理論――グレート・ディヴァイドを超えて』(中央大学出版部, 2010年)を読み始めたことにある。すなわちいきなり1ページ目から下線が引かれた文章があり、「(下線部、訳者)」との但し書きが挿入されている。下線の引かれた文が本書を理解するうえで重要であることを読者に示したいという訳者のそれこそ「親切心」の表れとみることができよう。たしかに大学のゼミなどでレジュメを作成するときに、補助線として理解の助けとなり、作成作業が容易になるかもしれない。

しかし「下線の引かれた文=重要な文」との理解に引きずられて、それこそ訳者の解釈に沿った読み方に誘導されかねない。このことは、多様/多声的な読書を阻害するものであり、読者の主体的な解釈行為を排除するものでしかない。図書館で借りた本に付箋や書き込みがあると無意識にそれらに目が留まってしまうが、気になるならば付箋や(鉛筆での)書き込みであれば取り除くことができるが、下線がしっかりと印刷されていてはどうしようもない。言い換えれば、単なる訳注や文章の補完といった「読みやすさ」から明らかに逸脱した越権行為であり、媒介者としての翻訳者の役割を放棄しているに等しい。あるいはこのような訳者による「装飾」が必要ならば、それに対する説明が「凡例」や「訳者まえかき」でなされるべきであろうが、そのような説明が一切欠けているのも理解に苦しむところである。

結果的に、研究者はもちろん原書の読める英語力を持つ学生はこの訳書を読む積極的誘因を持たず、ゼミなどで講読文献に指定された学生に読まれるくらいで、翻訳を刊行する意義は薄れてしまっている。このような翻訳行為の領分を逸脱した形でイアン・クラーク『グローバリゼーションと国際関係理論』が日本で紹介されるようになってしまったことはきわめて残念であり、原著者のイアン・クラークにとっても不幸な出来事である。なお訳者は(参考文献を見ると[305頁])相互依存論の古典 Power and Interdependence の翻訳を進めているようであるが、今回のような「親切心」を自制し、それができないならば翻訳作業から自発的に降りるのが日本の学界にとっても有益であろう。

ついでにいえば、この本の索引も、まともな編集経験のある者が作成したとは思えない(学生に丸投げしたかのような)杜撰さが際立っている。たとえば人名索引でタ行に「デイヴィッド、ヘルド」とあるが、もちろんこれはハ行にあるべきものであり、しかもハ行では「ヘルド、デーヴィッド」と「David」の表記が統一されていない。あるいは「ホフマン」を見ると、そこには該当する5つのページが記されているが、そのうち「122、124、134」は「M・ホフマン」を、「197、241」は「S・ホフマン」を指し、その区別がされていない。他方で同姓であっても「ウィリアムズ」や「コックス」などは、姓だけの「ウィリアムズ」と姓名そろった(たとえば)「ウィリアムズ, H」とが併記されているが、この場合わざわざ「ウィリアムズ」を独立させる理由はない。これらの混乱の原因は、わざわざ出典表示まで日本語に訳していることにある。つまり一般に原文のまま「(Little and Smith, 1991)」とされているものを「(リトルとスミス:1991年)」(3頁)と訳しているためであり、しかも索引作成者は機械的に同一の単語すべてを拾って索引に登録していることにある。さらに出典表示を訳す一方で、参考文献一覧は原文のままであることに加えて「トマス・ポッゲ→トマス・ポギー」、「ジョン・ハーツ→ジョン・ヘルツ」や「ジャン・マリ・ゲーノ→ジャン・マリ・グエヘノ」のように定訳を無視したり、一つの姓である「リッセ=カッペン」を「リセ」と「カッペン」に分割してそれぞれカ行とラ行に載せるなど、ググれば容易に確認できるにもかかわらず、そうした作業を怠った「初歩的な」誤りによって、出典表示と対照させることが困難になっている。

読売よ、産経までもう一歩だ!!

2010年11月28日 | nazor
今日28日の『読売新聞』「編集手帳」。紅白歌合戦に初出場する植村花菜の「トイレの神様」を枕にして、そこからトイレ掃除の精神論へ展開し、あろうことかニセ科学の一種として批判・非難の絶えないNPO法人「日本を美しくする会」、そしてこの「素手でトイレ掃除」運動の「教祖さま」の著書宣伝で落ちをつけるという筋立ては、一瞬「これは産経抄か?」との錯覚に陥らせる。

この手の話題は『産経新聞』の専売特許のはずだが、相対的に見れば「まだましな」保守とみなすことができる『読売』もニセ科学紛いのネタに魅了され、それを受容してしまう思考回路を持つ人物にコラム執筆を任せるような時代になったということは日本における保守主義の劣化を象徴している。さらにいえば、このことは、仙谷官房長官の「暴力装置」発言を俗流マルクス主義/反共主義でしか理解できないケースと並んで、改めて保守を自認する人々に見られる反知性主義の証左といえるかもしれない。

基地政治における拘束と選択

2010年05月30日 | nazor
沖縄県民に対して「国外・県外」移設の期待を持たせながら、鳩山首相自身が設定したタイムリミットである5月末を目前にして、辺野古を移転候補地とする合意が日米両政府の共同声明において確認されたことで、鳩山政権発足以降、外交政策をめぐる議論においてほぼ独占的な争点となってきた普天間飛行場移設問題は、沖縄県や名護市などの地元自治体の失望感と、福島大臣の罷免さらに社民党の連立離脱の不可避化という代償を伴う形で一応の決着を見るという後見の悪さを残すことになった。

国際政治あるいは外交に関する交渉は、藤原帰一が指摘するように、国内政治の次元に加えて「国際関係における合理性という別の尺度」を考慮に入れなくてはならないため、妥協点を探る作業の複雑さが増すことになる(『新編 平和のリアリズム』岩波書店, 2010年: 380頁)。さらに今回の場合、連立政権内部の政治ゲームも加味されることによって、いっそう複雑で、最適解を見つけ出すためにかなり高度な指導力が問われる状況にあったといえる。このようなアメリカ・沖縄・社民党の3者の錯綜する利害を認識し、調整し、関係当事者すべてが納得のいく妥協や合意を見つけ出す困難に直面した結果、鳩山首相の選択したのはアメリカとの関係を優先する従来の路線であった。「基地の縮小や撤去」を求める声と「日本およびアジアの安全にとって日米安保は不可欠」と主張する声、別言すれば国内政治の論理と国際政治の論理が対抗関係にあるとき、双方の論理をどのような配分で折衷させ、納得できるような妥協点を見出すのかは、政治的・外交的手腕が問われる状況を作り出す。これまで自民党政権の場合であれば、冷戦構造の存在や、「安全保障問題は政府の専管事項」との前提に立って、アメリカとの合意(国際公約)をできる限り修正することなく地元自治体に受け入れさせるかという観点から、主に地域振興というアメをちらつかせながら交渉が進められてきた。国際政治の論理を優先し、国内政治の論理を馴致する構図である。前述したように、沖縄や社民党の反対論を尻目にアメリカとの合意を先行させた鳩山首相の判断も結果的にこの構図に則ったものであるといえる。

他方で、国際政治の論理を変更不可能な所与のものとして理解するのではなく、むしろ国内政治の論理を一種の外交カードとして用いることで国際政治の論理に修正を加える構図もありうるだろう。こうした外交交渉は、ときに性急な国民世論の暴走を招き、国益を損なわせることになる可能性を孕んでいる点で外交交渉に携わる関係者や外交史に精通した識者たちには不評であり、それゆえに国際政治の論理を修正することに慎重な態度が一見したところ国際政治の現実を直視していると評価される傾向にある。しかしながら、問題なのは、このような国内政治の論理に対する慎重な態度自体ではなく、慎重さが懐疑や軽蔑、あるいは無視に転移し、国内政治の論理を考慮の外に置く態度が自然化されてしまう点である。米軍基地問題に関していえば、すくなくとも沖縄の基地負担を軽減するという政策方針自体に反対の声は聞かれないにもかかわらず、基地問題を日常政治の次元で捉える視点が国民の間で共有されているかといえば、「総論賛成・各論反対」に終わった先の知事会が象徴するように、それには程遠く、むしろ国際政治の論理を上位に置く認識を側面から支え、正当性を付与する(無自覚な)共犯関係を成り立たせている。

「最低でも県外移設」を掲げた鳩山首相の方針は、国際政治の論理に対抗し、その修正を可能とするような国内政治の論理を醸成する機運を高める契機となりえたかもしれなかった。それゆえ国際政治の論理にほぼ無条件に従う形での決着は期待を抱かせた分だけ大きな失望や批判をもたらした。しかし沖縄に米軍基地が当面の間必要であること、そして抑止力としての機能を無視できないといった国際政治の論理を受け入れた場合であっても、沖縄の基地問題が議論される文脈を日米関係に限定せずに、広く東アジア全般の国際関係を今後どのように描き、それを土台として平和と安定の地域秩序を作り上げていくための政策構想と結びつける形で沖縄の基地負担問題を捉え返すならば、すくなくともこれほどまでの失望感と非難が集中することもなかったのではないか。日米関係の文脈を通してみれば、国際政治の現実を前にして基地の縮小や撤去の可能性が実現不可能と先験的に排除されてしまうが、文脈をずらすことによって、国際政治の「現実」とされるものを構成する要素が前景化し、変更不可能と思われていた「現実」を変えていく手掛かりが見えてくるだろう。そしてこうした視点に立つならば、鳩山首相がめざす「対等な日米関係」や「駐留なき安保」、あるいは「東アジア共同体」も単なる理想論として片付けられることなく、長期的な政策構想の中に組み込まれたアイデアという意味合いを持ち、その実現に向けた真剣な議論を喚起することにつながるであろう。

以上の議論を敷衍するならば、鳩山政権は次の2点において、日米関係さらには東アジア国際政治全般に関する方針を明確化することによって、基地問題の解決の糸口を示すことができたであろうし、日米同盟の抱えている課題やあるべき将来像に向けた議論を活発化させる機会の窓を切り開くことができたのではないだろうか。すなわち第1に、朝鮮半島や中台海峡など潜在的紛争要因を抱える東アジアにおいて、日米同盟が(抑止力を含めた)一種の安定化装置として機能していることを認めるとしても、とにかくアメリカとの関係を維持することを一義的に考えるような外交が続く限り、そして北朝鮮や中国を(潜在的)脅威とみなす認識が変わらない限り、沖縄の米軍基地の存在理由は説得力を持ち続ける。今回の普天間移設問題を対米関係の文脈に限定して考える根底に流れる国際政治認識においては、潜在的脅威とされる北朝鮮や中国をあくまでも日米同盟の枠組みの彼岸に留めて、抑止対象とみなす一方で、中朝両国が同盟の此岸に引き寄せる能動的な外交の可能性についてシニカルな態度に終始する現実追随主義が魅力的に映ってくる。たしかに(潜在的な)紛争要因が存在する限り、それに対処するための同盟を維持し、強化することは当然の策であろう。しかしそれは日米と中朝の潜在的な対立構図が今後も不変であることを当然視する発想であり、そこに対立構図を協調のそれに変えていこうとするための政策理念・構想・手段を内包するような想像=創造性に富むアプローチを見出すことはできない。換言すれば、沖縄に米軍が存在する根拠やそれを支える論理に説得力を付与している北朝鮮や中国という東アジアの潜在的な脅威・不安定要因を取り除く外交政策と関連付けて、論点を提起する必要があったように思われる。日米同盟の維持を何事にも優先する姿勢は、東アジア地域の平和の問題に背を向けた別様の「一国平和主義」にすぎず、きわめて狭量な国際政治認識に基づくものである。このような言説を再検討したうえで、東アジア全体の国際関係の文脈に日米同盟や沖縄の基地問題を位置づけて、沖縄の負担軽減が可能となる具体的条件を提示し、それに向けた取り組みの行程を暫定的であれ示すというような外交政策の構想力が欠けている点こそが鳩山政権への批判として有効であり、また建設的だといえるだろう。

第2に、沖縄の米軍基地が提起するもっとも喫緊の問題は、基地周辺で生じる米兵による犯罪行為や騒音・環境被害といった日常生活に深く関わっている。これは、国家安全保障ではなく、まさに人間の安全保障に属する問題だと言い換えることができる。日本政府が外交の柱としている人間の安全保障を必要としているのは何も途上国の人々だけではない。人間の安全保障の対象を国境線で区別することは偽善に他ならない。もちろん基地の撤去こそがこの問題の根本的な解決であるが、それが近い将来において望めない以上、次善の策として追求すべきは日米地位協定の改正などによって地元住民の生活環境を改善し、負担を軽減することであろう(なお3月24日の参院予算委員会で鳩山首相は地位協定の改定に言及している)。沖縄の米軍基地が戦略的に不可欠であり、撤退する選択が考えられないならば、日本政府は対米交渉において地位協定の改正や運用の厳格化を求め、それを実現させることに真剣に取り組むべきであり、アメリカが享受している便益に見合うだけの費用を支払ってもらうことで「対等な日米関係」への一歩にもなるだろう。「思いやり予算」に象徴されるようにアメリカにとって日本は非常に利便性の高い基地受入国であるが、米軍基地の便益と費用のバランスシートを今一度検討してみる必要がある。

米軍が沖縄に駐留することを地政学的あるいは戦略的な観点で正当化する論理の前提を再審する政策構想が第1の議論だとすれば、第2のそれは、地政学的な論理を認めた上で、それが破綻しないギリギリの線を見定めた上で駐留コストを引き上げる交渉戦略である。東アジアの地政学的状況を変化させる長期的な展望を視野に入れながら、短期的には基地周辺に居住する人々の安全を保障する施策を充実させていくことが求められる。このことは、米軍基地の撤去を直ちにもたらすものではない意味で、地元住民の不満は依然として残るが、段階的な行程表を作り、その実現のために必要な行動を採ることが提示できるならば、今回のような全面的な拒絶や批判を招く結果に至らなかったかもしれない。

「日米関係は重要だ」という言説は日本外交の一面を突いているものの、それに拘束され、外交政策上の選択の幅を自ずから限定してしまう危険性も孕んでいる。そのことは、28日最終合意文書が採択されたNPT再検討会議における日本の存在感が、メディアの関心が普天間問題に集中したこともあり、薄いことに端的にうかがえる。「唯一の被爆国」という日本の外交資源は、アメリカの核抑止政策に依存してきたため、戦後有効に活用されてきたとはいいがたいが、オバマ大統領の「核なき世界」演説をきっかけに、核軍縮をめぐる議論の活発化する機運が高まっている現状において、日本外交にとっての機会の窓が広く開かれている(たとえば2010年2月の日豪両政府による共同声明「核兵器のない世界に向けて」などはその一環だろう)。東アジアの不安定要因として北朝鮮の核問題が注目され、それゆえに沖縄の基地が必要であるという論理が説得力を持って受け入れられているが、核軍縮分野において積極的な外交政策を推進することは、間接的に東アジアの国際政治を規定する対立構図を緩和し、沖縄の米軍基地の縮小(や撤去)をも射程に入れた将来展望を準備することになる。こうした並存する政策課題を相互に関連付けて提示することができれば、日本外交を拘束している条件を緩和し、選択肢を拡充することにつながるであろう。

新党「たちあがれ日本」は「フォルツァ・イタリア」の道を歩むのか

2010年04月12日 | nazor
鳩山政権の支持率が危険水域まで低下しているにもかかわらず、最大野党の自民党も「御家騒動」で反転攻勢に向けた動きが見られない閉塞感漂う現状を背景として誕生した新党「たちあがれ日本」であるが、これまでの自民党政治にも、そして政権交代で発足した民主党政権にも失望を感じる有権者の受け皿となりえるかという点について懐疑的な見方が多くを占めている。党の顔である平沼赳夫と与謝野馨との間には、郵政民営化をはじめとして政策および理念上の距離があり、「水と油」と評されるほど大きく開いていることは周知のとおりである。また発起人である石原都知事が命名した党名「たちあがれ日本」については、結党メンバーの5人が古希前後という年齢の高さなどから「立ち枯れ日本」との揶揄する声、そして平沼代表の政敵である竹中平蔵の対談本タイトル『立ち上がれ!日本――「力強い国家」を創る戦略』(PHP研究所, 2001年)や石原との共著『NOと言えるアジア』で知られるマレーシア元首相マハティールの著書『立ち上がれ日本人』(新潮社, 2003年)と(漢字と平仮名の違いがあるものの)重複していると指摘する声が聞かれるなど真剣に受け止められるというよりも一種の(政治)ネタとしての側面に注目が集まっている。いずれにしても「反民主党政権」の一点で結束する状況は将来的に組織政党として発展していく見込みに乏しく、それこそ次期参議院選挙で民主党の単独過半数阻止という当面の目標を達成した段階で自民党に吸収されるなどして解散してしまうことは大いに考えられる。換言すれば、「新」党が喚起するはずの斬新さに欠ける「たちあがれ日本」は、よほどのサプライズがないかぎり、参議院選挙までの「時限」政党の域を超えられないのではないだろうか。

以下では、「たちあがれ」という有権者や国民を鼓舞する党名から、イタリアの政党「フォルツァ・イタリア」を容易に想起できる点に発想を得て一つの展望を試みたい。日本政治と同様に派閥政治や利権絡みの腐敗および汚職が蔓延し、グローバル化などの国際的要因に対応できない行政・経済部門の非効率性が顕著となって、国民の政治不信が高まっていた1990年代のイタリアは、第一共和制から第二共和制への転換、すなわち「革命」とも形容される「戦後西欧最大の平和的体制変動」を経験した(伊藤武「イタリア」網谷龍介・伊藤武・成廣孝編『ヨーロッパのデモクラシー』ナカニシヤ出版, 2009年: 203頁)。検察によるマフィア摘発「清い手作戦」が全国規模に拡大し、戦後イタリア政治の中心にあり議会第一党の地位を占めてきたキリスト教民主党をはじめとする既成政党全体にまで及んでいった。またレファレンダム運動に端を発する、政権交代を可能とするための選挙制度改革の動きも加わって、戦後イタリア政治を特徴付ける「政党支配体制」が機能不全状態に陥り、政治体制上の岐路にあったのである。そうした状況で実施された1994年の総選挙で躍進したのがベルルスコーニ率いる「フォルツァ・イタリア」であった。たしかに選挙後に成立したベルルスコーニ政権は自らの汚職問題などで一年足らずで崩壊し、テクノクラート政権を挟んで中道左派の「オリーブ」連合が政権を獲得したため、一過性の現象に終わる可能性もあった。しかし「フォルツァ・イタリア」は、その後も中道右派勢力の結集において中核を占め、2001年総選挙で政権を奪還したように、イタリアの政党政治にしっかりと定着するまでに至っている。2008年に「フォルツァ・イタリア」は、中道右派政党「自由の人民」の結成によって解散するが、「自由の人民」の党首をベルルスコーニが務めていることから明らかなように、「フォルツァ・イタリア」は第二共和制イタリアの政治史を叙述するうえで不可欠な政党とみなすことができる評価を得ているといってよいだろう。

政党システム論のジャーゴンに従うと、左右の両翼にそれぞれ西ヨーロッパ最大の共産主義政党(イタリア共産党)とファシスト政党(イタリア社会運動)を抱え、キリスト教民主党を軸とした中道勢力の連合政治が展開してきた第一共和制のイタリア政治は、一般に「分極的多党制」に分類されてきた(あるいは選挙で第一党の座を獲得し首相職をほぼ独占してきたキリスト教民主党に日本の自民党との共通点を看取し、「一党優位制」と捉える議論もあった)。このような特徴を持つイタリアの政党政治は閉塞状況に直面した結果、比例代表から小選挙区比例代表併用制への選挙制度改革によって政権交代を可能とする二大政党制の実現が目指された。そして第二共和制のイタリア政治の展開を振り返ってみるならば、「フォルツァ・イタリア」や「北部同盟」といった新党や体制外政党「イタリア社会運動」(および後継政党の「国民同盟」)が核となって中道右派勢力の結集が生じ、「自由の人民」が誕生した一方、中道左派勢力の側でもキリスト教民主党左派や左翼民主党などが中心となって「オリーブ」連合を経て民主党の結成に至っているように、政党の結晶化が進展し、「自由の人民」と民主党という左右の二大政党(政治ブロック)による政党政治が実現しているとみなしてもよい状況にある。このような二大政党(政治ブロック)に帰結したイタリアの政界再編過程は、戦後政治の歩みの類似性とポスト冷戦の国内政治動向の対照性ゆえに(伊藤: 188頁)、「政権交代のある政治」を目指した日本の政治改革や政界再編論争にとっての比較事例として最適な候補であるといえる。

すでに新党結成ブームが起こり、細川政権の誕生に結実した1993年前後の時点で、イタリア政治を参照点とする見解が出されている。たとえば、『朝日新聞』の論壇時評を中心にまとめた時論集『解体する現代権力政治』(朝日新聞社, 1994年)の「あとがき」で、高橋進は、イタリア政治を補助線として日本政治のシナリオを、「かなりの希望的観測を含む楽観的なシナリオ」と断りつつも、次のように描いた(321-322頁)。すなわち政党からの政治家の自立が進行して、政党の液状化が起こり、原子化された政党システムへ移行していく。そして多数派形成に向けた離合集散状況で、個々の政治家は、自らの見解を有権者に対して積極的に表明し、また有権者も政治家に対して説明責任を求めていく。このサイクルを通じて個々の政治家の意見表明が蓄積され、同じ理念を持つ政治家グループの形成につながり、それらを軸とした新しい政党が誕生する。そしてこのシナリオにおいて鍵となるのが「政治家の見識と実践的英知であり、選挙制度と合わせて新しいタイプの政党をどこがどのように発明するのか、コアーとなる政治家集団を束ねるリーダーの力量、そして政策に対する個々の政治家の感受性と責任感」であると指摘した。

その後の日本政治の展開を見たとき、イタリアとは違って、政界全体に及ぶような再編劇は起こらなかった。それは、非自民政権が短命に終わり、社会党との連立というアクロバット的な手法で政権与党の座に返り咲いた自民党が、その後一貫して政権を握ってきたためであり、政界再編の動きは、野党勢力の離合集散という形で進んでいくことになった。そしてようやく二大政党の一翼を担う政党として民主党が台頭してきたわけであるが、その間、一方の極を占める自民党は、公明党との連立や選挙協力、そして新自由主義路線に舵を切るなどしてその時々の政治情勢を読み取り、政権の延命を図っていった。野党勢力の離合集散が長期化することによって、自民党政治の継続が可能になったといえるが、それは同時に自民党政治の劣化現象を昂進させ、危機感覚を麻痺させることにもなった。ポスト55年体制の政治に適合した政党の在り方を模索し、それにあわせて党内改革を進める試みを怠った代償は、安倍・福田・麻生政権で一気に表面化し、2009年の政権交代に至る結果をもたらしたといえる。

このように日本政治における政界再編が、野党勢力に限定された片面的なものであったことは、政界再編が貫徹していないことを意味している。政権交代後に自民党から離党者が相次いでいることは、政界再編の第二ラウンドが自民党を舞台として展開していく可能性を示唆しているのではないだろうか。そのとき、新党「たちあがれ日本」は、「フォルツァ・イタリア」のように、中道右派の政治勢力を結集する媒介となれるならば、「たちあがれ日本」は日本政治史にその名を刻む政党として記憶されるだろう。しかしながら、結党の経緯やその内実を見る限り、多くの新党のように泡沫政党として歴史に埋もれてしまう可能性のほうが大きいといわざるをえない。